【本稿出典】
新刊書『福島と生きる――国際NGOと市民運動の新たな挑戦』新評論
2012年9月24日刊、2625円、四六判上製、276頁
福島の内と外で、葛藤も、軋轢も、矛盾も抱え込みながら「総被曝時代」の挑戦を受けて立とうとしている人々の渾身の記録
[編者]
藤岡美恵子(ふじおか・みえこ)
国際人権NGO反差別国際運動(IMADR)を経て、現在、法政大学大学院非常勤講師、〈NGOと社会〉の会代表。
中野憲志(なかの・けんじ)
先住民族・第四世界研究。首都圏で最高値の放射線量を示した「ホットスポット」近隣住民として本書の編集を決意する。
[執筆者]
猪瀬浩平(明治学院大学教員) 黒田節子(原発いらない福島の女たち) 小松豊明(シャプラニール=市民による海外協力の会) 菅野正寿(福島県有機農業ネットワーク) 竹内俊之(国際協力NGOセンター[JANIC]) 谷山博史・谷山由子(日本国際ボランティアセンター[JVC]) 橋本俊彦(自然医学放射線防護情報室) 原田麻以(NPO法人インフォメーションセンター) 満田夏花(FoE Japan) 吉野裕之(子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク)
[内容紹介]
「3・11」から丸一年を迎えた日本社会をさして、「無関心の暗闇」が支配していると評した人がいた。その通りだと思った。「暗闇」は、ロンドン五輪の興奮を経て、本書が書店に並ぶ秋口頃には一段と深まっているにちがいない。私たちはそのことを十分に自覚している。それでもなお本書を世に問おうとするのは、東日本大震災と原子力大惨事に見舞われた複合惨事後の日本社会が〈福島〉に試されていると考えるからである。
本書は「無関心の暗闇」に抗いながら、福島から各地へ向かい活動する市民・農民運動家と、各地から福島へと向かう国際NGOや個人の活動の記録である。そこに映し出されているのは、福島の市民・農民運動と国際NGOが交差する、十字路の風景である。「十字路」は南相馬、いわき、渡利(福島市)、郡山、二本松、三春にある。本書で取り上げることができなかった会津地方にも、もちろんある。 本書の第I部「福島の声」に耳をすませていただきたい。読者は〈福島〉の現実についてまだまだ知らない、知らされていないことがたくさんあることに息をのみ、驚くことだろう。第II部の「福島と生きる」では、今回の複合惨事を通じて初めて日本での支援活動を行うことになった国際NGOの葛藤と苦闘の軌跡とともに、現場で得た貴重な教訓などが紹介されている。NGO関係者必読である。
福島と生きることが、ある種の覚悟を強いることを私たちは知っている。と同時に私たちは、〈福島〉と向き合い続け、福島とどう生きるかを真剣に考える以外に選択肢がないことも知っている。それが「複合惨事後」社会を生きる私たちが未来世代に負ってしまった責任なのだと考えている。
「無関心の暗闇」の中で、「十字路」は確実に日本各地、世界へと広がっている。(なかの・けんじ)
原発いらない福島の女たち
黒田節子
(くろだ・せつこ)福島県郡山市在住。パート労働者。人権・女性・農業・労働・そしてフクシマ原発問題に関わる。農業に長く従事し、また土いじりを始めたいと思っていた矢先に3・11が起きた。1970年前後の「若者の反乱の時代」の影響をそれなりに受けてきたが、いつの間にか「年長さん」になり、今回の福島をめぐっては若い人と一緒に運動をしていく中で戸惑いを感じつつ、新旧の出会い・再開もあり。被曝し続けている子どもたちを何とか避難させたい。山登りが好きだったが、地元の名峰、安達太良山もホットスポットに…。
福島に生きる
『 親愛なる皆さんへ:
最大・最良の行動は、今、原発からなるべく離れることだと思います。私たちは、緊急に会津に逃げます。友人も南へ、西へ逃げています。電話が不通です。メール可能が多い。間もなく移動します。PCはいつもひらくことはできなくなります。携帯アドは○○○です。共に生きましょう!道を開きましょう!』
こんなメールを日頃世話になっている方々誰彼となく送ったのは、昨年3月13日の朝8時過ぎ。大地震からおよそ40時間。その後の15日が最も高い放射線値を出しているから、福島第一原発では危機的な状況に刻々と陥り始めていた頃だ。高崎に避難先を変えて10日ほど。このときに群馬県でもホウレンソウとカキ菜に出荷規制が出て、有機農業で安全な土造りに汗流して頑張っている妹夫婦のショックは、見ているのも辛いものだった。いったい、なんでこのようなことに。
間に合わなかった、力及ばずだった、美しい故郷と子どもの未来を汚してしまった。福島にはたくさんの子どもがいる、赤ちゃんが産まれる。これは悪夢ではなく、切迫した現実そのものだ。私たちのやらなくちゃいけないことは目前にある。
これは、事故の1ヶ月後に書いている文章の冒頭だ。切迫したあの時を思い出しては、今でも胸に迫るものがある。しかし「私たちのやらなくちゃいけないこと」は、その時に思った以上に実に多岐に渡っていることが分かってきた。
県内でも新旧の様々なグループが精力的に(必死に、というべきか)活動を始めた。まず、私が関わっているグループを簡単に紹介してみたい。
「脱原発福島ネットワーク」――チェルノブイリ事故後から活動を続けていて、今日の運動体の基礎になる部分を長い間担ってきたといえる。その努力に対して、昨年末、多田瑤子賞が贈られている。
「原発いらない福島の女たち」――震災の年の10月末、経済産業省前のテントに福島の女たちが大挙上京して三日間の座り込みをしたことからデヴュー。共生の視点・やり方を大切にして、座り込み、リレーハンスト、ダイイン、かんしょ踊り(「会津磐梯山」の古式の踊り)等、果敢なアクションを起こし続けている。
これら四つのグループに呼応して、さらにまた新しい動きも活発に生まれているところだ。もちろん、全国のたくさんの心ある人たちの熱い支援がなければ、一日たりと現在の運動の展開はないことはいうまでもない。
さて、そのような多岐に渡る動きがある中で、私からは特に三つの動き、福島集団疎開裁判(⇒世界市民法廷)や福島原発告訴のこと、それから「原発いらない福島の女たち」の運動について報告し、福島に生きる私たちの課題として、これからどのような方向性を求めるのか考えていきたいと思う。
2011年6月、郡山市の小中学生14人が市を相手に、年1ミリシーベルト以下の環境で教育を実施することを求めて、仮処分を申し立てた。14人が通う7つの学校では、3月12日~8月31日までの地上1mの放射線量の積算値はなんと7.8~17.2ミリシーベルトにも達する値を記録している。この現実を放置できるはずがない。
賠償金ではなく、単に「安全な場所での教育」を求めての裁判だった。ガンや白血病などの健康障害が発生してからではお金で償うことはできない。審理は異例の延長となった。審理終了の直前に文科省がセシウムの土壌汚染のデータを公表し、初めてチェルノブイリ事故との具体的な対比が可能となったことも、延長の大きな要因になったと考えられる。
矢ヶ崎克馬琉球大学名誉教授は意見書で、チェルノブイリ事故当時のセシウムの汚染度が郡山市と同程度であったウクライナ・ルギヌイ地区の事例を取り上げ、「チェルノブイリ事故以後、この地区では異常な健康障害が発生したが、郡山の子どもたちをこのままにしておくと今後同様の事態が予測される」と指摘。14人の申立人が通う学校周辺の測定地点を観察したところ、すべての学校がチェルノブイリの基準では住民を強制移住させた「移住義務」地域に該当していることが分かった。
しかし、郡山市は次のように言うだけだった。①その後、順調に学校での放射線量は下がってきた。②転校の自由がある。危険だと思えば転校すればよい。③郡山市は子どもの学校滞在時間以外は、関知しない。④安全な環境で教育を受ける権利、これを侵害しているのは東電であって、市ではない。⑤可能な限りの努力を尽くしている。だから、子どもたちの安全な環境で教育を受ける権利を侵害していない、と。
12月16日、「棄却」の決定。即座に当日夜、郡山で記者会見が開かれた。「これは人権宣言の正反対とも言うべき、人権“放棄”の宣言です」(柳原弁護士)。12月27日、仙台高裁に即時抗告申立てがなされた。以後、舞台は仙台に移されることになる。今後は宮城・女川原発を抱える仙台市民と福島県民との、新たな交流が始まるだろう。
今、集団疎開裁判は「世界市民法廷」にも引き継がれている。世界市民法廷とは、ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を告発するために1967年に開かれた「ラッセル法廷」(ベトナム戦犯国際法廷)を起源とするもので、今回は当時の推進者の一人でもあるノーム・チョムスキーなど世界中の良心的知識人、平和運動家らの支援も得ながら、東京では2012年2月26日、郡山では同年3月17日に「開閉廷」された。東京200人以上、郡山100人以上と、満席の参加があり、会場は熱気に包まれた。当然ながら「原告勝訴」(申立容認)の意思表示のカードで会場は埋めつくされた。
福島原発の事故によって被害を受けた人々が東電と国の原子力委員会、原子力安全委員会、経済産業省原子力安全・保安院などの責任者を刑事告訴する――この目的のもとに2012年の3月、福島原発告訴団が結成された。広く告訴人を募り、集団で告訴し、重要なポストにいる責任者には、個人的としてもしっかりと責任をとってもらいましょうというものだ。これだけの大惨事を引き起こしながら、総無責任体制がしかれていることに改めて怒りを感じる。この怒りを1324人の告訴団という形にし、福島地検に告訴状を持っていった。これは目標の1000人を大幅に超える数だ。告訴団は弁護団等を講師に迎え、刑事告訴のための勉強会を福島県内各地10カ所以上で開催、いずれも満員の参加者を得た。避難者が多い新潟県、山形県、北海道でも開催されている。七月現在、全国8カ所を拠点に県外事務局を設置中で、第二次告訴分として8月半ばから正式に全国からの告訴団参加を受け付ける。告訴人を1万人規模にしていく計画で、告訴状は11月半ばに提出予定だ。県内は引き続き募集をする。
事故が起きてしまった今、その責任の所在をはっきりさせ、謝罪と補償を求めていくことは脱原発の重要な闘いの一つである。震災後、日本を訪れたドイツの国会議員に、「ドイツではなぜ福島の事故後早々に脱原発宣言が可能だったのか」と尋ねてみた。彼女はその答えの一つにチェルノブイリの経験を挙げた。確かにヨーロッパは地続きで、ドイツも被曝国の一つであったのだ。もう一つとして彼女は、ドイツ市民によるその後の長い運動の歴史を挙げた。「ローマ」同様、「ドイツは一日にして成らず」ということだったと思う。彼女は自らを脱原発二世と呼んだ。反原発・脱原発の運動は親の世代から引き継がれ、以来「千ほどの」裁判・訴訟が起こされてきたという。「千」とは象徴的な言い方だったにしろ、なるほど、そういう運動の積み重ねの歴史がドイツには確かにある。
福島原発事故一周年では、郡山市の開成山球場に全国から1万6000人もの人々が集まった(「原発いらない!3・11福島県民大集会」後述)。それまで私たち市民派が地元郡山で行った2回の「原発いらない」デモは、500人規模のものが精一杯だったので、これはすごいことだった。もっとも、郡山で初めてのこの大集会が当然の流れと捉えつつも、ドイツと比べればまだまだ桁が一つ足りない。きっとこれぐらいの規模なら、これからは何回でも必要になるのだろう。
自然界に放出されてしまった途方もない量の放射能との闘いは、私たちが生きている間には解決しきれるものではまったくない。この現実から目をそらすわけにはいかない。今私たちが懸命にやっていることは、後に続く人たちへのほんのささやかな「種まき」に過ぎないだろう。
詩を一つ引用して紹介したい。
「あとからくる者のために」(坂村真民「詩集・詩国」より)
あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ
あとからくる者のために
しんみんよお前は
詩を書いておくのだ
あとからくる者のために
きれいにしておくのだ
ああ後からくる者のために
みんなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分でできる何かをしてゆくのだ
(坂村真民『詩集 詩国』第1集、大東出版社、1997より)
*坂村真民(さかむら しんみん)1906~2006、熊本県出身の仏教詩人。伊予の僧侶、一遍上人の生き方に共感。1934年に朝鮮半島に渡り、46年愛媛県に引き上げ国語教師となる。62年、自作の月刊詩誌『詩国』を創刊。随筆集『詩集 念ずれば花ひらく』(柏樹社、1979)ほか。
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3日間の座り込み「エンディング集会」2011年10月29日 (東京・日比谷公園かもめ広場、撮影:池脇聖考)
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「原発いらない福島の女たち」のアクションとこれから
福島の人はおとなしい。もっと怒ってもいいのに。そんな声がどことなく聞こえていた。私たちが怒っていないハズはないし、それどころか、悲しさと悔しさに日々気持ちがかき乱されている。いい加減な「風評」に抗すべく、何かやってみたい、それも目に見える形で――すでに原発事故から数カ月後にはそういう思いが高まっていた。
「やっぱ、ハンスト?」「それもいいけど、多くの人が参加できるようなもんがいいんじゃない」「場所は、県庁前か東京か」「どうせなら国会前だよね」――女たちの会話は乗りも軽やか。トントン拍子にコトは決まっていった。2011年10月末の「経産省前座り込み」のわずか1カ月前のことである。その輪は日毎に膨らみ続け、県内女性100人の目標は優に超えていった。準備段階における実働スタッフは10人足らず。どんな組織に頼るわけでもなく、一人ひとりが得意分野を最大限に活かしながら、アクション直前には睡眠時間を削って奔走し、メールを打ち続けた。
* アクション――経産省への申し入れ・女性代議士全員へ面会申し入れ・首相官邸内で内閣補佐官との面談
・デモ行進・手編みチェーンを持って経産省を囲む人間の鎖・日比谷公園かもめ広場でのエンディング集会。
* 座り込み延べ人数(10月27日~29日の3日間)――2371人(あの狭いテント前広場周辺の人、人、人の群れの中で、お金を払い受付をキチンとしてくれた人の数)
* 29日(土)のデモ参加者――約1300人。
* 同期間中、大阪・広島・富山・北海道・和歌山・ロス-アンジェルス・ニューヨークでも、「福島の女たち」に連帯する座り込みアクションがあった。
10月のこの「座り込み」で一躍有名になってしまった「福島の女たち」は、その後も立て続けにアクションを起こしてきた。「東電御用納めアクション」ではバスを貸し切って原発即時廃止と補償を求めて東電交渉に臨むとともに、「放射能は爆弾より怖い」と福島の私たちを励ましてくれた平和運動家の益永スミコさん(1923~)にもお越しいただき、「益永スミコさんを囲む集い」を開催。年が明け、震災と原発事故の一周年を期して行われた「原発いらない!3・11福島県民大集会」(同実行委員会)のプレ・イベント的な位置にあった「原発いらない地球(いのち)のつどい」では、たくさんの企画や分科会を大成功裏のうちに収めた。この「原発いらない!3・11福島県民大集会」というタイトルは、当初案では「原発いらない!」の文言はなく、まったく「復興」調そのものだったので、わたしたちが実行委員会事務局に「脱原発」の主張が明確に分かる文言を加えるよう強く迫り、実現させたものである。この文言がなかったなら、一体何のために、全国から大勢の人たちが福島に集まってくれるのか、まったく分からない集会になっていただろう。
その後、福井・大飯原発再稼働ストップを掲げて2012年3月25日から開始された若狭の住職、中嶌哲演さんのハンストに強く共感し、私たち「福島の女たち」もそこにつながる形で、3月30日からのリレーハンスト(全国に呼びかけて実施)へ進展していった。このハンストは国内50基の原発中、唯一稼働していた北海道・泊原発が定期検査で止まる5月5日まで続けられ(延べ参加人数約200人)、経産省前においては「女テント」に呼応して、「男テント」でも開始された。また、ニューヨークやイタリアなど海外でも行われ、5月5日の子どもの日以降、日本は「誰も犠牲にすることのないエネルギー」だけで動くことになった。
6月、毎週金曜日ごとに行われてきた首相官邸前での「再稼働反対」デモへの参加者は徐々にふくれ上がり、同月29日には20万人もの人々が官邸周辺を埋め尽くした。これを「紫陽花革命」と誰かが命名している。このとき野田首相は「大きな音だね」と、うそぶいたそうな。大多数の民意も官邸には届かず、7月1日21時、大飯原発では予定通りに、制御棒を引きぬく作業が開始されてしまった。
けれでも、紫陽花は根が強い花である。切花でどんどん増殖する紫陽花は、霞が関から確実に全国へと拡がり開花していくだろう。20万人の再稼働反対コールに、私たちは再稼働で落ち込むより、むしろたくさんの新たな元気をもらって福島に帰ってきた。これからだ。
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「東電御用納めアクション」2011年12月28日、東電本社ビル前 (『POCO21』2012年3月号取材時に撮影)
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ともかくも、女たちの嵐のような1年半が過ぎていった。「福島の女たち」の名はアクション名であって、いわゆる組織名ではない。代表を置かず、どのような会則・会費もない。あるのは信頼関係とそれぞれの個性を生かした参加の仕方のみ。…このように言えば聞こえが良すぎるかもしれないが、近頃、女たちも既存の多様なグループから無縁ではなく、それぞれの背景、個人史を持って運動に参加していることを意識せざるを得なくなっている。これまで忙しすぎて見えなかったところだが、それは当然といえば当然のことだ。女たちは世界と歴史との中に自分たちの位置を自覚していけるか、分断されないでやっていけるか、男たちの内ゲバの歴史(70年安保闘争が高揚する中で、考え方を異にする党派同士が暴力で他者を排除した労働運動、学生運動の負の側面)にNO!をハッキリと突きつけることができるか、大事な2年目に入る。
科学は言う、多様性こそが自然界の力強さだと。人間界も同じではないだろうか。多様性とはつまり、違いを認め合うこと。経験が多いとはいえない「福島の女たち」にその力量が生まれるかどうか、試されるのはこれからだろう。
女たちの中にも体の不調を訴える人たち出てきている。これは見過ごせない。自分たちも保養を意識的に取らないといけないことに気づき始めている昨今だ。これから永い闘いになる。
最後に
2011年の夏はこれまで以上に広島・長崎を思った夏だった。広島で被爆しながら生き延びた人たちが、「原子力の平和利用」という言葉にだまされ続けたことを反省し、今、福島のことを心配してくださっている――そのことを知ったからだ。胸がつまる。広島と福島の今日的な視点からの共通項は何か? それは国策による「情報操作」にあるのではないだろうか。福島ではSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)が地震直後から稼働していたにもかかわらず、1カ月以上も公開されずに住民たちを無用に被曝させた。あれはブラックジョーク? 広島・長崎でも、最も必要なときに命にかかわる情報が公表されず、避難先でさらにたくさん被曝を強いられ亡くなった人たちがいる。自らも長崎で被曝していることを売りにして福島の大学に居座り、「安全・安心」と言い放っている御用学者の一群がいる。
個人的なことをいえば、娘と孫を郡山に呼ぶことはできなくなった。あの日から突然使われることのなくなった玩具や縫いぐるみが目に入る度に、悲しみが襲う。ザワザワとした毎日だ。「街では人々が買い物をしている。犬が散歩している。しかし、検知器で測ってみれば、人々が“見えない蛇”に咬まれ続けていることが分かる」。これは、講演で福島県入りしたクリス・バズビーさん(欧州放射線リスク委員会[ECRR]科学事務局長)の表現だ。
国が線引した補償額による重層的な地域の分断。放射線量の差はそのまま軒下を分け、親類縁者や隣近所の共同性を絶ち切ってしまった。すでに避難生活で親子が離ればなれになってしまったのに、またしてもだ。これらの地域の伝統的な共同体は、もうけっして元通りには再生できないだろう。フクシマの悲しみはここにもある。
稲ワラからの汚染牛肉に始まり、今ではがれき問題が全国を駆け巡るように、もはや私たちは総被曝時代を生きざるを得なくなっていることがいよいよ見えてきた。これからますます自覚的な市民による強力なネットワークが必要になってくる。あらゆる垣根を越えた、グローバルで弾力性のある市民運動が求められている。すべての原発の再稼働を押さえこみ、10年後ではなく「今すぐに」、原発を止めなくてはと思う。今なお原発をアジアに売り込もうとしている国策には、頭の回線がぶち切れるほどの怒りを感じる。
福島の悲劇が、そして私たちの叫びと行動が、世界の原発を止める大きな第一歩になること。そこにこそ、私たちの切実な望みと、福島に生きる意味があるのだと信じたい。
花は暗闇で育つ。「私は信じる」と、ソローも記した。「森を、草原を、トウモロコシが育つ夜の闇を」
(レベッカ・ソルニット『暗闇のなかの希望――非暴力からはじまる新しい時代』
井上利男訳、七つ森書館2005、210頁)
*ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 1817~62、アメリカの詩人・博物学者。マサチューセッツ州にあるウォールデン湖の湖畔で2年にわたる自給自足の生活を送り、その経験をまとめた『ウォールデン 森の生活』(今泉吉晴訳、小学館2004ほか)はアメリカの文学の古典として広く知られている。
©2012 Setsuko Kuroda
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筆者、経産省前女テント内で 2012年2月
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