2015年5月8日金曜日

朗読劇『チェルノブイリからの声』スヴェトラーナ・アレクシ―ヴィッチ原著、スペンサー・スミス脚色


「チェルノブイリからの声」脚本テキスト

公開者:フェアーウィンズ・エネルギー教育 Fairewinds EnergyEducation
公開日:2015421
著作権:Traditional Copyright: All rights reserved

*** 以下、ダウンロードPDFテキストの日本語訳 ***

どなたでもこの劇を上演することができますが、観劇料を徴収することはできません。
経費を補填するための献金を受領することはかまいません。ダルキー・アーカイブ出版。

チェルノブイリからの声
VOICES FROM CHERNOBYL
核惨事の口述歴史
The Oral History of a Nuclear Disaster

原典著者:スヴェトラーナ・アレクシ―ヴィッチSvetlana Alexievich
(上演用脚色:S・スペンサー・スミスS. Spencer Smith

証人、発言順:

ナレーター

リュードミラ・イグナテンコ、消防隊員ワシリー・イグナテンコの妻

ワレンティン・ボリセヴィック、物理学者、ベラルーシ科学アカデミー核エネルギー学会研究所の元所長。

ワシリー・ネストレンコ、ベラルーシ科学アカデミー核エネルギー研究所の元所長。

セルゲイ・ソボレフ、チェルノブイリ遮蔽実行委員会の副委員長。

アンナ・バダエワ、汚染ゾーンに戻った小農。

ラリサ・Z、母親。

ナレーター:
チェルノブイリからの声。
スヴェトラーナ・アレクシーヴィッチによる書物から、スペンサー・スミスによる脚色。

1986426日、ウクライナの首都であり、300万人の人びとが暮らす都市、キエフからわずかに64キロ北方のチェルノブイリで、史上最悪の原子炉事故が勃発しました。

チェルノブイリ惨事はヨーロッパの4分の3を汚染しました。わたしたちは、この事故の結果、どれほど多くの人びとが早すぎる死を迎え、あるいはどれほど多くの子どもたちが奇形で生まれるのか、決して知ることはないでしょう。現時点2008年]で唯一、ニューヨーク市のロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人居住者――チェルノブイリのあと、故国を去った人びと――のあいだで白血病の異常発生が報告されています。白血病は、発症するのに約20年かかる癌です。

キエフの住民にとって幸運なことに、だがベラルーシの国民にとって不運なことに、あの日の風は北向きに吹いていました。485を超える村が永久に放棄されなければなりませんでした。今日にいたっても、(700,000人の子どもたちを含め)ほぼ210万の人びとが汚染された土地に住んでいます。[最新の統計値を使ってもよい]

みなさんがお聴きになる声は、この惨事のときを生きた人びとの声です。取材インタビューをおこない、人びとのことばを1冊の本にまとめたジャーナリストは、みずからの命をかけてそうしたのであり、これからみなさんが耳を傾ける人たちの多くは、すでに亡くなっています。

[間]

リュードミラ・イグナテンコ、消防隊員ワシリー・イグナテンコの妻。

リュードミラ:
わたしたちは新婚夫妻でした。店に行くときでさえ、手をつないで歩いていました。わたしは彼に「愛している」とよくいっていました。でも、その当時、どれほど愛していたか、気が付かなかった。なんの考えもありませんでした…

わたしたちはプリピャチ、彼が勤務する消防署の宿舎に住んでいました。わが家は二階でした。他にも3組の若いカップルが住んでおり、全員でキチンを使っていました。一階に車両を保管していました。赤い消防車です。

ある夜、騒音が聞こえました。夜も更け、真夜中を過ぎていました。わたしは窓の外を見ました。彼はわたしを見ました。「窓を閉め、ベッドに戻って眠りなさい。原子炉で火事だ。すぐ戻る」。

わたしは爆発そのものを目撃しなくて、炎だけを見ました。なにもかも――空全体が――光っていました。高く立ち上る炎。そして煙。熱気は――消防署にいてさえ――凄かったです。

煙が出ていたのは、屋根を覆うアスファルトが燃えていたからです。彼は後ほど、タールのなかを歩いてようだったといいました。男たちは炎を叩き消そうと努め、燃えているアスファルトを足で蹴っていました。防護服を着用していませんでした。火事で呼ばれた。ただ、それだけのことです。

時間がすぎてゆきました。4時。5時。6時。わたしたちは6時には、ここから25マイル離れた彼の両親の家まで、じゃがいもの植え付けを手伝うために出かけることになっていました。

7時。7時になって、わたしは彼が病院にいると告げられました。病院に駆けつけましたが、警察がだれも入れてくれません。ご主人が消火に駆り出された他の奥さんたちも来ていました。でも、誰もなかに入れてもらえません。救急車だけです。警察は、「救急車は放射能まみれだ! 後ろに下がれ!」と怒鳴っていました。

わたしはついに、病院の医師である友人を見つけました。「なかに入れて!」と、わたしは彼女に懇願しました。「できない。彼は具合がわるいのよ。全員がそうだわ」。

わたしは彼女にしがみつき、行かせませんでした。「ただ彼に会うだけ!」。

「いいわ」と、彼女はいいました。「でも、15分か20分だけよ」。

彼は膨れあがり、すっかりむくんでいました。彼の目をほとんど見ることができません。

「彼はミルクが必要だわ。大量のミルクが」と、わが友である医師はいいました。「彼らは1日あたり少なくとも3リットルは飲むべきなの」。

「でも、彼はミルクが大嫌いなの」

「いまは、飲むわ」。

当時はわかっていませんでしたが、あの病院の医師たちと看護師たち――特に用務員たち――の多くが、みずから病気になり、死ぬことになります。

朝の10時に、撮影係のシシェノクが亡くなりました。彼が最初でした。

わたしは夫に、「ワーシャ、わたしはなにをすべきなの?」といいました。

「ここから出るのだ! 行け! わたしたちの赤ん坊を守るのだ!」。

「まず、あなたにミルクを持ってこなければ。それから、どうするか決めましょう」。

友だちのターニャが駆けこんできました――夫が同じ病室にいたのです。わたしたちは彼女の父親の車に乗り込んで、町へ行き、見つける限りすべてのミルクを買いこみ、戻ってきました。しかし、彼らはミルクを飲んだ途端に吐きはじめました。彼らは意識を失いました。点滴を受けました。医師たちは彼らにガス中毒にやられたと告げていました。だれも放射能のことをなにも口にしませんでした。軍人たちだけが外科手術用のマスクを着用していました。軍人たちは町のいたるところにいて、道路を封鎖し、なにか白い粉で街路を洗っていました。

あの夜、わたしたちのだれも病院に入れてもらえませんでした。人でごった返していました。ワーシャが窓辺に来て、なにか叫びました。わたしには彼がなにを言っているのか聴き取れませんでしたが、だれかが聴きました。

彼らはモスクワに搬送されました。

わたしたち妻は一致して、彼らと一緒に行こうと決めました。わたしたちは兵士たちを殴ったり引っ掻いたりしました――いまでは町中、警察ではなく、陸軍が出動していました。ひとりの医師が出てきて、彼らはモスクワに空輸されるが、わたしたちは衣類を持ってくる必要があるといいました。彼らが原子炉で着ていた衣類はすべて焼却されていました。わたしたちが衣類を持って、走って戻ると、飛行機はすでに離陸していました。彼らはわたしたちを騙したのです。

ナレーター:
ワレンティン・ボリセヴィック、物理学者、ベラルーシ科学アカデミー核エネルギー学会研究所の元所長。

ワレンティン:
あの日、わたしはミンスク郊外の森のなかにある研究所に出勤していました。すばらしい天候、春! わたしは窓を開けました。空気は新鮮ですがすがしかったですが、冬の間じゅう、窓の外にソーセージのかけらを吊るして養っていたアオカケスが周辺に見当たらなかったので驚いていました。どこかでもっとましな食事にありついたのだろうか?

そうこうしているうちに、研究所の原子炉でパニックが持ち上がりました。空気清浄機フィルターの線量計値が200倍に跳ね上がったのです。これは非常に深刻だ。このレベルは、放射能危険区域で作業するさいの最高許容レベル――6時間あたりの最大値――に相当しています。最初に立てた説は、熱発生器のひとつで気密シーリングが破損したというものでした。点検しましたが、異常なしでした。

この時点で構内ラジオが、作業員は建屋を離れないようにと勧告されていますと発表します。個々の建屋のあいだの区域は無人になっていきます。人っ子ひとりいません。ゾッとする、奇妙な光景でした。

計測係たちがわたしの事務室を検査します――机が放射し、わたしの衣類が放射し、壁が放射しています。わたしは起ち上がります。自分の椅子に座っていることさえ、嫌です。

われわれの研究所で非常事態がありうるのだろうか? いくらか漏れたのか? わたしはわれわれの原子炉を非常に誇りにしていました。わたしはその1ミリも残さず、研究しつくしていました。

わたしは近場のイグナリナ原子力発電所に電話します。彼らの機器は狂乱状態になっています。彼らもまたパニックになっています。次にわれわれはチェルノブイリに電話します。だれも応答しません。われわれはランチタイムまでに、ミンスク全域の上空を放射能の雲が覆っていると気づきます。われわれは、放射能の質がヨウ素であると決定しました。これは原子炉で事故が勃発したことを意味していました。

リュードミラ:
わたしは両親に、モスクワのワーシャのところへ行かなければならないと伝えました。わたしの母は、「妊娠中の身で、どこへ行くというの?」とわめいていました。そこで父に一緒に行ってもらうことにしました。父は銀行へ行き、ありったけの預金をおろしました。

わたしは、旅のことはなにも憶えていません。

わたしたちはモスクワで最初に見かけた警察官に、チェルノブイリの消防隊員たちはどこに収容されているのかと訊ねました。それは国家機密でしたが、彼は教えてくれました。第6病院。放射線医学専門病院です。

入りこむのに、入り口を見張っていた女性を買収しなければなりませんでした。

ついにわたしは放射線医学部長のオフィスに入室しました。彼女はただちに、「お子さんをお持ちですか?」と質問しました。

わたしはすでに、自分が妊娠していることを隠す必要があると悟っています。まだ妊娠中の身には見えません。

「子どもが二人います」と嘘をいう。「男の子と女の子です」。

「よかった。では、あなたはもう子どもを生む必要がない。でも、お聴きなさい。彼の中枢神経系は完全に抵抗力を失っており、頭脳もそうです。また、お聴きなさい。あなたが泣きだすようなら、わたしはあなたを室外へ蹴りだします。そして、キスもハグも完全にご法度です。彼の近くに寄ることさえ、してはなりません。面会時間は30分です」

飛行機に乗ってきた人たちは28人います。彼らはみな、プリピャチにいる子どもたちや家族のことを知りたがっています。わたしは彼らに、町全体が避難したと伝えます。あの日、原発で働いていたグループの女性が、子どもたちを心配して、泣きはじめます。

あのとき、わたしは善良な人たちに大勢会いました。病院の年老いた女性門番を思い出します。彼女は、「治療の施しようのない病気があります。あなたはただ座って、それを見つめなくてはなりません」とわたしに諭してくれました。

ワーシャは変貌しはじめました。わたしは毎日、まったく新たな人物に会っていました。炎症が体表に現れはじめました。最初、炎症は小さな病斑でした。そして、大きくなりました。彼の皮膚は幾層も重なって剥がれ落ちました。このことをお話するのは、不可能です!

わたしは彼をとても愛していました!

彼らは余命14日と告げました。14日で、彼は死ぬでしょう。

ナレーター:
ワシリー・ネストレンコ、ベラルーシ科学アカデミー核エネルギー研究所の元所長。

ワシリー:
だれかがチェルノブイリの釈明をしなければならないだろう。彼らは犯罪者なのだ! 時はいたるだろう。50年かかるかもしれず、だれもが老いぼれになって、彼らは死んでいるかもしれない。だから、われわれは事実を後に残さなければならない。

あの日、426日、わたしは仕事でモスクワにいた。そこで、わたしは事故について知った。

わたしは、ベラルーシ共産党の書記長、ニコライ・スリュンコフに電話をかけた。彼らは彼につないでくれなかった。わたしを、わたしをよく知っている彼の補佐官に連絡した。

「モスクワから電話している。スリュンコフを出してほしい。いますぐ彼が知っておく必要のある情報がわたしにある。緊急情報だ」

わたしは政府回線を使っているが、事故について話しはじめるやいなや、回線が切れる。わたしでさえ、ブロックされている。だから、適切な機関が聴いてくれていることを願うのみである。

スリュンコフにつながるまで、2時間かかった。

「わたしはすでに報告を受けておる」と、スリュンコフはいう。「火事があったが、すでに鎮火した」。

わたしは我慢ならない。「それは嘘です。どんな物理学者であっても、黒鉛は1時間あたり5トンかそこらのペースで燃えるとあなたに進言するでしょう。それがどれほど長く燃えるか、お考えください!」。

わたしは最初のミンスク行き列車に乗る。朝には、自宅に着いている。息子の甲状腺を測定する――当時としては、理想的な線量計である。1時間あたり180マイクロレントゲンを記録した。彼には、ヨウ化カリウムが必要だった。子どもはコップ半分に2ないし3滴の溶剤、成人で3ないし4滴を必要としていた。原子炉は10日間にわたり燃えていたので、この処方を10日間つづけるべきだった。

だが、だれも――科学者たちも、医師たちも――わたしたちに耳を貸さなかった。

わたしは429日、ついにスリュンコフの官邸、受付に乗り込む。彼らはわたしを入室させてくれない。わたしは入室しようとし、そうしつづける。わたしはそこに5時半まで座っている。5時半になって、有名な詩人がスリュンコフの執務室から出てきた。わたしは彼を知っている。彼はわたしに、「同志スリュンコフとわたしはベラルーシ文化を論じ合っていたのですよ」という。

わたしは爆発する。「ただちにチェルノブイリから全員を避難させなければ、ベラルーシ文化もなければ、あんたの本を読むものもいるものか」。

リュードミラ:
病院はわたしの私物をすべて、衣類さえ取り上げ、ローブを与えてくれました。わたしの持ち物すべて、放射能化していました。

わたしの父、姉と兄がモスクワに来て、あれこれ運んでくれました。59日の戦勝記念日、ワーシャはわたしに、花火を見たいので、窓を開けてほしいと頼みました。

そして、枕の下から3本の赤いカーネーションを引き出し、わたしにくれました。彼は看護師にお金を渡し、買ってきてもらったのです。

わたしは彼に駆け寄り、キスしました。

後ほど、わたしが廊下にいると、目眩(めまい)がしました。医師がやってきて、わたしの腕を捉えました。すると、唐突に、「あなた、妊娠しているのですか?」。

「いいえ、いいえ!」といいながら、わたしは恐れていました。

「嘘をついてはいけません」と、彼はため息をつきました。

翌朝、医長がわたしを彼女の執務室に呼び出しました。

「なぜあなたはわたしに嘘をついたのですか?」と、彼女はいいます。

「他に方法がなかったのです。わたしがいえば、あなたはわたしを家に送り返していたでしょう。これは神聖な嘘だったのです!」

「あなたはなにをしでかしたの?」

「わたしは彼と一緒にいました」

わたしは生涯、あの医長に、わたしを入室させてくれたことで感謝しているでしょう。他の妻たちも来ましたが、入れてもらえませんでした。男たちの母親たちだけです。もはや繁殖力を失い――出産することもありません。

ヴォロージャ・プラヴィクの母親はいつも彼に寄り添って座り、「わたしを身代わりにお召しください!」と神に懇願していました。

ナレーター:
セルゲイ・ソボレフ、チェルノブイリ遮蔽実行委員会の副委員長。

セルゲイ:
わたしは実はプロのロケット屋です。わたしはロケット燃料が専門で、わが国の宇宙センター、バイコヌールで勤務していました。奇蹟のような時でした――人民に空を与え、人民に宇宙を与える。ソヴィエト連邦の人民全員がユーリ・ガガーリンと一緒に宇宙へ行ったのです。

わたしは家族の都合でベラルーシに移住し、当地で職歴に終止符を打ちました。わたしは当地に来ると、このチェルノブイリ化空間に夢中になりました。それはわたしのものごとに対する感性の矯正剤になりました。わたしは常に最先端テクノロジーを扱ってきましたが、それでもこのようなものを想像するのは不可能なことでした。

わたしたちは寄付金を集め、病気の人たち、死んでいく人たちを訪問します。わたしたちは年代記を執筆し、博物館を創立しようとしています。わたしは時どき、わたしたちは博物館でなく、当地に葬儀場を持つのだと考えます。今朝のこと、わたしがコートを脱がないうちに、女性が入ってきて、泣いて――泣いているどころか、喚いているのです――「あの人の勲章と証明書を持っていって! 恩典を全部持っていって! 夫をわたしに返して!」。彼女は長いあいだ喚いていました。そして、彼の勲章類、彼の証明書類を置いていきました。さて、そのようなものを博物館に収容し、展示するとします。人民はそれらのものを観覧できます。しかし、彼女の叫び――彼女の叫びをわたし以外にだれも聴いておらず、わたしがこれらの証明書類を展示すれば、わたしはそれを思い出すことになるでしょう。

ヤロシュク大佐は、いまにも死のうとしています。彼は化学者・線量計測員です。雄牛のように健康でした。いま彼は麻痺して寝たきりになっています。彼の妻は枕を返すように、彼を寝返させます。スプーンで彼に食べさせています。彼は腎臓に結石があり、それを粉砕しなければなりませんが、その種の手術にかかるお金の持ち合わせがわたしたちにはありません。わたしたちは貧困者であり、人民の施しもので生き残っています。そして、政府は金貸しのように振舞っています。政府はこのような人民のことを忘れ去ったのです。彼が死去した暁には、彼らは、通りに、あるいは学校か軍部隊に彼にちなんだ名称を冠することでしょう。だが、それも彼の死後になってからだけのことです。ヤロシュク大佐。彼はゾーンを徒歩で横断し、放射線値最高地点の標識を立てました。彼らは、ことばの十全な意味で、彼をロボットのように利用しました。そして、彼はこのことを理解していましたが、それでも行きました。

原子炉で、彼らは火を消すためにロボット――機械――を使おうとしました。しかし、放射線レベルがロボットには高すぎました。ロボットは機能することができませんでした。そこで彼らは、人間、生身の人間を送りこみました。兵士たち。

210個軍部隊が惨事によるフォールアウトの一掃作業に投入されました。これは340万人の兵士に相当します。屋根の清掃を担当した人員は鉛のベストを着用しておりましたが、放射線は下から来るのであり、彼らは安っぽい通常のブーツを履いていました。彼らは連日、屋上に2分間滞在し、その後、除隊となり、証明書と100ルーブル[現時点のレートで235,000円]が下賜されました。

彼らは全員、若い人たちでした。彼らはいま死のうとしておりますが、あれは彼ら向けの仕事でなかったと理解しておりました…

彼らは人身御供でした。核爆発の危険が存在する瞬間があり、その爆発は3ないし5メガトンのものになっていたでしょう。それは、キエフとミンスクだけでなく、ヨーロッパの広大な部分が居住不能になることを意味することになっていたでしょう。あなたに想像できますか? ヨーロッパの破局です。

リュードミラ:
とうとうワーシャは、すべて透明カーテンの向こう側、特別生命維持室に収容されました。だれもなかに入ることを許されません。彼らはカーテン越しに注射したり、すべてのものを投与したりしていました。彼の病状がとても悪かったので、わたしは部屋を離れることができませんでした。彼はしょっちゅう、わたしを呼びました。ついに用務係たちが作業を拒否しました。彼らは兵士たちに壁を拭かせたり、寝具を変えさせたりしました。

そして毎日、だれかが死にました。ティシュラが死んだ。ティテノクが死んだ。毎日が、わたしの頭脳に振り下ろされる大ハンマーのようでした。

わたしはだれかが、「君は理解しなければならないが、これはもはや君の夫ではなく、強度の毒性を持った放射性物体なのだ。君は自滅的ではない。御身を大事にするのだ」といったのを憶えています。

でも、わたしは、彼が自宅でいつもわたしの手を取り、眠っているあいだ、一晩じゅう握っていたようすを憶えていました。だから、病院で、わたしは彼の手を取るのです。

ある夜、わたしたちだけのとき、彼は「ぼくたちの子どもにとても会いたいな」といいます。

「あなたはどんな名前をわたしたちの子どもにつけるの?」と、わたしはいいます。

「君が決めろよ」と、彼。

「どうしてわたしが? わたしたち二人いるじゃないの」。

「その場合、男の子なら、ワーシャ、女の子なら、ナターシャだな」。

ある日、わたしは廊下に出て、看護師に「彼は死ぬわ」といいます。

「なにをお望みだったの。彼は1600レントゲン浴びたのよ。400レントゲンが致死線量です。彼は核反応炉なのですよ」。

男たちの全員が死んだとき、彼らは病院全体を一新します。壁を剥ぎ取り、寄木細工の床を掘りとります。

ある日、わたしはワーシャを残し、ターニャの夫ともうひとりの埋葬に立ちあうため、彼女と共同墓地に出かけます。わたしが戻ったとき、看護師はワーシャが死んだといいました。「彼は間際のときにあなたの名前を呼びましたので、わたしはあなたがすぐに戻ってくると彼に告げました」。

彼らは死体安置所で彼を正礼装で装いました。でも、彼の体が入らなくて、靴と制服を裁ち切らなければなりませんでした。彼の体はすっかり膨れあがり、歪んでいました。最期のときには、彼の肺と彼の肝臓のかけらが口から飛びだしていました。

この正礼装のまま、彼らは彼をセロファン袋に入れ、木製の棺桶に安置しました。彼らは棺桶をもう1枚の透明な袋で包みました。彼らはわたしたち全員に、わたしたちが遺体を自宅に持ち帰るのは不可能であると言い渡しました。

彼らは、「彼らは非常に放射線値が高く、モスクワ共同墓地でセメント・タイルの下の密封亜鉛霊柩のなかに埋葬されます。あなたがたがしなければならないのは、ここでこの書類にサインすることだけです」といいました。

ワシリー:
ついにわたしは、スリュンコフとの面会にこぎつけ、われわれは彼ら人民を守らなければならないと彼に告げた。ウクライナでは、すでに避難している。彼は、「君たちの研究所の男たちが線量計を手に走り回り、みなを怖がらせているのは、なぜなのだ? わたしはすでに、モスクワと、ソヴィエト放射線防護委員会議長、イリン教授と相談したのだ。彼は万事が正常であると申しておる。われわれは、陸軍、われわれの軍装備の一切を危地に投入しておる」といったのである。

あなたはいま、チェルノブイリに何千トンものセシウム、ヨウ素、鉛、シルコニウム、カドミウム、ベリリウム、ボリウム、量さえわからないプルトニウム――全部で450タイプの放射性核種――があると知るべきである。それは、ヒロシマに投下された原子爆弾の350発分に相当する。わたしは、かつてトラクター工場の監督だったスリュンコフに、「彼らが人民に説明を求めるとき、あなたは、自分がトラクター専門家であり、放射能にどんなことができるのか知らないとおっしゃるのだ。だが、わたしは物理学者だ。わたしは放射能の影響を存じている」といった。

だが、彼の観点から見て、これはなんだろう? 束になった物理学者、一部の教授連中が中央委員会になにをすべきか、いいつけるなんて、どうしたことなのか?

(間)

いや、彼とその他の連中は犯罪者のギャングではなかった。あれは無知と服従の共謀にもっと似ていた。彼らの生きかたの原則は、火中の栗を拾わないこと。彼らの最悪の恐怖は、パニックであり、真実が明るみに出て、失職することなのだ。彼らは、万事を隠蔽したかった。それで、なにが起こった。

わたしを信じてほしい。もしわが国がいまだにソヴィエト連邦であったなら、いまだに閉鎖システムのなかで生きていたなら、人民はいまだにチェルノブイリのすぐ隣りで暮らしていただろう。

ナレーター:
アンナ・バダエワ、汚染ゾーンに戻った小農。

アンナ:
わたしが最初におっかなかったのは、菜園と裏庭で窒息したモグラを見たことです。だれが窒息させたのかしら? モグラはふつう、地下から出てきません。そして、わたしの息子がゴメリから電話して、ブヨが出ているか、聞くのです。

「虫はいないし、蛆虫さえいないよ」と、わたしは息子にいいます。「ミミズもいない」。

すると息子は、「それが最初の兆候だ。もし虫やミミズがいないなら、放射能が強い印だよ」といいます。

「放射能って、それはなに?」と、わたしは聞きます。

「ママ、それは一種の死なのだよ。ママ、おばあちゃんに逃げなければならないと言ってよ。ママたちはぼくのところに住めばよい」

「でも、まだ菜園の作付けが済んでいないし」。

わたしが時どきラジオを点けると、彼らは放射能でわたしたちを怖がらせます。でも、放射能が来てから、わたしたちの暮らしはよくなりました。周りを見てください。彼らは、オレンジ、3種類のソーセージ、その他、ほしい物を持ってきてくれます。ここ、この村に! わたしの孫たちは――医者に診てもらいに――世界中に行ってきました。

そして、これ、放射能って、なんだろう? あなたは見たことありますか? それに色がない、匂いもないという人がいれば、土みたいに黒いという人もいます。

どれほどわたしたちを怖がらせることか? でも、リンゴが庭に成り、木々には葉っぱが茂り、じゃがいもは畑のなかで育っています。チェルノブイリなんてなかった、でっちあげだとわたしは思います。彼らは人民にトリックをかけたのです。わたしの妹とその夫は行ってしまいました。

でも、起こったことは、起こったことです。

わたしのパパは、ミツバチ、それを5群れ、飼っていました。2日間、ミツバチは出てきませんでした。ただ巣のなかに居座っていました。ミツバチは待っていたのです。パパは爆発のことを知りませんでしたが、裏庭中を駆けまわって、これはなんだ、なにが起こっているのだといっていました。そのころ、ラジオはなにもいいませんでしたが、ミツバチは知っていました。

それに、もしわたしがあのことを考えると――どこの家でも、だれかが死にました。あの通り、川の向こう側――女たちみな、男がいなくて、男たちはみな死にました。だから、つくづく考えると、わたしたちのところの女はみな、空っぽです。3人のうちのひとりは、女の部分がだめになりました。老いも若きも。女たちのだれもが、適時の出産をしているのではありません。

彼らは、わたしたちの水さえ飲めないと脅します。でも、水なしで、どうすればいいのですか? すべての人は、体内に水を持っています。岩でさえ、水を持っています。すべての命は水の賜物です。

他になにをお話しましょうか? あなたはだれに頼みごとをするのですか? 人びとは神に祈りますが、神に頼みごとをしません。あなたはただ生きなければならないのです。

リュードミラ:
2か月後、わたしはモスクワを再訪しました。共同墓地に行ったのです。そこでわたしは陣痛を起こしました。彼らは救急車を呼び、わたしを同じ病院、放射線病院に搬送しました。彼らはわたしに彼女を見せました――彼女は女の子であり、わたしは、「ナターシャ! あなたのお父さんが名づけてくれたのよ!」と呼びかけました。

彼女は――腕も、脚も――健康そうでした。だけど、肝臓に肝硬変がありました。彼女の肝臓は28レントゲンありました。また心臓も損傷していました。彼らは4時間後、彼女が亡くなったとわたしに告げました。そしてまたもや、彼女の遺体をわたしに渡してくれませんでした。

[沈黙]

わたしは発作を起こすものですから、喚いてはいけないものとされています。

彼らが小さな木の箱を持ってきて、彼女はこのなかだというので、見てみました。すでに荼毘に付されていました。「彼女を彼の足元に寝させてあげてください」と、わたしは頼みました。

わたしはいつもブーケを2束持って共同墓地に行きます。一束は彼のため、もう一束は彼女のため。

わたしが彼女を殺した! わたしの小さな女の子がわたしを救った。彼女は放射能の衝撃の全部をみずからの体内に取り入れ、まるで放射能の避雷針のようだった。

やがてわたしは夫を見つけました。わたしは彼にすべて――真実を包み隠さず――告げました。わたしの生涯全体で唯一の愛を抱いているとさえ語りました。

わたしは男の子を出産しました。アンドレイ。わたしの友人たちは、わたしに止めさせようとし、医者たちはわたしを脅しました。「あなたは子どもを持てない。あなたの体は出産に対処できない」。彼らは子どもが腕なしで生まれるだろうと脅しました。でも、彼は立派に生まれました。いま学校にいます。好成績を収めています。

アンドレイとわたしが連れ立って散歩に出かけたとき、わたしは初めての発作を起こしました。なにも覚えておらず、病院で目覚めました。

アンドレイも病気です。彼は2週間、学校で過ごし、次の2週間、家で医師と一緒にいます。それが、わたしたちの暮らしかたです。

この新しい場所――通り全体――にわたしたちの多くが住んでいます。彼らはこれをチェルノビルスカヤと呼んでいます。大勢の人たちがいまでもパートタイムで仕事に行っています。もはや原子炉の近くに住んでいる人はいません。でも、みなさんはそこへ仕事に出かけています。彼らは原子炉の閉鎖を恐れています。どこのだれが彼らを雇いたいと思うのでしょうか? 彼らはしばしば亡くなります。突然死するのです。

わたしたちがなにをくぐり抜けてきたのか、だれも訊ねません。だれも死について聞きたくないのです。怖くなることなど、聞きたくありません。

でも、わたしは愛について、あなたに語りました。わたしたちの愛について…

ワレンティン:
330分――14時間後!――になって、われわれはチェルノブイリの原子炉で事故があったと知らされました。

その夕刻、研究所のバスで半時間かかってミンスクへ戻る途上、われわれは押し黙り、あるいは別のことを話していました。だれもが起こった事態について話すのを恐れていました。だれも、自分の経歴、自分の家族を危険にさらしたい――国家の敵呼ばわりされたいとは思っていませんでした。

わたしのアパートのドアの前に濡れ雑巾が置かれていました――ということは、わたしの妻がわたしの秘密通話を理解したというわけです。突然、この激怒がわたしを鷲掴みにしました。秘密主義のクソッタレ! わたしは妻の住所録、そして娘の住所録を手に取り、みなに一人ひとり、電話しはじめました。わたしは、ミンスクの上空全体に放射能の雲があるといいました。彼らがする必要のあること、洗髪し、窓を閉め、洗濯物をバルコニーから取り入れ、ヨウ素を飲むようにと――そして、その正しい服用法を――告げました。

人びとの反応は、「ありがとう」というものでした。

わたしは、彼らがわたしを信じなかったか、あるいはたぶん起こっている事態の重要性を理解しなかったのだと考えています。

その夜、友人から電話があり、この人もやはり核物理学者です。彼がいうには、5月の連休をゴメリの親戚の家で過ごしたいそうです。チェルノブイリから石を投げるほどの距離――しかも、幼いお子さんたちを連れて行くという!

「大した考えだ!」と、わたしは彼を怒鳴りつけます。「気は確かか!」。

彼はたぶん、わたしがお子さんたちを救ったことを憶えていないでしょう。

ナレーター:
ラリサ、母親。

ラリサ:
事故のあと、ほどなくして、彼らはわたしたちの村を避難させたいと欲していました。その後、彼らはその村にペケ印をつけてリストから削除しました――政府はじゅうぶんな資金を持っていなかったのです。そして、わたしはすぐに恋に落ちました。わたしは結婚しました。当地で愛が許されないことをわたしは知らなかったのです。

わたしの祖母は何年も昔、なべて繁栄し、なべて花開き、果物を実らせ、川に魚、森に獣が満ちる時がやがていたるが、人はそのどれひとつとして使うことができないと聖書に書いてあるのを読みました。そして、人は同類のなかに自分を広めることができず、自分の系列を存続できないのです。わたしはこの古い預言を、おっかないお伽話みたいだと思いながら聴いていました。わたしはそんなものなんて信じていませんでした。

わたしの小さな娘――カーチャ――彼女は違っています。彼女は他の人たちのようではありません。大きくなると、わたしに訊ねます。「どうしてわたしは他の人たちのようではないの?」。

彼女が生まれたとき、赤ん坊ではなく、彼女は小さな袋、どこもかしこも縫い合わされ、開口部はひとつどころでなく、まるで目のようです。カルテはいいます。「女児、複数の複合病理を持って出生:肛門形成不全、膣形成不全、左側腎臓形成不全」。医療用語でいえば、こう聞こえるのです。でも、お尻の穴はない、オマンコはない、腎臓はひとつと言っているだけです。

2日目、わたしは手術の済んだ彼女を見詰めていましたが、それが彼女の人生の2日目。彼女は目を開け、微笑んだのですが、わたしはいまに泣き出すだろうと思っていました。だが、神さま! 微笑んだ!

彼女のような子どもは生きていられません。すぐに死んでしまいます。でも、わたしが愛していたので、彼女は死にませんでした。

彼女は4年間に4回の手術をしました。あれほどの複合病理を抱えて誕生し、生き残った子どもは、ベラルーシで彼女ただ一人です。

[一瞬の静止]

わたしは二度と産めないでしょう。あえて産みません。わたしが分娩室から戻ると、夫は夜中にわたしにキスしだしました。わたしは横たわり、震えていました。

医者たちがしゃべっているのを聞きました。「あの女児はシャツを着て生まれたのではなく、甲冑一式を着て生まれたのだ。テレビで公開すれば、出産したいと思う母親は一人としていないだろう」。

わたしは教会へ行き、あれが勃発したとき、わたしはそこに、間近にいたと司祭に告げました。司祭は、わたしが罪をあがなうために祈るべきだと申しました。でも、わたしの家族のだれひとりとして、だれも殺していません。どんなことで、わたしに罪があるのでしょう?

彼らは彼女に肛門を作りました。膣を作りました。だが、これから先、外国で医療支援を求めなさいと彼らはわたしたちに助言しました。わたしの夫の稼ぎが月に120ドルだというのに、どこに行って何万ドルも確保するのでしょう? ある教授は穏やかに、「彼女の病理をもってすれば、おふたりのお子さんは科学にとって非常に興味深いのです。あなたがたは他国の病院に手紙を書くべきです。興味を持っていただけるはずです」とわたしたちにいいました。

だから、わたしは書きます。[泣きたいのに我慢]わたしは、わたしたちは半時間ごとに彼女の尿を手で絞り出さなければならないのですと書きます。いつまでこのようなことを続けられるでしょうか? 実験であっても、わたしの女の子を招いてください。彼女に死んでほしくないのです。生きていさえするなら、実験室のカエル、実験室のウサギになっても、わたしとしては大丈夫です。

[泣く]

わたしの娘について、みなさんにお伝えください。書き下ろしてください。彼女は4歳で、歌い、踊ることができ、こころで詩を知っています。彼女の精神的発達は正常です。しかし、わたしたちは4年間、彼女とともに病院で暮らしてきました。わたしたちは彼女をひとり残しておられません。1か月か2か月、自宅に戻っていると、彼女は、「いつ病院に戻るの?」とわたしに聞きます。病院が、友だちのいるところ、子どもたちが育っている場所なのです。

わたしは文書を入手したいと思いました――彼女が大きくなったとき、わたしたち、わたしと夫が悪かったのではないとわかってくれるでしょう。わたしは4年間、医師たち、官僚たちと戦ってきました。重要人物たちのドアをノックしました。電離放射線と彼女の悲惨な状態の関連を確認する医師たちの文書を入手するのに、4年かかりました。医師たちは、「あなたのお子さんは先天的な障害の患者なのです」といいつづけて、わたしに拒んでいたのです。わたしは家系を調べました――だれもが80歳代か90歳代まで生きていました。わたしの祖父は、94歳でようやく亡くなりました。

医師たちは、「わたしたちには指示マニュアルがあります。このタイプの症例を一般疾患と呼ぶものとされているのです。20年か30年たって、チェルノブイリに関するデータベースが整えば、わたしたちはこうした症例を電離放射線に結びつけはじめることになるでしょう」といいました。

ある官僚はわたしに怒鳴りつけました。「あなたはチェルノブイリ特権がほしいのだ! チェルノブイリ被災者基金がほしいのだ!」。なぜわたしが彼の執務室で卒倒しなかったのか、わたしにはどうしてもわからないでしょう。

わたしはいま、妊婦たちに奇妙この上ない眼差しを向けます。わたしは見ません――妊婦たちに非常に素早い一瞥をくれるだけです。驚嘆と恐怖、嫉妬と歓喜――このような混じりあった感情をすべて、わたしは抱いています。報復の感情さえも。わたしはある時、わたしが隣家の妊娠している犬を――巣のなかの鳥を――同じ目で見ているという考えに取り憑かれしまいました。

おお、わたしの女の子! わたしのカーチャ!

ナレーター:
4原子炉、いま被覆物として知られる存在は、その鉛・金属中核部のなかに約20トンの核燃料をいまだに抱えています。

石棺は上出来に仕上がり、比類なく建造され、サンクト・ペテルブルクから来た設計技師たちはおそらく誇らしかったはずです。

しかし、それは人の手が介在せずに建造され、プレートがヘリコプターとロボットの支援を借りてつなぎ合わされ、その結果、ほころびがあります。いくつかの見積もりによれば、いま200平方メートルを超える隙間や割れ目があり、放射性粒子がそこから漏れだしつづけている…

石棺は崩壊するのでしょうか? 継ぎ目や構造物の多くは、それが頑丈かどうか確かめるために、その場所まで行くのがいまだに不可能なので、だれもこの問に答えることができません。だが、だれもが、被覆物が崩壊すれば、その影響は1986年当時よりずっと恐ろしいことになると知っています。


チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

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