2014年8月9日土曜日

ヒロシマのバーチェット~世界を震撼させた無検閲の原爆報道、または、いかにして「原子の疫病」が暴露され、いかにしてペンタゴンは隠蔽を図ったか

ヒロシマのバーチェット
BURCHETT IN HIROSHIMA
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朝鮮戦争取材中のバーチェット(画像出処: Japan Focus

オーストラリア人ジャーナリスト、ウィルフレッド・グラハム・バーチェット(Wilfred Graham Burchett)は、ヒロシマ入りを果たした最初の連合軍記者であり、無検閲の記事を日本国外に持ちだした唯一の人物である。彼は東京から400マイルの列車の旅のあと、194592日夜、ヒロシマに到着した。朝になって、彼はパトカーで逓信病院に案内され、そこで瓦礫の山に腰掛け、持参のベイビーエルメス(携帯タイプライター)で原稿を叩きだした。その記事は95日付けロンドン・デイリー・ニュース紙に次のような不吉なヘッドラインを付して掲載された。
ヒロシマの30日目:脱出者らは死に始める
原子の疫病の犠牲者たち
記者は当記事を世界への警告として書いている
医者らは勤務中に倒れる
毒ガスの恐怖:全員マスク着用

最初の原子爆弾が市街を破壊し、世界を震撼させてから30日後のヒロシマで、大異変で負傷しなかった人びとが原子の疫病としか表現できない――謎めき、恐ろしい――未知の何かのために今でも死んでいる。ヒロシマは爆撃された都市のようには見えない。まるで怪物スチームローラーが乗り上げて、跡形もなく押し潰してしまったかのようだ。記者は事実が世界への警告として役立つように願い、できるだけ感情を抑えて、事実を書いている。
記者はこの最初の原子爆弾実験場で、戦中の4年間で最も恐ろしく驚くべき廃墟を見た。これでは、猛攻を受けた太平洋の島がエデンの園に見える。被害は写真で見るよりはるかに甚大である。ヒロシマに到着すると、25平方マイルか、おそらく30平方マイルは周囲を見渡すことができ、建物はほとんど見当たらない。そのような人為の破壊を目にすれば、胃の腑に空虚な感覚を味わうことになる。記者は消失した市街の中心部にある、一時的な警察本部に使われている小屋への道をたどった。そこから南を見ると、3マイルほどかなたまで赤色がかった瓦礫を見ることができた。すべて、原子爆弾が残した多数の街路の敷石の、ビルの、家屋の、工場の、そして人間の残骸である。立っているものはなにもなく、20本ほどの煙突――工場を失った煙突――ばかり。そして、内部が全焼した数棟のビル。その他、やはりなにもない。
ヒロシマの警察署長は、記者を市に辿り着いた最初の連合軍報道人として張り切って歓迎してくれた。署長は、日本最大手の通信社、同盟通信の支局長とともに記者を車に乗せて、市街を通り抜けたが、いやむしろその上を走らせたというべきだろう。署長は被爆者らがいまだに治療を受けている病院に記者を連れていった。病院内で記者は、爆弾が落ちたとき、まったく負傷もしなかった人びとが、いまや説明のつかない後遺症状で死んでいるのを知った。明らかな理由もなく、被爆者らは健康を損ないはじめていた。食欲をなくしていた。脱毛していた。体表に青あざが現れた。すると、耳、鼻、口から出血がはじまった。医師らによれば、最初、全身衰弱症候であると考えていたそうだ。医師らは患者にビタミンA注射を施していた。結果は凄まじかった。注射針を刺した穴から肉が腐りはじめた。すべての症例で、被爆者は死亡した。これが人類最初の原子爆弾投下による後発効果のひとつであり、記者としては、このような症例を二度と見たくもない。
記者の鼻は、以前に嗅いだいかなるものとも違った独特の匂いを嗅ぎとった。硫黄に似たなにかだが、まったく同じではなかった。まだくすぶっている火のそばを通るとき、あるいは残骸から遺体を回収している現場を通るとき、それを嗅ぎとれた。だが、その匂いは、いまだにすべてが見捨てられている場所なら、どこでも嗅ぎとれたのである。ウラニウム原子の核分裂による放射能が浸透した土砂が発散する毒性ガスがかもしているのだと人びとは信じていた。だから、ヒロシマの人びとは、かつて自慢にしていた市街の惨憺たる廃墟のなかを鼻と口をガーゼのマスクで覆って歩いている。たぶん身体的には役立たないだろう。だが、気休めには役立つ。
この荒廃がヒロシマを見舞った瞬間から、生き残った人びとは白人を憎んできた。それはほとんど爆弾そのもの同様に驚異的な憎しみだった。確認死者数、53,000人。他に30,000人が行方不明であり、これは確実に死んでいることを意味する。記者がヒロシマに滞在した当日、100人がその影響で死亡した。その人たちは爆発による重傷者13,000人の一部だった。悲劇的な過ちがなければ、これら死傷者はそれほど多数になっていなかったかもしれない。軍当局はこれを単なるスーパーフォート攻撃(B29爆撃隊空襲)のひとつと考えていた。航空機が標的の上空を飛び、爆弾を爆発点に運ぶパラシュートを投下した。米軍機は視界から飛び去った。警報解除サイレンが鳴りひびき、ヒロシマの人びとは防空壕から出てきた。ほぼ1分後、爆弾は爆発時限を同期されていた高度2,000フィートに達し、その瞬間には、ヒロシマのほとんど全員が街路に出ていた。
幾千、幾万人の死者たちは、爆弾が発した強烈な熱線にひどく焼かれ、老若男女の見分けがつかないほどだった。他の何千人かは爆心近くにいて、跡形もなかった。ヒロシマで聞いた説では、原子の熱があまりにも強大なため、その人たちは瞬時に焼かれて灰になったということだ――もっとも、灰も残らなかったが。読者諸賢がヒロシマの残骸をご覧になれるなら、ロンドンに爆弾は触れもしなかったとお考えになられるだろう。かつて威容を誇っていたビル、インペリアル・パレスは3フィート高さの瓦礫の山になっており、壁の一面が残るのみである。屋根、床、すべてが塵芥である。
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画像出処:Exciteブログ「原爆はどのように報道されたのか
(グローブス将軍について下記関連記事を参照のこと)
97日の朝、バーチェットは東京で列車から降り立ち、米当局高官らが世界中に電送されていた報道を抑制する目論見で記者会見を招集していたことを知った。マンハッタン計画の副官、トーマス・ファーレル准将は、「残存放射能」リスクを回避するために、爆弾をヒロシマの上空で充分な高度をとって爆発させたと説明した。わたしの広報官に対する最初の質問。あなたはヒロシマに行かれましたか? 彼はノーと応えたが、説明をつづけた。わたしが病院で見かけた人びとは爆発と熱傷の犠牲者であり、大爆発のあとでは通常のものだった。日本人医師たちは明らかに患者に対処する能力に欠けており、あるいは適正な医薬品が不足していたのです。広報官は、爆発時点で市内にいなかった人びとが、後に影響を受けたという疑惑を軽んじていた。爆発から1か月たった今でも魚が死んでいるのはなぜですか、とわたしは質問した。広報官は苦しんでいるように見えた。残念ながら、あなたは日本側プロパガンダにひっかかりましたね。ヒロシマ入域規制は即座に延長された。わたしは米陸軍病院に連行され、わたしの微小体計数値の低下が膝の感染で投与された抗生物質によって引き起こされたものであると医者らに告げられた。
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Wilfred Burchett 1911-1983
彼は何年もたってから、この状態が放射能疾患に関連していることに気づいた。彼は自著の出版からほどなくした1983年、癌で死亡した。
このようにして、放射能を闇に閉ざす半世紀がはじまった。バーチェットの直接体験による報告は、全米いたるところで検閲対象になった。放射能およびフッ化物研究(フッ化物は核兵器開発における主成分資材)を含め、あらゆる核兵器研究は「天性の秘密」であって、RD(規制データ)とラベル付けされ、その多くは冷戦終結後も長期にわたり3棟の書庫を満杯にする秘密ファイルのなかに埋葬されている。
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本稿は、ウィルフレッド・バーチェット著“Shadows of Hiroshima1983年刊)からの抄録である。
  
As reported by Lynn Howard Ehrle, freelance medical writer
Senior Biomedical Policy Analyst (pro bono) Organic Consumers Association
ehrlebird@organicconsumers.org
【関連記事】
【参考文献】
阿修羅サイト…
「長崎原爆ルポ:ジョージ・ウェラー記者原稿全文」
その1. http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/372.html
その2. http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/371.html
その3. http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/370.html
毎日新聞・國枝すみれ記者「長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 検閲で没収」  http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/369.html


中國新聞「ヒロシマ平和メディア・センター」
■編集委員 西本 雅実
被爆直後の広島の惨状をルポし、いち早く世界に報じたのは、ハワイ生まれの日系二世のジャーナリスト、レスリー・ナカシマ(日本名、中島覚)さんだった。残っていた記録や関係者の証言から、1945年8月27日に米国の通信社UP(現UPI)を通じて打電していたことが分かった。記事は、同月31日付のニューヨーク・タイムズなどに掲載されていた。海外への広島ルポ第一報は、英国紙の特派員ウィルフレッド・バーチェット氏と長い間信じられていたが、彼の打電より8日早かった。  
記事は、「人口30万人だった街には、完全な形の建物は1つとしてない」と原爆投下16日後の8月22日に入り、歩いた廃虚の様子や市民の被害を詳しく伝えている。なかでも 「原爆の紫外線で今も毎日、死者が出ている」と、米軍の原爆調査団が9月に東京で記者会見して否定する放射線障害の深刻な影響をいち早く指摘していた。建物疎開作業に動員された「何千という中学生の男女も犠牲となり、行方不明者の数は驚くほどだ」と、原爆により非戦闘員が多数犠牲になったことも触れている。(…以下、略)

47 NEWS
【ロンドン共同=半沢隆実】英国の核開発を主導し「原爆の父」と呼ばれ、米国の原爆開発にも関与したウィリアム・ペニー博士(1991年死去)が日本への原爆投下から約4カ月後、「米国は放射線被害を(政治的な目的で)過小評価している」と強く批判していたことが10日までに、英公文書館に保管されていた文書で分かった。博士は独自に「殺傷要因」を特定するため、英科学者を米国の核実験に派遣する必要性を訴えていた。(…以下、略)
1966105日、ロンドンで記者会見する
ウィリアム・ペニー博士(PA=共同)

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