2015年2月21日土曜日

太平洋を越えた南北交流 @japanfocus フクシマ、ヒロシマ、ナガサキ、そしてマラリンガ

アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス
アジア太平洋…そして世界を形成する諸勢力の批判的深層分析
アジア太平洋ジャーナル Vol. 13, Issue 6, No. 5, 2015216
太平洋を越えた南北交流
フクシマ、ヒロシマ、ナガサキ、そしてマラリンガ
ヴェラ・マッキー Vera Mackie
【要約】
本稿では、東日本の福島で複合災害が発生した20113月以後、オーストラリア東部で開催された一連の祈念行事について解説する。地域行事に出席したり参画したりした人たちが、経験によって会得した国境を超える連帯を表明したのである。わたしたちは、これらのイベントを思い返すと、日本とオーストラリアの絡みあい重なり合った歴史、そしてさまざまな人たちと集団が原子力と核兵器の世界規模ネットワークのなかに置かれている様相を思い起こすのだ。
【キーワード】
日本、オーストラリア、記念・祈念、社会運動、災害、原子力、核
Japan, Australia, Commemoration, Social Movements, Disasters, Atomic Energy, Nuclear Power
【本文】
20113
2011311日の複合災害は、世界の人びとが注視するなかで進行した1。携帯電話で撮影され、フェイスブック、ツイッターなどのソーシャル・メディアで拡散されたり、従来型のメディアとインターネットで再放送されたりした映像のおかげで、世界中の人びとが地震と津波がもたらした惨状を目撃した。世界のどこにいても、国営放送のNHKや映像配信サイトのニコニコ動画で事態の進展を見守ることができた。CNNがただちに派遣した数名の特派員たちは、途切れなく報道を流した。オーストラリア放送協会の東京通信員もまた、事態を総合的に伝えてくれた2
新しいソーシャル・メディアのおかげで、20113月の複合災害にまつわるデモ、コンサート、祈念式典、記念日行事もまた世界の視聴者に伝わった。人びとは世界のさまざまな場所で――災害発生の直後に、またその後の重要な記念日に――祈念や哀悼のために集まった。本稿では、オーストラリアで催された一連の祈念行事を描くことによって、災害とその余波の国境を超えた諸側面を考察する3。国境を超えた関係性に関する論議の多くは、「仮想的」な――ソーシャル・メディアを用いた、明らかに身体的でないつながりの――側面に注目しているが、筆者は行事や儀式の身体的な側面を無視すべきではないと考える。新しいショーシャル・メディアが、公の場における集会に取って代わったわけではない。むしろ、ヴァーチャルな通信と公の場における行動は互いに補完しあう。人びとが共通の思いを表現するために公の場に集うとき、連帯が結ばれる。以下に論じるように、特定の行事を極小レベルで分析すれば、国境を超えたつながりと連帯が結ばれるプロセスに分け入る洞察を得ることができる。そのためには、これらの行事の詳細で「濃密な描写4」が欠かせない。
地震とその余波、津波と核危機の複合災害が突発した2011311日、筆者は日本から遠く離れていた。それでも、テレビ、ラジオ、ソーシャル・メディアのおかげで、即座に災害に気づいた。オーストラリアと日本の時差がさほど離れていないので、即時性がさらに生々しく伝わった5Eメール、フェイスブック、共通の友人が伝達したメッセージによって、日本にいる友人と連絡を取ることができた。同時に、東京にいる筆者の友人たちが、鉄道の運行停止のため、立ち往生の憂き目にあったり、徒歩で帰宅したりしなければならなかった体験をEメールで伝えてきた。余震があり、Eメールの途中で「あ!揺れてる」とか「また揺れてる」とつぶやかれることも多かった。その後の何か月か、これらのことばがフェイスブック記事に繰り返し書き込まれた。
地震が襲ったのは、おおむね日本の北東部とその周辺海域だったが、津波の影響は、ハワイ、フィリピン、太平洋島嶼諸国、南北アメリカ太平洋沿岸におよび、港湾や沿岸住宅地に被害をもたらした。オーストラリアの沿岸でさえ、被害をもたらすほどでなかったものの、潮位の上昇を観測できた6。何年たっても、瓦礫が太平洋の対岸に打ち上げられたという報道を目にする7。ごく微量のプルトニウムも海の向こう側で検出された8。核燃料メルトダウン、爆発、汚染水漏れの影響は、日本の国土とその沿岸海域の境界で封じ込められるものではない。地震と津波がもたらした被害に加えて、風と海流が放射能汚染を日本の国境を超えて遠くまで運ぶ。
危機は世界のメディアとソーシャル・メディアを通して、(多くの人には間接的であったとしても)世界の人びとが経験したという意味で国境を超えていた。――筆者と同じく――ソーシャル・メディアと従来型メディアを共に駆使して、津波がもたらした惨状を目撃した。米国では調査によって、国民の60パーセントに迫る人たちが20113月のあいだに事態の動きを追っていたことが明らかになった9。これはまた、世界に共感、同情、連帯があふれる機会になった。スレイター、ニシムラ、カインドストランドが、災害にまつわる通信を促進した新しいソーシャル・メディアに関連して指摘するように、「かつて個人的で私的、内輪的でさえあった極小の社会性の領域と考えられていたものが、世界中の他の人びとに届くオルタナティヴ[非主流]政治に関与するようになった」10
この情緒的な反応に、赤十字などの従来型慈善団体、日本財団などの組織の海外支局、海外の非政府組織(NGO)、CNNなどの報道機関ウェブサイトのリンクによるチャリティ運動が続いた。米国では、赤十字がスーパー・ボール(プロフットボールの王者決定戦。毎年恒例、視聴率最高の一大スポーツ・イベント)の期間中、東北救援運動に対する献金を募集する宣伝をした11。日本赤十字は20122月、45億米ドルを被災自治体に送金し、そのうち40億米ドルは(海外の赤十字協会を除く)海外篤志家の献金だったと発表した12
国際的に人道主義にもとづく関心が集まったのに加えて、核エネルギーに反対する国際運動――半世紀を超えて蓄積した直接行動――もまた高揚した13。原発反対運動が活発になると、日本のさまざまなデモに参加できなかった筆者らは、ソーシャル・メディアで提供されるリンクによって、遠くから見守っていた。日本の友たちと連帯するデモや記念集会は、ニューヨーク、パリ、オーストラリア各地など、世界のさまざまな場所でも開催された14。子どもたちの安全について心配を表明する英語版ビデオをYouTubeで配信した「福島の母親たち」など、日本の活動家たちは国際社会の支持者らにますます訴えかけるようになった15。理解するための参照基準も国際的であり、旧ソ連のチェルノブイリ核災害、米国のスリーマイル・アイランド原発事故、インドのボパール化学汚染事故、米国のハリケーン・カトリーナ、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下の日本の経験も比較のために参照された16。このリストは、核時代の実相を告げると世界的に即座に認識される地名を連ねている17。反核運動は2012年の夏のあいだ、しばらく「あじさい革命」と呼びならわされ、同時に進行したアラブの春、オキュパイ・ムーヴメント、チュニジアの「ジャスミン革命」と相互リンクしていた18
311」複合災害はまた、海外の日本人社会とその支援者たちを活性化した。災害の恐ろしいニュースが届くやいなや、オーストラリア全国の州首都、地域の中核都市でヴィジル(夜間祈祷集会)が催された。たとえば、メルボルンでは2011317日、中心街の旧中央郵便局ビルの入り口踏み段でヴィジルが執り行われた。ステップは巨大な折り鶴の群れとロウソクの列で飾られた。その後3月には、各年の記念日に祈念行事が開催されてきた。フクシマの核放射能の問題とヒロシマ・ナガサキのそれが密接に結びついているので、フクシマは8月のヒロシマの日とナガサキの日を迎えるごとに思い起こされる。いまでは3月と8月の行事が毎年恒例リズムを生みだしている。それぞれの行事ごとに、これら歴史的事件の関連がますます詳細・精緻に検討されている。ヒロシマとナガサキは常に再考され、反復効果を得てきたが、いまではフクシマのプリズムを通して検討されている。これらの行事を主催する団体は、シンボルと実践のレパートリーを蓄積し、下記に示すように、それを行事から行事へと年ごとに繰り越している。
20113月、メルボルンにて、フクシマのためのヴィジルで飾られた折り鶴の群れ。写真: Kaz Preston.19
20123
災害1年後の2012311日、筆者はメルボルンのヴィクトリア州立図書館のステップに立ち、太鼓演奏の残響を感じていた。周囲に、地震、津波、核メルトダウンの複合による被害の1周年祈念をするために集まった群衆がいた。
メルボルン中心街にある州立図書館の前の芝生は、普段からデモや行進の集合場所に使われている。ステップのある空間は、集会場や競技場の感じがある。この日、作業トラックが路上に停められ、荷台が発言者や演者のステージに使われていた。台の上に、マイクやアンプ、積み上げられた太鼓が所狭しとばかりに置かれていた。州立図書館の向かい側は、元は「バブル時代」に日本資本で建てられた、メルボルン・セントラルという名のショッピング・センターである。以前には、日本の百貨店、大丸の支店が入っていたが、バブル経済が破裂したあと、閉店してしまった。州立図書館とショッピング・センターのあいだの通りは――路面電車、自転車、歩行者の通行だけが許される――遊歩道である。デモ行動の場所をビジネス・ショッピング街の中心部に決めることによって、異種の都会活動のあいだで自由な交流が容易に生まれることになる。ショッピングや図書館調べを喜んで中断し、祈念集会とデモに参加する人もいるだろう。他にも、周囲の通りからや、数分ごとにガタガタ行き来する路面電車の窓越しに見つめるだけの人たちがいる。
子どもたちがうろつきまわり、集まった人たちに仮面を配る。その仮面は、核放射能を表す国際標識とエドヴァルド・ムンク(18631944年)の1893年作品『叫び』を真似た顔を組み合わせた合成画像を黄色と黒色で描いたものである20。この黒と黄色の放射能標識の変種は、世界各地のデモでも目玉になっている。これらの標識画像はもともと、放射能の危険を特定の言語を超えた形で警告するためにデザインされたものである。それを応用して、シンボルを新しい形に作りなおすことが、国境を超えた直接行動の視覚言語を形づくるのに役に立ってきた。あるデモ参加者は、ソーラー電力――原子力と化石燃料の代替エネルギー――のシンボル、巨大ひまわりの扮装をまとっていた。原子力の邪悪さを象徴する「赤鬼」の扮装をした子どもたちがいた。折り鶴を掲げる人たちがいた。
20123月、メルボルンの祈念集会、デモ参加者。撮影:Tim Wright.21
群衆全体を調べたわけではないが、筆者の印象としては、集会に参加していた群衆には、日系の長期にわたる移住者と居住者、大学関係者、学生、ワーキング・ホリデー滞在者、ツーリスト、日本に関わりのあるオーストラリア人、反核運動に関与するオーストラリア人、報道関係者が入り交じっていた。オーストラリア産のウラニウムが日本の原発の核燃料になっているので、何人かの話者とデモ参加者が災害とオーストラリアの関わりを指摘した22。何人かのデモ参加者は「オーストラリアのウラニウムがフクシマの燃料になった」と書かれたプラカードを掲げ、オーストラリアと日本の経済相互間の重なり合いによる、わが国民自身のこれらの事態との関わりをオーストラリア人観衆に思い起こさせた。参加者の一部はその後、鉱山を運営するBHPビルトン、リオ・ティント両社の本社ビルの外で抗議するために行進した23
行進、プラカード、仮面、扮装は、連帯の体現だった。参加者らはまた、さまざまな地点でスローガンを求められた。彼らは日本語で「ゲンパツハンタイ」をおぼえ、太鼓打ちたちはスローガンの音節ごとにリズムを刻んだ。日本語スローガンは、日本語を話すUストリーム閲覧者に対する明確なメッセージだった。英語だが、「ウラニウム掘るか?すぐ止めろ!」という問答や「フクシマ!繰り返すな!」という連呼もあった。共にスローガンを唱えたり、行進したりするといった協調行動を経験することによって、少なくともデモのあいだ、個々の人びとは集合体の一部になる感覚を味わうことになる24
デモ行動の主催者は地域NGO「平和を求める日本人」であり、平和主義、環境問題、反核運動、アボリジニ自己決定権問題に献身する他の地域団体と協力していた25。たいがいの発言者は、オーストラリアにおける、このような公の場での行事では当然のこととして、自分たちが立っている土地の支配人が先住アボリジニ――クニン・ネーションのウウルンジェリ人――であることを認識していた。他の発言者には緑の党や核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)オーストラリア支部の人たちがいた。遠隔地の先住民族共同体がメッセージを寄せ、それが民族語と英語の両方で放送された。福島の反核団体のメッセージも英語の翻訳で読みあげられた。プログラムの区切りに太鼓演奏が披露された。行進の準備のために、トラックの装飾を整えるあいだ、日本のグループ、フライング・ダッチマンのCD『ヒューマン・エラー』がトラックのスピーカーから大音響で再生された。参加者のうち、少数の人たちが日本語の反核歌詞を追うことができただけかもしれないが、その彼らは音楽にこめられた詩的な大言壮語のナマのパンク・エネルギーに反応していた26
図書館の踏み段のうえ、筆者の前で報道記者がビデオ・カメラを覗きこみ、日本のテレビ局にレポートを送信していた。会場の至るところに、カメラ、ビデオ・カメラ、携帯電話カメラがあった。人びとは自分用の記録のため、Uストリーム、YouTube、フェイスブック、ブログ、あるいは自分の団体のウェブサイトに投稿するために写真やビデオを撮影していた。祈念集会とデモは生で配信され、世界中どこでも、関心のある人はだれでも視聴できた。Uストリーム・ビデオは、日本語を話す閲覧者のために、時おり説明を入れたり、主として英語のスピーチを通訳したりする日本語音声が重ねられた。つまり、新しいソーシャル・メディアのおかげで、リズミカルなフィードバックの連環を作りだせるようになったのである。メルボルンやその他の都市の人びとがソーシャル・メディアによって日本の反核運動の前進を追いながら、自分たち自身の活動を日本の友人たちと同志たちに放送してもいる。
20133
1年後の20133月、2周年のころ、災害の被災者たちが体験を語るためにオーストラリアを巡回した。そのツアーは「フクシマに向かい合う」と呼ばれ、その主催者は(地球の友オーストラリア、戦争防止医師会議、ICANが協力して結成された)「非核の選択」という団体だった。それぞれの州で、地域の団体が行事の準備に協力した。ツアー・グループはいくつかの州都を巡回したほか、キャンベラとアボリジニ・テント大使館とノザーン・テリトリーのレンジャー・ウラニウム鉱山を訪問し、そこで地域先住民共同体の人々に会った。
「フクシマに向かい合うオーストラリア・ツアー20133915日」案内ハガキ27
筆者はシドニー会場に出席し、フクシマ惨事で直に被災した人びとの証言を聞いた。飯舘村の農民、長谷川健一さんは彼の体験を証言した。ピースボート代表、川崎哲(あきら)さんが話した。シドニーの南、イラワラ地域の先住民共同体の代表の話も聞いた。松岡智広さんは通訳を務めるとともに、メルボルンの平和を求める日本人を代表して話した。「フクシマに向かい合う」発言者たちのプログラムに加えて、演奏や写真展も催されていた。この行事のポスターの背景色は、真紅である。中央に黒い円が筆書きされ、右下に白い折り鶴があしらわれている。世話役たちと支援者たちは行事の準備段階で、祈念のために千羽鶴を折ってもいた。折り紙は、フクシマ関連行事の祈念の重要な要素になった。折り鶴が、1950年代に白血病で亡くなったヒロシマの少女、佐々木禎子(さだこ)の物語と結びつけられているのは、よく知られている。ヒロシマに原爆が投下されたとき、幼女だった彼女は爆心地から1キロしか離れていない場所にいた。禎子は最期の入院時、千羽鶴を折りあげた人の願いがかなうという言い伝えがあったので、千羽の折り鶴を折ろうとした。だが、千羽を折りあげないうちに、彼女は亡くなり、残りを家族が仕上げた28。折り紙の鶴はいま、平和と記念、反核の理念を表す国際的なシンボルになっている29。人びとが集って折り鶴を折り、それを紐で通してつなぎ、記念品としてプレゼントするとき、これは連帯を表明する具現的な行為となる。
「フクシマ2周年祈念祭」ポスター

20138
メルボルンの行事を主催した団体のひとつ、平和を求める日本人は、2005年(第二次世界大戦終結の60周年)に在メルボルン日本人社会の何人かが結成したグループである。彼らは第二次世界大戦中に日本とオーストラリアが敵対していたネガティブな記憶を乗り越えたいと願っていた。平和を求める日本人は、オーストラリアと日本、両国民の新しい関係を築くことに熱心だった30。彼らはこれまでの10年間、一連の地域社会行事を実施し、第二次世界大戦中の軍による強制売春、すなわち軍事性奴隷制、日本国憲法の「平和条項」(第9条)、核問題といった事柄に焦点を当ててきた。毎年8月には、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下の記念として平和コンサートを開催している。これらの記念行事は2011年以降、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマの問題をまとめ、同時に核産業、ウラニウム採掘、オーストラリアにおける核実験との関連を対象にしている。
20138月の平和コンサートは、コンサート、シンポジウムなど、さまざまな公開イベントの会場、ディーキン・エッジで開催された。これは、正しくメルボルン中心部のアート複合施設の一部である。人びとが常に集い、地域のお祭りやデモ集会に参加したり、大画面のスポーツ行事を観戦したりしている公共空間――連邦ひろば――を、芸術活動用の会場が取り囲んでいる。ディーキン・エッジは普通の会場と違って、ステージの背後がガラス張りになっている。コンサート・プログラムの進行中、ガラスの向こう側で他の活動がおこなわれていた。ボートを漕いだり、ジョッギングやサイクリングをしたり、散歩したり、アイスクリームをなめたり、弁当をひろげたり、結婚写真を撮ったりしている人たちを見ることができた。穏やかな週末の昼下がりの都会生活がコンサートの背景になっていた。
「ヒロシマ・ナガサキ平和コンサート2013年」ポスター31
連邦ひろばディーキン・エッジにて、「ヒロシマ・ナガサキ平和コンサート2013年」の出演者たち。ステージの背後のガラスを通して、ヤラ川とその岸辺を見ることができる。撮影:Vera Mackie.
過去10年間にわたるコンサートと行事の実績によって、構成要素のレパートリーが広がり、それが年から年へと繰り返され、応用されている。ポスターとチラシの画像は、鳩、平和マーク、追悼キャンドル、折り鶴、自然のイメージといった、わかりやすいシンボルが活用される。団体のロゴは、両手から放たれる折り鶴が描かれ、青空へ飛んでいく様子が、放たれた鳩のように平和を象徴している。 
平和を求める日本人のロゴ32
2013年のコンサート会場、ディーキン・エッジに入ると、場内はサイケデリックな色彩でいっぱいだった。シートの背もたれ毎に、ショッキング・ピンクかカナリア色、またはライム・グリーンの厚紙プラカードがかけられていた。それぞれのプラカードに、赤い平和マーク、それに折れたミサイルに見える白い造形があしらわれていた33。プラカードを作ったのは、地元の子どもたちと日本から訪れた子どもたちだった。ロゴは、行事主催団体のひとつ、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のものである。コンサート・プログラムが進行するにつれ、これらのプラカードが単なる装飾を超えた意味を示していることが明らかになった。
メルボルン、ディーキン・エッジにて、核兵器廃絶ロゴのプラカード。撮影:Vera Mackie.
ICAN代表、ティム・ライトが話したとき、彼は参加者たちにそれぞれのシートのプラカードを手に取り、頭上に掲げるように促した。この行為には、それより前の行事でデモ参加者たちがプラカードを掲げたのと同じように、200人かそこらの観客仲間たちとそれぞれの人が共同して行動することによって、連帯を表明するという意味があった。その時まで、シートに座り、発言や演奏を受け身で聞いていた人たちの集団が、いま行動の中心になったのだ。カメラマンたちは一面にライム・グリーン、カナリア色、ショッピング・ピンクであふれる写真を撮り、それをICANウェブサイトに投稿した34。このようなアクションはパフォーマンス・アートと共通点が多く、演者と観客の区別がぼやける。会場内の個々の人が、単なる見物人というより、イベントの欠かせない要素になる35
しかし、このアクションは、統合化された行動の連鎖の一環に過ぎなかった。プラカードそのものは、異なった国の子どもたちの結束を図る作業として、地元と日本から来た子どもたちの手で作られた。シドニーで行われた20133月の2周年行事の時のように、折り紙が儀式の一部で使われた。地元の学校生徒の代表が、日本から訪れた広島ジュニア・マリンバ・アンサンブルの団員に千羽鶴を贈呈した。プラカードと同じように、この単純な儀式の背後に、地元の子どもたちが鶴を折り、紐を通して束ねるのに費やした時間があった。このようにして、コンサートに臨席した数百の人びとを超えた地元の地域社会に、連帯の絆が届けられた。
これらの行事のもうひとつの目玉が、日本のパフォーマンス・アートを演じる出場者を巻き込むことである。過去のイベントでは、琴、尺八、太鼓の演奏者たちがそうだった。オーストラリアには太鼓打ちの団体が数多くある。彼らは、日本人社会が加わる地域社会の行事、多文化共生と多様性を祝うイベント、あるいは主だった日本関連の学術会議の開会式で度々実演している。これを、日本から伝来した文化活動を地域社会に適用し、組み入れる「グロカリゼーション」[地球的な視野をもって、地域で実践すること]の一例として見ることができるだろう。太鼓演奏は、いまでは平和を求める日本人のデモ集会とコンサート恒例の呼び物になっている。これはまったく地域化された適用である。太鼓は日本では、政治的なデモ集会というより、町や村のお祭りやお祝いの付き物になっている36。和太鼓りんどう集団は、2013年コンサートの主役を演じた。
演説でメッセージを送るよりも、コンサートそのものが音楽とパフォーマンスで連帯が表現されるように構成されていた。ティム・コステロ(国際開発機関、ワールド・ヴィジョンCEO)、ティム・ライト(ICANオーストラリ支部長)、平和を求める日本人の共同創始者、カズヨ・プレストン、司会のマット・クロスビーとサラ・ミナミカワが非常に短いスピーチをした。たとえば、地域の室内音楽アンサンブルであるオーケストラ21、オーストラリアン・パーカッション学院、和太鼓りんどう、広島ジュニア・マリンバ・アンサンブルを並べることによって、プログラム進行が意味をもたらした。これら異なった国ぐにの異種の音楽とパーカッションは、多様性の具体的な表現になった。だから、異なった人びとがセッションして、協力と連帯を演じたのである。
連邦ひろばディーキン・エッジにて、「ヒロシマ・ナガサキ平和コンサート2013年」で共演する「和太鼓りんどう」と広島ジュニア・マリンバ・アンサンブル。撮影:Vera Mackie.
コンサートの見どころのひとつが、広島ジュニア・マリンバ・アンサンブルによる演目の数々だった。この合奏団は、浅田三恵子によって1991年に広島で結成された。アンサンブルの団員は全員、小学校の学齢期であるように思え、マリンバ(木琴に似たパーカッション楽器の一種)、マラカス、ドラム、ホイッスルを尋常でないエネルギーで演奏する。一行は広島から来たので、反核と平和の問題によく馴染む。これが、地元の子どもたちが彼らに千羽鶴を贈った理由である。彼らの音楽は多くの点で、国際化を伴うことが多い異種複合的な形で演奏される祝祭的なものである。日本の子どもたちの集団がラテンアメリカン・スタイルの音楽を演奏し、日本、中国、あるいはヨーロッパのメロディをこのスタイルに乗せる。だが、ある演目で、彼らは日本とオーストラリアの旗を振りかざす。これはもちろん、オーストラリア人の観客を喜ばせる振る舞いだが、国家の象徴を用いるのはイベント全体の流れにそぐわなかった。それでも観客は、なんとも言えない若いエネルギーの虜になった。アンサンブルはパーカッション楽器を演奏しただけでなく、ステージを駆け回って飛び跳ね、中国の獅子舞を演じ、観客が手拍子を打つなか、客席の端から端まで走った37
プログラムにはまた、先駆的な先住民ロックバンド“No Fixed Address”[「住所不定」]のリーダーとして知られるオーストラリア先住民アーティスト、バート・ウィロビーの演目もあった38 先住民問題について、発言はなかった。むしろ、ウィロビーの存在が、先住民族の関心事は妥当なものであるという認知、そして先住民族の政治活動において音楽が重要であるという認識を発信していた。アボリジニ系オーストラリア人は1950年代、英国がオーストラリア中部のマラリンガで核実験を実施したとき、放射能で被災した。オーストラリア産ウラニウムは、多国籍鉱山企業に運営されているものの、アボリジニの土地で採掘されている39。広島ジュニア・マリンバ・アンサンブル、地元オーストラリアの合奏団、メルボルンで活動する和太鼓りんどう、バート・ウィロビーが集ったコンサートは、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、マラリンガの被ばく者たち相互のつながりが認められていたことを目に見える形で証していた。オーストラリア・日本両国の経済は、先住民の土地の所有権奪取と先住民所有地で採掘された資源の売買で利潤をあげている。これら異なった集団が共に集い、登場したコンサートはまた、核サイクルのさまざまな局面における個人や団体間のこうした不平等関係を反省する機会にもなったのかもしれない。
終わりに
フクシマ複合災害以降の歳月、世界のさまざまな場所で、さまざまな祈念イベントが開催されてきた。筆者は本稿において、オーストラリア東部の行事、主としてメルボルンの街で行われたイベントを中心に報告した。これらの行事は既存の手法とシンボルを一揃い駆使しながら、新しい手法と新しい演出法を開発し、共感、連帯、つながりの思いを形に現した。こうしたイベントは多くの場合、分類化を拒み、祈念、デモ、政治的な行動主義、また時には祝祭といった、さまざまな要素をブレンドする。
悲しみ、不安、怒りといった個人個人の思いは、プラカードを準備し、折り鶴を折って、紐を通して束ね、デモでプラカードを掲げて進み、訪問者に千羽鶴を贈呈し、街路を行進し、スローガンを呼びかけ応答し、音楽のリズムに乗せて拍手し、あるいはカラフルな反核プラカードが一塊になる集合写真を撮るために集まるなど、幅広い具体的な活動によって、連帯感の共同表現に結集する。
これらのイベントで使われる絵柄もまた、既存のシンボルを引用して描かれているものの、時に応じて新たなシンボルを創造し、新しい意味を付与する。平和マークは1950年代英国で、特定の反核行事のためにデザインされたロゴとして登場したが、国境を超えた平和主義のシンボルになった。放射能マークは、いまでもそれとして理解されるが、そのわかりやすさそのもののおかげで、いと簡単にパロディ版が作成されて、反核メッセージを表すのに用いられる。折り鶴は日本の民芸からヒロシマ被爆を特定的に連想させるものに転位し、折り鶴は世界各地で、ヒロシマの苦しみに共感と連帯を寄せる意思表示として採用されてきた。折り鶴はいま、少なくともオーストラリアで、フクシマの苦しみに共感と連帯を表明するために採用されている。ヴィジュアルな印刷物のなかには、折り鶴が白鳩の代わりに平和の特性を表しているものがある。
フクシマの複合災害を記念する行事はまた、ヒロシマとナガサキの原爆投下も引き合いに出す。キャッチフレーズ「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」に代えて、わたしたちはいま「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・フクシマ」と発声する40。これらの地名のそれぞれがいま、これらすべてを表している。これらの記念行事が繰り返される毎に、これらのイベントと場所のつながりが補強される。わたしたちがヒロシマを思い出すとき、いまわたしたちはフクシマのプリズムを通してヒロシマを思い出すのであり、わたしたちが巻き込まれている核サイクルに対する新たな理解につながるのだ。
本稿で描写した行事はそれぞれ、メルボルン市街(および他の主要都市)あちこちの主要地点で開催された。ネットワークで結びついた活動家たちと地域団体のどちらかと言えば小さな集団の関心事は、このようにして都会の街路で印象を刻みこんだのである。これらの記念行事は、多くの参加者や観客にとって、同じ場所で開かれた他のデモ集会、ヴィジル、イベントの記憶と重なる。じっさい、それが実体化した記憶となり、街路を行進したり、スローガンの呼びかけ応答を叫んだりする毎に再活性化する。
オースストラリア特有の事情により、これらの記念行事にアボリジニ系オースストラリア人が参加すれば、世界規模の核サイクルにおける、わたしたちの位置づけを思い起こすことになる。日本とオーストラリアの両国経済は、ウラニウム、その他の鉱物資源の輸出入を通して一体化している。両国の歴史は、紛争の過去と海外移住の動きの現在を通じて一体化している。核実験、原子力発電、核兵器の歴史は、ネヴァダのマンハッタン計画、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下、太平洋とオーストラリア奥地の核実験、オーストラリア奥地のウラニウム採掘、最近のフクシマの悲劇を結びつける。祈念儀式を繰り返すことによって、悲劇的な事件の記憶は常に見直される。
ヒロシマを繰り返すな。
ナガサキを繰り返すな。
フクシマを繰り返すな。
マラリンガを繰り返すな。
【推奨されるクレジット表記】
Vera Mackie, "Fukushima, Hiroshima, Nagasaki,Maralinga ( フクシマ、ヒロシマ、ナガサキ、そしてマラリンガ)", The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue 6, No. 5, February 16, 2015. 原子力発電_原爆の子「太平洋を越えた南北交流
【筆者】
ヴェラ・マッキー(Vera Mackie)は、ウロンゴング大学法律・人文・芸術学部のアジア研究主任教授、人権研究フォーラムの研究主事を兼任。The Routledge Handbook of Sexuality Studies in East Asia [『ラウトリッジ社ハンドブック:東アジアにおけるセクシュアリティ研究』](2015年)を(マーク・マクレランドと)共著、Gender, Nation and State in Modern Japan[『現代日本のジェンダー、国民、国家』](ラウトリッジ2014年)を(アンドレア・ジャーマー、ウルリケ・ウオアと)共編。
【脚注】
1 本稿は、オーストラリア研究評議会出資プログラム「人権から人間の安全保障へ:アジア太平洋地域における不平等に対処するためのパラダイムの変化」(FT0992328)の一部として完成された研究にもとづいている。筆者は、カズヨ・プレストンおよびティム・ライトに写真とポスターの再録許可をいただき、両氏に感謝を表明する。ロウラ・ヘレン(アジア太平洋ジャーナル:ジャパン・フォーカス編集者)、筆者の共編者、アレクサンダー・ブラウン、ならびにジャーナル査読者のみなさんにも、初期の草稿に建設的な評言をいただき、感謝する。
2 Mark Willacy, Fukushima: Japan’s Tsunami and the Inside Story of the Nuclear Meltdown, Sydney, Pan Macmillan Australia, 2013.
3 See also: Vera Mackie, “Reflections: The Rhythms of Internationalisation in Post-Disaster Japan”, in Jeremy Breaden, Stacey Steele and Carolyn Stevens (eds.),Internationalising Japan: Discourse and Practice, London, Routledge, 2014, pp. 195–206.
4 Clifford Geertz, The Interpretation of Cultures, New York, Basic Books, pp. 3–30.
5 筆者は10年以上も前、メルボルンの自宅のテレビ画面で展開した2001911日(「911」)のできごとを見つめていた経験を思い起こしていた。「311」の略称が使われはじめると、これに「911」のさらなる残響が付与された。「911」から10年間で、新しいソーシャル・メディアが進歩し、情報拡散のスピードが大きく違うようになった。たとえば、破局的な事件の現場に既存メディアが到着する前に、個人がスマート・フォンを使って、写真やビデオを拡散する事ができるようになった。
6 Australian Government Bureau of Meteorology, “Tsunami Event Summary, Friday 11 March 2011”. Retrieved on 2 April 2014.
7 “Japan Tsunami Victim’s Soccer Ball Found in Alaska”San Francisco Chronicle, 23 April 2012. Retrieved on 25 July 2012; “Workers Cut Up Tsunami Dock on Oregon Beach”Japan Times, 3 August 2012. Retrieved on 4 August 2012.
8 Atsushi Fujioka, “Understanding the Ongoing Nuclear Disaster in Fukushima: A ‘Two-Headed Dragon’ Descends into the Earth’s Biosphere”The Asia-Pacific Journal, vol. 9, iss. 37, no. 3, 2011. Translated by Michael K. Bourdaghs. Retrieved on 25 July 2012.
9 Leslie M. Tkach-Kawasaki, “March 2011 On-Line: Comparing Japanese News Websites and International News Websites”, in Jeff Kingston (ed.), Natural Disaster and Nuclear Crisis in Japan: Response and Recovery after Japan’s 3/11, London, Routledge, 2012, pp. 109–23.
10 David H. Slater, Keiko Nishimura and Love Kindstrand, “Social Media, Information and Political Activism in Japan’s 3.11 Crisis”The Asia-Pacific Journal, vol. 24, no. 1, 2012. Retrieved on 24 July 2012.
11 Slater, Nishimura and Kindstrand, “Social Media, Information and Political Activism in Japan’s 3.11 Crisis”.
12 Jennifer Robertson, “From Uniqlo to NGOs: The Problematic ‘Culture of Giving’ in Inter-Disaster Japan”The Asia-Pacific Journal, vol. 10, no. 18, 2012. Retrieved on 27 July 2012.
13 20143月は、第5福竜丸事件の60周年にあたっており、フクシマ災害の3周年とほとんど時期が一致していた。福竜丸乗組員たちの被曝は、1950年代の国際的な核軍備廃絶運動の主要な動因になっていた。
14 John F. Morris, “Charity Concert, Paris, for Quake/Tsunami Victims”H-Japan Discussion List, 19 March 2011. Retrieved on 8 August 2012. Japan: Fissures in the Planetary Apparatus. 2012. Retrieved on 17 August 2012.
15 “Heartfelt appeal by Fukushima mothers”, 17 May 2011. Retrieved on 24 July 2012; Junko Horiuchi, “Moms rally around anti-nuke cause”Japan Times, 9 July 2011. Retrieved on 17 August 2012; David H. Slater, “Fukushima Women against Nuclear Power: Finding a Voice from Tohoku”The Asia-Pacific Journal. Retrieved on 17 August 2012.
16 See the essays by Brown, Kilpatrick and Stevens in this issue.
17 より正確に書けば、核時代はマンハッタン計画とネヴァダ砂漠の核実験で始まったのだが、即時に理解できるものといえば、「ヒロシマ」と「ナガサキ」の地名である。小田実は、“The Bomb”のタイトルで英訳されることになる小説『HIROSHIMA』を書き、太平洋とオーストラリア奥地の核実験を含む核時代の地球規模の側面を探究する先駆者のひとりになった。小田実『HIROSHIMA』講談社1981年。Oda Makoto, The Bomb, translated by D. Hugh Whittaker, Tokyo, Kodansha International, 1990. 本稿で論じるように、1950年代、英国がオーストラリア奥地で実施した原爆実験の影響で、先住民族系オーストラリア人と軍人が被曝した「マラリンガ」の地名もまた、このリストに書き加えられるべきである。
18 [英日対訳]マヌエル・ヤン「紫陽花革命」、Japan: Fissures in the Planetary Apparatus,2012. 2012813日閲覧。Slater, Nishimura and Kindstrand, “Social Media, Information and Political Activism in Japan’s 3.11 Crisis”.
19 カズヨ・プレストン写真ギャラリー201443日閲覧。
20 See Alexander Brown’s discussion (in this issue) of ChimPom, who transformed a white flag successively into a Japanese national flag with a red circle, and then into a red version of the radioactivity symbol. ボストンのヴィジル告知ポスターに、放射能マークを顔に変形させたパロディがあしらわれている。201443日閲覧。
21 メルボルン311日行動写真集」。202442日閲覧。Uストリームvideoも参照のこと。201443日閲覧。
22 これは本稿の視野を超えているが、戦後日本の核産業の体制はまた、ゼネラル・エレクトリックなどの米国企業から助言を受けるなど、国際的な存在でもある。日本の核産業は近年、第三世界諸国における核産業の育成に関与している。Yuki Tanaka and Peter Kuznick, “Japan, the Atomic Bomb, and the ‘Peaceful Uses of Nuclear Power’”The Asia-Pacific Journal vol. 9, iss. 18, no. 1, 2011. Retrieved on 13 August 2012; Craig D. Nelson “The Energy of a Bright Tomorrow: The Rise of Nuclear Power in Japan”Origins vol. 4, no. 9, 2011. Retrieved on 17 August 2012; Philip Brasor, “Nuclear Policy was Once Sold by Japan’s media”,Japan Times, 22 May 2011. Retrieved on 17 August 2012.
23 オーストラリアは世界ウラニウム資源の推計31パーセントを有している。World Nuclear Association, “Australia’s Uranium”. 2008年末時点で、日本はオーストラリアのウラニウム輸出の23パーセントを購入していた。Clayton Utz,Uranium Mining Policy in Australia, Sydney, Clayton Utz, March 2013, p. 5. http://www.claytonutz.com.au/docs/Uranium_Mining_Policy.pdf. 201442日閲覧。東京電力はウラニウムの30パーセントをオーストラリアから購入している。オーストラリアは国際核産業市場でウラニウムの主要供給国でありながら、シドニー、ルーカス・ハイツの科学研究炉1基を別にして、原子力発電をしていない。1970年代のウラニウム輸出の決定は論争を巻き起こし、反核デモ隊が各地の州都の街路に繰り出し(筆者自身の学生のころの思い出のひとつ)、鉱区が設定された遠隔地の先住民地域に押し寄せた。See Brian Martin, “The Australian Anti-nuclear Movement”, Alternatives: Perspectives on Society and Environment, vol. 10, no. 4, 1982, pp. 26–35; Helen Hintjens, “Environmental Direct Action in Australia: The Case of the Jabiluka Mine”,Community Development Journal, vol. 4, no. 4, 2000, pp. 377–390; Alexander Brown,“Globalising Resistance to Radiation”Mutiny, 18 August 2012. Retrieved on 13 April 2014. 山内由理子・編『オーストラリア先住民と日本: 先住民学・交流・表象』所収、松岡智広「ウラン採掘地から福島へのオーストラリア先住民の眼差し」御茶の水書房2014pp. 165185
24 On the embodied dimensions of demonstrations see also: Vera Mackie, “Embodied Memories, Emotional Geographies: Nakamoto Takako’s Diary of the Anpo Struggle”,Japanese Studies, vol. 31, no. 3, 2011, pp. 319–331.
25 Japanese for Peace. “11 March Day of Action to End Uranium Mining: Fukushima One Year On”. Retrieved on 13 August 2012 . This organisation will be discussed further below.
26 ヒューマン・エラーの日英両国語の歌詞は、Human Error Paradeを参照のこと。201443日閲覧。


27 ポスターは、  201442日閲覧。
28 Eleanor Coerr, Sadako and the Thousand Paper Cranes, New York, Putnam, 1977.
29 折り鶴が連帯を表すために使われた一例として、河崎なつ(18891966年)が1955年にロザンヌで開催された国際民主女性連盟の世界母親会議に出席した後のソ連の旅の途上で、ラトビアの子どもたちに折り鶴を贈呈している写真を参照のこと。「日本の母、ソ連を行く」オール・ソ連、Vol. 2, No 1, 1956, p. 68. 日本女性の世界母親会議(第5福竜丸事件の後の年の主要テーマは核問題)出席については、Vera Mackie, “From Hiroshima to Lausanne: The World Congress of Mothers and the Hahaoya Taikai in the 1950s”, Women’s History Review印刷版を参照のこと。
30 平和を求める日本人 ‘About JfP’. Retrieved on 13 August 2012813日閲覧。名称と違って、この団体の関係者の全員が日本国籍または民族の者ではない。筆者は以前、彼らのセミナーで発言者として参画していた。だが、本稿執筆のためには、公開情報のみを引用した。
31 ポスターは、 201442日閲覧。
32 ロゴは、 201442日閲覧。
33 平和マーク(垂線で2分割され、斜線2本を加えた円)は、1958年の英国核軍縮キャンペーンのためにジェラルド・ホルトムがデザインした。垂線は手旗信号の“D”字であり、腕[“arms”=兵器]となる2本の斜線は手旗信号の“N”字。合わせて、“Nuclear Disarmament”[「核軍縮」]の頭文字になる。このマークはいま、平和運動と反核運動で広く使われている。Ken Kolsbun with Mike Sweeney, Peace: The Biography of a Symbol, Washington DC, National Geographic, 2008.
34 写真201442日閲覧。
35 オノ・ヨーコの1960年代のパフォーマンス作品にも、観客とパフォーマーの役割の同じような融合があり、これについては筆者の論考を参照のこと。彼女自身が、まったく抽象的なハプニングやパフォーマンス作品から、ジョン・レノンと共作の『平和のベッド・イン』や定番の『カット・ピース』など、より明確に政治的な意図をこめたハプニングに移行したのは、興味深いことである。Vera Mackie, “Instructing, Constructing, Deconstructing: The Embodied and Disembodied Performances of Yoko Ono”, in Roy Starrs (ed.), Rethinking Japanese Modernisms, Leiden, Global Oriental, 2012, pp. 490–501. オノ・ヨーコは、ICANウェブサイトで連帯メッセージを送るセレブのひとりである。リンクサイトを参照のこと。201445日閲覧。
36 On glocalisation, see: Anne Allison, Millennial Monsters: Japanese Toys and the Global Imagination, Berkeley, University of California Press, 2006, p. 281, n. 4. Ontaiko drumming as a global phenomenon, see Shawn Morgan Bender, Taiko Boom: Japanese Drumming in Place and Motion, Berkeley, University of California Press, 2012.
38 出演グループのサイト:Bart Willoughby Band Willoughby; Orchestra 21; Australian Percussion Academy; 和太鼓りんどう Wadaiko Rindo; 広島ジュニア・マリンバ・アンサンブル201444日閲覧。On “No Fixed Address” and the place of music in indigenous Australian politics, see Chris Gibson, “’We Sing Our Home, We Dance Our Land’: Indigenous Self-determination and Contemporary Geopolitics in Australian Popular Music”, Environment and Planning D: Society and Space, vol. 16, no. 2, pp. 163–184.
39 See: ICAN, Black Mist: The Impact of Nuclear Weapons in Australia, Carlton, ICAN, 2014. Retrieved on 5 April 2014.
40 See, for example, this blogger’s reflection on the first Hiroshima anniversary after Fukushima (that is, August 2011). Retrieved on 5 April 2013.

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