2016年3月17日木曜日

☢#フクシマ5周年☢【海外論調】エコロジスト誌「フクシマ脱出――そして、苦い帰還」


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フクシマ脱出――そして、苦い帰還

2011年9月19日、東京の明治公園
フクシマ核惨事後の反核デモ
Photo: jordi olaria jané via Flickr
 (CC BY-NC-SA).
リンダ・ペンツ・ギュンター Linda Pentz Gunter
2016311

フクシマ核惨事の勃発から5年たって、フォールアウトから逃げた160,000人の避難民の苛酷なこころの傷がいまも癒えることがない、とリンダ・ペンツ・ギュンターは書く。だが、今、惨事の衝撃の上辺を取り繕う企図の一環として、「安全」と宣言された汚染地域に帰還させる圧力がますますかけられている。なぜ急かせるのか? 福島市で挙行されるイベントで完成する東京2020年オリンピック夏季大会の準備の邪魔を取り除くためである。




「通常であれば、どこへ行こうと、個人の勝手です。避難民は選べません。逃散を強制されています」

この思いが正しくどんなものか、青木淑子さんは知っている。小柄な年配女性、青木さんは160,000人近くの日本国民同胞と同じく、2011311日に福島第一核発電所の大惨事が進行しはじめたときに、故里の町を追われた人たちのひとりである。

彼女はいまも難民暮らしをつづけている。

青木さんは世界を旅し、非核宣言地方自治体、グリーン・クロス、核コンサルティング集団が1月にロンドンで開催したイベントで発言するなど、フクシマ避難民の思いを語っている。

青木さんの出身地は、フクシマ核施設から10キロに位置する富岡町であり、この町はゴーストタウンになっているが、20173月に予定されている政府の布告と「安全」宣言によって再開されるかもしれない。彼女はいま、郡山市でフクシマ避難民交流センター[富岡町3・11を語る会]を運営している。

青木さんは、放射能の脅威が文字通りに降りかかって、あのように逃げるとき、「みなさんは、家、土地を離れ、仕事を失いますし、みなさんはご家族と離れ離れになり、逃げる前に、みなさんの家畜は見捨てられたり、殺されたりします」と語る。

見捨てられた動物の鳴き声が、フクシマの悲劇を代弁した。

悲劇を代弁する最初の声は、放置された動物たちの鳴き声だったのである。フクシマ「立入禁止区域」内で、飢えに苦しみ、死んでいく牛たちの痛ましいビデオが、惨事後最初の数週間で次々とネットに掲載され、耐えがたい苦痛の焼けつくような悲劇を伝えた。これらのビデオの多くは、視聴するのが苦痛なので、冒頭に恐怖警告が表示されるほどである。

一部の人たちにとって、動物たちの受難は余りにものことだった。VICE2013年ビデオ報道“Alone in the Zone”[ゾーンで一人暮らし]で、当時53歳、やはり富岡町の松村直登さんが、最終的に家族と別れて帰宅し、まだ生き残っていた動物の世話をするようになった経緯を説明している。


フクシマ無人地帯最後の農民:VICEインターナショナル(日本)

2015/02/12 に公開
福島第一核発電所が全面メルトダウン状況に突入し、その結果、20キロ圏内避難地域が布告されてから2年、一農民がいまも、放置された動物たちの面倒を見るために、雄々しくも高レベルの放射能と孤独に耐えて居残っている。

彼は、名を松村直登さんといい、富岡のゴーストタウンで踏ん張っている最後の農民である。もうひとりの農民、長谷川賢治さんもまた、出身地の飯舘村が高レベルの放射能のために避難地域になり、仮設住宅で避難民暮らしをしている。この男たちはご両人とも、ポスト核世界に向き合い、自分たちの暮らし向き、東京電力、政府の不作為、圧倒的な放射能のただなかで直面しなければならない最悪に苛酷な状況について、容赦なく率直な見解を共有している。

ビデオで彼は、ダチョウの体に腕を回しながら、「4号機爆発したときは逃げたんだぞ…みんな家族で逃げるべ、って」と振り返る。

だが、松村さん一家は、逃げ場を求めて駆け込んだ親戚の家から追い返された。「入らないでくれ、って、放射能背負ってるから、家に入らないでくれ、って言ったんだ」と彼はいう。

フクシマ避難民は現代のヒバクシャ


このような思い違いが蔓延していた。フクシマ避難民は、広島と長崎に投下された原爆の爆発で被災しながら生き残り、多くは汚名を着せられ、賤民扱いされた人たちの貼られた呼び名、ヒバクシャの現代版だった。

避難所にも入り込む余地がなく、松村さんはひとりで富岡に戻る決断を実行した。彼は、飢えている動物たちを見たとき、居残るしかないと思ったという。

松村さんの物語は、人が思うほど特別なことではない。ITNニュース映像は、福島第一核発電所から20キロ足らずの所にある自分の動物の楽園を見捨てることを拒んだ、当時58歳の坂本圭吾さんを取り上げている。


フクシマ「核の無人地帯」のペットたちを救うヒーロー

2013/11/05 に公開
福島第一核発電所がメルトダウンしたとき、退去を拒否した男性が、無人地帯に見捨てられた動物たちの世話をしている。20113月のメルトダウンのあと、放射能の恐れが高まり、十数万の住民たちが逃げ出し、地域一帯は閉鎖された。惨事から2年半あまりたった今でも、入域者たちは日暮れ前に退去しなければならない。だが、この男は断じて立ち去らない。

58歳の坂本圭吾さんは10年前、福島第一核発電所から20キロ足らずの楢葉町で、動物の楽園を設立した。事故のあと、彼は避難を命令されたが、それは、ニワトリ、犬、ウサギ、羊、山羊、モルモットなど、500匹ほどの動物たちを見捨てることを意味した。坂本さんは立ち去りを拒否した。政府が出入りする道路をコンクリートブロックで封鎖し、彼は閉じ込められ、物品の供給も断たれた。彼と動物たちは数か月にわたり、見つけられるものはなんでも食べ、キャットフードを犬に食べさせたという。

坂本さんは月曜日と金曜日の週2回、1時間半かけて、近隣のいわき市まで物品調達に行く。彼は、支持者たちが市内のペットショップに送ってくれる幾ばくかの支援金と動物の餌の袋を受け取る。スーパーマーケットが廃棄野菜をくれる。坂本さんは、数百の命を守っているので、怖くないといい、自分のやっていることをつづけるつもりである。報告:マーク・モーリス。

坂本さんはその地に違法居住しているが、支援者らの物惜しみしない現物給付支援を頼りに生き抜いている。年寄りたちは、白血病などの疾患の潜伏期間が、発現するまで20年、またはそれ以上と長いことを考え、放射能由来のどんな病気でも、どうせ寿命に追いつかないと賭けをしている。

老人たちは生まれた土地で死にたい

じっさい、統計データが、現時点で避難地から帰還する意志のある人たちが退職者と高齢者であることを示している。研究によって、信頼しうる除染は考えられず、長続きしないと示されているものの、青木さんが説明するように、お年寄りは「生まれた土地で死にたいのであり、馴染みのない場所で死にたくない」のだ。

イアン・フェアリー博士は昨年8月のエコロジスト誌記事当ブログ日本語訳]で、避難にともなうストレスによる死亡者が2,000人にも達していると推測している。

「不慣れな地域への強制移住、家族の絆の断絶、社会扶助の繋がりの喪失、混乱、疲労困憊、貧弱な健康状態、方向感覚の喪失は、多くの人びとにとって、特に高齢者にとって、死亡原因になりかねないし、そうなった」と、フェアリー博士は記した。

帰還を拒否する一部の人たちは他の人たちから仲間はずれにされており、「故郷を捨てていると責められるのです」と、青木さんは語った。政府当局者の一部は、以前の立入禁止区域に帰還することを、ある種の国を愛する者の義務として位置づけようとさえした。

愛国者の義務は、東京で開催されるオリンピック2020年夏季大会の準備期間中、舞台中央で脚光を浴びることになるだろう。今後、その時まで、包括的な広報活動が放射能リスクにまつわる疑心暗鬼を一掃しなければならない。

福島がオリンピック・イベントに名乗り

核惨事の真の全貌に対する否認の底深さの見え透いた実例として、福島市はオリンピック競技開催都市になりたがっている。福島市企画経営課職員の桑島弘明さんは、AFP[日本語]に対し、「五輪の実施競技に野球・ソフトボールが復活し、予選が東京の外で行われることになれば、招致したいと考えています」と話した。

桑島さんら、お役人たちは、福島県の嫌われる立場を「風評被害」と位置づけており、避難民を連れ戻し、オリンピック・イベントを盛り立て、大打撃をこうむった地域経済の再興に不可欠な若い労働力を誘い込めば、解消されると考えている。

青木さんは、「福島県の知事は、安全な福島について話しています。わたしたちは福島が安全になってほしいです。だけど、わたしたちの思いと現実はひとつではありませんし、同じではありません」といった。

万人が協力しているのではない。フクシマ核惨事の前には、政府を信頼することとなれば、横並び意識の文化風土があった。だが、空前規模の反核デモ、それに政府と業界の癒着の露見の結果、集団的な服従を旨とする伝統文化は、ある程度まで腐食した。だが、完全には消滅していない。

反対の声は「過激派」として排斥

日本の環境エネルギー政策研究所の所長、飯田哲也博士は、青木さんが出席したのと同じロンドン会議で、「反科学的な姿勢と集団志向意識が根強く残っています。恐怖を口にすべきではないと説かれています。声を上げると、過激派として排斥されます」と話した。

福島第一核発電所の北14ないし38キロに位置する南相馬市は、放射性フォールアウトの最悪の打撃をこうむった市町村のひとつだった。福島県の全避難者のうち、約42%がこの街の元住民だった。だが、首相官邸の原子力災害対策本部が南相馬市の住民帰還について安全宣言を出したものの、戻ったのは元住民の半分をわずかに上回っただけであり、そのうちの約50%は年配者だった。

帰還しないで踏みとどまった人たち――青木さんによれば、今も110,000人程度――は、生活の場の家財道具など、有形物を多く失ったが、それと同時に、もっと基本的なものをなくしたのであり、「人間は尊厳をなくすわけにはいきません。尊厳を台無しにするものを建設するなんて、一体全体どうしてできるのでしょう?」と、青木さんは問いかけた。

青木さんは、2基の反応炉が閉鎖されているが、新規の反応炉が提案されている、ウェールズのウィルファ核発電所の現地を訪問したさい、土地と暮らしの喪失と同時に、あの魂の破壊に駆り立てられて、この警告を再度繰り返して話した。彼女は東洋のカサンドラのごとく、次のように告げ知らせる――

「フクシマから学んでください。わたしたちの過ちから学んでください。みなさんのお子さんたち、みなさんのお孫さんたちが生まれる前に決めた選択のために、お子さんたち、お孫さんたちに対して、みなさんは謝りたくないはずです」

その選択とは、核の力の誤用であり、そのために日本は、凄まじく、いまだに計算不可能である代価を払っている。




【筆者】

リンダ・ペンツ・ギュンターは、メリーランド州タコマ・パークの環境保全グループ、BeyondNuclearの国際核問題専門家。
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【クレジット】

Ecologist, “The flight from Fukushima - and the grim return,” by Linda Pentz Gunter, posted on March 11, 2016 at; http://www.theecologist.org/News/news_analysis/2987392/the_flight_from_fukushima_and_the_grim_return.html. 

【フクシマ5周年シリーズ】

リンダ・ペンツ・ギュンター記事――

201636日日曜日

2016224日水曜日

その他――

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