2014年11月4日火曜日

NHK『封印された原爆報告書』~陸軍省医務局が作成した調査報告は英訳されてアメリカに…


封印された原爆報告書 投稿者 sievert311
米国立公文書館に、日本が原爆被害の実態を調べた181冊の報告書が眠っている。
なぜ報告書はアメリカに渡され、被爆者のために生かされなかったのか? その真相に迫る…

トランスクリプト

53:58
アメリカ国立公文書館の映像室――ここに終戦直後の日本で撮影されたフィルムが残されていました。映しだされたのは、原子爆弾が投下され、焼け野原となった広島。
00:32
被害の実態調査にあたる日本の医師と科学者たちです。広島と長崎に送り込まれた調査団は、合わせて1300人。被爆地でしか得ることのできない原爆の詳細なデータを集めていたのです。
00:59
日本の調査団のまとめた膨大な記録が、GHQの内部文書を集めた書庫のなかに眠っていました。
「これが日本の科学者が作成した181冊の原爆報告書です」
01:19
報告書は181冊――合わせて1万ページにおよびます。今回、わたしたちは初めてそのすべてを入手しました。そこに記されていたのは、被爆国・日本みずからが調べあげた生々しい被害の実態です。
01:51
学校にいた子どもたちが、どこで、どのように亡くなったのか、教室の見取り図に丸印で描きこまれています。
02:05
放射線が人間の臓器をどう蝕んでいくのか、200人を超す被爆者の遺体を解剖した記録もありました。
02:19
調査の対象になった被爆者は2万人に上りました。治療はほとんどおこなわれず、原爆が人体に与える影響を徹底的に調べていたのです。
02:36
調査された被爆者「立て言われたら、はい。横向け言われたら、はい。お前、モルモットじゃ!と言われたような気になりました」
02:46
報告書はすべて日本人の手で英語に翻訳されています。被害の実態を調べた貴重な記録は、原爆を落とした国、アメリカへと渡されていたのです。
03:05
わたしたちは原爆調査を知る数少ない関係者を日本とアメリカで取材しました。浮かびあがってきたのは、被爆者の救済よりも、アメリカとの関係を優先させていた日本の姿です。
03:30
元アメリカ調査団医師「日本の報告書の内容は、まさにアメリカが望んでいたものでした」
03:40
元陸軍軍医少佐「早く持っていったほうが、心証がいいだろうと。原爆のことは、かなり有力なカードだった」
03:54
唯一の被爆国として、原爆の悲惨さを世界に訴えてきた日本。その一方で、被爆者のために活かされることもなかった181冊の報告書。被曝から65年。封印されていた報告書はなにを語るのか。いま明らかになる原爆調査の実態です。
04:44
65年前、世界ではじめて原子爆弾が投下された広島。あの日、街は一瞬にして焼け野原となりました。
05;09
爆心地から4キロ離れた海沿いに、戦火を逃れ、当時のままの建物があります。旧陸軍病院、宇品分院。後に181冊にまとめられる原爆調査の最初の調査が、ここで行われました。
05;41
収容された被爆者は、2か月間で延べ6000人に上りました。みな、むしろのような布団の上に寝かされていたといいます。
06:11
大本営のもと、宇品での調査を指揮したのは、陸軍省医務局です。原爆投下からわずか2日後の88日、広島に調査団を派遣し、敵国・アメリカが使った新型爆弾の調査に乗り出していました。
06:40
調査の結果は1冊の報告書にまとめられました。タイトルは『原子爆弾に依る広島戦災醫學的調査報告』。被曝した人がどうのように亡くなっていくのか、放射線が体を蝕んでいく様子が豊富なデータとともに記録されています。
07:22
調査を受けた被爆者のひとりが、生きていました。沖田博さん(89歳)です。宇品の病院で生死の境をさまよいました。
07:50
当時、広島の部隊にいた沖田さんは、爆心地からおよそ1キロの兵舎にいて被曝。突然、体に異変が現れ、宇品に運ばれてきました。
08:09
病院に入っても、治療はほとんど受けられず、毎日、検査ばかりが続いたといいます――「毎日、命がいつまであるか、確かめるためだと思いました。当然、駄目だと思います。次々と死んでいくからね。こいつはいつまで生きるのか、確認するためだと思いました」
08:41
報告書には、沖田さんの記録もありました。当時の危険な様子が克明に記されています。沖田さんの体温は40℃近くまで上がった状態が続いていました。白血球の数は1300、通常の4分の1程度まで下がっていました。
09:18
家族の必死の看病で、一命を取り留めた沖田さん。その後は、回復の過程が調査の対象になりました。
09:38
その時、撮影された沖田さんの写真です。放射線の影響で抜けていた髪の毛は、少しずつ生えはじめていました。嫌がる沖田さんにかまわず、さまざまな検査が2か月間つづけられたといいます。
10:08
「お前、モルモットじゃ、いうて、言われたような気になりました。こんちくしょう、言いたいんだけど、言えないですよね。ぼく自身のなかで、えいクソッ!と思いながら、あまり態度には出せませんでしたからね」
10:33
広島と長崎に相継いで投下された原子爆弾。その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。
11:09
原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦とともに、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。
11:40
2年以上をかけた調査の結果は、181冊、1万ページにおよぶ報告書にまとめられました。大半は放射線によって被爆者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はそのすべてを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。
12:14
なぜ、みずから調べた原爆被害の記録をアメリカへと渡したのか、その手がかりを公文書館に保管されている報告書のなかに探しました。日本が提出した調査記録の片隅に、ある共通するアメリカ人の名前がありました。“To Col. Oughterson”(オーターソン大佐へ)と書かれた、その人物とは?
13:04
アメリカ陸軍、アシュレイ・オーターソン大佐。マッカーサーの主治医で、終戦直後に来日したアメリカ原爆調査団の代表です。
13:22
オーターソン大佐とともに日本で調査にあたった人物が、カリフォルニアにいました。フィリップ・ロジ氏(92歳)、アメリカ調査団のメンバーに抜擢された、最も若い医師でした。
13:48
ロジ氏は、アメリカ側調査団が到着するとすぐに、日本側から報告書を提出したいという申し入れがあったといいます。
14:03
「オーターソン大佐は大変喜んでいらっしゃいました。日本がすぐに協力的な姿勢を示してくれたからです。日本はわたしたちが入手できない重要なデータを原爆投下直後から集めてくれていたのです。まさに被爆国にしかできない調査でした」
14:46
オーターソン大佐に報告書を渡していたのは、原爆調査を指揮する陸軍省医務局の幹部でした。小出朔郎軍医中佐。30代の若さで医務局に入ったエリートです。
15:12
陸軍が最初に行った調査の報告書のすべてが、英語に翻訳されて、オーターソン大佐に渡されていました。
15:28
なぜ小出中佐は終戦前から軍が独自に調べていた情報をアメリカに渡したのか?
15:41
当時の内情を知る人物が生きていました。陸軍の軍医少佐だった三木輝夫さん、94歳です。陸軍軍医のトップ、医務局長を務めた父を持つ三木さん。終戦時は、軍全体を指揮する大本営に所属していました。
16:20
報告書を提出した背景には、占領軍との関係に配慮する日本側の意思があったといいます。
「いずれ要求があるだろうと、その時はどうせ持っていかなくてはならない。早く持っていったほうが、心証がいいだろうと、要求がないうちに持っていった」
――心証を良くするというのは、なんのために心証を良くするのですか?
731(部隊)のこともあるでしょうね」
17:25
三木さんがいう731部隊は、生物・化学兵器などの効果を確認するために、満州で捕捕虜を使った人体実験を行ったとされる特殊部隊です。終戦を前にしたボツダム会議で、アメリカをはじめとする連合国は、捕虜虐待などの戦争犯罪に対し、厳しい姿勢で望むことを確認していました。
18:00
小出中佐は陸軍の戦後処理を任されたひとりでした。終戦を迎えた815日、小出中佐に出されていた極秘命令です。
「敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究は、すべて証拠を隠滅せよ!」
18:35
大本営にいた三木さんは、動揺する幹部たちの姿を間近で見ていました。戦争犯罪の疑惑から逃れるためにも、戦後の新たな日米関係を築くためにも、原爆調査報告書を渡すことは、当時の国益にかなうものだったといいます。
19:08
「新しい兵器を持てば、その威力は誰でも知りたいものですよ。カードでいえば、有効なカードはあまりないんで、原爆のことはかなり有力なカードだった」
19:47
みずから開発した原子爆弾の威力を知りたいアメリカ。そして戦争に負けた日本。原爆を落とした国と、落とされた国――ふたつの国の利害が一致したのです。
20:20
原爆投下から2か月、アメリカの調査団が入ってくると、日本はその意向を強く受けて、調査に力を入れるようになります。小出中佐に替わって、アメリカの調査団との橋渡し役を務めるようになったのは、東京帝国大学の都筑雅夫教授です。放射線医学の第一人者で、当初から陸軍とともに調査にあたってきました。
21:02
報告書番号14。都筑教授と陸軍が共同で作成したこの報告書のなかに、当時、アメリカが最も必要としていたデータがありました。原爆がどれぐらいの範囲にいる人を殺すことができるのか、調べた記録です。対象になったのは広島市内で被曝した17000人の子どもたちでした。どこで何人死亡したのか、70か所で調べたデータが記されています。
21:48
爆心地から1.3キロにいた子どもたちは、132人中、50人が死亡。
22:02
0.8キロでは、560人全員が死亡しています。
22:15
86日の朝、広島市内の各地に大勢の子どもたちが学徒動員の作業に駆り出されていました。同じ場所でまとまって作業をしていた子どもたちが、原爆の殺傷能力を確かめるためのサンプルとされたのです。
22:45
調査の対象となったひとつ、第一国民学校。そこに通っていた佐々木妙子さん(77歳)です。当時、1年生だった佐々木さんたちは、空襲に備えて防火地帯を作る建物疎開の作業に動員されていました。
23:22
学校に建てられた慰霊碑です。屋外で作業にあたっていた175人が被爆しました。佐々木さんのすぐ隣にいた親友、上田房江さんも亡くなりました。
23:52
「ほんと、ごめんね、うちだけ生き残って。それこそ一生懸命、お国のためじゃないけど、建物疎開に出て、帰るときには姿もないようなこと、あまりにもむごいですよ」
8月に来るけんね」
24:33
報告書によると、第一国民学校の1年生175人のうち、108人が死亡、佐々木さんを含む67人が重傷となっています。
24:52
都筑教授たちが調査を行った背景には、アメリカからの要請がありました。アメリカ調査団の代表、オーターソン大佐が、このデータに強い関心を示していたのです。
25:18
ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所。日本からのデータは、すべてここに集められました。オーターソン大佐は調査の結果を『原爆の医学的効果』と題する6冊の論文にまとめていました。
25:50
「第6巻には子どもたちの被害データがあるので、政治的な配慮から機密解除が遅れました」
26:05
17000人の子どもたちのデータから導き出されたのは、ひとつのグラフでした。爆心地からの距離と死者の割合を示す死亡率曲線です。原爆がどれだけの人を殺傷できるのか、世界ではじめて具体的に表したこのグラフは、アメリカ核戦略の礎となりました。
26:37
こうしたデータをもとに、当時、アメリカ空軍が行っていたシミュレーションです。ソヴィエトの主要都市を攻撃するために広島型の原爆が何発必要かを算出していました。
27:04
オーターソン大佐の研究を引き継いだジェームズ・ヤマザキ氏です。死亡率曲線は、広島と長崎の子どもたちの犠牲がなければ、得られなかったといいます。
「革命的な発見でした。原爆の驚異的な殺傷能力を確認できたのですから、アメリカにとって極めて重要な軍事情報でした。まさに日本人の協力の“賜物”です。貴重な情報を提供してくれたのですから」
27:56
建物疎開の作業中に被爆し、多くの同級生を失った佐々木妙子さん。友人たちの死が日本人の手によって調べられ、アメリカの核戦略のために利用されていたことを初めて知りました。
「バカにしとるねと言いたいです。わたしは、残念ですね。手を合わせるだけのことです。わたしは、もうなにもできません」
29:09
日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師は、どのような思いで被爆者と向き合ったのか? 山村秀夫さん(90歳)――都筑教授が率いる東京帝国大学調査団の一員でした。
当時、医学部を卒業して2年目の医師だった山村さん。調査はすべてアメリカのためであり、被爆者のために行っている意識はなかったといいます。
30:00
「結果は全部日本で公表することもダメだし、お互いに持ち寄って相談することもできませんから、自分たちの調べたものは全部アメリカに出す」
30:20
山村さんが命じられたのは、被爆者を使ったある実験でした。報告書番号23――山村さんの論文です。被爆者にアドレナリンという血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。
<12人のうち、6人はわずかな反応しか示さなかった。>
山村さんたちは、こうした治療とは関係ない検査を毎日行っていました。調べられることは、すべて行うのが、調査の方針だったといいます。
31:18
「とにかく生体にどのような変化が起こっているかということと、少しでもなにかの手がかりを見つけて調べるということだけでしたから、それ以外、なにもないですね。他のことはあまり考えなかったですね。とにかく、それだけやる」
――いまとなってみれば、そのことをどうお感じになりますか?
「いまとなってみたらね。もっと他にいい方法があったのかもしれません。だけど、今とぜんぜん違いますから。その時の社会的な状況がね」
32:02
亡くなった被爆者も調査の対象になりました。救護所で亡くなった被爆者は、仮設の小屋などに運ばれて、次々に解剖されたといいます。
32:28
200人を超す被爆者の解剖結果は14冊の報告書にまとめられています。
その1冊に子どもの解剖記録が残されていました。報告書番号87――解剖されたのは、長崎で被爆し、亡くなったオノダ・マサエさん。まだ11歳の少女でした。
33:07
マサエさんの遺体は、どのような経緯で提供されたのか?
長崎に遺族がいることがわかり、訪ねました。マサエさんの甥にあたる小野田博行さんです。
「これがただ1枚のですね、マサエ(小野田政江)おばさんが4歳のときの写真です」
政江さんが解剖された経緯を、博行さんは父・一敏さんから聞いていました。
34:04
被曝した政江さんは長崎中心部の救護所に運ばれていました。兄、一敏さんが駆けつけたとき、政江さんは高熱にうなされ、衰弱しきっていたといいます。
34:27
「亡くなる前に…ですね、何時間か前だと思うのですが、『兄ちゃん、家に連れて帰って』…その言葉が最期だったらしいですね」
34:45
一敏さんが政江さんの遺体をおぶって、連れて帰ろうとしたとき、救護所の医師たちが声をかけてきたといいます。
「例の先生たちが、将来のために妹さんを解剖の方に預けていただけないかという話を親父の方にしたらしいですね。一応は断りを入れたらしいですけど、やっぱり親父もたくさんの亡くなった方々のああいう状況を見ておりますもので、お渡しする気になったのではないかという気がするのですけど…やっぱり将来のためにという思いで…」
35:50
被爆者のために役立ててほしいと医師に託された政江さんの遺体。その後、どうなったのか、家族に知らされることはありませんでした。
36:09
政江さんたち被爆者の解剖標本は、報告書とともにアメリカに渡っていました。放射線が人体におよぼす影響をより詳しく知るために、利用されました。
そして、昭和48年、研究が終わったあと、日本に返還され、いまは広島と長崎の大学に保管されています。
36:44
小野田政江さんの標本が長崎大学にあることがわかりました。博行さんが写真でしか知らない政江おばさん…
「ご説明させていただきます。小野田政江様のプレパラート標本5枚になります」…政江さんは肝臓や腎臓などを摘出され、5枚のプレパラート標本になっていました。
「これがおばさんですかね。こんな形でお会いするとは、思いもしませんでした」
アメリカで付けられた標本番号は、249027。原爆被害の実況を伝えてほしいと提供された11歳の体が、被爆者のために活かされることはありませんでした。
38:25
原爆投下直後から始められていた国による被害の実態調査。この65年間、その詳細が被爆者に対して明らかにされることはありませんでした。
38:51
平成15年から全国で相次いだ原爆症の集団訴訟。自分たちの病気は、原爆によるものだと認めてほしいと訴える被爆者に対し、国はその主張を退けてきました。
39:22
30年以上、被爆者の治療にたずさわり、原告団を支えてきた医師の斉藤紀(おさむ)さんです。
181冊の報告書のなかに被爆者の救済につながる新たな発見はないか?
39:48
斉藤さんが注目したのは、ある医学生が書いた手記です。
報告書番号51。ここに、これまで国が認めてこなかった、ある被爆の実態がつづられていました。手記を書いたのは、門田可宗(もんでんよしとき)さん。山口医学専門学校の学生でした。
40:34
門田さんが広島市の中心部に入ったのは、原爆投下の4日後のことでした。直接、被爆をしていないにもかかわらず、門田さんに原爆特有の症状が現れます。街に残った放射線による被爆、いわゆる入市被爆です。
41:05
長年、国は入市被爆による人体への影響はないとしてきました。しかし、門田さんの手記に書かれていたのは、直接被爆した人と同じ症状でした。
815日、熱は395分まで上がる」
817日、歯茎と喉の痛みが増してくる」
41:44
さらに819日、門田さんを不安に陥れる症状が襲います。体中に多数の出血斑が現れたのです。
「わたしも原爆の被害者なのか? いや、そうではない。86日、確かにわたしは広島にいなかったではないか。
「不安のあまり、その日は眠れなかった」
42:30
830日、門田さんは被爆者の症状について解説した新聞記事を目にします。そこに書かれていたのは、自分と同じ症状でした。
「わたしの症状は、被爆者の症状とまったく同じではないか。ああ、なんということだ。わたしも原爆の被害者になってしまったのだ」
43:16
斉藤さんは、門田さんの報告書がありながら、国がこれまで入市被爆の影響を否定しつづけてきたことに、憤りを感じています。
「今まで考えられてきた『被害はないんだ』と、『入市被爆者の人間物証は現れないんだ』ということの考え方が、根底から実は崩れてしまう…というような意味をこれは持っているのですね。そういった意味では、これが65年も埋もれておったと、埋もれさせられておったと…」
44:00
原爆訴訟で長年、国を訴えてきた被爆者のなかにも、門田さんと同じように入市被爆した女性がいました。斉藤泰子さん(享年65歳)です。3年前、被爆が原因とみられる大腸がんで亡くなりました。
44:35
当時4歳だった泰子さんが母・幾さん(97歳)に連れられて、疎開先から戻ったのは、原爆投下後の5日後のことでした。親戚を探しに、爆心地近くに入り、一緒に歩きまわったといいます。
しばらくすると泰子さんに高熱や下痢など、被爆の影響とみられる症状が現れました。
45:22
「連れて来なければ、そんなことはなかっただろう。ほんと悪かったなあと、今でも後悔しています」
45:40
その後、白血球が減少するなど、原爆の後遺症に悩まされた泰子さん。59歳のとき、大腸癌を発症します。原爆症と認めてほしいと訴えましたが、国は「被爆はしていない」と退けつづけました。
46:05
4年前、泰子さんは最期の法廷に臨みました。そのときの言葉です――
「わたしは末期癌で、余命いくばくもないことを医師から言われております。もうわたしには時間がありません。国は、わたしのような入市被爆者の実態をわかっていません。多くの入市被爆者がわたし以上に苦しんでいます」
46:59
勝訴判決が出たのは、泰子さんが亡くなって3か月後の平成19年のことでした。幾さんは、門田さんの報告書の存在がもっと早くわかっていれば、泰子さんが生きているうちに救済されたのではないかと思っています。
「ほんと間に合いませんでした。かわいそうですよね。遅すぎましたね」
47:48
ひとりの医学生が書いていた入市被爆の報告書。筆者の門田可宗(もんでんよしとき)さんが岡山県倉敷で生きていました。どのような思いで手記をつづったのか、斉藤さんは同じ医師として聞きたいと訪ねました。
48:30
門田可宗さん、84歳です。

65年間、原爆後遺症の恐怖と戦いつづけてきました。心臓や腎臓を患い、療養中でした。
「あの、調子の悪いときは、先生、おっしゃってください。日記を見ますと、819日に体の出血に、先生、気づかれるんですけど、ご記憶はありますか」
「ありますよ。皮下出血がありましたね。胸のあたりに出血斑があったのですね。こりゃ、いかんなと非常に危ぶんだんです。その当時、わかりませんので…そうです。日本語で書きました」
「こういうふうに訳されて、アメリカにあることをまったく知らなかったのですね?」
「知らなかったです」
49:40
門田さんによると、日記を書いたのは、山口の医学専門学校に戻ってからでした。山口まで訪ねてきた東京帝国大学の都筑正男教授に日記を書くよう勧められたといいます。
「当時、研究者で名前がナンバーワンで出てきたのは、都筑先生ですからね。わざわざ山口医専までおいでになったんです。直接面談しましてね。いろいろ質問されたりしましたね。その時に『今から日記を詳細につけるように』と言われたんです。日記だけはつけておこうと思ったんですね。例のオーターソンというアメリカの軍医が熱心にぼくの手記を求めていることもわかった」
51:03
報告書の最後に門田さんはみずからの思いを記していました。
「アトミック・ボム・ディジーズ(原爆病)の研究のため、わたしはこの手記を書いた。もしこれが役立つならば、非常に幸せである、と…いうふうに書いていますね」
「懐かしいですね。ぼくが残しておかないと、だれが残すんだという気持ちがありました。医学に携わる者として、多少は具体的に書いておかないと…」
51:55
ひとりの医師の使命として、みずからの被爆体験を後世に残そうとした門田可宗さん。その思いは届きませんでした。
65年前に失われた多くの尊い命。そして、生き残った人たちが味わった苦しみ。その犠牲と引き換えに残された記録が、被爆者のために活かされることはありませんでした。
世界で唯一の被爆国でありながら、みずからの原爆被害に目を向けてこなかった日本。封印されていた181冊の報告書がその矛盾を物語っています。


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