【訳者まえがき――再録にあたって】
フィリピンのドゥテルテ大統領が反米的な言動を繰り返し、 TV や新聞の報道はあらかた、それを「暴言」と決めつけ、「識者」たちや「論者」たちもやはりあらかた、首をひねりながら、良識ぶった対応を示そうとしているようです。
だが、いやしくも一国の大統領――その言動は一民族の思いを代弁しているのではないでしょうか?
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ブッシュのイラク侵略戦争さなかの 2004 年、フィリピンのアーティスト、レナト・レデントール・コンスタンティノが語った歴史の一断面、アメリカのフィリピン侵略の実相に見る「痛ましい傷」に改めて思いを馳せてみましょう。(井上)
TUP 速報 268 号 歴史の痛ましい傷
投稿日 2004 年 3 月 5 日
ベトナム戦争のころ、「ウエスト、モア・ランド」ということばを耳にしました。アメリカ人たちは豊穣な土地を求めて、幌馬車隊と騎兵隊を西へ送り出し、先住民族を駆逐しつつ大陸西岸に達すると、艦隊と商船を仕立てて太平洋へ乗り出し、 1893 年、ハワイ王国を「共和国」に改変し、やがて併合しました。現在のイラク占領も、大きな流れのいまの到達点と考えることもできます。本稿でみるように、イラク侵略の前には、版図拡大を求めて西へ向かう道程の通過点として、 1960 年代のベトナム戦争があり、さらに遡れば、 1890 年代のフィリピン併合がありました。
ここでわたしたち自身の歴史を振りかえれば、幕末期、 1852 年に来航したペリー提督の砲艦外交があり、 1945 年、第 2 次世界大戦末期の東京をはじめとする大空襲、沖縄の「鉄の暴風」、そしてヒロシマ・ナガサキがあったことを忘れるわけにはいきません。
TUP /井上 利男
凡例:文中の [ カッコ ] は訳注
トムグラム :
コンスタンティノ、フィリピン、ベトナム、イラクを語る。
トム・ディスパッチ
2004 年 2 月 19 日
【サイト主宰者、トム・エンゲルハートによる前書き】
歴史年表で過去を調べるときには、現在進行中の事象はすべて、いつか、どこかに起源が必ずあったということを忘れないでおこう。
たったいま、建設・設計会社ケロッグ・ブラウン&ルート社がイラク駐留米軍の仕事を請け負って ( それに兵士たちに食事を賄って ) 、さんざん水増し請求している。同社の過去を振り返れば、 1919 年、テキサスにおいてブラウン&ルートの社名で創業している。同社はリンドン・べインズ・ジョンソン上院議員の政治キャリアを資金面で援助し、やがて見返りに政府契約の獲得合戦で助けられた。 1962 年、成長著しい石油生産関連企業ハリバートン社に吸収された後も、同社は、当時の副大統領であり、ついで大統領に伸しあがったジョンソンの尻馬に乗って、ベトナムに進出し、米軍の基地とか、そういう類の「基盤」整備に深く関わるようになった。
ニューヨーカー誌最近号に、ハリバートンおよび同社元 CEO (最高経営責任者)・現米副大統領、ディック・チェイニーについて、ジェーン・メイアーが書いた記事で思い出したが、あの反逆と冷笑が幅をきかせた[ベトナム戦争]時代、ブラウン&ルート社は多くのアメリカ兵の間で「バーン&ルート(火付泥棒)」という分かりやすい渾名(あだな)で知られていた。
カート・ボネガット[ SF 作家]だったら、ものごとは同じように進むと言うだろう。やはり同じようにものごとが進んで、いまもハリバートンの系列企業であるケロッグ・ブラウン&ルート社は、同社とさらに緊密な関係にある現在の副大統領を支援して、数十億ドルの調べを奏でながら、イラクでのアメリカの骨折り仕事を支えている。
今回、米兵たちがどんな愛称をケロッグ・ブラウン&ルート社に呈上しているのか、わたしは知らない。 1 世紀以上も昔、アメリカが初めて帝国的海外侵略に乗りだし、フィリピンを併合・征服した時には、だれが「基盤」整備したのかについても、わたしは知らない。だが、これは、フィリピン人コラムニスト、レナト・レデントール・コンスタンティノだったら、知っているかもしれない。
この大統領選の時節、ベトナム戦争を論じ、再構成しても、惨(むご)たらしかった歴史的事件のせいぜい色褪せた残影を思いだせるにすぎない。それに劣らず惨たらしかったフィリピンでの軍事行動の年月は、ベトナムへ続く道を開くものだったが、やはりアメリカ国民の記憶から失われて久しい。だが、ここにコンスタンティノがわたしたちに思い出してほしいと願って書いているように、忘れたままではすまされないのだ。
それにしても、だれもこの昔の歴史的事件を憶えていないと言ってしまえば、正確ではないだろう。正しく言えば、たぶん間違った人たちが誤って憶えているのだ。アメリカがイラクでやらかしている大失敗の日々の最初のころ、せっかくイラク総督気取りだったのに、早々と L ・ポール・ブレマーに取り替えられた元将軍、ジェイ・ガーナーが述べた最近のことばを次にみてみよう――
「イラクの南と北両方に『基地設営権を手中にすることが、たったいま、わが国にできる最大重要事のひとつだとわたしは思います』とガーナーは語り、基地があれば、軍事訓練のための広大な地域を確保できると付言した。『北には少なくとも旅団、それも通常よりも大きな規模の自立可能な旅団がほしいと思うのです』とも言った。
「 1900 年代の初め、フィリピンに米海軍基地を確保した結果、アメリカが『太平洋に強大な軍事駐留』を維持できたことを思えば、『わたしにとって、これからの何十年間か、それこそがイラクの意味なのです。わが国はそこになにか……中東におけるわが国の強大な軍事的存在感を示すことができる、そのようなものが必要だ。それが必要になるとわたしは考えます』
フィリピン征服からベトナム戦争までの年月を振り返ると、太平洋は時にこの国では「アメリカの湖」と呼ばれていた。第二次世界大戦中のポピュラー音楽のタイトル『だんぜん、ぼくらの太平洋』には、往時のティンパンアレー[ポップス界]を代表する響きさえあった。いま「アメリカの砂漠」と言っても、どこか違和感があるし、『だんぜん、ぼくらの石油埋蔵地帯』というタイトルでは、ヒットするとは思えない。
ここに掲載するレナト・レデントール・コンスタンティノの寄稿記事が語るように、歴史の傷はいつまでも疼くものであり、時には何世紀にもわたって血を流しつづける。だから、あるがままに憶えている者の声に耳澄ますのは、いつでもよいことだ。トム(署名)
『歴史の痛ましい傷』 History Lesions
レナト・レデントール・コンスタンティノ Renato
Redentor Constantino
さて、新しい日の岐路に立って、わたしたちはことばを失い、眼の前に広がる光景に困惑している。ありうべきものと対話を交わしたいと切に願っていながら、過去がおのずから説き明かし、耳傾けられ、思い出される時を待っていても、気づきもせず、あるいは無関心なままである。
「君たちはアラブ人の考え方を理解しなければならない」と、アブヒシュマから出没すると疑われる抵抗勢力を封じるために、同集落の周りに有刺鉄線フェンスを張りめぐらせていた部隊を指揮していた、イラク駐留米軍第 4 歩兵師団中隊長、トッド・ブラウン大尉が言った――「連中に分かるのはただひとつ、力だけだ」。
1 世紀を超える昔、いまでは思い出せるアメリカ人がほとんどいない歴史の一場面で、やはりアメリカ軍人が同じたぐいのことばを口にした。フィリピン人がアメリカの統治権を受け入れるには、少なくとも「 10 年は、銃剣政策」を維持する必要があるだろうとアーサー・マッカーサー将軍が言ったのである。この時、将軍は、「敵」から大衆の支持を切り離すために、フィリピンの村の住民全員を強制収容所に駆り集めていた。ベトナム戦争の戦略村の先駆であり、いま、イラクの反抗的な村を封じこめるために、ブラウン大尉が指揮する部隊が張りめぐらしている有刺鉄線フェンスの先例である。
歴史。もっとよく記憶してさえいれば、今日、わたしたちはどんなによかったことだろう。手始めにフィリピンとアメリカの関係の起源を探せば、わたしたちの歴史ではフィリピン・アメリカ戦争と呼ばれている章、すなわち 1899 年 2 月 4 日を始まりとし、絶え間なく 10 年続いた戦争の時代にまで遡ることになり、その戦争が、次の 20 世紀になっても、フィリピン国民が強制されて歩みつづけることになった道筋を決めただけではなく、同時に、最近のアメリカ史の骨組みをつくった帝国統治原則をも規定したのである。
この大規模でとてつもなく野蛮な衝突を振りかえれば、今日のアメリカ国民は(そしてフィリピン国民は)失ったものを見つけられるかもしれない。それは、いま目の前にある堕落を理解し、そしておそらくは共通の解放の道筋を読み解く鍵でもある。
戦争の口実
攻撃を正当化しなければと絶えまなく焦っている帝国が戦争の口実を探せば、幸いなことに、本当であっても、ウソであっても、方便はどこにでも都合よく転がっている。 2003 年春のそれは、どこにもないネバーランドにある大量破壊兵器であり、アルカイダ・コネクションだった。 1964 年のベトナムでは、北ベトナム軍小型艦艇からの攻撃だった。 1899 年には、「アメリカ兵を襲う蛮族」だった。なんでもござれだ。
リンドン・ B ・ジョンソン政権が、かねてから目論んでいたベトナム全面爆撃作戦の実施に踏みきったのは、 1964 年 8 月 2 日に北ベトナム軍魚雷艇が米駆逐艦を攻撃したとされている場所の名にちなんでトンキン湾決議と呼ばれた、連邦議会による承認を根拠にしていた。アメリカによる軍事介入の拡大を憂慮する国内世論が高まるなかで、ジョンソン政権が露骨なベトナム攻撃を議会に認めさせるために、圧力をかける口実をトンキン湾事件が与えたのだ。真偽の疑わしい報告が大騒ぎを引き起こし、第 2 の事件のたった 3 日後、 1964 年 8 月 7 日には、下院では、賛成 416 票・反対ゼロ票で、上院では、反対がたったの 2 票でトンキン湾決議が成立した。
いわゆる攻撃事件が発生する前から、決議案草稿が準備されていたことが判明したのは、後の祭になってからだった。 8 月 2 日の事件のきっかけは、アメリカ側からの挑発だった。ベトナムの小型船を護衛していた米駆逐艦が、故意に北ベトナム領海を侵犯したのである。 8 月 4 日の事件はありもしないフレームアップだった。だが、ジョンソン政権による情報操作が暴かれた時には、すでにアメリカは米軍主導の全面的なベトナム戦争に深く「かかわり」すぎていた。
歴史を遡れば、冷酷な帝国の打算と改竄 ( かいざん ) が織りなした、これと同類、劣らず血なまぐさい物語が見つかる。
共和国を葬るには
19 世紀末 1890 年代は、フィリピン革命運動にとって輝かしい 10 年だった。 1892 年、おおむね無統制な叛乱の 4 世紀が終わり、スペインの植民地支配を倒し、フィリピン共和国を樹立する目標を掲げる組織の旗のもとに、フィリピンの民衆が団結した。 96 年には、国家としての経済的・政治的独立を求める自覚的な熱意のうちに、本格的な革命戦争が勃発した。 1999 年の年明け草々、革命運動がスペイン軍を打倒したのみならず、戦争で疲弊していたにしても勝利した民衆の必要に応える用意の整った政府を設立した。
だが、このような新興共和国の夢は実現しなかった。諸島統治のありかたについて、版図拡大をもくろむアメリカが異なる考えをもっていたからである。ウィリアム・マッキンレー大統領の政権は、 1898 年 12 月 10 日のパリ協定締結をもって、スペインとの戦争を短期間で終結した。フィリピン国民のあずかりしらぬ協定にもとづき、かれらの領土は勝手にアメリカへ割譲された。だが、協定を履行して、このアジア初の共和国を併合するためには、アメリカ憲法に定める、批准には上院の 3 分の 2 以上の賛成票が必要とされる要件が妨げになった。
マッキンレーとしても、賛成票が必要最低限の 3 分の 2 に届かないと分かってはいたが、それでも協定実施を阻む決定的な障害にはならなかった。アメリカがフィリピン諸島を獲得すれば、植民地産のサトウキビを本国に無関税で輸入できるので、精糖業の生産コスト削減が期待できる。業界最大手であるアメリカン精糖社は大統領の大口献金者だった。当時の連邦議会のなかには、併合などという面倒な手をかけなくても、フィリピンが提供してくれるに違いないビジネスチャンスを、アメリカ人がすべてものにできると論じる意見もあった。だが、まもなく占領の立役者の役割を演じることになるジョージ・デューイ提督が主張したように、「アメリカがフィリピン諸島を併合しなければ、資本は安心して投資できない」。
冷血な計算
結局、ものを言ったのはおおっぴらな贈収賄であり、院内バランスが政権側に有利に傾き、必要票数の大半がマッキンレーの手中に転がりこんだ。現代の政治活動委員会、群がるロビイスト、「回転ドア」[簡単に寝返る票]の 19 世紀版さながらである。だが、状況を決定的に固めるには、大統領にとって必要なものがもうひとつあった。それは、なお足りない票を政権側に動かすための戦争の口実だった。
戦争勃発に先立つ数週間、米陸軍省[国防総省の前身]が、「原住民」に攻撃される事態になれば、「米軍は自衛行動をとらなければならない」と広言しはじめ、国民に心構えを促した。言うまでもなく、米軍のほうがマニラに押しかけていたのである。 2 月 2 日、海軍がマニラ港内の艦船で働いていたフィリピン人を全員解雇した。一方、陸軍の連隊指揮官たちは、フィリピン軍を挑発して戦端を開くようにとの命令を受けた。同日、アメリカの連隊は、サントールと呼ばれる一帯にすでに駐屯していたフィリピン軍部隊を無視して、同地を占領した。フィリピン側は抗議したが、緊張拡大を望まず、やがて退去した。
2 月 4 日夕刻、サントールにいた米兵たちは、フィリピン軍部隊の勢力圏内にさらに深く侵攻するようにと指示され、あわせて「必要があれば射て」と命令された。間もなく米兵たちはフィリピン軍歩哨隊に遭遇し、ただちに銃撃を浴びせた。最初に火蓋を切った兵卒が、「位置につけ、君たち! 黒坊(くろんぼ)がすぐそこにびっしりいるぞ」と仲間に向かって喚いたと伝えられている。
数時間後には、マッキンレーは「暴徒がマニラを襲った」と報道陣に発表した。翌日、かれはフィリピン軍鎮圧命令を布告した。
フィリピン側の使者が米軍指揮官たちに「停戦」を要請し、実際に挑発したのはそちら側の部隊であると弁明した。米軍司令官は、戦闘が「始まったからには、厳然たる決着をつけなければならない」と告げて、使者を追い払った。
たちまちアメリカの新聞紙面は「国旗に発砲した」「未開人」と「蛮族」のニュースで塗りつぶされた。 2 月 6 日、連邦議会上院で、パリ協定批准案が、 3 分の 2 の必要票数を辛うじて 1 票上回る賛成で採択された。
かくしてフィリピンは公的に合衆国植民地になり、同時にアメリカはフィリピン住民の生活向上を図るという高邁な誓約を負うことになった。だが、アメリカ支配に抵抗する武力闘争が最終的に鎮圧されるまでの 10 年間、平定作戦のドンパチによって、その同じフィリピン人が数十万規模で虐殺されなければならなかった。
「魂」を解放するには
マッキンレーがフィリピンで「慈悲深い同化」作戦を始めた、ちょうどその時期にマニラから帰米したばかりの下院議員が、フィリピンで「混乱など、なにも耳にしない」と語った。「……叛乱側にはだれも残っていないからだ。……何人のフィリピン人が地下に埋められたか、天なる神が知るのみだ。わが国の兵士たちは敵を捕虜にしない。記録も残さない。ただ、国土を一掃するだけだ。いつでも、どこでも、フィリピン人を捕まえれば、殺してしまう」。
J ・フランクリン・ベル大将は、陸軍の戦闘指揮をとる前に、「わたしが司令官に就任する日から、当地の住民に対する心遣いと思いやりはお蔵入りになる。わたしには力と権限があり、よかれと思うことはなんでもできる。とりわけ、いささかでもプライドを持つ連中は、すべて屈辱をなめさせることができる」と豪語した。
1 世紀前、アジア初の共和国を防衛し、スペインから奪還したばかりの自由を守ろうとしていたフィリピンの民間人と革命軍を、ジェイコブ・スミス大将の軍勢が無差別に虐殺していた時、「わたしは捕虜などいらない。諸君には、殺し、焼き尽くしてもらいたい。殺せば殺すほど、焼き尽くせば尽くすほど、わたしを嬉しい」というのが将軍命令だった。スミスは配下の部隊にサマル島を「鳥も通わぬ裸の荒れ地」にしてしまえと命じた。一人の兵士が殺害下限年齢を指示してくださいと伺いをたてると、スミスは「 10 才以上は全員だ」と応じた。
スミス大将は野蛮な命令を下した咎 ( とが ) で軍法会議にかけられ、有罪とされた。だが、その懲罰たるや「戒告」だった。ベトナム戦争中のソンミ村ミライ地区の集落における無差別虐殺事件では、米軍部隊の指揮官、ウィリアム・カリー中尉は終身刑の有罪判決を受けた。だが彼はリチャード・ニクソンに特赦され、たった 4 か月半で放免された。カリー中尉の前例に、スミス大将がいたのだ。
戦争を報じるボストン・ヘラルド紙特派員は、米兵たちがフィリピン人に加える残虐行為を解説して、「フィリピン駐在のわが軍は……フィリピン人全員を区別のつかない同一種族とみなし、肌が黒いので『黒坊』であり、白人領主がたいていの劣等人種に加える軽視と厳しい扱いは当然であると考えている」と論評した。早くも 1899 年 4 月には、「フィリピンの人口の半分が現在の半未開状態にふさわしい生活水準に引き上げられるためには、後の半分は殺す必要があるかもしれない」と、ある米軍指揮官が予告していた。
だが結果としては、それほど多くが死んだわけではなかった。早くも 1901 年には、殺害され、あるいはアメリカによる質の悪い占領のために病死したフィリピン人の数は、アメリカの一将軍の認定によれば、「わずか」に 60 万人だった。アメリカがフィリピン人の抵抗を文字どおりに駆逐するまで、さらに 10 年かかったことを考えれば、恐ろしい数字ではある。
それでもアメリカは、「どうしてかれらはわれわれを憎むのだろう」と自問しつづける。
連邦上院でトンキン湾決議案に反対票を投じたウェイン・モース議員が、「わたしの判決では、わが国は世界平和に対する最大の脅威であり、有罪になる」と言った。「これは醜い現実であり、われわれアメリカ国民は直視したくないのだ。将来、アメリカ史に書きこまれることになる、東南アジアにおけるわが国の無法行為の章について、わたしは考えたくもない」
アメリカ国民が「なぜ、わたしたちはほとんど学ばなかったのだろう?」と問う気持ちになった時、多くの手が握手を求めて差し伸べられるだろう。他国の人びとは、アルンダティ・ロイが[ 2003 年 5 月 13 日、ニューヨークの聴衆に]語りかけた次のことばをかれらに教えてあげたいのだ――「そしてあなたは知るのだ。残酷である代わりに優しいこと、おびえる代わりに安心なこと、それがどれほど美しいことかを。孤立するより、友情を。憎しみではなく、愛を」[※] 。
たったいま、諸国の民がアメリカ国民の耳元で次のようにそっと囁(ささや)いてあげたいと心から願っている――「(ブッシュ君)……君はよく威張って言ってますね、アメリカは偉大な国だと。でもわたしは全然そう思わない。けれど、この国に住むあなたがた民衆は、偉大になれる」[※] 。
[ ※ ] 出所:アルンダティ・ロイ著/本橋哲也訳『帝国を壊すために――戦争と正義をめぐるエッセイ―』(岩波新書)所収の講演録「帝国製インスタント民主主義……一つ買うと、もう一つただで貰えるインスタント食品はいかが?」
【 筆者 】
Renato
Redentor Constantino
レナト・レデントール・コンスタンティノは、フィリピン・ケソン市在住の作家・画家。フィリピンの全国版日刊紙『ツデー』 (ABS=CBN ニュース・オンライン版と提携 ) に週刊連載コラムを執筆。最近、グリーンピース中国と共同して、気候変動とエネルギー問題に専念して取り組む。同居家族 : 妻カラヤーン・プリド、子ども 2 人、リオ・レナトおよびユラ・ルナ。作品掲載サイト : www.redconstantino.blogspot.com
【クレジット】
Copyright
C 2004
Renato Redentor Constantino: TUP 配信許諾済み
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翻訳 井上 利男 協力
TUP チーム