2015年10月24日土曜日

アジア太平洋ジャーナル「フクシマのポチョムキン村~楢葉町探訪」@JapanFocus

In-depth critical analysis of the forces shaping the Asia-Pacific...and the world.
アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス
アジア太平洋…そして世界を形作る諸力の批判的深層分析

フクシマのポチョムキン村*~楢葉町探訪
アジア太平洋ジャーナルVol. 13, Issue. 41, No. 1, 20151019

デイヴィッド・マックネイル David McNeill
アンドロニキ・チェリストドウロ Androniki Christodoulou

[訳注]ポチョキン村(ロシア語: Потёмкинские деревни, 英語: Potemkin villages / Potyomkin villages)は、主に政治的な文脈で使われる語で、貧しい実態や不利となる実態を訪問者の目から隠すために作られた、見せかけだけの施設。ロシア帝国の軍人で1787年の露土戦争を指揮したグリゴリー・ポチョムキンが、皇帝エカチェリーナ2世の行幸のために作ったとされる「偽物の村」に由来する。(出処:ウィキペディア)


ジャーナリストたちは年に二度、東京電力株式会社が催す福島第一核被災現場の案内付き視察会に招かれる。彼らは2011年に設定された20キロ圏立入禁止区域の南側の外れから現場に向かう車で、ほぼ無人の広野町、楢葉町、富岡町、大熊町を通りすぎる。見捨てられている現状は、雑草や野生動物の侵入、それに住宅と社会基盤の緩慢な老朽化を目にすれば、推し量ることができるだろう。

衰退にもかかわらず、そして施設に近づくにつれガイガーカウンタが緊急警告音をピーピー鳴らすというのに、この地域を放棄することについて、公的な談話が聞こえてきたことは一切ない。それどころか、この地域は、(世界的に典型的な核施設労働者の年間限度である)20ミリシーベルト以下の場合、「避難命令解除準備区域」、20ないし50ミリシーベルトの「居住禁止区域」、汚染が最も激甚である(50ミリシーベルト)「帰宅困難区域」に三分割されており、このことが、できの悪い婉曲話法で正反対のことをほのめかしている。

ロードアイランド州の半分程度の地域を除染するために、見積もりコストが500億ドルの巨大な規模の公共事業が3年前にはじめられた。東電による賠償は160,000人の核避難民の多くが帰還することを暗黙のうちに前提にしており、それに反する発言は、たとえほのめかしに過ぎなくても、非難の的になる。就任したばかりの鉢呂吉雄・経済産業大臣は20119月に、見捨てられた地域を「死の町」と形容して、1週間後には辞任に追いこまれた。

2011年以前の暮らしの復活に努める楢葉町、保健福祉会館の近所に設置された陽気な看板。(すべての写真:アンドロニキ・チスタドウロウ)

核施設から15キロ南の町、楢葉は20159月、福島第一の三重メルトダウンのあとに課せられた避難命令を全面的に解除された福島県で最初の町になった。松本幸英町長は町の再開を記念する式典で、5年近く前にはじまった悪夢は公式に終わったと宣言した。「止まっていた時計が再び動き出した」と町長はいった。高木陽介・経済産業副大臣は決定を説明して、汚染は「自宅に戻りたい町民に避難を強いなければならないほど、危険がおよぶ状況にない」と語った。

この説明は、いささか現実と相反するようである。復興庁が昨年、大熊、富岡、双葉各町と核施設から北西の浪江町からの避難民を対象に実施した調査では、5人に1人だけが自宅への帰還を願っていた。数千人もの人びとが不本意ながらも別の場所で生活を築いており、安全宣言が出された地域への帰還を拒めば、月額で100,000円支給される核の賠償金が止められるのではと恐れている。多くの人たちは、招かれるのではなく、追い返されようとしていると感じている。

楢葉町は、ほぼ全面的に国の資金に頼っている。公設のショッピングセンターと新しい幼稚園が整備され、目下、中学校が建設中である。町外れの新しい工場で、壊滅した核施設の解体作業に用いるロボットの設計と試験がおこなわれることになっている。除染労働者のチームが全戸に派遣され――それが、一部の地域では数回におよぶ。無料の線量計が帰還した住民に配られたので、空中放射線量を測ることができる。町役場の猪狩祐介・広報室長は、町の浄水場が1時間ごとに検査されていると述べた。「おそらく、わが町の水道水は、日本で一番安全でしょう」と、彼はいう。

楢葉町、猪狩祐介・政策広報室長
欠けているのは、人間である。町の人口7,400人のうち、戻ってきたのは、200人に満たないと猪狩氏は認める。地元の人たちは、じっさいの人数はもっと少ないという。「帰ってきては、いなくなる人たちもいます。ここには何もないですから」と、近くの親戚を訪れているヤマウチ・カズオさんはいう。町はユニフォーム姿の男たちでざわめいているが、たいがい建設労働者であり、あるいは、やがて出ていくことになる地方公務員たちである。帰還者のなかに、地元の若い家族がいると猪狩氏はいうが、プライバシー問題を盾に、紹介してくれない。その代わり、わたしたちは、一生のつもりで戻ってきたというヤマウチ・コウヘイさん(79歳)とトモコさん(75歳)の農家を見つけた。

避難命令が解除され、楢葉町の自宅に戻ってきた年配のご夫妻、ヤマウチ・コウヘイさんとトモコさん

彼ら年配のご夫妻は2011311日の凍える夜、他の数千人の避難民と同じように逃げた。彼らはその後に6回、住所を変え、東京から南西の長野県で娘と一緒にしばらく暮らしていたが、最後は――多くの地元に人たちと同じように――楢葉町から30キロ南のいわき市にある仮設住宅に行き着いた。難儀な経験だったと彼らは振り返る。混乱は措いても、彼らの仮設住宅の壁は紙のように薄く、お隣の騒々しい家族の話し声や物音が筒抜けだった。

ご夫妻は、政府公認の一時帰宅として、マスク、手袋、防護服を着用し、周期的にわが家に戻っていたが、元素が愛するわが家にもたらしていた影響を目にしてがっかりしていた。昨年になって、家を再び住めるように整備するために、日中の帰宅が許されるようになった。数か月の骨折れ仕事とその後の除染によって、雑草は消え、放射線量は居住可能なレベル――彼らのいう、1時間あたり約0.1 μSv――に下がった。

ヤマウチ家は7世代にわたって受け継がれてきた。玄関の奥の部屋で、コウヘイさんのご先祖たちの肖像写真が壁に飾られている。「見捨てるわけにいかなかっただけです」と、コウヘイさんはいう。どっちみち、彼と奥さんは癌を心配するには、歳を取りすぎていますからと彼は付け加える。暮らしは、もちろん以前と同じではないが、すこしずつ正常に戻るだろうと彼はいう。「わたしたちが戻れば、たぶん子どもたちがすべて大丈夫だと見て、わたしたちに続くでしょう」。

勤務中に浴びる放射線量を測るために、線量計を身に着けた地元の警察官

道を数マイル先に行って、福島第一に近づくと、そこの地域は今でも居住不能と考えられている。地元の警察官たちは、危険地帯に迷いこむ場合に備えて、胸元に線量計をピン留めしている。

地域内で集められた放射能汚染土壌を詰めこんだ袋を楢葉町周辺の数か所で見ることができる。

福島県内の何百か所もの田畑が、地表から剥ぎ取られた汚染土壌を詰めこみ、列をなして積み重ねられた100キロ袋の置き場になっている。楢葉町だけで、そのような袋が58,000に達したと猪狩氏はいう。はたして、いつの日か土壌が搬出されるのかと疑う地元の人たちは多い。避難者のカナイ・ナオコさんは、器械で測った放射線レベルが低くても、母親たちは子どもたちを近づけないと決めているという。

この作業全体の目標は、正常化である。楢葉町は、フクシマ後の日本のショーウィンドウなのですと猪狩氏はいう。「人びとが、この町に住みに戻ってこなければ、どこにも戻ってきません。わたしたちは重大な責任を感じています」。フクシマをチェルノブイリと同列に語ってもらいたいと思う人はいない。世界最悪の核事故から30年近くたった今も、チェルノブイリの命は時のなかで凍りついており、学校の壁にウラジミール・レーニンのポスターが完備した1980年代ソヴィエト連邦のスナップショットと化している。環境監視団体、グリーンピースの放射線専門家、ジャン・ヴァルデ・プット氏は、「決定的に重要な目標は、日本は核事故を克服できると国民に伝えることです。経済的ではありません。お金を渡して、新天地で新しい家を買ってもらったほうが、もっと安あがりです。目標は、政治的なものです」という。

これまでのところ、たいがいの農家の住民は家を購入していない。疑いの要素のひとつが放射能である。除染の最良の結果は汚染レベルの50パーセントの削減であり、「時にはもっと少ない」とヴァルデ・プット氏はいう。もうひとつの問題は、社会基盤、とりわけ病院、医者、店舗と関連している。楢葉町は1年以内に、政府資金による診療所を備えることになり、新しい学校が開校する。たいがいの場所で、放射線レベルが正常レベル近くまで下がるだろう。だが、家族は戻るだろうか。猪狩氏は居心地悪そうに微笑む。「戻ると考えたいですね。たぶん5年、あるいは10年かかるでしょう。できるだけ早く、そうなってほしいですが、言うのは、むつかしいです」と彼はいう。賠償金支給を打ち切ることによって、人びとに帰還を強いることに、疑問の声はないと彼はいう。だが、延長されないかぎり、お金の点滴は2018年に打ち切られることになっている。

2011年の三重災害のあと、日本は核反応炉53基のすべてを閉鎖した。楢葉町の避難指示解除の1か月前、日本は九州の反応炉1基を起動した――これがフクシマ後に基準が厳しくされた安全規制にもとづく再稼働の第1号になった。他にも――政府のエネルギー計画の最新版によれば、核反応炉が国のエネルギー・ミックスの20パーセント分を最終的に供給すると想定されており――24基の反応炉の運営企業が再稼働を申請している。だが、再稼働は、世論の支持率が低く、実質的にすべての反応炉が、安全性をめぐり延々と続く法的な争いの焦点になる可能性がある。ロイター通信が九州の再稼働のあとに伝えた調査報道によれば、他にも日本にある42基の運転可能な反応炉のうち、「7基が今後数年内に再稼働される見込みがある」。9基が永久に稼働しないようであり、残りの今後は「未確定」である。

その一方、まだ残っている核避難民およそ120,000人の多くは、別の場所で生活を築いており、廃墟と化した地域社会に帰りたがっていない。とりわけ幼い子どもたちのいる人たちにとって、放射線にまつわる不安が、すでに厄介極まっている決定を複雑にしている。科学者たちが除染の済んだ地域は安全であるという発言を連発してきたが、そのような請け合いを信用しない人が多いとカナイさんはいう。そのような不安は、20113月以降の福島県における甲状腺癌の罹患率が全国レベルの20倍ないし50倍に達していると主張しており、激しい反論を招いている報告によって、なおいっそう掻きたてられる。

暮らしのささやかな兆しが帰還者に希望を与える。最近、新聞配達が再開され、間もなく郵便局が再開される。切符発行カウンターの上に掲げられたデジタル表示が放射線レベルを知らせている――地元の駅に列車が再び到着している。

地元の人たちは、起こってしまったことに恨みを含んでいるだろうか? 地元で料理店を経営する渡邉正純さんは、ノーという。少年だったころ、彼の父親は夏に働いていたが、冬には東京で季節労働に従事していたと、彼は振り返っていう。発電所が1970年代にやって来て、地元の人たちの多くが暮らせるようになった。「起こってしまったことで、人を責めることはありません」と彼はいう。ヤマウチ・コウヘイさんも同じ意見である。「わたしたちは前向きになって、自分の定めをよくしていこうとしなければなりません。他になにができますか」。

【筆者】

デイヴィッド・マックネイル(David McNeillは、英紙インディペンデントおよび他の出版物、アイリッシュ・タイムズ、エコノミストなどの記事を執筆。アジア太平洋ジャーナルの編集者であり、“Strong in the Rain: Surviving Japan's Earthquake, Tsunami, and Fukushima Nuclear Disaster”[『雨ニモ負ケズ~東日本大震災、津波、フクシマ核事故を生き抜く』](英国のパルグレイヴ・マクミラン刊)共著者。

【写真】

アンドロニキ・チェリストドウロ(Androniki Christodoulouは、東京在住のフリーランス写真家であり、作品が、タイムズ、インディペンデント、テレグラフ(以上、英国)、シュピーゲル(ドイツ)、ビジネスウィーク(米国)、週刊朝日に掲載されている。“Otaku Spaces”[『オタク空間』]。彼女のホームページは、このから。

【クレジット】

David McNeill and Androniki Christodoulou, "Inside Fukushima's Potemkin Village: Naraha", The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue 41, No. 1, October 19, 2015.

APJ関連記事】

【付録】
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20151016
デイヴィッド・マックネイル記事

20151025日 New!

時おり警察のパトロールカーが通り、地域一帯がすっかり無人であるというのに、赤信号の度ごとに停車する。警察官らはわたしたちの車を止め、わたしたちの許可証を注意深く点検する。
夕闇に包まれた浪江町。完全に無人であるものの、交通信号機が点滅し、街路灯が点灯

20151012

201596

2015103

20151014


【デイヴィッド・マックネイル記事】

2013317日日曜日
福島の核危機から2年、二人のメディア専門家が、どうのように日本のメディアによって核の危機が伝えられたのかを精査する。上杉隆氏はフリーランスのジャーナリスト、『新聞・テレビはなぜ平気で「うそ」をつくのか』など、福島の危機に関する著作が数点ある。また、日本の記者クラブ制度とは別のありかたを提示することを企てる自由報道協会の創立メンバーのひとりである。伊藤守氏は早稲田大学「メディア文化論」担当教授であり、著書に『テレビは原発事故をどう伝えたのか』がある。

2013116日水曜日
福島の緑豊かに起伏する田園地帯のあちこち多くの場所で、ウイルスにまつわりつく抗体のように宅地に取り付いた男たちは、ローテク器具を振りかざし、優れて現代的な敵、放射能に立ち向かっている。31か月近く前、空から降り注いだ毒性物質をこそぎ落とすのに、高圧洗浄機、スコップ、パワーシャベルが用いられる。仕事は疲れるし、金もかかるし、おまけに無駄に終わるという人たちもいる。


2013115日火曜日
安倍晋三は9月に福島第1を訪問したさい、作業員らにこういった――「日本の未来は、みなさんの両肩にかかっています。わたしはみなさんに期待しております」。
総理大臣の訓示は、原発が三重メルトダウンをこうむってから3年近く、世界で最も危険に満ちた産業施設浄化作業の前線に踏みとどまっている6000名近くの技術系社員、技師、トラック運転手、建設作業員らに向かって説かれていた。

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