アジア太平洋ジャーナル:ジャパン・フォーカス
アジア太平洋…そして世界を形成する諸勢力の批判的深層分析
アジア太平洋ジャーナル Vol. 12, Issue 43, No. 1, 2014年10月27日
フクシマ後のいま、日本の自然がはらむ危機と希望
ナスリーン・アジミ Nassrine
Azimi
凡例:(原注)、[訳注]
学究肌の英国外交官、サー・ジョージ・サンソムが著した『日本史』第1巻の冒頭に、日本列島の地質が詳細に描かれている。
サー・ジョージは、1958年に愛してやまない「火山活動が力強い」国について書き、標高2マイルにまで聳え立ち、海水面下5マイルに潜り込んだ峰々の自然界のドラマを描き、賢明にも「水平方向に短い範囲内にこれほど膨大な幅で隆起しており、地球地殻のこの部分を高度に不安定な地域にするストレスが蓄積される…」と警告した。
日本地すべり学会は、この列島を簡潔に「傷だらけの島々」と呼んでいる。
今年の8月、わたしたちは傷の深さを目の当たりに目撃した。大量の雨水と地すべりのため、広島市の郊外のあちこちで山頂が丸ごと崩れ落ち、記録的な多数の死者を出した。この悲劇は国のどこで起こってもおかしくなかった。
そして9月27日、信仰の山、御嶽山で予期せぬ噴火が突発し、名高い秋の紅葉を愛でるために来ていた何百人もの登山客を捕らえた。噴火のため、数千人もの消防士、警察官、自衛隊員たちが大規模で危険な救助活動に駆り立てられた。いまだに60人の人びとが死亡したと報じられている。
政府はこの噴火を受けて、即座に火山監視活動事業の一新を求めた。だが、御嶽山は国内に110ある活火山のひとつに数えられ、すでに気象庁の綿密な調査の対象になっており、火山性微動の活発化が――9月11日だけで85回――記録されていたが、脅威になるとは考えられていなかった。
テクノロジー過剰の日本で、監視活動が問題であるとはとても思えない。
むしろ、火山噴火――そして、他の自然災害――が、環太平洋火山帯の縁に乗っかり、4つのテクトニク・プレートにまたがる国土の常態であるとみなすべきである。それに、一部の科学者たちは2011年3月11日のマグニチュード9地震がリスクを高めたことがじゅうぶん考えられると懸念しており、フランスの地球物理学者の研究チームは今年の7月、やはり活火山である富士山に圧力が蓄積していると示唆する論文を公表している。
富士山麓の3県は、御嶽山噴火による火山灰が救出活動を完全に妨げた様相に危機感を募らせ、先週、噴火防災訓練を実施した。同じような動きとして今月はじめ、東京大学の名誉教授であり政府の火山噴火予知連絡会の会長を務め、重んじられている火山学者、藤井敏嗣は、休止中の原発を再稼働させる政府のスケジュールで、最初の送電開始が予定されている川内原発の原子炉が火山噴火の影響を受けないとする想定に異論を唱えた。藤井は――原発から、わずか40キロの――桜島の火山噴火による濃密な火山灰が原発に到達しかねず、基本的な避難手順の実施が不可能になると示唆した。
自然災害を断じて避けられないなら、国土がカリフォルニア州よりも小さく、人口が3倍を超える国にとって、原発の存在は、控えめに言ってもロシアン・ルーレットで遊ぶのとたいして変わりない。
2週間前まで与党・自民党の期待の星だった小渕優子・前経済産業大臣は先の国会論戦で、政府が原発の再稼働を推進するにあたり、最も厳格な安全措置を保証する決意を固めていると主張し、その安全基準はフランスなどの先進諸国のそれと同等のものであると述べた。
フランスとの比較は、頻りになされるが、とても妥当とはいえない。フランスは大規模な地震や津波、火山噴火にいつも脅かされておらず、(まさしく今月、ふたつの台風が襲来した日本と違って)巨大台風の通り道ではない。去年だけでも日本に小さな地震が数百回起こり、フランスでは5回だった。日本はまたフランスより小さく、人口はほとんど2倍である。原発のこととなれば、リスク要因が根本的に違っている。
わたしたち、広島のグループは9月下旬、再建がどれほど進んでいるか、自分たちの目で見るために福島を再訪した。2011年の地震と津波の被害をまとめに受けた3県のうち、宮城県と岩手県のほうが津波による人的損失が大きかった(宮城県が5倍)ものの、喪に服し、悼み、津波による瓦礫の巨大な堆積を片付け、いま再建プランを推し進めているが、惨事収束がいまだに覚束ない福島第1原子力発電所を抱えた福島県は、深い不透明性に覆われたままである。
福島でない。県土の広大な部分が片付いていない。原発から20キロ圏内の立入禁止区域のなかでは、ほとんどの町が無人である。打ちのめされた原発に最も近い場所の不気味に静まりかえった街路をドライブしているとき、核事故について大いに書いてきた腕利きの調査報道記者、田城明が事故前の人口の概略的な推計――および現状――をわたしたちに解説してくれた。彼によれば、浪江町が事故前の人口22,000人、現状は一部規制、大熊町が11,515人、無人のまま、富岡町が15,800人、無人のまま、楢葉町が8200人、一部規制である。
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背景に福島第1原発の排気筒を遠望する浪江の町。写真:田城明。 |
過去の数十年間にわたり東京電力からこれらの自治体に流れこんだお手軽な金は、良質の建物や上品な都市環境という形では、たいしたものをあまり残さなかったようである。それでも打ち捨てられた都市の光景は傷ましい。カーテンがかかったまま、台所用品が窓を通して垣間見え、子どもの三輪車が空き家の外に置かれたままだった。
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浪江町請戸地区。写真:田城明 |
わたしたちは南相馬市で、窮地にある原発から14キロのところにあり、吉沢正巳のいう名の不敵な牛飼い農民が当局者らに逆らい、動物たちと共に残るほうを選んだ、保全農地を訪問した。日本語で希望の牧場と呼ばれる、この場所は、土地を放棄しなければならないが、自分の汚染された家畜をどうしたらよいのかわからない他の農民たちにも土地を提供している。保全農地は一種の非公式な試験場になり、放射能の動物たちに対する影響を見守っている。
だが、飯舘村のような、さらに離れた場所でさえ、中途半端なままである。飯舘村は原発から約45キロ離れ、当初、安全な避難場所に指定されたが、やはり放射能のホットスポットであると判明した。その住民6000人はいま村を離れてしまったか、日中の時間帯だけ帰宅を許されているかのどちらかである。見事な出来栄えの老人ホームはいま、移住するには年を取り過ぎた――平均年齢87歳――という理由だけで残留した少数の入居者の必要に応じている。どの部屋も空っぽである――飯舘に住んで働く意志のある、あるいはそうできるスタッフを見つけるのは不可能である。
核惨事の前は農業と畜産の地域社会だったが、わたしたちが飯舘で働いているのを見たのは、汚染された表土を除去する作業――政府の錯綜した問題の多い除染政策の一環――従事する下請け作業員3000人の一部だけだった。表土は草木などと一緒に何千もの黒いプラスチック収納袋に詰められ、それが見渡すかぎり散在している。当然ながら、どの地域も嫌われものの代物を受け入れるつもりはなく、霞ヶ関の政府が圧力をかけたり、金で丸め込んだりするだけである。浄化は今年3月に終了するはずだったが、つい先程、さらに2年間の繰り延べになった。
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写真:田城明 |
わたしたちが景観を眺めたかぎり、核事故で被災した飯舘や他の市町村が――丹念な屋根磨きと表土除去によって――通常の経済活動に速やかに復帰するとはとても思えなかった。飯舘は福島の他の場所と同じく、山々と森林に覆われ、自然界の元素にさらされているのである。表土除去は一時的に放射線レベルを下げることができるが、テッサ·モリス=スズキは‘Touching the Grass: Science, Uncertainty and Everyday
life from Chernobyl to Fukushima’1[『草に触れて~科学、不確実性、チェルノブイリからフクシマにいたる日常生活』]と標題された思慮深く、細心の調査が行き届いた記事で指摘するように、「山林の腐葉に蓄積した放射能が水で流され、常に農地に入りこんで、放射線レベルを再び上昇させる」。
歳月(および巨額の金)をかけて、表土を移動させたとしても、若い家族がそこで子どもを育てたいと思うだろうか?
東京電力福島原子力発電所事故調査委員会[国会事故調]の委員長、黒川清博士はあっぱれ簡潔に、政府の浄化事業をこのように皮肉る――「水は敷地内に溜まる一方、瓦礫は外に山積みのままです。これは、問題を未来に先送りする、まさにでっかい詐欺行為です」2。
それにしても、複雑な事態から当局者らにとって、実務的なもの――つまり、賠償や移住の問題――から優れて倫理的なものまで、基本的な問題が生じると認めるにしても、ただひとつの原発事故がこれほどの障害をもたらすことがわかったのに、激しい大衆的な反対に逆らって、安倍内閣が望んでいるように、停止中の原発の発電を再開することを、どのように正当化するのだろう? また、技術大国である日本が、核事故の余波で国内の町を葬り去ろうとしているのに、計画中の対外輸出をどのように正当化するのだろう?
さて、福島の住民は不透明な状態から抜け出せない。年配の人たちは放射線の長期的影響を受ける恐れが少なく、帰還を受け入れようとしている。幼い子どもたちのいる若い人たちは別である。男たちの多くは仕事のために戻るだろうが、女たちは家族の健康を思う気持ちが強く、戻りたくない。すべての家族にかかる圧力は、とてつもなく重い。新造語、原発離婚がプライベートな悲劇を映す。
モリス=スズキは、環境、また特に核、汚染の顕著な特徴となった陰鬱な不透明性の類を抱えて生きる、ごく普通の人びとの、このインターネット時代に強化された困難を浮き彫りにする。わたしたちは、夜の帳が下りると、特定の刻限を過ぎた人びとの入域を禁止する門限の前に飯舘を離れなければならなかった。山を車で下り、暗い、放棄された家を、1軒、また1軒と通り過ぎていくと、わたしは、福島の県民たちが、訪問し、大きな口を利く代表たち――科学者らや政府当局者たち、歌手、俳優、売り出し中の政治家、理想主義の学生、善意の外国人――の流れにどれほどうんざりしているか、よりよく理解するようになった…日の終りに、わたしたちはみな去っていく。
だから、ある種の無関心が福島に取り憑き、すべての人を悩ませ、たいがいの場所とは対照的に若い人たちを苦しめる。わたしたちがいわき市の近くに訪問した漁協の友好的で積極果敢な幹部職員は、毎週、水揚げされる魚の放射線レベルを検査するために最新型の装置類が送られてきて、安心しているようだった。若手職員は、ややこしい機械を担当しており、時おり、まったく手に余ってしまうと率直に認めた。福島県内3大都市のひとつ、郡山市で、わたしがインタビューした上級建築士は、まもなく大型の建築計画が再開されるだろうと希望を語った。彼の年下の同僚は、幼い子どもたちの父親だが、無表情なままであり、懐疑的だったように思えた。
ヒロシマとナガサキを指して、核の惨事から復興する可能性、「希望」の物語という人たちがいる。これは、被爆者たちとヒロシマ・ナガサキ市民の少なくとも2世代が向き合ってきた代価と差別を忘れろということだ。これはまた、1945年と2011年の違いを忘れた物言いである。当時、どの家にも手持ち式のガイガーカウンタはなかったし、土壌、魚、水の測定結果、あるいはホットスポットの情報を伝えるインターネットもなかった。福島は事故の前まで、日本屈指の食料主産地だった。そのブランドを取り戻すのが、いつなのか、あるいは、たとえ回復するとしても、簡単に評判を得たり失ったりするグローバル化した世界では、疑問が残る。
それでも今となっては、安倍首相が物理的に近くても心理的に遠いフクシマのために政治力を失うことはほとんどない。だが、東京の立教大学の教授で日本のエネルギー政策に関する気鋭の観察者、アンドリュー・デウィットがアジア太平洋ジャーナルで書いたように(http://japanfocus.org/-Andrew-DeWit/4174)、再生可能エネルギーに対する明確な関与(そして段階的な原発の閉鎖)について、政府が明言を渋るようでは、重要な機会が失われる。
原発推進派の政治家がとても好んで口にする、日本が「資源の乏しい」国なんて、とんでもないとデウィットは書く。日本は再生可能エネルギーで言えば――災害要因の明るい側面――豊かな地熱エネルギー源に恵まれ、競合国のあいだでトップの位置を占めている。日本は、力強い風と台風、波力、火山、広大な森林(陸地面積の68パーセント)、河川の急流、焼けるような夏、四季を通した太陽に「恵まれている」。
ドイツは、原発の可否をめぐる数十年来の国民的討論のあと、フクシマ核惨事のメッセージを肝に銘じて、だれもが日本に期待したこと、原発依存に終止符を打ったが、否定論者らは、そのドイツが直面する課題をあげつらう。確かに、いまドイツは炭素排出にてこずっているが、ドイツのグリーン[環境調和型]エネルギーへの移行の――雇用創出を含む――利点が、すでにマイナス面を上回りはじめており、時とともに排出量も減少していくだろう3。むしろ問うなら、これまでの数年に限っても、日本の政治指導者らはドイツの相手方に比べて半分しか「グリーン」でなかったが、それでどんな利点が得られたのだろう? フクシマ核事故後のいま、グリーン・エネルギー戦略の全面展開の障害になっているものを理解するには、日本政治の主流に緑の党に近いものはなにもないと指摘するだけで十分だ。
それでも、地方に行けば、あちこちに明るい場所が見つかる。伊東豊雄――プリッカー受賞建築家、2011年3月災害後の東北地方における賢明で説得力ある再建プランの提唱者――は、被災地で実験的な再建事業を主導してきた。伊藤は、建築家として、いやそれ以上に人間として、これから何をすべきか問うべきであり、「四角なものに戻って、建築の基本的な意味を問いなおす」必要があると書いた4。同じ考え方の切り替えが、わたしたち全員に、とりわけ「専門家たち」にあてはまるはずである。
世論調査が実施されるごとに、日本人の着実な大多数が、原発に復帰するよりも、再生可能エネルギーおよび「第5の燃料」、保全[節エネ]を支持する意志を政治家たちよりはるかにはっきり表明している。日本の技術力を考えると、正しいリーダーシップ、政策、テクノロジーを選択すれば、転換は最終的に可能である。核事故後の浄化作業は、いかに調整が行き届くとしても――膨大な時間、資金、エネルギーの濫費であり――あまりにも困難であることに変わらず、うまくいくかどうか、だれにもわからない。
歴史に残らない昔から、日本の最大の危難と恩恵は自然に由来してきた。これは21世紀初期のいまでも変わらない――あるいはむしろ、もっと切実になってさえいる。太古の儀礼や儀式は、不可解なようであり、または現代に生きるわたしたちの課題と無関係に思えるが、この不易の現実を告げるものに他ならない。昨年、日本きっての聖域、伊勢神宮は、起源690年以降、20年毎におこなわれる遷宮――建て替え――の儀式を執り行った。この儀礼には、非常に実際的な価値がある。たとえば、骨組みの複雑な構築術と木工技術を維持するために、精巧な建築技術を真剣かつ定期的に世代から世代へ伝える必要がある。重厚な木材を確保するために、指定された森林と水域を維持管理しなければならず、特別な供物を用意するために、近場の水田の注意深い耕作、果樹園の育成、漁場と猟区の管理、土地の生態系にかかわる知識を着実に分かち合うことが必要である。このようなものごとは世紀から世紀へと、単に精神的な豊かさだけでなく、莫大な見返りを三重県にもたらしている。
位置。位置。位置。サー・ジョージ・サンソムが自著の日本史を地理から説き起こしたのは正しかった。あるいは、わたしの亡くなった父が常にわたしたちに思い起こさせてくれるように、「決して、決して君の地理を忘れてはならない」。
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【筆者】
ナスリーン・アジミNassrine
Azimiは、国連訓練調査研究所(UNITAR)上級顧問。
【脚注】
4 “Architecture.
Possible here? ‘Home-for-All’”, Toto Publishing, Tokyo, 2013
【関連APJ記事】
【ブログ内関連記事】
【アンドリュー・デウィット記事】
【ヒロシマ平和メディアセンター記事】