南相馬市:フクシマ核惨事後の古里帰還
2011年の核惨事のあと、初めて避難命令が解除され、生活の再建に取り組む南相馬帰還者たち
アルジャジーラ英語版・韓国ソウル支局プロデューサー
5年前に日本の北東部で壊滅的な地震と津波が福島第一核発電所を大破したあとに突如として県内各地の幾万もの人びとが自宅を退去しなければならなくなった。
今回の避難命令の解除の結果、最も人数が多い人びとが故里の町に戻れることになったが――それでもなお、南相馬市の3,487世帯、10,807人の住民のうち、推定20パーセントばかりが戻ると決めただけである。
日本政府は2014年以降、除染事業の進展にともない、核発電所20キロ圏内の避難命令を段階的に解除してきた。
わたしたち取材班は、日本の北東部海岸沿いに東京から南相馬まで車を走らせた。
実施中の除染作業現場を見つけるのは、難しいことではなかった。
福島県内のいたるところ、田畑に設けられた仮置き場に大型の汚染廃棄物処理袋が膨大な数で積み上げられていた。
幾つかの仮置き場は田畑の広大な地積を占めて、規模が巨大であり、隊列をなしたトラックがひっきりなしに黒い袋を降ろしていた。
汚染された町につながる道はいまでも大型バリケードで封鎖され、特別入域許可を得た人たちだけに通行許可を与える検問所が設置されていた。
車が汚染地域を通過するさい、放射線レベルを測定する取材班のガイガ・カウンタの表示値が時おり通常レベルを超えて跳ねあがり――核発電所20キロ圏内の地域における政府の長期放射能削減目標が1時間あたり0.23マイクロシーベルトであるのに対して――3マイクロシーベルに達した。
わたしたちは、今でもおおむね無人であり、一見したところ平和な風情の南相馬市の街路を通って、市内小高区のJR小高駅に到着した。
小高・原ノ町両駅間の9.4キロ区間の列車運行は、5年間あまりの停止後、初めて再開されたものの、日中の乗車客は5本の指で数えるほど見かけるだけだった。
列車はおおむね空っぽのまま、停車しては発車していた。
駅前で記者の目を引いた大型ディスプレイが、放射線レベルをリアルタイム表示していた。
その表示値は1時間あたり0.142マイクロシーベルトであり、東京の0.06マイクロシーベルトより高かった――それでも、0.23マイクロシーベルトの政府目標値よりは低かった。
そのようなディスプレイは、放射能汚染にまつわる一般人の根強い不安を和らげるために市内いたるところに設置されていた。
これまでの数年間、ますます多くの南相馬住民が、自宅帰還によって考えられる長期的な健康への影響を不安に思うあまり、別の土地に定住した。
それでも、帰還することに決めた人たちは、徐々にではあっても、暮らしが正常に戻るように最善を尽くそうとしていた。
駅から徒歩3分の距離内で、取材班は30人ほどの学校生徒と住民を見かけた。
いくつかの地域団体が、住民が自由に出入りし、故里の町に戻った暮らしについて語り合うことのできる仮設建屋の公民館の開所を祝う準備に取り組んでいた。
老婦人が地域の食品を提供し、いらっしゃい、いらっしゃいと通行人に声をかけていた。学童たちが友だちと群がり、フラフープやシャボン玉で遊んでいた。
帰還者たちの多くが、先行き不確実で疑念が残るものの、地域共同体意識を修復したい――また、そうすることによって、戻ることに二の足を踏んでいる友人たちや家族に、故里に帰還することの価値を示したい――と希望を取材班に語った。
「小高を事故前の姿に戻すことはかないませんが、わたしたちはここの住民として、その魂と地域社会を取り戻したいのです」と、地区住民でありNGO代表、今野由喜さんはアルジャジーラ取材班に語った。
「それこそが、わたしたちのなすべき最重要事なのです」
Source: Al Jazeera
【クレジット】
Al Jazeera, “Japan: Returning
home after Fukushima nuclear disaster,” by Musun Kim, posted on July 18, 2016
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