2013年11月5日火曜日

総合誌『状況』記事:「見えない被曝地戒厳令」の闇と「国際原子力マフィア」の影

変革のための総合誌 状 況 第4期 2013 910月合併号 状況出版

目次抄録――

特集 収束を見ない原発事故と福島の今
「原発をやめろ」の闘いを続けよう
正清太一
「見えない被曝地戒厳令」の闇と「国際原子力マフィア」の影
井上利男
汚染水より深刻 使用済み核燃料の取り出し 収束作業の現場から
草野光男
汚染水流出 その危機の本質
  奥村岳志
妖怪の影に惑わされるな――参院選総括
前田裕吾

特集 張一兵「マルクスへ帰れ」(状況出版)を読む
特集 靖国・天皇
情況 2013年 10月号 [雑誌]
福島県郡山市からの報告
「見えない被曝地戒厳令」の闇と「国際原子力マフィア」の影
井上利男
二〇一一年三月十一日十四時四六分…あの時からすいぶん時が過ぎ去ったようにも思えるし、まったく時が止まってしまったかのようにも思える。
あのとき、PCデスクに向かっていると揺れを感じた。思わず、天井からぶらさがった照明器具に目をやり、揺れを確かめたが…

ターニングポイント
「またか」と思った程度だった。山古志村の全村避難や牛のヘリ空輸などで印象深かった二〇〇四年十月の新潟県中越地震、東京電力柏崎刈羽原子力発電所の長期停止を余儀なくする被害をおよぼした二〇〇七年七月の新潟県中越沖地震など、近隣県に大小の地震が頻繁に勃発していたので、慣れっこになってしまったのか、そのうち収まるだろうと、さほど気にも留めていなかった。
だが、揺れはいっこうに収まらず、激しさを増すばかり。不安になって周囲を見渡すと、開け放った襖越しに、買ったばかりのデジタルTVが跳ね上がらんばかりに揺れているのが見えた。思わず掛けより、それを押さえたが、そのまま一歩も動けなくなり、掴んだTVを支えに足を踏ん張っているだけのありさま。食器棚から次々と皿や茶碗が落ち、床で割れていく。いまいましいことに大事にしているものから、順番に割れるようだ。天井のコーナーラックから孫のぬいぐるみやおもちゃの類いが転げ落ち、本棚が倒れ、PCディスプレイやキーボードがデスクから落ちてコードでぶら下がり、冷蔵庫がガタガタ揺れながら、せりだしてくる。目の届かぬ部屋からも、派手な音……
どれほど長く揺れが続いていたのだろうか。ネット百科事典『ウィキペディア』によれば、東北沖太平洋底の広大な震源域の断層の破壊が複雑な過程で約一〇〇秒間も続き、崩壊範囲の中間に位置する福島県いわき市で震度四以上の揺れの継続時間が三分一〇秒(一九〇秒)に達したという。
ようやく揺れが収まると、「まずテレビ…!」とばかり、足の踏み場もないなかに座り込んで、リモコンのONボタンを押すと点いた。電気は大丈夫。TVの起動を待つついでに、立って水道栓をひねってみると、水も出る。ガスも別状ないようなので、コーヒーをいれる。
TVディスプレイのなかは、太平洋岸の全般にわたる津波警報一色であり、緊縛した声が避難指示をアナウンスしている。やがて飛び込んでくる大津波襲来の映像。押しつぶられるビニールハウス、飲み込まれる家屋、逃げまどう車…。
呆気にとられ、各地の惨状をただ眺めていたが、いつまでもそうはしておれず、やがて室内を片付けはじめ、雑巾を使う段になって、はじめて気がついた。水道が細くなっている。団地居住棟の屋上に設置されているタンクの水が残り少なくなっているのだ。市内全域が断水していた。「飲水や料理用だけでも」と慌てて、やかんや水差し、鍋を総動員して、当座の水を確保する。これぞ、競争社会。
そしてやがて、福島第一原子力発電所が全電源を喪失したという恐ろしいニュース。
翌十二日午前、ありったけの容器を車に積んで、給水所に出かける。かねてから郡山市は災害に備え、市内要所ごとの公園に地下貯水槽を設置している。近場の給水所に着いてみると、何か所の給水栓に長蛇の行列ができていた。それぞれの世帯がありったけの容器を用意して、運搬のために猫の手も借りたいとばかり、子どもたちも含めた一家総出で並んでいる。これが何日もつづいた。
午後、テレビを点けっぱなしで無精ぶしょうながら、部屋の片付けをつづけているうちに、全電源を喪失した原発の状況が時間を追うごとに剣呑になっていくと気づいた。福島第一原発一~四号機、それに第二の四基までやばいらしい。衆議一決、といってもつれあいと合議のうえ、ただちに避難準備に切り替えた。
ガソリンを満タンにしたくて走り回り、結局、一〇リッターのみ給油できた。あちこちの家屋の瓦が落ちている。石組みの塀が崩れている。おもしろいことに安っぽいブロック塀は安泰だった。なかに鉄筋を通してあるのが効いたのだろう。ついでに書けば、郡山市内では、市役所をはじめ、図書館や公民館など公共建築物の地震被害が大きかった。ウィキペディアによれば、世帯数十三万あまりの街で、家屋の全半壊は二万戸におよぶという。瓦屋根に被害が多かったようだ。
結局、避難に出発できたのは翌十三日昼ごろだった。行き先は群馬県高崎市。同市の郊外で、義妹夫妻が有機農業を営んでいるのだ。
つれあいと運転を交代しながら国道四号線を走る。助手席で、友人・知人らに電話をかけまくり、避難を勧告し、海藻類の摂取を呼びかける。けげんな顔が目に浮かぶような応答が多いようだ。強力に浸透した原発安全神話のもと、目に見えない放射能の脅威に対応するには、日ごろの知識とイマジネーションの駆使が必要なのだろう。
ところどころ渋滞し、陥没した路面の応急補修工事の現場でガードマンが交通をさばいている。途中、コンビニを覗いてみると食品の棚はほぼ空っぽで、トイレの前に行列ができている。貯水の備えがあるのだろうか、水洗が使えて、近隣の人たちが並んでいるようだ。
日光へ向かう国道四六一号線を走っていたとき、山並みのうえ、異様な濃いオレンジ色に輝く夕日を見た。大地の揺れ動く天変地異の結果、地殻から微細ななにかが放出され、大気中イオン組成の変異でももたらしたのだろうか。あるいはひょっとすると……別種のアイソトープのせいだろうか。
足尾峠から国道一二二号を下りながら、菅首相が現状を説明する緊迫感に満ちた記者会見を聴く。足尾鉱毒事件の現場、渡良瀬川流域の渓谷、一見して平和な光景のなか、歴史は重層的に繰り返すと感慨がよぎる――
「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。世界人類の多くは、いまや機械文明というものに噛み殺される」(田中正造)
三月は農閑期である。義妹夫妻の農場では、野菜の苗づくりと葉物類の収穫・配達だけで時間的余裕があったので、全員の眼が、原子炉建屋の水素爆発、自衛隊ヘリの放水、要領を得ない記者会見、東電の計画節電、「ただちに健康に影響をおよばさない」発言など、フクシマ危機をめぐる状況に釘付けになる。二一日には、群馬県内のホウレン草やカキ菜が出荷停止となり、遠く離れた場所でも、打撃は大きい。
農場に若い台湾人が研修生として滞在していた。その彼女が「恐怖に駆られる」と素直にいい、航空会社に電話したが、一か月先まで満席とのこと。やむなくつてを探して、その夜のうちに京都行きの夜行バスに乗った。
後日談だが、昨年、義妹夫妻に誘われて、ちょっとした保養がてらに台湾までその元研修生に会いにいった。その折のエピソードである。台北郊外の北投温泉で入浴中、無聊をかこっていた日本人の先客と話が弾んだ。その人がいうには、おつれあいが香港籍なのだが、原発事故の直後、軽井沢市内の自宅に駐日英国大使館から電話があったそうである。羽田に香港行きチャーター便が用意されていて、香港籍本人は無料、家族は実費の半額で搭乗できるという。手放したはずの旧植民地であっても、住民の面倒を見ることによって、影響力を温存・醸成する…大英帝国の実力だろう。
さて、生活基盤のない土地にいつまでもいるわけにも行かず、また福島県最北西部の山里に娘や孫がいることだし、これから先どうするか、具体的に考えなければならず、二三日に避難生活を切り上げ、郡山のわが家に帰宅することになった。ある意味、時間の止まったような世界への帰還。わたしたちにとって、あしかけ一〇日間の避難行の意義は、原子炉建屋が相次いで爆発した時期の高レベル放射性プルームの直撃だけは避けられたということになるだろうか。
では、すでに事故後二年半、いまだに被曝地にとどまっているのは、なぜだろうか。経済的理由もある。子や孫たちのこともある。だが、筆者本人としては、見るべきものを見る、告発すべきものを告発する、といった半ば開き直りの気分が大きい。

ビフォー&アフター
関西は神戸市出身の筆者が流転の多い人生の旅路の果てに流れ着いたこの街、郡山市はとても住み心地のよい地方都市だった。人口三四万弱(二〇一〇年国勢調査。現在は三三万弱)をかかえる郡山市は、福島県中通り地方の中央部に位置し、JR東北線・磐越線、東北道・磐越道が交差して東西南北を結ぶことから、交通運輸の要衝として――かつては県の軍都、いまも自衛隊が駐屯しているが――商都と称され、マーケット食品売り場には新鮮な魚介類や農産物が並んでいた。数多くの公園や緑地、桜やナナカマドなどの並木、市街は緑豊かであり、郊外に出ると水田や畑地、果樹園といった広大な農地が拡がり、少し車を走らせれば、一日ハイキングにぴったりな安達太良山系や阿武隈山地の山々が連なっている。市のホームページが東北のウィーン『楽都』と謳うように、ホール、図書館、美術館などの文化施設が充実し、もちろん医療も行き届く。
だが、二〇一一年三月十一日十四時四六分、激しい揺れとともに世界が暗転した。東京電力福島第一原子力発電所の複合事故により放出された膨大な量の放射性物質の雲、プルームが現場から六〇キロ離れた街を通過して以来、会津の山奥、飯豊山麓に抱かれた里に住む娘や孫たちをわが家に招くことさえはばかられる放射能汚染都市になってしまった。

わたしたちが群馬県に身を寄せていたあいだ、相次ぐ炉心ベントと水蒸気爆発によって大量に放出された放射性物質の目に見えない雲、プルームが通り過ぎた郡山市など、福島県内各地の住民は、一家総出で給水所の長い行列に並んでいたのである。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)データを知らされず、水を確保するためだけでも、放射線量ピーク時の屋外に長時間いることを余儀なくされたのだ。これは後になって公表された情報によりわかったことだが、いまになっても、果たして何割ほどの住民がこの事実をはっきり認識していることだろう。
その後、文部科学省は福島県知事・教育委員会らに対して、四月一九日付け文書「福島県内の学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」において、「国際的基準を考慮した対応をすることが適当である」と通知した。
法規に定める基準を差し置いて、民間団体にすぎない国際放射線防護委員会(ICRP)による勧告を基準設定の判断根拠に据えると「超法規的」に通告した。かくて、福島県は、法による保護規定の適用されない治外法権の地とされてしまった。
「…二〇ミリシーベルト/年を超えることはないと考えられる」というのである。
電離放射線健康障害防止法などを根拠に定められる一般人の年間被曝量限度は一ミリシーベルトである。それが突然、恣意的に、実に二〇倍に引き上げられた。
「校庭・園庭で三・八マイクロシーベルト/時間未満の空間線量率が測定された学校については、校舎・校庭等を平常どおり利用して差し支えない」
医療現場や原発など、放射性物質を扱う事業所における「放射線管理区域」の設定基準は、約〇・六マイクロシーベルである。
では、文部科学省のいう「国際的基準」とはなんだろう?
原発事故十日後の二〇一一年三月二一日、国際放射腺防護委員会(ICRP)は日本政府宛てに「福島原子力発電所事故に関する声明」を送付し、次のように勧告した――
「委員会は、緊急事態期間中の公衆の防護のために、二〇ないし一〇〇ミリシーベルトの線量範囲において最高限度計画残存線量としての参考レベルを設定することを国家当局に勧告しつづけている(ICRP2007)。
「放射線源が制御下にある場合、汚染地域が残っているかもしれない。当局は多くの場合、そうした地域を放棄するよりも、人びとが居住しつづるのを許容するためにあらゆる必要な防護手段を提供するであろう。委員会はこの場合、年間一ないし二〇ミリシーベルト範囲内の参考レベルを選定し、年間一ミリシーベルトへの参考レベル引き下げを長期目標とすることを勧告する(ICRP2009b)」
年間二〇ミリシーベルトまで、子どもたちの放射線被曝をよしとする前述の文部科学省通知は、このICRP勧告を「国際的基準」と称する錦の御旗として掲げるものだった。もちろん、この団体は何らの国際条約にももとづかない、単なる民間の任意団体であり、文部科学省は、超法規的な政策をも正当化して当然の権威として、この「声明」を僭称する、単なる「私信」を葵の紋の印籠よろしく振りかざしているのだ。
このような文科省の放射線防護方針について、二〇一二年七月五日に国会の両院議長に提出された「国会事故調報告書」は、次のようにと指弾する――
「その数値は、ほぼ同時期の四月二二日に設定された計画的避難区域の設定の前提である積算線量二〇ミリシーベルト/年と同等の値だったため、子どもの安全を図る目安値が避難を根拠づけるレベルと同等では高すぎるのではないかと、国民世論の強い反発を呼んだ。……文科省は、空間線量三・八マイクロシーベルト/時を超えない学校について、校庭使用制限や開校延期など、合理的に実行可能な被ばく低減策を行っていない」
その後、国会機能の不全のせいか、なんの改善策も聞こえてこない。

緊急時被曝状況
それ以降、福島県の子どもたちは、ICRP自体が勧告し、日本国内でも放射線障害防止法などで定める一般人の年間被曝線量限度一ミリシーベルトの二〇倍、部外者の立ち入りが厳禁され、被曝労働者の放射線管理などが義務づけられ、域内の飲食・喫煙が禁じられる放射線管理区域を設置する基準の時間あたり換算値〇・六マイクロシーベルトの、なんと六倍超まで被曝してもかまわないとされたのである。
ここに、二〇一一年六月、郡山市内の小中学生一四名が「郡山市が健康に安全な場所での教育を実施すること」とする仮処分決定を福島地裁郡山支部に申し立てた、いわゆる「ふくしま集団疎開裁判」で、裁判所に提出した矢ヶ崎克馬・琉球大学名誉教授作成の証拠図面「福島県郡山市の放射能汚染状況」を示す。濃く塗られた丸は、その地点の空間線量が一時間あたり〇・五七一マイクロシーベルト以上であることを示す。

一九八六年六月二六日のチェルノブイリ事故から五年後、旧ソ連のロシア、ウクライナ、ベラルーシの三国で施行された通称「チェルノブイリ法」では、空間線量が〇・五七一マイクロシーベルト/時以上である地域は「強制避難区域」に指定され、そこに居住することは認められない。図をご覧になれば、郡山の市街地のほぼ全域がこれに該当することがおわかりになるだろう。
ついでにいえば、強制避難区域基準未満、〇・一一四マイクロシーベルト/時以上の地域は「移住権利区域」に指定され、そこの住民は、みずからの意志で移住するか在留するかの選択を決定することを許される。避難するにしろ、在留するにしろ、いずれにしても職業、住居、医療などの生活支援が保証されるのはいうまでもない。


翻って、民主主義国家を標榜するわが国の実情はどうだろうか?
福島県はフクシマ核惨事の勃発後、いち早く「福島県放射線健康リスク管理アドバイザー」なる職掌を設け、二〇一一年三月一九日に長崎大学の山下俊一と高村昇、四月一日に広島大学の神谷研二諸氏を招聘し、「放射線による健康への影響について県民の理解を深める」と謳って、講演活動などにより放射線安全キャンペーンを繰り広げさせたのだ。
なかでも、名を馳せたのが山下俊一氏。県内各地で開かれた講演会から、氏のことばをいくつか拾ってみよう――
「これから福島という名前は世界中に知れ渡ります。福島、福島、福島、何でも福島。これは凄いですよ。もう、広島・長崎は負けた。福島の名前の方が世界に冠たる響きを持ちます」
「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます。これは明確な動物実験でわかっています」
「一〇〇ミリシーベルトの積算線量で、リスクがあるとは思っていません。これは日本の国が決めたことです。わたしたちは日本国民です」
ちなみに、筆者の居住する郡山市でも四名の原子力災害対策アドバイザーを委嘱していて、そのひとりは、放射線影響研究所の大久保利晃理事長である。
郡山市の実情をさらにいうなら、「放射能の危機を考える会」を紹介せねばならない。キャッチフレーズは、子どもたちではなく「フクシマを救おう!」。二〇〇万人(福島県の全人口)署名運動を展開し、その提言趣旨は次のとおり――
「恐ろしいフクシマ」から「すばらしいフクシマ」にするために、
下記提言の実施を要請いたします。
   放射能被害に対するセーフティネットの整備(福島県在住の高校生以下の医療費の無料化など)
   放射線の平和的利用による最先端がん医療の推進
   福島県の法人税、所得税、消費税等の相当期間の無税化
ご賢察のように、提言の狙いは、避難による人口流出の阻止、県民の囲い込みである。
会長に滝田三良弁護士、事務局長に南東北病院グループ(郡山市)の渡邉一夫理事長、その他の役員に、日本大学、郡山商工会議所、NPOなどの面々が連なる。いわば、大政翼賛会の現代郡山市版である。屋外市民集会に参加していた女性が、「おめえ、どこに勤めてんだ?」とすごまれたりもする。
余談だが、総合南東北病院を運営する財団法人脳神経疾患研究所(理事長・渡邉一夫)では、再発する癌や進行癌の世界最先端治療装置「ホウ素中性子捕捉療法システム(BNCT)」を導入するそうである。もちろん、災害復興事業の一環であり、投入される公費は七〇億円。福島県放射線健康リスク管理アドバイザーを嘱託され、福島県立医大の副学長に就任し、県民健康管理調査検討委員会の座長に収まった、例のミスター一〇〇ミリシーベルト、山下俊一氏は、五〇〇〇億円の医療利権を手土産に携えて来県したという。
以上に見てきたように、核惨事被災地フクシマは、国・県・産・メディアなどが一体化した勢力による戒厳令体制下に組み込まれてしまったといっても、過言ではないだろう。放射能の厄介な点は、物理的に「見えない」だけでなく、政治・社会的に「見させない」、そしてメディア・リテラシーに習熟していない一般国民にとって、心理的に「見たくない」ことにあるはずだ。放射能のように「見えない」戒厳令のもと、人びとは「見ザル・聞かザル・言わザル」の三猿になる。
そして、子どもたちは今日も法令違反の被曝状況下に生きる。

子どもたちを被曝から守れ!
2011311日の東北沖大地震と巨大津波の衝撃、フクシマ核惨事の恐怖に追い討ちをかけるかのような文部科学省の四月一九日付け通知文書「「福島県内の学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」に見る、いのちと健康をないがしろにし、「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律」などの関係法令だけでなく、日本国憲法、世界人権宣言、子どもの権利条約などの人権条項に違反する日本政府の冷たい措置に対する憤り…
福島第一原発由来の放射能で汚染された土地の住民で、いささかでもリテラシーがあり、報道を鵜呑みにせず、自分の目で事態を見抜き、自分の頭で理解しようと努めるなら、驚愕し、疑念に駆られ、憤慨するのが当然である。
とりわけ、子をもつ親なら、子どもたちのいのちと健康に不安を感じて当然だ。
余談で、しかも私事で恐縮だが、筆者は事故後いち早く、会津は飯豊山麓に居住する一人娘に「郡山市は放射線レベルが高いので、孫たちを連れて来るのは控えたほうがよい」と言い渡している。とりわけ女性なら、里帰りを封じられた嫁の切ない気持ちがわかっていただけるのではないだろうか。残念というべきか、今年になって、娘の気持ちにほだされ、このルールは厳格さを失い、ルーズになってきた。それでも、ごくたまに孫たちがわが家に来ると、もっぱら屋内遊びであり、いささか欲求不満気味である。一番年かさの孫娘が筆者の眼を覗きこみ、「公園にいっちゃ、ダメだね」と恨めしそうにいう。近くの児童公園でブランコ遊び…孫たちが、そして筆者が奪われた無数の楽しみのひとつである。
避難区域外の「低線量」汚染各地からの自主避難、とりわけ仕事のある父親を置いた母子連れの自主避難が相次いだことは、周知のことだろう。ここでは、筆者がいささかなりとも関わった一例を紹介したい。
事故後の四月はじめごろだっただろうか、郡山市街中心部の公営住宅に住んでいた、つれあいの知人が家族揃って関東方面に転居するとのことで、引っ越しの手伝いを頼まれた。といっても、筆者にできたのは、軽乗用車の小さな後部に廃物を積んで、市のクリーンセンター(廃棄物リサイクル・焼却場)まで何回か往復した程度のことだったが。
一仕事片付いて、挨拶のとき、ご夫君が「わたしたちだけが逃げるのは、心苦しいのですが…」とおっしゃったのには、いささか驚いた。原発事故後いち早くはじまった「復興促進、放射能安全」キャンペーンが作り上げた社会的ムードがいわせたのだろう。その後、妻君の「子どもたちを被曝から守れ!」と呼びかける声が東京方面から聞こえてくる。
福島県総人口の推移
時点
総人口
増減
201131
2,024,401

201341
1,949,595
74,806人減
(注:住民票の移動のない自主避難者数を反映しない)
閑話休題。文部科学省の四月一九日付け福島県知事など宛て通達に驚き、みずから自宅周辺各所の放射線値を測定し、その高い数値にさらに驚愕した福島市の一市民の呼びかけにより、福島市を中心とした住民のグループ「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」(略称「子ども福島」)が五月一日付けで発足した。
その設立趣意書から、ごく一部を引用してみよう――
私たちの願いはただ一つです。
福島の子どもたちを放射能から守りたい、この想いを絆に私たちはつながり合います。
私たちは、子どもを守るための様々な活動を、父母として、家族として、そして一人の市民として、行なっていきます。……
五月二三日には、子ども福島が大型バス二台をチャーターし、福島県の父母たち七〇人に支援者を合わせて総勢六五〇人で、文部科学省に対して「学校教育現場における二〇ミリシーベルト基準の撤回」を求める要請行動をおこなった。
小雨降るなか、文部科学省は交渉団一行を庁舎内に入れず、中庭で応対するしまつ。高木義明文大臣や鈴木寛副大臣など、政務三役らに面会を求めていたものの、大臣らは姿をあらわさず、対応に出たのは文科省科学技術・学術政策局の渡辺格次長だった。

(このとき、大臣は国際サッカー連盟会長と会っていたと聞く。先般の参院選の激戦東京選挙区で、鈴木寛氏は民主党が無理やり一人に絞った候補として当選確実とされながら、あえなく落選したのも故なしとしないだろう。鈴木氏はSPEEDIデータ隠蔽の張本人だったという情報がネットにあふれた)
要請グループの追求に対して、渡辺次長は「二〇ミリシーベルトは文科省の基準ではない」「夏休みまでは暫定基準を続ける」などと言を左右したり、「一〇〇ミリシーベルトよりも小さな被曝では、ガンなどの増加は認められていない」などと開き直ったりするばかりだったが、最後には、「一ミリシーベルトをめざし、可能な限り下げていく方針がある」と踏み込むまで追い込まれた。だが、これとても官僚お得意の単なるリップサービスにすぎなかったのは、いまだ事あるごとに二〇ミリシーベルト基準が適用されることから、いわずもがなのことである。
以下、アワープラネットTVが会場で採録した母親たちのことば――
「少しでも被曝させないとしようと思っているのに、どうして国から被曝を人為的にさせられるのか分からない。子どもたちに、五年後、十年後に『どうしてあの時止めてくれなかったの?』と泣かれた時に、わたしはなんて言えばいいのか」(高校三年生、中学二年生、小学四年生と三人の子どもがいるという福島市の女性)
「思春期の子どもは、友だちと別れることになったりしてかわいそうだし、疎開について話しても、娘は納得しない。放射能の話をすることすら、聞く耳を持ってくれない」(五歳と小学生一人、中学生二人の四人の子どもがいる福島市の女性)
保護者らから猛反発を受けた文部科学省は、五月末になって「国際放射線防護委員会(ICRP)が一般人の線量限度として定めている年間一ミリシーベルト以下に抑える」という目標を示したが、相変わらず絵に描いた餅であることはいうまでもない。
「このままでは、子どもたちの健康が危ない」、危機感に駆られた東京弁護士会所属の柳原敏夫弁護士の呼びかけに応じた郡山市内の小中学生一四人が、郡山市に対して「年間線量一ミリシーベルト以下の安全な場所での教育の実施を求める」民事仮処分を福島地方裁判所郡山支部に申し立てた。
いま子どもがあぶない―
 福島原発事故から子どもを守る
 「集団疎開裁判」 (マイブックレット)
この「ふくしま集団疎開裁判」と通称される事件は、目に見えない戒厳令というべき状況にあって、あくまでも匿名性を守りながらも、生身の子どもたち一四人の「憲法や教育基本法などに保証された権利の回復」を求め、社会正義とあるべき放射線医学の実現を目指す、優れて具体的な闘いだった。

再度、アワープラネットTVサイトを引用すれば――
弁護団の試算によると、福島県内の市部の小中学校計二六六校のうち、年間の積算線量が一ミリシーベルトを超えないのは五校だけ。線量の比較的低い会津でも一校に留まるという。申し立て後、郡山市内で記者会見した弁護団の井戸謙一弁護士は「福島県内すべての子どもたちが安全な場所で授業を受けられるようになることが目的」と語った。
井戸弁護士は、三月まで金沢高等裁判所の裁判官。二〇〇六年、石川県北陸電力志賀原発2号機について、原発の運転を差し止める判決を言い渡している。


現存被曝状況への移行
東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故による放射性物質汚染対策に おいて、低線量被ばくのリスク管理を今後とも適切に行っていくためには、国際機関等により示されている最新の科学的知見やこれまでの対策に係る評価を十分踏まえるとともに、現場で被災者が直面する課題を明確にして、対応することが必要である。
いきなり冒頭に掲げる引用文は、二〇一一年十一月、内閣府に設置された「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」(以下、「WG」)の趣旨を謳った文である。
第一回会合が十一月九日に開かれ、十二月十五日開催の第八回が最終会合。事情通の読者諸氏なら、ピンと来るはずだが、最終会合期日の翌十六日には、当時の民主党政権、野田佳彦首相が福島第一原発事故そのものの「収束」を宣言していることから、このWGが政府による事故対応プログラムを一歩前進させ、ターニングポイントを画するための重要な手続き、あえていえば儀式だったと考えて間違いないだろう。解せないのは、筆者が寡聞なのか、WG開催当時、メディ報道に気づかなかったことである。
ここでは、十一月二八日の第五回会合に注目したい。
出席者は、「有識者」として、神谷研二、長瀧重信(共同主査)、丹羽太貫、前川和彦(共同主査)諸氏、その他四名、クリストファー・クレメント(既出、ICRP声明の署名者のひとり)、ジャック・ロシャール両氏、政府側が細野原発事故担当大臣、中塚内閣府副大臣、その他六名。会合の眼目は、放射線防護に関する国際的権威とされるクレメント、ロシャール両氏によるプレゼンテーションを拝聴することにあった。
クリストファー・クレメント国際放射線防護委員会(ICRP)科学事務局長によるプレゼンの演題は「ICRPおよび事故後の防護に関する勧告」。その趣旨をごく簡単に示せば、次のとおり――
[スライド14
計画被曝状況        放射線源の計画的な扱いによる
緊急時被曝状況      予期しない事態であり、緊急対策が必要
現存被曝状況        制御決定が実行されたあとの状況
[スライド15
緊急時被曝状況 ◇緊急事態に対応した行動◇潜在的に高レベルの被曝◇中央集権的な意思決定◇二〇~一〇〇ミリシーベルト範囲内の参照レベル

現存被曝状況 ◇長期にわたる管理のための対策◇生活条件を改善するための最適◇より中央集権的でない戦略◇一~二〇ミリシーベルトの範囲内で低めの参照レベル
ジャック・ロシャール氏の肩書は、ICRP主委員会委員および第四委員会(委員会勧告の適用を担当)委員長に加えて、放射線防護評価センター(CEPN)所長という、錚々(そうそう)たるもの。CEPNは、フランス電力公社、フランス放射線防護原子力安全研究所、フランス原子力・代替エネルギー庁、アレバ社が組織した非営利団体であり、「実用的放射線防護文化」を提唱、推進している。
筆者のブログ『原子力発電・原爆の子』に掲載した翻訳記事「【ICRP資料】ジャック・ロシャール略歴」によれば――
ロシャールは一九九〇年代初期より、チェルノブイリ事故後の状況の管理に関連するいくつかの国際プロジェクトに従事し、とりわけベラルーシでは、エートス・プロジェクト(一九九六~二〇〇一)およびCOREプログラム(二〇〇四~二〇〇八)を担って汚染地域で一年間以上も過ごした。
ところが、元世界保健機関所属の熱帯医学研究者であり、スイスのバーゼル大学医学部、ミシェル・フェルネックス名誉教授は、ベラルーシにおけるロシャール氏の業績を、医学的な「惨事」という。なぜなら、やはり拙ブログ掲載の記事「【論考資料】エートス・プロジェクトについて」によれば――
エートス・プロジェクトが行われた五年間、状況はどんどん悪くなっていきました。呼吸器感染が頻度だけでなく、深刻度の点でも増えていき、異常な合併症を伴い、心臓病もずっと深刻化し、どの症状でも同様でした。[チェルノブイリ原発]爆発の年は、入院が必要な事例は年間一〇〇だったのに(一九八六八八年は変化がなく)、その後、極度の感染症による入院者数は年々上昇し、最後の年は一二〇〇事例でした。エートス・プロジェクトが始まって、この増加線は安定するどころか、落ち着く筈の年にまで上がっていたのです。[学校の]学期中の欠席者数は増え、尿管の感染症がぶり返し、慢性化しました。問題は生まれると同時に始まり、新生児のほとんどが治療を必要としていました。
人によっては「忍び寄る悪魔」とまでみなす、このエートス・プロジェクトがいま福島で活動し、ロシャール氏はその指導的役割を担っている。詳しくは「安東量子」と意味深に名乗る人物が主宰するブログ「福島のエートス(ETHOS IN FUKUSHIMA)」をご参照いただきたい。
さて、本題に戻って、内閣官房WG第五回会合におけるロシャール氏のプレゼンテーション「原子力事故後における生活環境の復旧:チェルノブイリ事故からの教訓」の趣旨を表せば、次のひとことに尽きる――
[スライド8]
チェルノブイリ事故で被災した住民の大多数は被災地域に留まる決心をした。
内閣官房「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」最終会合が開かれた二〇一一年十二月十五日の翌十六日、野田首相が福島第一原発事故の「収束」を宣言したのは、前述のとおりである。朝日新聞の記事を引用すれば――
野田政権は16日の原子力災害対策本部で、東京電力福島第一原発の事故収束に向けた工程表ステップ二(冷温停止状態の達成)の終了を確認した。
野田佳彦首相は記者会見で「発電所の事故そのものは収束に至ったと判断される」と事故収束を宣言した。
そして同日、福島地裁郡山支部は通称「ふくしま集団疎開裁判」に対する決定書を交付した。結果は、債権者(一四人の子どもたち)の申し立てを「却下」。その理由の骨子は次のとおり――
   空間線量が落ち着いてきている。
   除染作業によって更に放射線量が減少することが見込まれる。
   100ミリシーベルト未満の低線量被曝の晩発性障害の発生確率について実証的な裏付けがない。
   文科省通知では年間20ミリシーベルトが暫定的な目安とされた。
   区域外通学等の代替手段もあること…云々。
全体として、債務者(郡山市)主張のほぼ丸呑みであり、③は、山下俊一福島県立医大副学長ら御用学者の「安全・安心」キャンペーンの受け売り、④は、政府による超法規的措置の追認であることは、いうまでもない。
ここに福島地裁郡山支部は、放射線医学論争を回避して、御用学者の論を無批判に垂れ流し、法律の検討にすら踏み込まず、「人権の砦」としての役割を放棄して、一途に国家権力の意向を伺う番犬にすぎないことをみずから証明したのである。

復興の掛け声に駆り出される子どもたち
野田政権のいう原発事故の「収束」は、その当時、メルトダウンした炉心の温度上昇を抑えるための仮設循環冷却システムが曲がりなりにも完成したとはいえ、まだまだ状況が不安定であり、しかも放射性物質が大気中・海洋中に放出しつづけていることから、いかにも唐突であり、メディア報道にも戸惑いがうかがわれたようである。
だが、社会の木鐸であるはずの報道機関が明確に伝えきれなかったとしても、政権の意図が、もはや社会的・経済的混乱をきたす異常事態が収束し、今後は復興に向かうべきであり、政権の事故対応方針を経済・社会全般の正常化に切り替える時期が到来したのだというメッセージを発信することだったと考えると、つじつまが合う。
これに率先して呼応したのが、年が明けた二〇一二年一月三一日、全村避難していた双葉郡川内村の遠藤雄幸村長が発した帰村宣言だった。川内村サイトにある帰村宣言の冒頭にこういう――
戻れる人から戻りましょう!
村の復興に向けた「帰村宣言」
また同宣言にある「村民の皆様へのメッセージ」は次のように呼びかける――
「避難生活を余儀なくされている村民の皆様、ふる里、川内村を離れ慣れない地で辛い新年を迎えられたことと思います。二〇一二年は復興元年と考えております。スタートしなければゴールもありません。お世話になってきた多くの方々への感謝の気持ちを忘れることなく試練を乗り越えていく覚悟です。
共に凛としてたおやかで安全な村を作って参りましょう。」
帰村宣言に先立つ二〇一一年十一月初旬、遠藤村長は福島大学の清水修二教授を団長とするチェルノブイリ視察団に加わっている。チェルノブイリ市の中央広場に立つ、住民の強制移住で無人となった一六八の村の名を記したプレートを見たときの様子を、十一月一〇日付け福島民報記事「除染技術の確立急務 無人都市にぼう然」は、次のように伝える――
視察した川内村の遠藤雄幸村長は、在ウクライナ大使館職員から立て札の意味を説明され青ざめた。人ごとではないと感じた。「川内村民は必ず帰還する。そのためには早急な除染の技術確立と実施が不可欠だ」と力を込め、国、県に強く支援を求めていく考えを示した。
原発事故「収束」宣言を期に、国が避難民の帰還を促すために避難区域の再編に乗り出す一方、福島県内の復興キャンペーンと表裏一体となった「生産と日常生活の正常化」が促進する。
旧避難区域への住民の帰還が進めば、まず聞こえてくるのは、米作付けのニュース。そして、米、その他の農産物の放射線量モニタリング体制の整備が進めば、佐藤雄平福島県知事の大好きな「地産地消」音頭取りに乗って、給食の地場産米や野菜の使用が復活する。
復興キャンペーンの手っ取り早い手段は、マスメディアの注目を集めやすい、子どもたちや若者を主役としたスポーツ大会やイベントだ。
いくつか例をあげれば――
Ÿ   全国高校野球福島県大会の例年通り開催。二〇一一年度大会は球場の放射能測定が実施され、開会式も入場行進の中止など簡素化されていたが、すべて例年通りの運営に戻された。
Ÿ   学校屋外プールの使用解禁。いわき市の小学校では、放射線量の低減策として、プールサイドに鉄板を敷きつめ、人口芝生で覆って、水泳授業をしたと伝えられる。
Ÿ   ふくしま健康マラソン震災復興大会の開催。発着地点は、福島市のあづま陸上競技場。ゲストランナーとして、シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子さんが参加。
Ÿ   市町村対抗県縦断駅伝競走大会(ふくしま駅伝)の開催。コースは、白河市総合運動公園陸上競技場から福島市の県庁前までの十六区間九六・五キロ(国道四号線)。
地元新聞の記事を拾ってみると――
Ÿ   二〇一二年四月二一日付け福島民友:
二〇日の「郵政記念日」に合わせ、伊達市霊山町の神愛幼稚園(本田十和子園長)の園児たちは同日、同市の掛田郵便局と霊山総合支所のポストの清掃活動に取り組んだ。(当時の掛田地区の放射線量は〇・九~一・九マイクロシーベルト/時。さながら園児除染チームである)
Ÿ   二〇一二年四月二二日付け福島民報:
福島商工会議所主催の復興イベント「ふくしまキッズパレード」は二一日、福島市の中心市街地で繰り広げられた。ミッキーマウスやミニーマウスなど東京ディズニーリゾートでおなじみのキャラクターが登場し沿道を沸かせた。
拙ブログの二〇一二年五月六日付け記事「郡山市開成山公園『こどもまつり』と『ラーメン大会』――ホットスポットで屋外イベント」から――
モニュメント「開拓者の群像」台座 〇・八七マイクロシーベルト/時


「こどもまつり」はすでに終わっていたが、自由広場のテント群ではラーメン大会が大盛況!…老若男女があちこちに座り込んで、ラーメンをすすっている……

福島県「県民健康管理調査」の闇
県民健康管理調査とは、「原子力発電所事故による放射性物質の拡散や避難等を踏まえ、県民の被ばく線量の評価を行うとともに、県民の健康状態を把握し、疾病の予防、早期発見、早期治療につなげ、もって、将来にわたる県民の健康の維持、増進を図ること」を目的とすると謳う福島県の事業で、じっさいの業務の請負は福島県立医科大学。その内容は――
   基本調査(問診票による被ばく線量の把握)
   甲状腺検査(一八歳以下の子どもが対象。一次検査は超音波検査、二次検査は細胞診など)
   健康診査(成人病など)
   こころの健康度・生活習慣に関する調査
   妊産婦に関する調査の五項目。
また、「県民健康管理調査」について、専門的な見地からの助言等を得るために、有識者により構成される検討委員会が設置されている。その座長には、例の山下俊一福島医大副学長(当時)が就いていた。
大震災から丁度一年半経過した二〇一二年九月十一日に開かれた第八回検討委員会で、初めて子どもの甲状腺検査の実施結果が公表され、世の物議を醸すことになった。
甲状腺検査の結果概要
検査実施総数
H23年度
H24年度
38,114
42,060
判定結果
人数
割合
人数
割合
A判定
A1
24,469
64.2
99.5
23,702
56.3
99.4
A2
13,459
35.3
18,119
43.1
B判定
186
0.5
239
0.6
C判定
0
0.0
0
0.0
A1判定:結節や嚢胞を認めなかったもの
A2
判定:5.0mm以下の結節や20.0mm以下の嚢胞を認めたもの
A1、A2判定は次回(平成26年度以降)の検査まで経過観察
B判定:5.1mm以上の結節や20.1mm以上の嚢胞を認めたもの
C判定:甲状腺の状態等からして、直ちに二次検査を要するもの
B、C判定は二次検査
H24
年度の検査結果については、検査結果が確定している824日検査分までを集計
検討委員会発表資料では、結節や嚢胞のあるなしにかかわらず、A判定にひっくるめて二〇一一年度分を九九・五パーセント、一二年度分を九九・五パーセントと報告しているが、なんらかの甲状腺異常を認められるものが、A2判定とB判定をあわせて一一年度で三六パーセント、一二年度で四四パーセントの高率で見つかったことは、世間を驚かせ、福島県の親たちを不安に突き落とすのに十分だった。
しかも、一回目の検査で二次検査の必要なしとされた子どもたちは、二〇一四年以降におこなわれるという次回の検査まで二年間も待たなければならないという。さらにまた、ショッピングな文書がインターネットに出回り、世間を驚かせた。福島県立医大・放射線医学県民健康管理センター長を務めていた山下俊一氏は、日本甲状腺学会の理事長の職にもあり、健康管理センターの臨床部門副部門長(甲状腺検査担当)、鈴木眞一氏と連名で、甲状腺学会の会員宛てに「セカンドオピニオンを求める受診を拒むこと」を依頼する文書を一斉送信していたのである。その平成二四年一月一六日付け書信に、次のような一節がある――
「異常所見を認めなかった方だけでなく、5mm以下の結節や20mm以下の嚢胞を有する所見者は、細胞診などの精査や治療の対象とならないものと判定しています。先生方にも、この結果に対して、保護者の皆様から問い合わせやご相談が少なからずあろうかと存じます。どうか、次回の検査を受けるまでの間に自覚症状等が出現しない限り、追加検査は必要がないことをご理解いただき、十分にご説明いただきたく存じます」
話はこれで終わらない。第八回検討委員会では、二次検査の結果、一人の甲状腺癌が確認されたと報告された。これについて、鈴木眞一教授は、子どもの甲状腺癌の頻度が百万人に一~二人といわれることを認めながら、福島民報記事によれば、次のように発言している。
「内部被ばくのあったチェルノブイリ事故でさえ甲状腺がんは発生まで最短で4年。本県では広島や長崎のような高い外部被ばくも起きていない。事故後1年半しか経過していない本県では、放射線の影響とは考えられない」
ところが、内閣府原子力委員会のサイトに、山下俊一氏が「被爆体験を踏まえた我が国の役割――唯一の原子爆弾被災医科大学(長崎大学)からの国際被ばく者医療協力」と銘打って執筆した論文「チェルノブイリ原発事故後の健康問題」PDFが掲載され、その付表2「ベラルーシ共和国ゴメリ州における小児甲状腺癌登録」によれば、チェルノブイリ事故前年の一九八五年からの年次毎総数の推移は次のようになっている――
85
86
87
88
89
90
91
92
1
1
4
3
5
15
47
36
1993年以降、略)
この推移から、確かに事故後四年目からの激増傾向を読み取ることができるが、事故の翌年から小児甲状腺癌の発症例数の増加がはじまっていることは、だれにも否定できないはずである。
第八回検討委員会の翌々日の九月一三日、福島市を中心にした市民たちのグループが県立医大と福島県庁に対して要請交渉をおこなうことになり、山下俊一副学長や佐藤雄平知事に会えるかもと誘われ、筆者も福島市まで出かけた。が、まさかご御大たちに会えるわけがなく、応対に出たのは、県立医大では放射能医学県民管理センター広報部門長の松井史郎特命教授、県庁では秘書課の役人3名だった。
筆者は、松井特命教授に先述の表にあるゴメリ州のデータを示し、「一九九〇年以降の小児甲状腺癌急増を捉えて、鈴木真一福島医大教授は『甲状腺がんは発生まで最短で四年』と発言したのだろうが、鈴木氏は八七年から八九年までの発症例を無視しており、この発言は虚偽ではないか」と詰問した。
画像出処
すると松井氏は、新聞報道が正確ではなく、「あなたがたは報道に抗議しなければならない」と発言する始末。筆者としては「事実無根の報道であっても、信じるか信じないかはわれわれの勝手であり、抗議しなければならないのは、当事者のあなたがた福島県立医大である」と反論するしかなかった。
県庁の広報担当職員にも同じ疑問を投げかけてみたが、「総合的に判断した結果です」の一点張りである。「総合的に判断」…なんと便利な官僚用語だろう。
さて、松井氏の名乗る「特命教授」は耳慣れない肩書である。医学者ではないようだが、どんな人物だろう。人当たりのよい紳士の風貌ではある。広報畑のプロで、教授待遇。彼の正体が電通マンであったとしても驚くことはないだろう…彼に相対しながら、そのように感じていた。
それが、最近になって、彼の前歴が判明した。日経BP社員だったのだ。その肩書は「日経BP環境経営フォーラム事務局事務局長」。
読売新聞の医療サイト記事「被曝リスク、伝える難しさ…福島県立医大特命教授・松井史郎氏に聞く」で、松井氏は「松井さんは出版社を辞め、福島にやって来た。きっかけは何だったのですか」と問われ、こう語る――
「医大から誘われ、即決で受けました。理由の一つは、私が広島の被爆2世だったことです。母は三歳で被爆し、つらい思いをしたと聞いて育ってきました。
「もう一つの理由は、私がメディアの世界で情報を伝える仕事に関わってきたことです。これらの経験が福島で少しでも役に立つのなら、と思いました」
さて、福島県「県民健康管理調査」の深い闇は底知れない。二〇一二年十月三日、毎日新聞が特ダネ記事を配信した。見出しは「福島健康調査:『秘密会』出席者に口止め/配布資料も回収」。そのリード部分を引用してみよう――
東京電力福島第一原発事故を受けた福島県の県民健康管理調査について専門家が意見を交わす検討委員会で、事前に見解をすり合わせる「秘密会」の存在が明らかになった。昨年五月の検討委発足に伴い約一年半にわたり開かれた秘密会は、別会場で開いて配布資料は回収し、出席者に県が口止めするほど「保秘」を徹底。県の担当者は調査結果が事前にマスコミに漏れるのを防ぐことも目的の一つだと認めた。信頼を得るための情報公開とほど遠い姿勢に識者から批判の声が上がった。【日野行介、武本光政】
毎日新聞はその後も、この「秘密会」の実態を暴くスクープを次々とものにし、県民の批判も高まったことから、山下俊一氏は二〇一三年四月一日付けで検討委員会座長の席を退くとともに、長崎大学に復帰した。それでも、福島医大副学長の地位は非常勤として温存しているので、相変わらず福島県医療界の闇将軍としての権勢を保っているのだろう。
これを期に、県民健康管理調査の刷新をアピールするために、検討委員会の一部の委員が入れ替えられた。だが、子どもたちを被曝から守るための改革が実現したとはいえないのは、もちろんのことである。
たとえば、新しく委員になった福島大学経済経営学類の清水修二教授は、八月一六日付け福島民報に「『遺伝への懸念』がもたらす悲劇」と題する一文を寄せ、広島・長崎、チェルノブイリを例にあげて、被曝による遺伝的影響はないと断言したうえで、次のようにいう――
心臓奇形をはじめとする先天奇形・異常は通常からある程度の確率で発生する。福島県でそうした子どもを出産した親の気持ちを考えてみてほしい。「あの時、避難しなかったのがよくなかったのではないか」という悔恨、そして東京電力や政府に対する怨念や憤怒を、一生抱えながら生きることになるかもしれない。これは悲劇だ。
……
被災者である県民自身が遺伝的影響の存在を深く信じているようだと、「福島の者とは結婚するな」と言われても全く反論できないし、子どもたち自身から「私たち結婚できない」と問われて、はっきり否定することもできない。親子ともども一生、打ちのめされたような気持ちで生きなければならぬとしたら、これほどの不幸はあるまい。
これが、被曝の遺伝的影響を危惧する人たちや自主避難した親たち、あるいは将来、不幸にして「そうした子ども」をもつことになる若い人たちを脅すものでないとしたら、なんといえばよいのだろうか。

司法の闇
二〇一一年十二月一六日、福島地裁郡山支部が「ふくしま集団疎開裁判」の仮処分申し立てを却下する決定を下したのを受けて、債権者側は仙台高等裁判所に即時抗告を申し立てていた。
仙台高裁の審理は延々と長引き、決定が下ったのは二〇一三年四月二四日。結果は、ふたたび「却下」。当日、「ふくしま集団疎開裁判」弁護団が公表した声明によれば、決定理由は次のとおりである(一部、理解を促すための補筆あり)――
   チェルノブイリ原発事故によって生じた健康被害、福島県県民健康管理調査の結果、現在の郡山市における空間線量率等によれば、子どもたちは、低線量の放射線に間断なく晒されており、これによる,その生命・身体・健康に対する被害の発生が危惧され、由々しい事態の進行が懸念される。この被ばくの危険は、これまでの除染作業の効果等に鑑みても、郡山市から転居しない限り容易に解放されない状態にある。
   もっとも、中長期的には懸念が残るものの、現在直ちに不可逆的な悪影響を及ぼす恐れがあるとまでは証拠上認め難い。
   子どもたちは、学校生活以外の日常生活において既に年一ミリシーベルトを超える被ばくをしており、引き続き郡山市に居住する限り、郡山市内の学校施設における教育活動を差し止めてみても、被ばく量を年一ミリシーベルト以下に抑えるという目的を達することができないから、子どもたちにこれを差し止める権利が発生する余地はない。
   子どもたちに対して郡山市の学校施設で教育活動を継続することは、直ちにその生徒の生命身体の安全を侵害するほどの危険があるとまで認め得る証拠もないから、直ちに不当ではない。子どもたちの避難先での教育は地元の教育機関により行われるのが原則であり、避難元の公的教育機関がわざわざ地元の教育機関を差し置いてまで別の学校施設を開設する必要はない。子どもたちが自主避難した場合は,子どもたちは避難先の公的教育機関で教育を受けることで被ばく被害を回避する目的は達成される。言い換えれば、子どもたちは郡山市に対し避難先での学校教育を求めることはできず、また、郡山市は避難先で教育活動を実施すべき義務を負うものでない。
   子どもたちに自主避難が困難とすべき事情は認められず、保全の必要性がない。
「生命・身体・健康に対する被害の発生が危惧され、由々しい事態の進行が懸念される」とまで断言しながら、「子どもたちにこれを差し止める権利が発生する余地はない」と決めつけるのだから、まったく理解に苦しむ論理である。唯一、わたしたち市民に理解できるのは、いかに理不尽であっても、また法令違反があっても、国民は国や行政の施策に異議を挟むことができないという、司法の硬直した姿勢である。
その後も、被曝地に生きる子どもたちの受難を物語るニュースはつづく。
八月二〇日に開かれた福島県の第一二回「県民健康管理調査」では、子どもの甲状腺癌が一八名、確定に近い疑い例が二五名と発表された。それでもなお、鈴木眞一教授は、甲状腺癌はゆっくり大きくなるのが特徴であり、診断確定した人のがんの大きさから、「二、三年以内にできたものではないと考えられる」と話し、理由付けを変えながら、これまでと変わらず原発事故との関連を否定する。

希望
紙幅が尽きたようであり、本稿を閉じるにあたって、仙台高裁抗告審の審理の前に開かえた集会の場における、「ふくしま集団疎開裁判」弁護団、井戸謙一弁護士のことばを紹介したい――
この裁判に勝っても
子どもたちを救うためには、市民の力が必要です。
たとえ、裁判に負けても
市民の力の盛り上がりによって、子どもたちを救うことができます。
かつて、人類学者、マーガレット・ミードもこういった――
「疑ってはいけない。思慮深く、献身的な市民たちのグループが世界を変えられるということを。かつて世界を変えたものは、実際それしかなかったのだから」

[後記]国際原子力機関(IAEA)の福島進出、福島県鮫川村の農業系放射能汚染廃棄物の焼却減容試験施設の問題、放射能汚染水の海洋流出など、まだまだ書くべきことは多いが、それには稿を改めなければならない。
 
【筆者】
井上利男
神戸市出身、奄美大島、奥会津などを経て、福島県郡山市在住。「ふくしま集団疎開裁判」の会メンバー。
Twitter ID: inoue toshio 子どもを守れ! @yuima21c
ふくしま集団疎開裁判」公式ブログ

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