2015年2月10日火曜日

独誌シュピーゲル「不明確な放射線の脅威」ドナルド・レーガン乗組員の集団代表訴訟


「不明確な放射線の脅威」
フクシマに派遣された米海軍兵らは法の裁きを求める

'Uncertain Radiological Threat': US Navy Sailors Search for Justice after Fukushima Mission
アレクザンダー・オザン Alexander Osang 
201525
米空母ロナルド・レーガンは2011311日、壊滅的な津波のあと、救援のために日本に急行した。艦を降りた水兵らの多くが、フクシマの原子炉メルトダウンによる放射線被曝の結果と思われる病気にかかった。彼らはまもなく法廷に現れる。
AFP/US Navy
20113月、壊滅的な津波が日本の東海岸を襲ってからほどなく、米海軍空母ロナルド・レーガンは人道援助を実施するために登場した。そのため、乗組員たちは危険なレベルの放射線に被曝をしたかもしれない。2011323日、艦上の放射能を除染するために飛行甲板を洗浄する水兵たち。

本稿ドイツ語原文初出
1月31日付けシュピーゲル
米空母ロナルド・レーガンは2011311日、進路変更の指令を受け、津波に襲われた日本の東岸域に向かった。命令が届いたとき、米艦ロナルド・レーガンは韓国めざして航行しており、乗員男女4,500名を統率し、同艦乗務にあたっていたトム・バークは針路を変えた。米海軍将兵らは312日、仙台のすぐ北の日本沿岸域に到着し、数週間、その海域に留まった。任務はトモダチと呼ばれていた。

「友人」を意味する「トモダチ」という命名は、後で考えれば、微妙な意味合いを含んでいた。

3年半後、レティシア・モラレス最先任上級兵曹長(マスターチーフ)はシアトル北方の寂れたデパートのカフェで、10か月前に彼女の甲状腺を切除した医師の名前を思い出そうと頭をひねっていた。彼女の隣に座った配偶者、ティファニーは大きな箱から錠剤を探し出し、モラレスの方に押しやった。

「エリクソンかなにかだったと思うわ。それともエリック、あるいはリック。ああ、わからない。医者が多すぎるのよ」とモラリスはいう。彼女はそれまでの1年半のあいだ、癌専門医、放射線科医、心臓専門医、血液専門医、腎臓専門医、胃腸専門医、リンパ節専門医、代謝専門医に診てもらっていた。「いまのわたしは毎月の半分、医者の診察室にいるのよ。今年、MRT(磁気共鳴断層撮影法)検査を20回以上も受けたわ。もうなにもわからなくなった」

彼女は錠剤のひとつを口に入れ、水を一口すすって、苦笑いする。

ロナルド・レーガンに乗り組んでいましたか、と聞いたのは内分泌専門医だった。トモダチの時でしたか? そうです、と彼女は答える。それがどうかしましたか?

モラリスが言うには、医師は最近の数か月のあいだに6回、同艦に乗り組んでいた水兵たちの甲状腺を切除したと答えた。彼女はその時になってようやく、史上最悪の民生用原発事故と彼女自身の運命の関連を悟った。

フクシマの破局的惨事は世界を変えた。テレビの生放映中に原子炉がメルトダウンを起こし、1989年のチェルノブイリ事故のさいの2倍に達する放射性物質が放出された。核災害のため、15万人の人びとが町や村から追い立てられ、環境全体が数世紀にわたる毒物で汚染され、数十万もの家畜が殺された。この災害はまた、世界中の国ぐにに原子力の使用を考えなおさせることになった。フクシマは単に地名であるだけでなく、歴史的事件になり――おまけに、レティシア・モラレスにとって、人生を一変させることにもなった。

これは痛みの伴う体験であり、それも健康状態の悪化のせいだけではなかった。この体験のため、彼女はみずからの心に奥深く抱いていた確信と衝突するまでに追い込まれた。彼女が仕えた軍隊は、日本沿岸域における任務のせいで健康に危険がおよぶことはないと告げていたが、結局、彼女は病気になっている。彼女が言うには、19歳のとき、人生を組み立て、目的をつかむために海軍に入隊した。母親が子どもたちの面倒を見ることができなかったので、彼女はあちこちの住処や里親の家庭で貴重な青春時代を無駄に費やした。ようやく父親に出会ったのは、成人してからだった。彼女は入隊後、基本訓練のためにネヴァダ砂漠に赴き、さらに海へと向かった。

必要とされるのは素敵

彼女は2008年以来、ロナルド・レーガン艦上の飛行甲板、それに水兵100名ほどの責任者を務めてきた。同艦は甲板の下に100機の航空機を格納する空間を有し、さながら海上の都市である。母港はカリフォルニア州のサンディエゴであるが、モラリスはワシントン州のシアトルに遠からぬ港に駐在していた。彼女は人生のかなりの期間を世界の海洋上で過ごし、アラブ首長国連邦、日本、韓国、フィリピン、中国、マレーシアを経由して航海した。

乗組員たちは通例、艦が岸壁を離れ、海に向かってから初めて、どこに赴くのか、知ることになる。だが、どこに向かうにしても、艦上の日常勤務がしばしば変わるわけではなく、基本的に訓練演習と艦体整備に集中することになる。任務の意図は実のところ、わが艦隊ここにありと世界に見せて、公海にアメリカの勢力圏境界線を記すことにある。モラリスが言うには、折にふれて実際に必要とされること、それ自体が素敵なことだ。

ロナルド・レーガンは201122日、サンディエゴを出港し、寄港予定の韓国釜山に向かった。トム・バーク艦長が艦内拡声装置で日本に津波が襲来した速報ニュースを伝えたとき、同艦は半年がかりの世界一周航海のまだ初期段階にあった。本艦は人道援助を実施するために日本の沿岸域に向かっている、と彼は告げた。

モラレスはもちろん、ことさらなにも思わず、艦の下を大海原が滑るように流れているばかりだった。おまけに彼女は2008年、猛烈な台風がフィリピンを襲ったとき、同じような人道任務に参加していたので、日本への進路変更は初体験ではなかった。「それがわが軍の仕事です。助けるのです」と彼女はいう。

彼女は当初、フクシマの原発における爆発について、なにも知らなかったが、海岸沿いに北上するさい、口のなかに金属の味を感じたという。他の者たちもそれに気づき、水兵らは不安の眼差しを交わしさえした、とモラリスはいう。放射線に被曝した人たちがそのような金属味を訴えることが多く、モラリスはいま、その時が、フクシマが太平洋上に送り出した放射能の雲のなかを航行した瞬間だったと信じている。

後悔することはなにもない

米艦ロナルド・レーガンは313日の朝、日本の沿岸域に到着し、家屋、車、瓦礫が海上を漂う、想像を絶する惨状を初めて目撃した。死体も流れていた。

モラリスは目にした惨状を思い出すと、目に涙を浮かべる。だが、その涙は同時に、任務は遂行するに値するものであったし、彼女と同僚兵たちは可能な限りの救助活動を実施し、後悔することはなにもなかったと気づくのにも役に立った。

彼らは到着ほどなくして、フクシマの爆発を知ったが、バーク艦長は危険にさらされていないと保証した。しかし、母国にいる人びとはもっと懸念しており、モラリスは心配する父親からのメールを受信しはじめた。父親は長年、原子力施設で働いて過ごし、犬――ビーグル――を使って放射線実験を実施していたと彼女はいう。父親は彼女に、甲板に出ないこと、ペットボトルの水だけを引用すること、ヨウ化カリウム錠剤を服用することと警告した。

それなのにモラリスは、本土に向かう救援ヘリに物資を積み込む志願者が募られると、彼女の部隊の兵員らと同じように参加した。それが仕事である。助けるのだ。

彼らは目に見えない危険を心配しないように全力を尽くしたが、それが避けられないこともあった。たとえば、沖合に漂泊してから数日後、突然、艦内放送が、水道水を飲んではいけない、シャワーを浴びてはならないと告げた。モラレスはまた、津波が襲ったとき、南日本に駐在していた彼女の配偶者が、部隊とともに破壊された原子炉から非常に遠い太平洋の真ん中のグアム島に移動したことを知った。だが、ロナルド・レーガンはその海域に留まり、艦長は翌日、検査結果が異常なしだったとして警報を解除した。モラレスは部隊とともに甲板上で働きつづけ、彼らは心配を忘れてしまった。彼女は、「バーク艦長が知っていながら、わたしたちを危険にさらしたとは思いません。海軍はそのようなことをしないものです。もっとマシなやりかたも知らなかったのでしょう」という。

国防総省は後日、議会に提出した報告において、同艦が海岸から100海里(185キロ)以内に接近したことはないという。だが、それはおかしいとモラレスはいう。彼女は自分の記憶を信頼しており、じっさいに彼らは海岸線のすぐ近くで活動したという。彼らは4月になってようやく、日本の東岸域を離れ、タイ、次いでバーレーンに向かう前に、南西に遠く離れた佐世保に針路をとった。彼らは2011710日、母港に帰着した。奇しくもモラレスの32回目の誕生日だった。彼女は2週間後に昇進し、給料は1月あたり400ドル跳ね上がった。

彼女が帰宅したとき、ワシントン州は夏であり、日本における任務のことなど、あらかた忘れ去ってもおかしくなかった。ただし、それも煩わしい書類に記入しなくてすむ場合のことである。貴官は屋外に何時間いましたか? いた場所を正確にご記入ください。
彼女は、わたしは常に飛行甲板上におり、そこで常勤していました、と書いた。

「不明確な放射線の脅威」

彼女の乗艦の艦長から最後のメッセージがフェースブックで届いた。彼は部下の乗組員たちに対して、偉大な任務、とりわけ日本における任務について感謝を表明していた。「歴史上屈指の複雑な人道救援活動を見事に遂行したことを、われわれは誇りとしております。われわれは瓦礫地帯や寒冷・氷結条件をものともせずに活動したのみならず、不明確な放射線の脅威のただなか、物怖じしませんでした。(…)われわれは恐怖を克服し、みずからの仕事を立派に遂行したのであります。トモダチはその圧巻でした」と、艦長は書いた。メッセージは201198日に投稿された。

レティシア・モラレスは20135月に突然、めまいの発作に襲われはじめた。腕が膨れあがり、右手が野球のミットのようになり、視野狭窄症状が出たと彼女はいう。医師たちは彼女の脳のコンピュータ断層スキャンを実施し、夥しい数の血液検査をおこなった。彼女のホームドクターは、なにか深刻な事態が進行しているが、それがなにか、よくわからないと告げた。

2013年の感謝祭(11月の第4木曜日)のころ、腎臓痛がはじまった。医者たちはまたしても原因がわからなかったが、肝臓に腫瘍を発見した。20141月、医者は彼女の脊椎に問題が集中していると告げ、2月になると、甲状腺の悪性腫瘍が見つかった。

モラレスは多少なりとも調査をはじめ、彼女が苦しんでいる症状の多くが、放射線に被曝した人びとが経験する症状と一致していることを知った。「わたしが診てもらった医者の何人かは、そのようだと請け合いました。しかし、医者たちは、わたしがレーガン乗務中に被曝したとは認定することができませんでした。医者たちはできなかったのか、それともしたくなかったのか。わたしになにがわかるでしょう?」

彼女は2014年夏、心不整脈を起こしはじめ、秋になって、医者たちは彼女の胸に転移癌を見つけた。

その一方、国防総省はオペレーション・トモダチにおける海軍の役割に関する調査結果の報告書を議会に提出した。その調査は、米艦ドナルド・レーガンの飛行甲板上で常時勤務していた水兵たちでさえ、危険なレベルの放射線に被曝していなかったと結論づけていた。報告書はまた、汚染水による被曝は、アメリカ横断航空便に搭乗する乗客がこうむる被曝量合計値を超えないと告げていた。さらにまた、放射能による癌の進展は水兵たちの病気の進行よりもずっと遅いとのご託宣だった。

ペンタゴンの代表者は議会が軍人の健康に寄せる関心に感謝を申し述べ、あらゆる側面を検討したが、疑わしいことはなにも見つからなかったと語った。

さて、レティシア・モラレスの側には、名前の思い出せない内分泌専門医、彼女の分厚い医療ファイル、やはり病気になった飛行甲板の同僚カップルの物語が残されていた。

重症肝炎

しかし、彼女はまた、カリフォルニア州で2人の弁護士が集団代表訴訟の準備中であると知った。彼らは福島第1原発の事業会社、東京電力に対して、事故現場の近くにいた米陸海軍兵70,000人の代理人として訴訟を起こすことを狙っていた。モラレスは弁護士らに接触したが、彼女にとって、提訴の相手が海軍でないことが大事だった。なんと言っても彼女は兵士であり、忠誠心を失いたくなかった。健康を失ったとしても、人生の目的を失いたくなかったのである。

法廷代理人らは、フェレス原則[Feres Doctrine]という1950年代の最高裁判例があり、アメリカにおいて軍を相手に訴訟をおこすことさえ不可能であるとモラレスに説明した。その判例は、兵士は軍務を原因とする負傷または死亡の責任を国に帰することができないと規定している。モラレスは安心して、集団代表訴訟原告リストに氏名を登録した。

彼女と同じ部隊に所属し、病気になった他の水兵らも訴訟に加わった。その何人かは、レズビアンのカップル、レティシアとティファニーが寛いで暮らせる地域、美しい太平洋北西岸のモラレスの家からそれほど遠くない場所に住んでいた。二人は昨年、街路が歴代米国大統領と木樹にちなんで命名されている地域の新築住宅を購入した。ワシントンは健全で美しい州であり、マリファナをバドライト[軽口バドワイザー]と同じように合法的に買うことができる。

モラレスの下士官のひとり、ブレット・ビンガムが近所の新築住宅に住んでいる。彼の首はフットボール選手のようであり、チャニング・テイタムのように微笑み、幼い子どもたちに恵まれ、数頭の犬を飼い、車3台収納ガレージを所有している。4台目は路上に駐車している。年に2度の献血をしている。

ところが昨年のこと、いつもの献金を済ませてからほどなく、すぐに連絡してほしいと告げる手紙を血液バンクから受け取った。彼は重症の肝炎にかかっていると告げられ、薬物をやっているかと聞かれ、あるいは汚染された注射針を使ったのかもしれないと言われた。彼はいいえと否定し、医者に診てもらうと、「放射線肝炎」、すなわち放射線に起因する一過性の肝臓疾患にかかったのかもしれないと告げられた。2回目の検査を受け、さらに3回目を受けて、ようやく全快の診断を得た。それでも、もはや献血は許されなかった。

24歳のロン・ライトは2010年に海軍に入隊し、数街路ほど離れて住んでいる。日本への航海が彼にとって最初の空母乗艦・海外任務であり、最近の状態を考えれば、最後の任務になりそうである。寒く、雪が降るなか、飛行甲板にモラレスの部隊とともに立っていたのを憶えている。だが、パンツ、ジャケット、通常のブーツを覆うブーティーといった防護装備を支給されたのは数日後だったことも憶えている。

交代時間に甲板の下に降りると、検査を受け、汚染されているとみなされたものを放棄しなければならず、それらのものは焼却され、ライトが信じるには、次いで海中に投棄された。一度、彼はパンツさえ提出を余儀なくされ、いまでも憶えているが、下着姿で艦内を歩かなければならなかった。だれもが笑い、彼も笑った。そのとき、なにかのジョークだと思った。「彼らは安全だと言っていました」と、ライトはいう。

常備薬

1か月たって、ライト自身の表現によれば、彼の精巣がテニスボール大に膨張し、痛みが耐えられなかった。空母はまだ日本海を航行しており、艦に乗り組んでいた医師は、とりわけライトの疾患の病名がさっぱりわからないという理由により、この若い水兵の航空搬送を勧告した。その代わり、彼は痛み止めを処方された。手当てに変更はなく、ガバペンチン[抗てんかん薬]とパーコセット[複合鎮痛薬]が彼の常備薬になっている。

ライトは、「フクシマの放射能となにか関係しているのですかと質問すると、医者はとてもぶっきらぼうに、『いや』と言いました。なにか国防総省の調査報告を見せてくれましたが、痛みは止まりませんでした。いつも軍病院で、手術を7回受けました。なにも役に立ちませんでした。診断もなく、投薬だけです」という。

ライトは除隊期限になる4年以内に現役に復帰できなかった。彼はいま、家で無為に座って、医者の予約日を待っているだけである。彼はたいがい台所で時間を潰しており、そこから窓の外に森を眺めることができ、足元には愛犬がはべっている。最近に訪問したおり、彼のガールフレンドが居間のソファに座って、スマートフォンを見つめていた。

「ねえ、なんの話をしているの?」と、ふいに彼女が声をかけてくる。
「ぼくの玉のことだ」と、ライト。
「あら、そう」と、彼女はいい、スマホから顔をあげない。

モラレスの部隊で、明確な診断がくだされた唯一の水兵が、テオドール・ホルコムである。副甲状腺の癌にかかり、そのために20144月に死亡した。トモダチ救援任務の最初の死者である。

ホルコムが電話口で話せなくなるほど病気が重くなったあと、モラレスは彼の前妻を通してのみ病状を知ることができた。ホルコムは、とりわけ彼の問題について、決して多くを語らなかったとモラリスはいうが、彼女の最も信頼できる水兵のひとりだった。彼は遠く離れたノースカロライナ州で妻と住んでいたが、後にネヴァダ州レノの友人宅に移り、そこで亡くなった。

「彼は終末期にすっかり落ち込んでいたと思うわ。それも健康問題だけのせいではなくて」と、モラレスはいう。

彼らは艦上で知り合いになっただけだった。彼らは半年間、ともに暮らし、米国のあちこちに向かって、別々の道に進んだ。彼らのほとんどは、自分の健康問題にすべて自分で対処しなければならなかった。

仕事もなく除隊

テオドール・ホルコムは無二の親友であるマヌエル・レスリーの腕のなかで死んだ。二人は6年生のときからの知り合いであり、海軍に一緒に入隊した。レスリーが結婚したとき、ホルコムが花婿付添人を務め、ホルコムが結婚したとき、レスリーがそのお返しをした。彼らの結婚のどちらも永続する運命になかった。レスリーが言うには、海軍が関係を断ち切り、女たちはかくも長く一人暮らしを余儀なくされる。

20131月、レノ郊外のレスリー宅にスーツケースを携えたテオドール・ホルコムが現れた。海軍は彼の登録を延長していなかった。ホルコムは14年間の就役を終えていたが、15年にならなければ、年金は支給されなかった。かくして彼は、仕事もなく除隊を余儀なくされ、妻と娘は何千マイルのかなたに住んでいた。レスリーは2006年に海軍を除隊しており、友人の過去をあれこれ思い描くことしかできなかった。

ホルコムは来客用の寝室に転がり込み、二人の無職退役兵は終わることのない夏休みの学校生徒にようにして暮らしていた。あるいはまるで退役者のようだった。時間の多くを屋外ですごし、しばしば一緒に狩りに出かけた。ホルコムの海上生活は徐々に遠退き、彼は新しい現実に慣れていった。退役を余儀なくされたのは、自分の落ち度のせいでないと友人が考えはじめるまで少なくとも1年はかかったとレスリーはいう。

そして、ホルコムは病気になった。

2013年のクリスマスの少し前、彼は突発的な呼吸困難に陥り、医者たちは翌年1月、彼は胸腺癌にかかっていると告知した。胸腺は胸骨の背後に位置する分泌腺であり、胸腺癌は極めて稀である。しかし、この種の癌になりやすいリスク群のひとつが、放射線に被曝した人たちだった。癌の診断を受けたとき、ホルコムは35歳であり、化学療法がただちに始められた。レスリーは、ホルコムが1か月で体重を10キロ失ったという。胸腺癌は通常、ゆっくり拡大するが、ホルコムの体内で癌が極めて迅速に拡散した。

マヌエル・レスリーはしきりに病院に通い、終焉のときが迫ると、苦痛緩和医療センターの一角を――30歳代の元兵士2名が死を待って座るのに素敵なバラ園を備えた場所に――整えた。ホルコムは他界する直前、彼の妻を許したが、レスリーの言によれば、打って変わった痩せ衰えた姿よりも、強い男として覚えておいて欲しかったので、妻や娘の見舞いを拒んだ。彼はそれでも娘に5歳の誕生日の祝いを述べる機会を願った。レスリーが彼のために電話を掲げた。

女の子はいった。パパ、わたしの誕生日まで、まだ5日あるよ。
わかっている。ホルコムは応えた。
その夜、彼は亡くなった。マヌエル・レスリーはベッドのそばに座っていた。

法廷に立つ

彼は火葬に付され、遺灰は分骨された。ノースカロライナ州に住む彼の前妻は、カリフォルニア州に住む彼の両親と同じく遺灰の3分の1を受け取った。レノにする彼の友人は残った3分の1を取っておき、骨壷に使う桜の木でできた箱を暖炉の棚に安置している。

レスリーは、レノの郊外、10マイル離れた砂漠にあるデパートのカフェテリアに座っている。彼は海軍就役時、26か国に赴いた短身で頑健な体格の男だが、いまではやはり癌を患う両親の世話をしている。そのデパートは狩猟客専門であり、彼の背後に銃保管庫が安置され、アンテロープ、狼、灰色熊だけでなく、象、ライオン、犀といった動物の剥製が陳列されている。男たちとその子どもたちがガラス・ショーケースの前に立ち、15,000ドルの値札が付いたマシンガンを見つめている。

マヌエル・レスリーは海軍を憎んでいるが、同時に愛している。海軍は生命を破壊するが、同時に救済する。海軍は彼の存在の意味であり、同時に元凶である。彼の無二の親友は日本救援任務に参加したのが原因で、不治の病になった。彼の祖父は、日本軍がパール・ハーバーを攻撃したとき、16歳の海軍兵としてハワイにいた。彼自身は人生の最良の時を東京で過ごした。

レスリーはいま友人の意志の執行人の立場にあるが、やらなければならない仕事は二つあるだけだった。一つは、ホルコムの娘との接触を保つことだった。もう一つは、法廷における友人の立場を確保することだった。レスリーは、フクシマの原子炉の操業や建造に加担した東京電力、東芝、日立、エバスコ、ゼネラル・エレクトリックに対する集団代表訴訟において友人の代理人を務めていた。

訴訟を主導するのは、環境を損傷したり、人権を侵害したり、人間を病気にさせたりした企業を追求して人生の大半を過ごしてきた弁護士、ポール・ガーナーである。彼は60歳代後半であり、太りすぎ、汗臭い赤シャツを着用している。乏しい毛髪をなんとかか細い三つ編みに仕立てている。それに彼は、われわれの会見時間に1時間以上も遅刻して登場する。

彼は自分の旧いメルセデスが動かず、兄弟のボブ――ハワイのシャツを着用した小柄で落ち着きのない男――の車に乗せてもらってきたと弁解する。パームスプリングス郊外の寂れたレストランに兄弟が入ってきたとき、10億ドルの賠償訴訟を準備している二人の男たちには見えなかった。

だが、彼らは第一人者だった。

人びとを締め上げる人びとを締め上げる

ボブ・ガーナーは1960年代にロバート・ケネディの選挙運動に参画し、その後、アメリカ大詩集の仕事に関わり、2年前、砂漠のガソリンスタンドでリンジー・クーパーの父親に会った。クーパーは、日本向けの航海時に米艦ロナルド・レーガンに乗り組んでおり、父親は、娘が離任したとき、甲状腺に症状があり、同じように病気になった他の水兵らのことを知っているとガーナーに話した。ボブはその出会いについて兄弟のポールに話し、ポールは、ソーサリトで小規模な法律事務所を経営する相棒のチャールズ・ボバーに伝えた。

二人は公民権運動の現場で出会ってからの知り合いであり、ガーナーはニューヨーク州出身のユダヤ人、ボナーはアラバマ州出身の黒人である。二人の老人は自由時間にカリフォルニア山脈の湖にボナーが所有する桟橋に腰を据えて、ワインを飲み、ピート・シーガーの歌を歌っている。職業生活では、彼らはシェヴロン、エクソン、シェルといった企業を相手に訴訟をしていた。彼らは国防総省作成の米艦ロナルド・レーガンに関する報告が気に入らなかった。彼らのモットーは「われわれは人びとを締め上げる人びとを締め上げる」だった。

ポール・ガーナーは分厚く脂っぽい書類フォルダーをテーブルに据え置く。彼らは事件を検討したあと、日本における任務のあとで病気になった500名以上の水兵たちに連絡した。そのうちの250名が回答を寄せ、彼らの物語が、法廷で主張したいと願っている事件の主柱を形づくった。ガーナーはスープとサンドウィッチを注文し、バインダーのなかで語られている劇的な物語を読み聞かせる。女性水兵は病気の子どもを出産した。ある水兵は、その双子の民間人である兄弟が完璧に健康であるのにかかわらず、遺伝障害を負っていると医者に言われた。別の水兵は日本から帰還したあと、完全に視力を喪失した。もう一つの水兵の物語では、家族と日本に駐屯していたところ、彼は白血病にかかった。海軍航空機整備兵は、説明のつかない筋肉量の喪失をこうむった。

ガーナーは、病気と症状のリスト、多様に異なった形態の癌、内部出血、肉腫、腫瘍、構造線切除、胆嚢摘出、出生異常を読み上げる。彼の兄弟、ボブは、「なんという被害、苦痛。豚め」と口を挟む。ボブ・ガーナーは病気の水兵たちについて弁舌を振るうとき、マーティン・ルーサー・キングとマルクスのことばを引用する。彼は、ヒラリー・クリントンが国務長官の任期中に軍産複合体に巻き込まれていた様相を語る。彼はヴェトナムをアフガニスタンと比較する。

「あの艦はレーガンと命名されています。レーガン自身は1950年代にゼネラル・エレクトリックの代弁者でした。なにからなにまで、このありさまです」と、ボブ・ガーナーはいう。彼の兄弟、ポールは、いい加減に口を閉じてくれるかねと口出しする。

精神的な支援

ポール・ガーナーもまた、資本主義の正体を暴きたい。彼もまた、米艦ロナルド・レーガンに乗り組んでいた水兵らのために、法の裁きと賠償を願っている。彼は、世界の核エネルギー・ロビーがどれほど強大であるか、示したい。彼は審理を、われわれがわが地球を扱う無謀さをボナー・アンド・ガーナーが示す舞台にしたいと願っている。

依頼人たちが任務遂行中に健康に悪い放射線量に被曝し、その結果、病気になったと証明するのは困難であろう。不可能でさえあるかもしれない。大金が賭けられることになるが、そもそも何よりも、まず訴訟を維持できるとサンディエゴ地方裁判所に納得させなければならない。彼らの最初の企ては却下された。

ポール・ガーナーは病気の水兵たちに8月の審理にはサンディエゴに来て精神的に支援してほしいと呼びかけた。だが、ほとんどわざわざ現れず、市内に住む人たちさえ来なかった。たとえば、リンジー・クーパーも来なかった。すべての出発点のきっかけになった女性は、CNN番組で原子力専門家らにズタズタにされ、その後、保守的なラジオ番組でからかわれた。彼女はその体験の再現を望まなかった。

クリスチャン・ウィリアムは、ロナルド・レーガンから日本の本土に援助物資を空輸したテキサス州出身のヘリコプター操縦士であり、たいがい高線量放射線で発症する稀なタイプの癌、副甲状腺癌にかかっている。彼が電話で言うには、自分が癌であるということそのものよりも、メディアで事実を曲げて伝えられることを恐れるので、病身で公の場に出たいと思わない。水兵仲間たちに集団代表訴訟に参加するように奨励したロナルド・レーガン飛行甲板の部隊長、レティシア・モラレスでさえ、サンディエゴ法廷に行くのを避けた。彼女は写真に撮られたくないといった。結局、彼女は兵士なのだ。

米艦ロナルド・レーガンに関する報道は驚くほど限られている。個々の水兵の運命に関する報道は地方ニュースとしてチラホラ伝えられるが、だれも多様な事例を関連付けずに終わってしまう。海軍に進行中の事件についてコメントを控えるという。国防総省は議会向けにまとめられた報告に言及する。

水兵たち自身は、病気になることも、恥をかかされることも望んでいない。彼らは、海軍、彼らの海軍、彼らの国家に楯突くことを望まない。米国は軍隊を尊重する国であるが、また弁護士の国でもある。兵士らは二つの陣営の板挟みになってきた。

誰をも見捨てない

ポール・ガーナーは、ヴェトナムで大量に使用されたエージェント・オレンジが健康に有害であり、致死的でさえあると軍部が認めるまで20年かかったと彼らに説いた。20年とは長い時間である。

サンディエゴの法廷の前には、最終的にただ一人の米艦ロナルド・レーガン乗組員、スティーヴ・シモンズが姿を現した。海軍大尉、シモンズはいま車椅子に頼る身である。車椅子のステッカーが「誰をも見捨てない」と告げている。

シモンズは20146月、医療上の理由により、ワシントンDC、海軍記念プラザにおいて海軍を名誉除隊した。その場に白色の海軍礼装を着用して臨んだシモンズは、17年間の意義ある歳月をもたらした海軍に感謝の辞を述べ、30年間は現役でいたかったと付け加えた。わずかな人たち――シモンズが病院で出会ったもう一人の車椅子の軍人、および彼の教会が開設した出会い系ウェブサイトを通して知り合った彼の妻、ナンシー――だけが除隊イベントに参列した。彼は除隊後、ナンシーとその4人の子どもたちとともにユタ州のソルトレイク・シティからさほど遠くない地区に移住した。そこの気候は、かつて住んでいた湿度の高いワシントンDCより良かった。彼らは車椅子で新居に出入りできるようにスロープを設置した。

サイモンは当日の法廷審理の時間に間に合うように午前4時に起床し、ソルトレイク・シティからロサンジェルス経由でサンディエゴに飛び、レンタカーで裁判所に駆けつけた。審理が終わると、彼は家に飛んで帰ることになっていた。700ドルの費用をかけた彼とその妻の往復の旅である。だが、この旅は彼にとって重要である。彼は最終的になんらかの確信がほしい。

シモンズの疾患は日本から帰国して1年後にはじまった。筋肉が衰弱しはじめ、毛髪が一握り単位で抜けはじめた。偏頭痛に苦しみ、血便が出て、失禁し、指が黄変し、時には茶色になった。いま、足は色が赤黒く、全身痙攣発作に襲われる。肝臓検査の結果はアルコール依存症者のそれといい勝負である。彼は4年前、トライアスロンで勝負し、山々をハイキングしていた。いま、彼は歩くこともできない――そして、だれもその理由を告げることができない。

最悪の日々、サイモンはみずからが陰謀説――診断するには、彼の病苦の原因が放射線被曝であると認める必要があるので、診断されなかったという考え――に傾いていることに気づいた。しかしながら、これでは国防総省の報告が意図的に不正確にされているということになる。なんのために病気になったのか、知らないほうが身のためであると彼に説法した医者がいたと彼はいう。彼は、以前に同様な症状のある別の男たち3人と一緒にワシントンDCの軍病院にいたことがあるという。彼らは原子力潜水艦に乗り組んでいたのだが、次々といなくなってしまい、彼らがどうなったのか訊ねると、だれもが、あたかも彼らは初めからいなかったかのように振る舞った。

幽霊たちの船

シモンズは、その背後に海軍があるとは信じていないし、日本行き任務の公にされた動機を疑っていない。彼は二度の津波救援任務に参加し、可能でさえあれば、三度目もやはり参加するだろうという。彼は、日本の沿岸域における任務の重要な時期に開かれた幹部士官ミーティングのさい、しばしばバーク艦長に会ったが、懸念していても、無頓着には見えなかったという。

シモンズは、どうにもわからないのは、いまバークが沈黙を守るようになっているありさまだという。彼は、彼の元艦長が経歴を台無しにしないように沈黙していると信じている。いま彼はペンタゴンにおり、提督になりたがっているとシモンズはいう。

シモンズはこういう――「個人的、外交的、経済的利害がすべて賭けられています。彼らはわたしたちを放置しています。彼らは目を塞ぎ、沈黙を守って、嵐が過ぎ去るのを待っています。病気の兵士たちが、サンディエゴの病院に大勢、あるいはハワイの医療センター、どこにでもいます。彼らは、保険の乏しい庶民であり、家族を抱え、子どももいます。忠義でありながら、バラバラです。彼らはたいがい対処法を知りません。声を上げるものは、インターネットで非国民と叩かれます。いろいろ我慢しなければなりません」。

これが彼の、サンディエゴの公判に行きたい理由である。彼はみずからを彼らの代表としてみている。

彼が法廷に乗り込むと、調査員チームを引き連れたロサンジェルスの大手企業の弁護士たちが目に入った。他方の側に二人の老練な人権活動家、ポール・ガーナーとチャールズ・ボナーが見える。正面の判事は、ガーナーのシャツとヘアスタイルを疑わしげに見つめているようだった。3,000ドルのスーツを着こんだ東電側弁護士たちの自己満足した薄ら笑いを決して忘れないとシモンズはいう。

判事はシモンズに一度も質問しなかったので、彼は沈黙をつづけていた。だが、ポール・ガーナーはシモンズを弁論に取り入れ、シモンズ大尉を被害者たちの顔に位置づけ、彼こそはアメリカのヒーローであり、第一人者であると話した。ポール・ガーナーは彼に与えられた90分のあいだにシモンズの助力を得て、ロサンジェルスから来た産業弁護士の表情から嘲笑を消し去ることができた。

数週間後に裁判所決定がメールで届いた。法廷は1028日、集団代表訴訟は継続すると判断した。口頭弁論は226日に始まることになっている。

訴状は、100ページの長さがあり、疾患水兵247名の氏名を連ね、原子炉の建造、採取した水試料、海軍の戦術、日本の政治状況に関連した詳細を書き込んでいる。企業の貪欲を攻撃するとともに、フクシマ原子炉の建造企業の怠慢を糾弾し――さらには世界の政治状況と人類のシニシズム[冷笑的な態度]を問責する。一種の旧約聖書的な怒りがテキストに吹きこまれ、その訴状は真の標的の追跡を忘れかねないまでに包括的である。訴状に描かれる米艦ロナルド・レーガンは、人類の最後の船である。航空機積載艦であり、幽霊たちの船である。

REUTERS
津波のため、福島第一原子力発電所で爆発が起こり、大量の放射能が空中に放出された。それ以来、核惨事の結果、1986年のチェルノブイリ惨事よりずっと多くの放射能が放出されたとされている。日本は当初、惨事を過小評価するように努めた。
AFP/ Yomiuri Shimbun
米艦ロナルド・レーガンは、沿岸を襲った巨大津波のために家を失った人びとの救援に駆けつけた。町の全体が押し流された。空母乗組員のひとり、レティシア・モラレスは目撃した惨状を思い出すと、いまでも目に涙を浮かべる。
Brian Smale/DER SPIEGEL
ロン・ライトは、日本における救援任務のあと、病気になった兵士たちのひとりであり、それが放射線被曝と関連していると信じている。彼は任務以来、精巣の膨張に苦しんでいるが、医者たちは原因不明と彼に告げた。
Brooks Kraft/DER SPIEGEL
スティーヴ・シモンズは昨年6月、医療目的を理由に海軍を名誉除隊した。日本から帰還後、約1年後に症状が現れはじめ、筋肉が衰弱し、毛髪が一握り単位で抜け落ちた。彼は4年前、トライアスロンで勝負し、山々をハイキングしていた。彼はいま、もはや歩くことができず――だれもその理由を告げることができない。
Winni Wintermeyer/DER SPIEGEL
マヌエル・レスリーと、無二の親友、テオドール・ホルコムの遺骨を収めた骨壷。ホルコムは20141月、放射線被曝が原因でなりうる稀な形態の癌、胸腺腫と診断された。その後まもなく彼は死亡した。レスリーは友人の代理として、東電、その他に対する集団代理訴訟に参加した。
Winni Wintermeyer/DER SPIEGEL
チャールズ・ボナーは、津波後の日本における救援任務のあいだ、米艦ロナルド・レーガンに乗り組んでいたあと、病気になった多数の水兵たちのために提訴された集団代理訴訟を主導する弁護士のひとりである。
Robert Gallagher/DER SPIEGEL
ポール・ガーナーはボナーの相棒。二人は数十年前の公民権運動の現場で知り合いになった。両名は一緒に、シェヴロン、エクソン、シェルといった巨大企業を相手に提訴してきた。

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