2019年3月26日火曜日

英紙ガーディアン【#フクシマ☢惨事から8年】避難者を帰還させた理由は?



フクシマ惨事から8年、避難者を帰還させた理由は?

20113月の津波と核メルトダウンのあと、何万人もの人びとが避難を強いられた。帰還した人は4分の1にも満たない。何人かの帰還者にその理由を聞いた

20192月、大熊町にて、雑草で覆われている放置車両。Photograph: Issei Kato/Reuters

2011311日、史上最大規模の地震が日本の北東部沿岸を襲い、津波を引き起こして、19,000人近くの人びとが死亡した。津波の破壊力はまた、さらなる脅威――福島第一原子力発電所の三重メルトダウン――を引き起こした。

放射能によって幾万もの人びとが避難を余儀なくされ、町や村は立ち入り禁止区域になった。今では、原発に最も近い地域の時間が止まっている。家屋が荒れ果て、雑草、その他の植物が舗装、道路、かつては手入れが行き届いていた庭を覆いつくし、イノシシなどの野生動物が街路をうろついている。

だが、少し離れると復興の兆候が見受けられ、新しい店舗、レストラン、公共施設が帰還を決めた少数の人たちにサーヴィスを提供している。鉄道事業が修復され、道路は再開通された。東京2020オリンピック聖火の日本全国周回リレーは、かつて危機対応基地であったが、今はサッカーのトレイニング複合施設としての元の役割に修復されたJヴィレッジをスタート地点にしている。

だが、達成されたのはささやかなものである。人間の居住に対して安全が宣言された地域であっても、住民の多くは、放射能不安、とりわけ彼らの子どもたちにとってのそれ、そして医療施設やその他の社会基盤の不足を言い立て、戻らないと決めた。政府統計値によれば、事故後に立ち入り禁止が宣言された地域の住民の23%だけが帰還した。

福島第一原発の作業員らは膨大な量の放射能汚染水を相手に闘い、施設解体は少なくとも40年かかると予測されている。オブザーヴァーは(チェルノブイリに次ぐ)世界第二の重大核惨事から8年たって、かつて立ち入り禁止区域と宣言された地域で――自分たちの古里と呼ぶ場所で働き、学び、薄明の歳月を過ごすために――暮らしを再開した住民たちに面会した。

地主

ササキ・セイメイは避難者用の仮設住宅で暮らす8年のあいだに地元の名士になった。彼は毎度の早朝体操の日課によって郷土意識を培った住民集団に属していた。彼は齢93歳にして運転熱心であり、一族が500年近く前に根を下ろした小高地区内の道路上で見かけられた。この大土地・森林所有者は堂々とした時代物の木造家屋に戻ったばかりである。息子3人とそれぞれの家族が近くに住んでいるが、彼はたとえ長くひとり暮らしをするとしても――サムライのご先祖に由来する決意だといって――自分の面倒は自分でみると言い張る。隣近所に230人が住んでいたが、帰ってきたのは23人だけ――それも、平均年齢が70歳を超えている――と彼はいって、その姓をスラスラと挙げた。「村の将来の姿がどうなるか、想像もつかない。村がゆっくり死んでいくのが恐い」

自宅の前に立つササキ・セイメイ――彼は村がゆっくり死んでいくと恐れている。Photograph: Justin McCurry/The Observer

それでも、ササキは楽観的に生きようと努めている。「わたしは申し分なく健康だし、避難者なので、デイケア・センターが無料で使え、仮設住宅にいたときの友だちと連絡を取り合っている」。

姉妹

コンノ・エリコ、ルミコの学校では、先生の注意を引くことは滅多に問題ない。この姉妹は、原子力発電所から4キロほど、なみえ創生小・中学校に通うわずか7名のうちの2名である。全天候型サッカー競技場を完備する、この新たな学校は、避難命令が一部解除された2017年からこのかた、被災前の人口21,000名のうち、900名が帰還しただけの浪江町に若い家族を呼び戻すために政府資金によって建設された。

姉妹の母親、マユミは、「娘たちを戻すかどうか、迷いました。でも、1年たった今、娘たちは落ち着き、わたしも新しい仕事を見つけ、わたしたちは正しい選択をしたと心から思います」という。学校はさらに4月からの新学期に6名の新入生を迎える。

コンノ・ルミコ(左)とエリコは、団体競技ができたらよかったのにと思っている。Photograph: Justin McCurry/The Observer

校長のババ・リュウイチは、「これまでの1年間で、生徒たちは大きく進歩しました。生徒たちの一番大きな不満は、団体競技ができないことです」という。11歳のルミコと8歳のエリコは、ドッジボールや隠れんぼ遊びができなくてつまんないという。ルミコは、「もっと同級生がいたらと思うけど、そうなれば、別の問題が持ち上がるかもね」という。

姉妹は授業で津波と原発事故について教えられたが、幼すぎて覚えていない事柄と関連付けるのは難しい。「8年前のことなので、本当は考えることもありません。いま自然災害と闘っている人たちのほうが心配です」と、ルミコはいう。

米作農民

ネモト・コウイチが3年前、福島の桃内集落にある彼の農地に初めて帰ってきた時の夢は、自分の家族がたっぷり食べられるだけの米を作付けすることだった。だが、米作が御法度だったので、待たなければならなかった。ネモトは、「試しに作付けして、検査してみました――政府が定めた放射線限度をかなり下回っていました。それでも、自分の米を食べるのは法律違反になりますので、捨てなければなりませんでした」という。

ネモト・コウイチは、自分の米は常に雑草に打ち克っているという。Photograph: Justin McCurry/The Observer

現在、作付け制限は解除されており、この齢81歳の福島県における有機農業界の先駆者は米の販売目的栽培を再開し、近場の酒蔵、スーパーマーケット、レストランに卸している。ネモトは、「田んぼを打ち捨てるなんて、考えたこともありません」という。「福島産米について、当初は有害な風評がありましたが、考えが変わっていっています。わたしの知り合いや親戚は、検査されていない他県産の米よりも、当地産の米を食べることに安心しています」

果たして米作りを再開できるのだろうかと思い惑いながら、避難者の境遇で過ごした歳月とは大違いである。それにしても、避難命令が解除されて、家業を再開すると決めた桃内住民は、ネモトを含めて8人だけであり、例外的だった。だが、彼は今日このごろ、水田にはびこる雑草よりも放射能のほうが気がかりにならなくなっているという。「有機農法の場合、雑草はつきものなのです。でも、わたしの稲はいつも最後に勝ちます」と、彼はいう。

旅館経営者

コバヤシ・トモコとタケノリは、原子炉建屋の一棟が爆発したと聞いたときに貴重品を掻き集め、トモコの家族が4世代に渡って暮らしてきた小高区の伝統的な宿屋、双葉屋旅館から逃げた。彼らは、2、3日で戻れると信じていた。トモコは、「最初に津波と原発事故の映像を視たとき、わたしたちは避難センターにいたのですが、その時になって初めて、これは大変だと思い知りました」という。

コバヤシ夫妻は、小高の避難命令が解除されたあと、20166月まで帰還しなかった。自宅付近が立ち入り禁止だったころ、トモコは短期訪問を繰り返し、旅館の維持管理をし、近所の鉄道駅の外に花を植えた。彼女は、「わたしたちは、みずからの足で戻ると決めていました」という。夫妻は放射線と食品の安全性について、またたく間に熟練者になった。タケノリは、「わたしたちは7年にわたり、地域社会のために食品を検査しており、安全だとわかっています。それで、戻ってきて、再出発する自信が与えられました」という。双葉屋の客には、もっとフクシマについて知りたいという好奇心を抱いた海外からの訪問者らもいる。トモコは、「わたしたちは、人びとが当地に滞在して、ここで起こったことの真実をよりよく知ったと感じながら、お帰りになっていただきたいと願っております。でも、楽だったと装うことはできません――極めて苦しい時期が何度かありました」という。

酪農家

サクマ・テツジは8年前、祖父が第二次世界大戦の直後に築いた酪農場の破壊を阻止するにしても無力だった。核メルトダウン後の日々、130頭いた乳牛 の一部は死に絶え、その他は牧場に売られたり、屠殺されたりした。数千リットルの牛乳が廃棄された。

サクマはそれでも現在、2017年末に福島産生乳の出荷禁止が解除されたあと、家業に復帰している。厳密な検査の結果、彼の牛から搾乳した生乳の安全性は示されているが、当初は購入見込み客の圧倒的な疑心暗鬼が課題になった。

サクマ・テツジは長年、酪農を成功させるために働いた。Photograph: Justin McCurry/The Observer

サクマは20年以上前、葛尾村の農場を父親から相続しており、「わたしは放射能のことを勉強し、安全性について、どんな質問にも答える準備ができていました」という。

他の農民の多くは、家業を再興するにも歳を取りすぎているし、自分の作物がフクシマにまつわる連想で永遠に汚されているだろうと恐れて、土地の売却を決めた。被災前人口の20%だけ――つまり300人程度――が戻ってきた。サクマは、「よそでの暮らしが永くなればなるほど、戻ってくるのが難しくなります。だが、わたしたちはこの農場を成功させるために、この歳月、一生懸命に働きました。牛舎を自分たちで建て、牛舎はいまでも建っています。わたしは農家の息子として、農場を再開し、当地でさえ、なんでもできると人に示すのだと決意しました」という。

コバヤシ・トモコとタケノリの宿泊客には、好奇心の強い国際色豊かな訪問者もいる。Photograph: Justin McCurry/The Observer

【クレジット】

The Guardian, “Eight years after Fukushima, what has made evacuees come home?” by Justin McCurry, posted on March 10, 2019 at https://www.theguardian.com/world/2019/mar/10/fukushima-eight-years-on-evacuees-come-home?CMP=share_btn_tw.






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