2018年7月20日金曜日

【歴史的写真集】1945年、原爆投下前・後の広島

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1945年、原爆投下前・後のヒロシマ

広島市街の中心部に近く、活気に満ちた商店街を西側から観た光景。核爆発とその後の火災のあと、瓦礫と何本かの電柱だけが残された。

広島が爆撃されたとき、産業と軍事の両面で重要な都市だった。近隣に数多くの軍隊が配備され、そのなかで最も重要だったのは、畑俊六陸軍元帥が率いる第2総隊司令部であり、同司令部は南日本全体の防衛の指揮を担い、広島城に設置されていた。畑元帥指揮下の部隊は将兵400,000名を擁しており、その大部分は連合国軍の侵攻が間違いなく予想されていた九州に配備されていた。

広島は日本軍の供給兵站基地としては規模が小ぶりだったが、軍用品の大規模な備蓄を抱えてもいた。広島はまた通信の要でもあり、海運の主要港であり、軍隊の集合地だった。軍需工業の集積地であり、航空機や舟艇の部品、爆弾、小銃、拳銃の部品を製造していた。子どもたちは火炎瓶の作りかたを実演で教えられ、車椅子の人や寝たきりの人は、九州の海岸に埋めこまれる地雷を組み立てていた。新しいスローガンが登場し、広島市内の壁に「滅私奉公!御国のために総力戦貫徹!」と大書された。広島はまた、いまだに空襲で被災していない自治体としては、日本で京都に次いで二番目に大きな都市だった。」

原爆投下の前、上流の広島県産業奨励館(ドーム)に向かって観た元安川の光景。ドームを頂いたビルは爆心のほぼ直下に位置し、この地点の上空600メートルで原爆が炸裂した。今日、このビルの大部分が建ったまま残っており、原爆ドーム、または広島平和記念館の名で知られている。

広島市の中心街は、数棟の鉄筋コンクリートのビル、その他の軽量構造の建物で構成されていた。中心街の外側は、日本家屋に小さな木製作業場が混在し、隙間なく軒を連ねて密集する区域になっていた。市街地郊外の近隣では、少数ながら大規模な工場が操業していた。家屋は木造瓦葺きであり、工場の多くもまた木製構造建設物だった。この都市は全体として火災に極めて脆弱だった。

原爆投下前の広島市の人口は、戦争初期に381,000人を超える頂点に達し、その後、日本政府が命じた組織的な疎開によって着実に減少した。空襲の時点の人口は、ざっと340,000350,000人だった。

南西方向から観た戦前期の広島市寺町。この町は完全に破壊された。

広島が焼夷弾攻撃による破壊を免れているにはなぜか、住民たちはいぶかっていた。この街は米軍占領司令部を置くために残されているのだろうと推測する人たちがいた一方で、ハワイやカリフォルニアにいる親類縁者が米国政府に広島空襲を避けるように陳情したのだろうと考える人たちもいた。もっと現実的な広島市当局者たちは、1944年、長大でまっすぐな防火帯を築くために家屋の打ちこわしを命じはじめた。防火帯は194586日の朝にいたるまで拡大と拡張をつづけた。

米軍は86日、ウラニウム(リトル・ボーイ)爆弾を広島に投下し、ハリー・S・トルーマン米国大統領は、日本は「空から降り注ぐ破滅の雨、この地球上で前代未聞の事態を招く」ことになると警告しつつ、日本の降伏を要求した。

194586日(月曜日)午前815分、ポール・ティベッツ大佐が操縦する米軍B29爆撃機によって、核兵器「リトル・ボーイ」が広島に投下され、日本軍戦闘員20,000名、朝鮮人奴隷労働者2,000名を含め、推定70,000人の人びとを直かに殺害した。同年の末までに、負傷と放射線被曝のため、死者総数は90,000ないし166,000名に達した。原爆投下前の人口は340,000ないし350,000人ほどだった。市街の建物の約70%が破壊され、その他にも7%が大破した。

南方から観た相生橋(爆弾の標的になった中心部のT路橋)近辺。太田川の岸辺に木造家屋が並び、前景に日本の伝統的な川舟が浮かぶ。

広島の元安川の下流方向から観た川沿いの家屋密集地帯の航空景観。非常に重たい石積み建造物を除いて、地域のすべてが破壊された。原子爆弾のグラウンド・ゼロは写真右の上空。

1912年から1945年まで存在した広島駅

戦前に撮影された宇品港の写真。このかなり小ぶりな港湾は広島の港として開発され、第二次世界大戦中は日本陸軍の重要海運兵站拠点のひとつとして使われていた。

194586日、米軍B29爆撃機、エノラ・ゲイから原子爆弾が投下され、広島の上空で炸裂してから1時間後、きのこ雲が空中に膨れあがった。80,000人近くの人びとが即座に殺されたと信じられており、他にも60,000人の被爆者が1950年までに負傷や放射線被曝のために死亡した可能性がある。

広島にて194586日、史上初めて戦争で使用された原子爆弾の被爆者たちが緊急医療処置を待っている

194586日、原子爆弾が広島の上空に投下されてから間もなく、衛生兵らの応急処置を受ける被爆者たち。

原爆投下数か月後の破壊された広島駅の前に群集する民間人ら。

原爆が炸裂したあと、広島駅構内で休む日本兵部隊。

広島市街の残骸のなか、各々の道をゆく路面電車、自転車、通行人。

原爆投下からほどなく、広島に移送された消防車数台のうちの一台。

原爆投下後の広島市街。

荒廃した市街地中心部の近くにて1945106日、病院に転用された銀行の被災建屋の床に敷かれた毛布に横たわる広島原爆投下の犠牲になった日本人の母と子ども。

原爆投下の数か月後、広島の荒廃した光景。

白墨で記された「爆裂方向」マークと爆裂の餌食になった犠牲者の両足の輪郭。炸裂当初の閃光の強烈な熱が近くのあらゆる物体の表面を焼き焦がし、この橋に残されたもののように転写された欄干やこの場所に立っていた人物の「影」を残す。
  
広島市内の郵便貯金局。爆裂の閃光によってファイバーボード(繊維板)壁面に刻印された窓枠の影。1945104日。

広島にて、アスファルト塗料面に陰影効果を示すガス・タンク。

広島市内、廃墟になったビル内の仮設オフィスに座る日本人男性二人

広島の廃墟のただなかに被爆しながらも建つ日本基督教団(メソジスト派)広島流川教会。

原子爆弾の炸裂後に遺された広島の廃墟の膨大なひろがり。

この日本の都市に原爆が投下されたあと、ある日の広島の航空景観。この写真集の5番目、戦前の写真と比べてみるとよい。

19459月の広島、完全に破壊された区域をゆく日本兵。

興味深い事実


  • 火球から熱線が放射され、直線的に進行すると、その途上にあるあらゆる不透明な物体は「核の影」を形成するので、原爆炸裂による放射線が恒久的な影を刻印した。したがって、放射線が形成した恒久的な物体の影、さらには人間の影でさえも今日にいたるまで見ることができる。炸裂の熱は近くにいた人びとの身体を瞬間的に蒸発させたが、その影を残した。

  • エノラ・ゲイ(原爆を運搬した航空機)のコックピットに12錠ほどのシアン化物錠剤が保管されていた。広島を空襲するさい、任務遂行が危うくなる場合、パイロットらはそれを服用するように指示されていた。

  • 広島の平和の火は、すべての核兵器が廃絶されるまで灯りつづけることになっている。広島平和記念公園は、爆発によって生じた更地に造営された。その公園は、地球上初めて核攻撃の恐怖を経験した都市である広島の遺産、そして原爆投下の直接的・間接的な犠牲者の記憶を語り伝えることに捧げられている。その記念碑のひとつが、1964年に点灯された平和の火であり、地球上すべての核兵器が廃絶されるまで灯りつづけることだろう。

【クレジット】

Rare Historical Photos, “Hiroshima before and after the atomic bombing, 1945,” posted at https://rarehistoricalphotos.com/hiroshima-atomic-bombing-1945/.

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