2018年12月10日月曜日

NJヘラルド【旅行】#フクシマ☢惨事被災現地の休日探訪



核荒廃地の休日

2018124
ニュージーランド・ヘラルド NZ Herald
アイリス・リデル Iris Riddell

アイリス・リデルは、2011年の津波で破壊された福島第一原発を訪問する。

「このツアーであなたが浴びる総放射線量は、0.01ミリシーベルト――歯科診療X線とほぼ同じ――になるでしょう」

これは、ほんの40分前にわたしたちが告げられたことである。わたしたちのバスが機能をなくした福島第一原子力発電所の反応炉のあいだをノロノロ進み、携帯放射線量計がピッピッと鳴り、点滅していたとき、わたしはそのことを銘記しておこうと努めた。ツアーの同行者が息もつかずに大声で数値を読み上げたとき、わたしはせわしなくノートに書きつけた。11.98ミリシーベルト。15ミリシーベルト。42ミリシーベルト。130313

ガイドがバスの前部から、「これで最高です。このツアーで体験する最高値ということになります」と声をかけてきた。

わたしは、ツアー出発のさいに渡され、首にかけていた線量計に目を走らせた。約束どおり、0.01ミリシーベルトを示していた。

歯科診療X線と同じ。

その日の始まりはすこぶる簡単、わたしたち8人――わたしも含めて南相馬から3人、仙台から2人、福島市から2人、米国と東ドイツからの来訪者――は、原ノ町駅の外、雨のなかに集まって、笑顔で自己紹介しあった。わたしたちのガイド、佐々木さんが借りてきたミニヴァンで駅前にいて気づいたので、わたしたちは乗りこみ、最初の目的地、富岡のセンターで事前説明を受けるために出発した。

わたしたちが原発内に持ちこむのを許された物品は、鉛筆とノートブック、それに構内コンビニ、ローソンで福島第一原発クリアファイルを記念品として買いたいと思ったときに備えて、1,000円札一枚だけだった。

そして、オーッ、信じられないことに、わたしたち全員がそのクリアファイルを買いたがった。

福島第一原子力発電所の光景――4基の反応炉、自動運転バス、構内を歩き回る平服の作業員たちの画像をあしらったクリアファイルである。

読者にお聞きしたいが、みなさんは世界のどこで核反応炉をあしらった記念品を入手なさろうとするのだろうか? わたしたちの訪問後ほどなくして、東京電力は世間の反感にさらされて、クリアファイルの販売を取りやめた。

わたしとしては、ビックリしたとは言えない。

放射線量レベルの検査。Photo / Iris Riddell

現場入構は特定の車両だけに許されているので、わたしたちは原発に向かう別のバスに乗り換えた。構内に向かう途中、無断入構を狙う無認可車両を追跡する任務に就いているパトカーの警察官のうんざり顔を見かけたのは言うまでもないが、わたしたちのバスは複数の検問所を通過した。

原発に向かいながら、わたしは今どこにいるのか、自分に言い聞かせなければならなかった。すべて、あまりにも……ありふれた光景だった。入り口は清潔で現代的、駐車場は車とバスで満杯、あちこちでスニーカーと日常服の作業員たちが弁当のビニール袋をぶら下げて歩いていた。この点では、当代最悪の核災害現場のひとつであるとは感じ取れなかった。原発を除染し、解体する職務のために、5,000名内外の東京電力従業員が現場で働いている。楽観的にいって、30年ないし50年の期間と1260億ドル[142000億円]を超える経費がかかる大仕事である。

わたしたちはまた、15キロ南の第二原子力発電所の解体も計画されているとも聞いたが、それに何年かかるのか、ことばもない。

原発入構は空港の保安検査を通るのに似ていた。係員らはわたしたちの文書を点検し、わたしたちに外来者札とベストを交付し、線量計をわたしたちに手渡して、ベストの紐に装着させた。金属探知機と二重ゲイトを通って、入構完了。わたしたちは側面の小部屋に集められ、もう一回、安全のための説明を受けた。わたしたちのドイツ人同行者はジーンズの膝に裂け目があったために、ちょっとした騒ぎを引き起こした。わたしたちは長袖シャツとズボンを着用してくるように指示されており、破れのある衣服は禁制品だった。職員らが急いで粘着テープを使って、ドイツ人のジーンズを補修し、わたしたちのガイドは笑いながら、こんなことは初めてではないと言った。

わたしたちは外に出て、非常に新しくてピカピカのバスの列の傍を通った。東京電力のガイドは誇らしげに、これは自動運転バスであり、最近、取得されたとわたしたちに教えた。ところが、わたしたちのバスは時代遅れの運転手つきであり、こうしてわたしたちは出発した。

ツアーは事もなく始まった。わたしたちは、カフェテリア、コンビニ、医療施設、作業員休憩所を収容した新築の休憩建屋の傍を通った。400本ばかりあるという桜の並木道を進んだ。わたしたちはシートがビニールで覆われた車の列を見たが、その赤色の大型プレートは原発周辺限定の使用許可を意味しており、汚染リスクを抑えるために、そうした車両の外部持ち出しは許されていなかった。外に出られないので、現場に特別な給油所が設けられていた。ツアーのこの時点で、放射線レベルは刮目すべき0.4ミリシーベルトに跳ね上がっていた。

いつ夏の台風が襲来してもおかしくない、どんよりした、風が強い朝だった。そびえ立つ鉄塔と遠隔操作クレーンが灰色の雨を通して見え隠れしていた。

フクシマと同義語になった青色か白色の防護服を着用した作業員が多くなりはじめた。施設は正面玄関の輝きに比べて少しばかり見劣りしていた。サビ、雑草、ネジ曲がった鋼鉄――ここに去来した事態の兆候。

フクシマで放棄されたビルのトイレ。Photo / Iris Riddell

OK1号炉と2号炉*に着きます」と、ガイドが言った。バス内に緊張と不安の気配が生まれた。現実に反応炉を見ることになるとは、わたしたちの誰も予想していなかったが、コーナーを曲がると、それがあった。バス内に怖れのささやき声が低く高く流れた。わたしたちのまさしく眼の前に、最初に爆発した1号炉の残骸、そのすぐ側に2号炉があった。2号炉は原型を保っていたので、本来の構造を見ることができ、3号炉は、使用済み燃料棒を除去するために建造された巨大なドーム状円筒を屋上に載せていた。3号炉内に565本の燃料棒が残されていて、関係者らはそれを除去し、処分するための解決策を求めて取り組んでいる。これは無理難題である。
*[訳注]筆者は反応炉建屋を「炉」と略して表記。

バスは、反応炉を見渡す展望台から、建屋の基部まで丘をノロノロ運転で下った。近くの建屋の壁に、矢印と「津波」の表記が付され、それ以上の説明がいらずにペイントされた鮮明な水位線のそばをわたしたちは通った。4号炉は、除染と廃炉作業の一助に新設された4200トンの構造物に包まれている。

バスは3号炉まで進みつづけた。

わたしたちのガイドは、「ここで、緑色のトラックを何台か見ることができます。関係者たちは燃料棒を取り出す方法を実験していて、これらのトラックを試しているのです。今日、見ることができて、みなさんはラッキーです」といった。じっさい、防護服姿の男たち6人ほどが、反応炉につながる傾斜路で忙しく立ち働いていた。

ツアーを終えるために丘を昇る帰路に付くまえ、わたしたちが最高値――313ミリシーベルト時を経験したのは、その直後のことだった。

フクシマで放棄された介護施設の玄関口。Photo / Iris Riddell

わたしたちは、カレーライス、カツ丼、ラーメン、うどんのメニューから選べる新築カフェテリアでランチを摂った。作業員たちはわたしたちの存在に戸惑っているようだった――わたしはランチを食べながら、連日、複数回のツアーが実施されているが、外国人のツアーはその1割を占めているに過ぎないことに気づいた。

ランチ(そして、福島第一原子力発電所訪問記念クリアファイルの買い物)を終えると、広大な世界への復帰である。わたしたちは質疑応答のために富岡町のセンターに取って返し、ついで被災地域ツアーをはじめた。

最初の訪問先は、元ゼネラル・エレクトリック発電所技師で著述家、東北エンタープライズ創立者、名嘉幸照だった。彼はわたしたちに、当時の彼の記憶、事象が進展していたとき、彼が体感した責任と無力を語った。彼がそれを食い止めるためにできることは何もなかったが、彼がいまだにその重荷を背負っているのは明らかだった。

わたしたちは別れを告げて、旅をつづけ、汚染土壌の暫定保管施設地帯、放棄された介護老人ホーム、魚の孵化場、放棄された小学校を訪れた。

これらの場所を訪問することの心理的衝撃がどのようなものか、語るにしても、わたしはことば探しに苦しむ。

学校は、目下、わたしが勤務している学校とたいして違わず、わたしの学校は数年前と同じように見えるので、非常に厄介だった。このような場所すべて、喪失と苦痛の感覚が非常にリアルだった。

福島県内の小都市、南相馬で暮らしていると、わたしと惨事のあいだに緩衝帯が存在する。わたしのキュートで小さなアパートと学校を行き帰りし、お気に入りの食品店で1週間分の野菜類の買い物をし、川沿いを歩き、わたしはたいがい快適な生活をしている。

町のあちこちにある放射線量計(測定値すべてが許容範囲内)を除いて、地震とその結果である津波を日常的に思い出させるものはあまりない。時には忘れるのがたやすい。だが、だれもがその自由を享受しているわけではない。あまりにも多くの人たちが2011年のできごとですべてを失ったのであり、わたしにとって、これらの場所を訪れると、すべてが鋭い焦点を結ぶ。

とても多くのことが救済事業のためになされてきたが、なすべきことが今なお多くある。原発それ自体と地域社会で、数十年の事業。

物事は過去の姿を取り戻すと考えるのは、幼稚である。この地域は常に傷を抱えている。しかし、わたしは福島の人びとの強さを信じている。

【クレジット】

The NJ Herald, “Japan: Holiday in a nuclear wasteland,” by Iris Riddell, posted on December 4, 2018 on https://www.nzherald.co.nz/travel/news/article.cfm?c_id=7&objectid=12171050.







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