最終更新:2018年1月3日
ローマ法王 「これが戦争の結末だ」長崎被爆写真配布を指示 | NHKニュース https://t.co/IbhBFmzjD5— inoue toshio 子どもを守れ! (@yuima21c) 2018年1月2日
ローマ法王「戦争が生み出したもの」— inoue toshio 子どもを守れ! (@yuima21c) 2018年1月3日
原爆被害の写真、配布指示 /毎日新聞 https://t.co/8HnODymMc9
3日付け社会面でようやく報道
ただし、ちっぽけな記事で、いかにもアリバイ的に…
飾り見出しと写真付きなのでまだましか? pic.twitter.com/rJklHztZNv
『戦争の結果』:フランシスコ教皇がナガサキ被爆者の写真をカードに印刷
スザンナ・カリナン Susannah Cullinane, CNN
2017年12月31日
教皇が公開した写真は、米国の写真家、ジョセフ・ロジャー・オダネルが1945年に撮影した。
【CNN】フランシスコ教皇は、長崎原爆被爆者の写真をカードに印刷させ、「戦争の果実」ということばを添えて、配布させようとしている。
その写真は、死んだ弟を背負い、火葬の順番を待っている少年の姿を捉えたもの。米国海兵隊の従軍写真家、ジョセフ・オダネルが第二次世界大戦末期の原爆投下からほどなくして撮影した。
世界のローマカトリック教徒を率いる教皇は、カードの裏に署名“Franciscus”に添えて「戦争の果実」と印字するように依頼した。
短文のキャプションが写真の内容と出処を説明し、その一部は「幼い少年の悲しみが、血がにじむ唇を噛み締めた姿に表されている」と読める。
写真説明文の上方に、教皇の署名。
米国議会図書館の記録によれば、オダネルは、1945年、米軍によるヒロシマ・ナガサキ原爆投下によって、日本が降伏を強いられ、第二次世界大戦が終結してからの4年間、両市で原爆の影響を記録して過ごした。
2007年、テネシー州ナッシュビルにて没。命日は奇しくも8月9日『長崎原爆忌』である。2007年、日本の皇后陛下は、オダネルが従軍中の長崎で撮った「焼き場に立つ少年」の新聞への掲載が、その年に印象に残ったことの一つとして言及されている。
【スライド】史上初の原子爆弾の実戦使用
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1945年7月16日、米国はニューメキシコ州の実験場で世界最初の原子力爆弾を起爆した。その1か月もたたないうちに、原爆が日本の広島・長崎に投下された。その惨状が日本の無条件降伏をもたらし、第二次世界大戦は終結することになった。1/19
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物理学者、アルバート・アインシュタイン(左)とレオ・シラードは1939年、米国大統領、フランクリン・D・ルーズベルト宛てに書簡をしたため、原子爆弾をドイツが作る前に研究開発するように要請した。米国は1942年になって、核反応炉を建造し、原爆を製造する最高機密のマンハッタン計画を認可した。2/19
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米陸軍大佐、レズリー・R・グローヴス(左)は1942年、マンハッタン計画の指揮官に指名された。右の人物は、ニューメキシコ州はロスアラモス国立研究所を率いた物理学者、J・ロバート・オッペンハイマー。3/19
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100トンのTNT火薬を山積みした台の上で記念撮影するロスアラモス作業員ら。TNTは放射性降下物の量を正確に測定するために用いられた。4/19
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マンハッタン計画はまた、テネシー州オークリッジやワシントン州ハンフォードの研究施設をも動員していた。オークリッジに立てられていた、このような掲示板は、事業の最高機密性を作業員らに銘記させるため。5/19
[訳注]あなたがここで見たこと、あなたがここでしたこと、あなたがここで聞いたことは、あなたがここから退出するさい、ここに置いていってください
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1942年7月、ニューメキシコの実験が成功する2日前、塔の上に原子爆弾を据え付ける作業員ら。6/19
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トリニティは、ホルナダ・デル・ムエルト[死者の旅]砂漠で炸裂した実験爆弾のコード名。7/19
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1945年8月6日、エノラ・ゲイの離陸直前に操縦席から手を振るポール・ティベット空軍大佐。ほどなくして、搭乗員らは最初の実戦用原子爆弾を投下し、広島市の人びと80,000人を殺害した。8/19
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原子爆弾、愛称「リトル・ボウイ」が落とされた直後の広島の航空写真。9/19
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米海軍巡洋艦内で広島爆撃報告書を読むハリー・トルーマン大統領。トルーマンはその8日前、日本に対し、無条件で降伏しなければ、国が破壊されると警告していた。10/19
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広島市内の橋に刻印された白い影は、爆弾で焼け焦がされなかった部分を示す。人間――もうひとり別の人間によって炸裂の熱光線から遮蔽された人――の輪郭だと伝えられる。11/19
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広島市内の仮設病院で蝿まみれになった高齢の被爆者。12/19
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1945年8月9日、長崎に爆弾が落とされる数時間前、原子爆弾、愛称「ファット・マン」のそばに立つ作業員。13/19
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長崎原爆の爆心地から10キロほどの地点で撮影された写真。長崎原爆資料館のキャプションによれば、写真家、松田弘道は爆撃の15分後にこの写真を撮った。14/19
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背景で火炎が燃え盛るなか、破壊の現場を歩く長崎被爆者ら。15/19
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爆撃の当日、長崎市内を歩く女性と子ども。70,000人あまりが瞬時に殺害された。16/19
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1945年8月15日、トルーマンが日本の降伏を発表し、電話に殺到するホワイト・ハウス報道陣。17/19
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原爆投下の3週間後、上空から見た広島の惨状。18/19
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1945年9月2日、米海軍ミズーリの艦上で日本の公的な降伏の署名を見守る陸・海軍兵ら。19/19
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[訳注]仮題『日本1945年――米国海兵隊カメラマンの爆心地写真集』。Amazon.co.jpリンクは訳者による。他にも日本語訳写真集として『トランクの中の日本――米従軍カメラマンの非公式記録』
[書籍イメージは訳者による] |
「新年を迎える準備に写真をばらまいても、教皇の立場に実質的なものをなにも加えないだろうが、それでもフランシスコは初めて、特定のイメージを休暇シーズンに配布するように指示したのであり、そのメッセージが現時点で格別に今日的な意味を示していると教皇が信じていることを窺〔うかが〕わせる」
アレンは、教皇が以前にも核兵器を断罪し、紛争が子どもたちにもたらす影響を強調していたと書いた。
【クレジット】
CNN, “'The fruit of war': Pope Francis prints photo of Nagasaki victims,”
by Susannah Cullinane, posted on December 31, 2017 at;