2018年12月16日日曜日

救援連絡センター【#郡山通信】放射能と共存する「までい」の村



国家権力による弾圧に対しては、 犠牲者の思想的信条、 政治的見解の如何を問わず、 これを救援する。


放射能と共存する「までい」の村

来年の話しをすれば、鬼が笑うというが、この知らせを聞けば、青鬼は赤くなり、赤鬼は青くなるだろう。

【出処】飯舘村HP

福島県相馬郡飯舘村は十一月五日に村内で開かれた行政区長会で、フクシマ核惨事後、自粛してきた農地の野焼きについて、「住民からの要請」を受け、来春の作付け準備期から条件付きで認める方針を示した。

その条件とは、①三月一五日から一か月に期間を限定、②実施圃場は作付け予定地のみ、③行政区内での住民合意、④村や消防機関への届け出、⑤消防団の立ち合いなど。菅野典雄村長は、「農業にとって野焼きは不可欠であり、村が責任を持って判断した。最低限の条件を守って行ってほしい」というが、そのことばにも、放射能被曝防止の配慮は一切ない。

福島県の担当者は、「震災後、野焼き容認を示す市町村は飯舘が初めてではないか。確実に安全とは言い切れないので、県としては自粛をお願いする立場に変わりない」というばかりで、上級官庁として通達なり指導なりに踏み切るつもりも、やはり一切ないようだ。

【出処】福島民友「原発事故の避難区域

飯舘村といえば、中心部、伊丹沢の村役場が福島第一原子力発電所から北西二〇・〇キロに位置し、二〇一一年三月十一日の東日本大震災・津波と核惨事勃発のあと、福島市方面に流れた放射性プルームがまともに通過した村である。 意図的なSPEEDI(緊急時環境線量情報予測システム)データ隠しなどのために避難が遅れ、四月になって、ようやく全村が計画的避難区域に指定され、六月までに、特別養護老人ホームの入居者と職員など、極一部を除く住民の避難が完了した。

翌二〇一二年六月になって、政府原子力災害対策本部が計画的避難区域を見直し、飯舘村内は行政区ごとに、①避難指示解除準備区域(年間二〇ミリシーベルト以下)、②居住制限区域(年間二〇ミリシーベルト超、五〇ミリシーベルト以下)、③帰還困難区域(年間五〇ミリシーベルト超、南部の長泥行政区のみ)の三区域に再編された。

その後、村民一人あたり一億円と揶揄される巨額の費用をかけて、除染事業が実施され、長泥を除いて、他の村内行政区すべての避難指示が昨年三月三一日に解除された。その後、避難者の帰還が進んだというものの、九月末現在の住民基本台帳人口五七〇〇人あまりに対して、十一月一日現在の村内居住者数は九三七人(四七五世帯)。


長泥行政区の避難指示解除は二〇二三年春ごろが目安とされ、解除後の居住を可能にする「特定復興再生拠点」の整備をめざして、今年九月下旬に除染事業が着手された。拠点区域は、 集会・交流施設、公園などを整備する「居住促進ゾーン」、神社や桜並木などを整備する「文化・交流拠点」、環境再生事業で農用地等を整備する「農の再生ゾーン」に三区分される。問題は、環境省所管「環境再生事業」。除染で発生した除去土壌の濃度分別を行って、園芸作物・資源作物の栽培実証試験のための農用地整備に活用するという。村内の除去土壌を長泥地区内のストックヤードに搬入する作業も始まったそうだ

飯舘村は「日本で最も美しい村」連合に加盟し、村のキャッチフレーズは、 「手間暇惜しまず、心を込めた、丁寧な」といった意味を表す方言「までい」である。

二〇一七年九月に退任した原子力規制委員会の田中俊一・初代委員長は、福島市生まれで伊達市育ちであり、この「までいの村」をこよなく愛しているのか、二〇一八年一月、村の復興アドバイザーに就任した。


その田中氏は、福島第一原発の敷地を埋め尽くすタンクの汚染処理水に含まれるトリチウム水について、「思考実験的に一か所に集めれば、ほんの五七ミリリットル、エスプレッソ用カップ二杯分」といって、青色の液体が半分入った小瓶を振って見せていたが、他にもさまざまな放射性核種が濾過されずに残っていることが暴露されたいま、沈黙しているようだ。

(井上利男。原発いらない金曜日!郡山駅前フリートーク集会・世話人。ブログ「原子力発電・原爆の子」、ツイッター:FukushimaWatch @yuima21c

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