Foreign Policy In Focus
「アメリカの世紀」が世界を危機に追い詰めている。
今なにが起こっているのだろう?
米国の対外政策は、危険であり非民主的、しかもリアルな地球規模の課題とまったくかみあっていない。絶え間ない戦争は避けられず、進路を変更できないのだろうか?
コン・ハリナン&レオン・ウォフシー 2015年6月22日
(Photo: Alex Alvisi / Flickr)
米国の外交政策には、なにか間違いがある。
希望の兆し――ひとつには、イランとの暫定的な核合意、そして遅れに遅れた対キューバ関係の雪解け――がほのかに見えるものの、わが国は世界のほとんどの地域で解決不能と思える紛争でがんじがらめになっている。その紛争とは、ロシアや中国といった核武装大国との緊張から、中東、南アジア、アフリカでの実戦行動まで、なんでもありである。
なぜなのか? 絶え間ない戦争と紛争が避けられなくなったのだろうか? あるいはわたしたちは、世界をありのままに見る能力――または意志――の欠如を反映する自己複製サイクルにはまりこんでいるのだろうか?
米国は世界との関係において歴史的な過渡期にさしかかっているのだが、このことは米国の外交政策に認知されていないし、反映されてもいない。わが国はいまだに、巨大な軍事力、帝国的同盟関係、優位性を自認する倫理の力によって、まるで「世界秩序」の条件を設定する権能を賦与されているかのようにふるまっている。
この錯覚が第二次世界大戦の終結に遡るとすれば、みずから宣下する「アメリカの世紀」のはじまりを知らしめたのは、冷戦の終結とソ連の崩壊だった。米国が冷戦で「勝利」し、いまや――世界唯一の超大国として――世界情勢に対して命令を下す権限または責任があるという概念が、一連の軍事的な冒険を招いたのである。この冒険は、ビル・クリントン大統領によるユーゴスラヴィア内戦への介入にはじまり、ジョージ・W・ブッシュによるアフガニスタンとイラクへの破滅的な侵略に引き継がれ、今でもイラク、リビア、イエメン、その彼方におけるオバマ政権独自の不始末に見ることができる。
ワシントンはいずれの場合でも、すこぶる複雑な問題の解決策として戦争を選び、対外政策と国内政策の両面における深刻な影響を無視してきた。それにしても、世界はこの衝動的な介入主義をかきたてる思い込みとはまったく別物である。
現在の危機を規定しているものは、この食い違いである。
新しい現実を認める
それでは、わたしたちの見通しに変革を迫る世界の状況とは、どんなものだろうか? いくつかの所見が念頭に浮かぶ。
第一に、わが国の中東紛争への没頭――そしてかなりの程度まで、東ヨーロッパのロシア、東アジアの中国との緊張――は、人類の未来を脅かす最も切迫した危機からわたしたちの注意を引き離している。気候変動と環境危機とは、ただちに対処しなければならない問題であり、前例のないレベルの国際共同行動が求められている。これは、核戦争の危険の再来にもあてはまる。
第二に、超大国の軍事介入主義は、紛争、テロ、そして人間の苦難を深刻化しただけである。世界の大半で混乱、暴力、悲惨を招いている根深い問題には、急場しのぎの――とりわけ武力による――解決策はない。
第三に、暴力に歯止めをかけ、最も急を要する問題を緩和する望みは国際協力にかかっているが、勢力圏をめぐる古くて悲惨な企みが諸大国のふるまいを左右している。同盟やNATOのような代理を通じたものを含め、すべての大陸における軍事的な利益に対する、わが国のあくなき追求は、わが国の認める利害に応じて、世界を「味方」と「敵」に分割する。このことは不可避的に攻撃的で帝国的な敵対心を掻きたて、21世紀における共通の利害を圧倒する。
第四に、米国は今でも経済大国ではあるが、経済的・政治的影響力が変転しており、米国が支配する世界金融構造にもはや統制されない国家的および地域的な中心が台頭している。ワシントン、ロンドン、ベルリンとは別に、オルタナティブな経済大国の中心が北京、ニューデリー、ケープタウン、ブラジリアに根付きつつある。BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)、上海協力機構、南米諸国連合、ラテン・アメリカ貿易ブロック、メルコスール(南米共同市場)など、独自の構造と同盟が勃興している。
わたしたちの崇高さ幻想が広い世界で引き起こした問題を超えて、長引く戦争と介入主義による甚大な国内的影響がある。わたしたちの社会的セーフティ・ネットがほころび、社会基盤が崩れているのに、わが国は軍事関連コストに年間1兆ドル以上の大枚を注ぎこんでいる。デモクラシーそのものが実質的に機能しなくなっているのだ。
(Photo: U.S. Army / Flickr)
はかない記憶と頑固な錯覚
だが、変転する状況と軍事的失敗を前にして、わが国はためらうことさえなく、政府はあたかも世界に支配権と決定権をおよぼす力を保持しているかのようにふるまっている。
この路線を設定した連中の責任は背後に消え去ってしまう。まさしく有力な大統領候補たちは、中東のメルトダウンの件に関して、ジョン・ボルトンやポウル・ウォルフォイッツといった――いまだに対外政策の難問の答えは軍事力にあると考えている――ネオコンサヴァティヴに助言をねだっている。わが国の指導者たちは、この運まかせの助言に従ったことがメルトダウンを引き起こした、そもそもの原因であったことを忘れているようだ。戦争がいまだに彼らをワクワクさせ、リスクや結末は嘲笑されている。
オバマ政権は継承した戦争の主だったものを終わらせようと、大した成果もなく努力したものの、わが国の政府は、パキスタン、イエメン、ソマリアで殺人ドローンを幅広く使用し、いわゆるイスラム国(ISIS)の宗教的狂信と極悪非道――それ自体が先般の米軍によるイラク侵攻の直接結果――に対峙するために、部隊を再投入した。米国政府は、ISISに対する戦いにおいてイランとシリアのような「敵」指定された勢力と共通の立場にあることを認めたがらず、サウジアラビアのような同盟諸国にこだわっているが、その指導者たちは宗教的狂信と内輪もめの残虐行為をあおっている。米国は別の場所でも、イスラエルによる西岸地区の占領拡大とガザ地区に対する、おぞましい攻撃の連発にもお構いなしに同国政府に絶大な支持を与えている。
イランやシリアのような場所における「戦争第一」政策は、ディック・チェイニー元副大統領や上院軍事委員会のジョン・マケイン委員長のようなネオコンサヴァティヴによる強力な後押しを受けている。オバマ政権はネオコンから距離を置こうとしてきたが、中国に対抗するため、アジアで米軍事力を構築することをめざす「アジア基軸」戦略など、軍事再配分を計画しては、緊張を高めている。オバマ政権はまた、ロシアに対する新冷戦の気運を醸成するうえで、他のNATO加盟諸国すらよりも果敢な姿勢をとっている。
わたしたちは肝心な点を見失っているようだ。「アメリカの世紀」のような代物はない。超大国が単独で国際秩序を押し付けることはできない。だが、幾世紀のことなど気にしないでおこう――わたしたちが、国ぐにを分割し、宿痾のような戦争の危険を醸成する連中よりも真剣に、わたしたちの共通の利害を受け止めることを学ばなければ、明日はないことが十分考えられる。
非例外主義
米国の対外政策の変革をめざす、どのような運動でも対処しなければならない強力なイデオロギー的幻想がある。すなわち、アメリカ文化は地球上のどの文化よりも優れているという神話である。この「アメリカ例外主義」の名で一般に通じる概念は、アメリカの政治(そして、医療、テクノロジー、教育、その他もろもろ)が他の国ぐにのそれよりもよいという堅い信念である。この信念の背後に、アメリカの流儀を世界に強要したいという福音主義の衝動が隠されている。
アメリカ人はたとえば、現実には、大学卒業者の数が第1位から第14位に落ちたときでも、わが国の教育制度は世界最高であると信じている。わが国は最高学府の学生層を国民のなかで最も重い負債を抱えた部門に陥れながら、国際教育評価順位で第17位に落ち込んでいるのである。経済協力開発機構によれば、平均的なアメリカ人は彼または彼女の教育のために世界の他の国ぐにの国民に比べて2倍のコストを支払っている。
医療も同じように鮮明な例になる。医療制度に関する世界保健機関の2000年ランキングで、米国は第37位にランク付けされていた。もっと最近の医療研究所報告2013年版では、米国は調査対象の先進17か国の最低にランクされていた。
「学校が必要な資金の全額を得て、海軍が航空母艦を購入するためにバザーを開かなければならないとき、その日こそは素晴らしい一日になるだろう」という古い反戦スローガンは、1960年代と同じように今日でも通用する。わが国は、企業助成金、富裕層減税、巨額の軍事予算を教育予算よりも優先している。その結果は、アメリカ人はもはや世界で最高の教育を受けた人びとから落ちこぼれているということだ。
しかし、「例外主義」神話に挑むとすれば、「非国民」とか「非米主義者」といったラベルを貼られる危険を招くことになり、このふたつは強力なイデオロギー的制裁であり、批判的であったり懐疑的であったりする声を黙らせる効き目がある。
アメリカ人が自国の文化やイデオロギーを「優等である」と考えているのは、独特の事実であるとはとてもいえない。だが、世界のどの他国も、その世界観を他者に押し付けることができる同等レベルの経済力や軍事力を保有していない。
米国はたとえば、コソボの独立を支持しただけではない。セルビアを爆撃して、事実上の受諾に追いこんだのである。タリバン、サダム・フセイン、ムアンマル・アル=カザフィを権力の座から除こうと米国が決定すると、まさに実行したのである。他のどの国も、そのような類いの軍隊を自国の国境から何千マイルも離れた領域に投入する能力を保有していない。
米国の現在の軍事費は、世界の軍事支出の45ないし50パーセント程度を占めている。米国は、コソボのキャンプ・ボンドスティール、沖縄諸島、ウェーク、ディエゴガルシア、グアムの周辺海域に展開する不沈空母群といった膨大に広がる軍事システムから「蓮の葉」と呼ばれる小規模な事前集積備蓄基地にいたるまで、数百か所の海外基地を保持している。物故した政治学者、チャルマーズ・ジョンソンは、米国が世界に800か所の基地を保有し、これは1895年の最盛期における大英帝国の保有数とほぼ同数であると見積もっていた。
米国は外交の矢筒にひそませた軍の矢に久しく頼ってきたのであり、アメリカ国民は第二次世界大戦の終結からこのかた、ほぼ絶え間なく戦時を生きてきた。この戦争の一部は、朝鮮、ヴェトナム、ラオス、カンボジア、クウェート、アフガニスタン、イラク(一次と二次)戦争という大仕事だった。一部は、パナマ、グレナダといった「即撃・掌握」戦争だった。その他は、特殊部隊、武装ドローン、地元の代理人が担う「隠密戦」だった。「戦争」という用語を組織化された暴力の適用と定義するなら、米国は1945年以降に80回近くの戦争を遂行してきたことになる。
(Photo: Dennis Dimick / Flickr)
銃後の守り
古い表現にあるように、帝国の硬貨は値が張る。
ハーヴァード大学ケネディ政治学大学院によれば、アフガニスタン、イラク両戦争の最終処理費用は――退役兵の長期医療プログラム込みで――米国の納税者に6兆ドル程度の負担を強いることになる。それに加えて、米国は年ごとに1兆ドル以上を国防関連項目に使っている。5000億ドルほどの「公式」国防予算には、核兵器、退役軍人給付、つまり退役年金、CIAおよび国土安全保障の予算が算入されていないし、そのうえ、わたしたちはアフガン=イラク戦争による負債の利子として年に何十億ドルも支払っている。米国は2013年までに3160億ドルの利子をすでに支払っている。
一連の優先事項に付随する国内の損害も呆然とする規模である。
わたしたちは、医療、医療費補助、保険社会福祉、教育、住宅・都市開発の合算費用よりも多額の「公式」軍事予算を使っている。9・11からこのかた、わたしたちは国内プログラム全体のために1時間あたり6200万ドルを使ってきたが、それに対して、「安全保障」のためには1時間あたり7000万ドルを使っている。
軍事支出が劣化しつつある社会プログラム向けの資金を矮小化するので、経済的不平等が拡大する。貧困層と勤労大衆はどんどん置き去りにされる。そして、ファーガソンで脚光を浴び、全国規模に反響し、人種差別――不平等な経済的・社会的分裂であり、黒人とラテン系の若年層に対する制度的な虐待――がいかに根深いか、おぞましくも思い知らせる宿痾のような問題がわが国本土を悩ませつづけている。
絶え間のない戦争状態はわが国のデモクラシーを深く傷つけ、監視・治安国家のレベルを大方の独裁者らが羨むだろう段階に高めた。拷問に関する上院情報特別委員会報告は、そのあらかたが機密指定のままだが、これまでに考案されたもののなかで最も大掛かりなビッグ・ブラザー諜報システムを運営する、説明責任を負わない秘密組織に対して国民が要請されている信頼を台無しにしている。
爆弾とビジネス
カルヴィン・クーリッジ大統領は、「アメリカのビジネスはビジネスである」と述べたと伝えられている。ことさらに意外でもなく、米国企業の利益はアメリカ対外政策の主役である。
兵器製造多国籍企業の上位10社のうち、8社がアメリカ籍である。兵器産業は連邦議会と州議会の議員たちに対するロビー活動に数千万ドルの資金を使っており、業界の製品が戦場で必ずしも役に立たない場合でも、効率と正当性の名分を守っている。たとえば、F35戦闘爆撃機――米国史上空前に高価な兵器システム――は、1兆5000億ドルの費用がかかっていながら、役に立たない。予算は超過し、飛ばすと危険であり、欠陥だらけである。それなのに、わたしたちの喉にこの傷物を押し込んだ有力企業に対して、あえて挑もうとする議員はほとんどいない。
企業利益は、米国の長期戦略の利害と目標に織り込まれている。二者が結託して、エネルギー供給を支配し、戦略的な関所に陣取って、石油とガスの通過を指令し、マーケットを確保している。
この目標はおおむね通常の外交と経済的圧力で達成できるが、米国は常に軍事力を行使する権利を留保している。1979年の「カーター・ドクトリン」――ラテン・アメリカにおけるアメリカの利害に関する1823年のモンロー・ドクトリンに酷似している文書――は、中東に関して、この戦略を具体的に語っている。すなわち、「ペルシア湾岸地域に対する支配権確保をねらう、いかなる外部勢力の企ても、米国の死活的利害関係に対する攻撃とみなし、かかる攻撃は、軍事力を含め、あらゆる必要な手段によって撃退する」。
これは東アジアの場合にもあてはまっている。確かに米国は中国との平和的な経済競争に勤しんでいる。だが、風雲急を告げるとなれば、第三、第五、第七艦隊が、ワシントンとその同盟諸国――日本、フィリピン、韓国、オーストラリア――の利害関係を援護するだろう。
米国の対外政策の路線を変える運動は、国際緊張を緩和するために是非とも必要であるが、それだけではない。わが国が戦争と兵器に支出している巨万の国富を、本国で拡大している不平等と社会危機に対する軽減策に振り向けることが否応なく重要である。
市場獲得競争と資本蓄積が現代社会の特色であるかぎり、諸国家は影響圏を奪い合い、利害対立が国際関係の基本的な形になるだろう。現実であれ想像であれ、攻撃に対する国粋主義的な反応――そして、軍事手段に訴える衝動――は、ある程度まですべての主だった国民国家の特色である。それでも、わが国をはじめ、一部の国の政府が寡頭支配勢力に従属するようになればなるほど、危機は増大する。
(Photo: Caelie_Frampton/Flickr)
共通利害を見つける
しかしながら、これまで語ってきたものごとだけが、未来を形づくるのではない。
貪欲と搾取の資本主義システムの解体または変革がまだ実現していないにしても、方向の大幅な変更が阻止されることは、必然でもなんでもない。変革の可能性、とりわけ米国の対外政策における変革は、わが国および海外の社会運動が、(1)「アメリカの世紀」例外主義に内在する習慣的な怠慢、巨額のコスト、危険、(2)気候変動に対処する国際運動の緊急性という否定できない現実に対応する、そのありかたにかかっている。
同様に、貧困によって深刻化する健康問題と天災、メシア主義的な暴力の台頭、そしてなによりも戦争への転落に対処する必要がある。主要核保有諸国間だけでなく、地域大国間の衝突の危険も考えなければならない。たとえば、パキスタンとインドが互いに核で応酬すれば、世界全体が影響をこうむる。
人類の未来という賭博を活力にする勢力の私欲を過小評価しなければ、歴史の経験と現在の現実が、平和と生存における強力な共通利害を高揚することになる。路線を変更する必要は、イデオロギー対立の一方の側だけが認めることができるようなものではない。それに、その認識は、国、民族、あるいは信仰のアイデンティティに左右されるものでもない。その認識は、むしろ、わたしたちの周りであらゆるものが破綻すれば、前途に待ち受ける甚大な代償に気づくことに求められるのである。
先ほど実施された米国の中間選挙のあと、政治の見通しは確かに荒涼としている。だが、経験によれば、選挙はそれ自体が重要であっても、政策に関して重要な変化が招来する時期と様相を占うための指標には必ずしもならない。公民権および社会的平等の問題に関して、献身的で粘り強い少数派運動が、体制派政治勢力が反抗できない形で世論を変えるのに貢献したのである。
たとえば、ヴェトナム戦争は、民主党政権と共和党政権の頑固な姿勢にもかかわらず、戦場が膠着状態に陥り、国際的にも国内的にも反対運動が高揚して、否定できなくなったとき、終結にこぎつけたのである。社会の基本的性格が変わらなくても、意義のある変化は実現可能である。大衆的な抵抗運動と植民地主義に対する拒絶反応が、大英帝国をはじめ、宗主諸国を動かして、第二次世界大戦後の新たな現実に適応させたのである。米国でマッカーシズムは最終的に打倒された。ニクソン大統領は辞職に追いこまれた。地雷とクラスター爆弾の使用は、発足時の運動が「ドン・キホーテ」と揶揄された活動家たちの小集団による反対運動のおかげで、大幅に規制されるようになった。
わが国には、わたしたちが乗っている路線の愚かしさと危険を看破した、多様で、育ちつつある政治潮流がある。大勢の共和党員、民主党員、リバタリアン――そして、国民の多く――は、世界中の戦争と軍事介入に対して「たくさんだ」と声を上げ、国ぐにを「味方か敵か」に区分けすることを基盤にする対外政策のバカらしさを言い立てはじめている。
これは、反戦心情についてお花畑になっているわけではなく、あるいは、国民がいともたやすく武力行使支持にまわると言いたいのではない。2024年はじめの時点で、アメリカ国民の約57パーセントが、「軍事力への過度の依存はテロ拡散の原因になる憎悪を増進する」の項目にイエスと答えていた。37パーセントだけが軍事力だけが選択肢であると信じていた。だが、イスラム国をめぐる集団ヒステリーが発症すると、これらの数値が変わり、きれいに横並びになった。47パーセントが軍事力行使を支持し、46パーセントがそれに反対していた。
新たな危機が勃発するごとに、国民を誤った方向に導き、軍事介入に同意するように脅す連中に対抗する必要があるだろう。だが、目下のISISにまつわるパニック状態にもかかわらず、答えとしての戦争に対する幻滅は、おそらくアメリカ国内でも世界的にもかつてないほど膨れあがっていることだろう。この心情は、永久戦争路線からの転換、ある種の穏健さ、常識的な現実主義に向かう傾向への変化を米国の対外政策に促すほどに強いと判明するかもしれない。
予期せぬものの余地を作る
新しい方法論が必要であるとして、アメリカの対外政策をどのように変更できるだろうか?
なによりも先に、軍事力行使に替えて、交渉、外交、国際協力を選ぶ米国の対外政策の推進に関する現実的な論争が必要である。
しかしながら、次の大統領選挙が近づいているいま、候補者たちから米国対外政策に異議を唱える大きな声はまだ聞こえてこない。対外政策が危機にあり、さらなる永続的な軍国主義と戦争にのめりこもうとしているいま、恐怖といかがわしい政治的計算のため、最も進歩的な政治家でさえ、あえて異議を唱えることを手控えている。
これは左派だけの心配事ではない。わたしたちが乗っている路線のくだらなさを感じている――右派、左派の、またそのどちらでもない――アメリカ国民は大勢いる。このような声は代弁されなければならず、そうでなければ、選挙手続きはわたしたちが先ほど経験したもの以上に茶番になってしまうだろう。
どのような発議が根付くか予測することはできないが、最近の気候変動に関する米中合意は、必要性が大きな障害に克服することを示唆している。限定的な二国間協定が必要不可欠な国際気候条約の代わりにならないにしても、この合意は重要な前向きの一歩である。それにまた、シリアから化学兵器を除去した米ロの共同行動に仄かな希望が垣間見え、米国のタカ派とイスラエル政府が強硬に反対していても、イランとの交渉が継続している。より最近では、オバマが、対キューバ外交関係の――久しく遅れていた――回復を図る大胆な動きに出ている。政治的な運不運は転変するにしても、必要があり、機会を作り出す強い圧力があれば、予想しないことが起こりうる。
わたしたちは、悪化する国際関係の危機に対する既製の解決策を持っていると主張しない。わたしたちには、見逃したり過小評価したりしたことがどっさりあるとわかっている。だが、米国の対外政策には国内的および世界的な影響力があること、それがまた、米国民自身を含め、世界民衆の多数派の利益を考慮して実行されているのでないことに、読者のみなさんにご同感なさるなら、この会話に参加なさるようにお願いしたい。
民衆の対外政策に影響をおよぼす能力を拡大するとすれば、デモクラシーを防衛し、反対意見と代案を奨励する必要がある。世界と米国民自身に対する脅しは非常に強大であるので、共通の立場を見つけることが、いかなる特定の利害よりも大事である。わたしたちがすべての点で互いに一致しているわけではないこともわかっており、わたしたちはまた、そうあるべきだと信じている。未来への経路は数多くある。対外政策の変革をめぐる連合は、ワン・パターンの政治行動に同調すべしと民衆に説いているなら、いかなるものも成功しないだろう。
では、路線の変革を求める呼びかけを、どのように政治的に実行可能ななにかに翻訳し、どのようにわたしたちは権力の問題を考えたら、よいのだろうか?
意味のある政策変革を達成する力は、平和活動家の持続力から民衆の政治的影響力まで幅広くある。ある環境において、権力構造そのものの意味ある変革の達成が――必要であると同時に――可能になる。
ギリシャが念頭に浮かぶ。ギリシャの左翼諸派が合同して、急進左派連合を結成し、この政党が緊縮政策を終わらせる綱領を掲げ、首尾よく政権与党に選出された。スペインの反緊縮政党、ポデモス――目下、同国の第二党――は2011年の大衆デモをきっかけに結成され、下からの草の根を基盤に組織化された。わたしたちは次から次へと組織論を論じないが、両国の経験は、変革を醸成する経路が数多くあることを実証している。
進歩派と左派は確かに権力の問題に取り組んでいる。だが、問題における前進、とりわけ戦争と平和および気候変動の問題における前進は、たとえ望ましくとも、最初に社会の諸問題に対する全般的な解決策を達成するかどうかにかかっていると考えるべきではない。
(Photo: Alex Abian / Flickr)
提案をいくつか
わたしたちが「悪事に対する連合戦線」になるといけないので、いくつかの要になる問題に注目することが必須であると感じる。悪事は数多くあるが、いくつかのものは他のものより悪い。そうしたものをじっくり検討することも、もちろん、政治に関与する営みの一環である。
これが容易でないことはわかっている。それでもわたしたちは、この課題に対処しないことには、世界が大惨事に向かって突き進むと確信している。わたしたちは、連帯できるだけの共通の計画的な主導力を見つけることができるだろうか?
2014年11月にマサチューセッツで催された会議とワークショップのあとに公表された「全員のための対外政策」に、価値ある手法がいくつか提示されている。わたしたちは、だれもがこの文書を学ぶ時間を割くべきだと考えている。下記にわたしたち自身のアイデアをいくつか提示したい――
1)わたしたちは選挙戦に対する企業資金の洪水のような投入を阻止しなければならず、投票法規の操作による組織的な有権者の公民権剥奪をやめさせなければならない。
国内問題からはじめるのは奇妙に思えるかもしれないが、ますます裕福な篤志家の支配下に落ちてゆく政治制度に対決することなしに、アメリカの対外政策について、どのような変革にも着手することができない。寡頭支配と経済的不平等の拡大は、アメリカだけの問題ではなく、世界全体の問題なのだ。オックスファムによれば、2016年までに世界の最富裕層の1パーセントが世界の富の総額の50パーセントを支配するようになる。一連の世論調査が、この経済格差の拡大は民衆に納得できるものでないことを示している。
2)年間1兆ドル以上の札束を燃やし尽くし、国際緊張と戦争の拡大で利益を得る軍事・産業・諜報複合体の抑制に着手することは必須項目である。
3)バラク・オバマ大統領は核兵器の廃絶を誓約して就任した。彼は誓約を実行すべきである。
ホワイト・ハウスはそれどころか、わが国の核兵器装備を現代化するための支出3520億ドルを認可しており、基幹施設の維持費を計算に入れると、この金額はやがて1兆ドルの高みに達するかもしれない。核戦争の可能性は抽象概念ではない。ヨーロッパでは、核武装NATO軍は核武装ロシア軍を相手に角突き合っている。中国と米国の緊張は、この地域における現在の米軍戦略――いわゆる「空海一体戦」計画――と相まって、核の相互攻撃に発展しかねない。パキスタンとインドの指導層は、南アジア二国間の核戦争の可能性について、厄介なことに無頓着である。また、イランに対するイスラエルの核攻撃の可能性も見くびるわけにはいかない。要するに、今日の世界で、核戦争は深刻な可能性として現存している。
一案として、非核地帯キャンペーンがあり、これは――個別の都市の発案による非核都市宣言から、ラテン・アメリカを網羅するトラテロルコ条約(ラテンアメリカ及びカリブ核兵器禁止条約)、南太平洋のラロトンガ条約、アフリカのペリンダバ条約まで――数多くある。中東非核地帯が成立すれば、この地域の政治がどう変わるか、想像してみるがよい。
わたしたちはまた、核兵器の廃絶と完全な核軍備削減を定める核兵器拡散防止条約第6条*の履行を要求するマーシャル諸島の運動を支持すべきである。もし諸大国が全面的な核軍縮に向かう真摯な一歩を踏み出せば、核兵器を保有しながら非加盟である諸国――北朝鮮、イスラエル、パキスタン、インド――が先例に習わないわけにはいかなくなる。しかしながら、肝心なことは、「全面核軍縮」であり、外交手段としての戦争を放棄する誓約である。
* [訳注]核兵器の不拡散に関する条約
第6条:各締約国は、核軍備競争の早期の停止及び核軍備の縮小に関する効果的な措置につき、並びに厳重かつ効果的な国際管理の下における全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約について、誠実に交渉を行うことを約束する。
4)いかなる対外政策を変革する運動も、最終的にパレスチナ・イスラエル紛争に直面するはずであり、これはアメリカ中央軍のジェイムズ・マティス元司令官のことばを借りれば、「中東で鍋を煮えたてつづけている並外れた炎」である。米国とそのNATO同盟諸国は、クリミアを併合したロシアに対して早急に制裁を課したが、イスラエルによるパレスチナの土地の長引く占領と併合に関して、文字通りなにもしていない。
5)対外政策の手段として民衆を飢えさせる――キューバ、ガザ、イランが念頭に浮かぶ――軍事封鎖を終わらせ、放棄すれば、間違いなく国際政治気候をよい方に変えるだろう。
6)「人道介入」はあまりにも多くの場合、大国が意に添わない政府を転覆させるための口実にすぎないのであり、わが国のこの嗜好を捨ててしまおう。
フィリピン国会におけるアクバヤン市民行動党の元議員であり、“Dilemmas of Domination:
The Unmasking of the American Empire”[『支配のジレンマ――アメリカ帝国の仮面を剥ぐ』]の著者、ウォールデン·ベロが書くように、「人道介入は、将来の国家主権原則の侵害を正当化する危険な前例を残す。コソボ紛争におけるNATOの介入という歴史記録がアフガニスタン侵略の正当化の役に立ち、これら二つの介入の正当化が、つづけてイラク侵略とリビアにおけるNATOの戦争を正当化するのに採用されたことから、このように結論するしかない」。
7)気候変動は実存的な問題であり、戦争と平和と同じほどに対外政策の課題である。これをもはや無視できない。
米国はこれまで、温室効果ガス排出の抑制に向けて赤子のような一歩を踏み出したにすぎないが、世論調査によれば、米国民の圧倒的多数がこの前線における行動を欲している。これはまた、企業資本主義とその連邦議会議事堂にいる支持者らの略奪者性格を暴露する問題である。前述したように、エネルギー供給の支配と石油・ガス複合企業体の利益を保証することは、アメリカ対外政策の最重点項目なのだ。
(350.org / Flickr)
国際組織と地域組織
最後に、国際組織と地域組織を強化しなければならない。主流メディアのプロパガンダは長年にわたり国際連合の非効率性を嘆いてきたが、その一方で、ワシントンは――特に連邦議会は――組織的に国連組織を弱体化しており、それを世論の見当違いに委ねようとしてきたのである。
現在の国連の構造は非民主的である。第二次世界大戦から出現した5「大国」――米国、英国、フランス、中国、ロシア――が拒否権行使を通じて安全保障理事会に君臨している。地球の諸大陸のうちの2大陸、アフリカとラテン・アメリカは理事会に常任理事国の席を持っていない。
真に民主的な組織であれば、意思決定機関として、大きさと人口に応じた補正を施したうえで総会を使うだろう。武力行使のような重大な決定は、圧倒的多数の賛成国を要するようにしてもよいだろう。
同時に、アフリカ連合、南米諸国連合、ラテン・アメリカ=カリブ諸国共同体、上海協力機構、アラブ連盟など、地域組織もやはり強化しなければならない。アフリカ連合はカダフィ体制と交渉をはじめる準備をしていたが、国連安保理に聴く耳があったなら、現在のリビア崩壊は避けられたかもしれない。さらにまた、中央アフリカやマリとニジェールの国土への戦争の拡大を防げたかもしれない。
「アメリカ例外主義」の傲慢から離れ、米国の政策の劇的な転換をめざして働くことは、米国の大した重要性を格下げすることにはならない。わが国の軍事力の悪用による悲劇的な結果と並行して、またそれとは相反して、世界に対するアメリカ国民の貢献は莫大であり、多面的である。当代の主要な課題のどれひとつとして、アメリカが世界の諸国政府の大多数と諸国民と協力して行動しなければ、首尾よく対処できるものはない。
万国の民衆を、統治、政治、文化、信仰の違いを超えて結びつける共通利害は確かにある。このような共通利害は、貪欲、紛争、戦争、究極的には破局を煽る組織的圧力を克服するほど強力になるのだろうか? 否定的回答を裏付ける歴史はどっさりあり、ドグマにも事欠かない。だが、切迫した必要性と変転する現実は、完全からほど遠いとしても、よりよい世界に結実する肯定的な効果を生むかもしれない。
今こそは変革のとき、健全な世界に向けた希望を育む人たちの全員が最善の努力そのものを尽くすときである。
【著者】
コン・ハリナンConn Hallinanはジャーナリストであり、フォーリン・ポリシー・イン・フォーカスのコラムニスト。彼の記事はDispatches From the Edgeにオンライン掲載されている。レオン・ウォフシーLeon Wofsyは生物学の元教授であり、長年にわたる政治活動家。彼の時事問題評論はLeon’s OpEdにオンライン掲載されている。
【謝辞】
著者らは、フォーリン・ポリシー・イン・フォーカスのご同輩諸氏、そしてわたしたちと意見交換をおこない、価値ある提案をいただいた多数のみなさんに感謝を申しあげたい。わたしたちはまた、非常に有益な編集補助を務めてくださったスーザン・ワトラスにも感謝したい。
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