(注:この記事は、当ブログ記事『【速報】「低線量被ばくと向き合う:チェルノブイリの教訓に学ぶ」講演会』の続編であり、補完するものです)
4月6日から22日まで、ベラルーシのミハイル・V・マリコ博士、ウクライナのエフゲーニヤ・ステパーノヴナ教授が来日され、「【速報】「低線量被ばくと向き合う:チェルノブイリの教訓に学ぶ」という統一テーマのもと、日本各地の大学で講演なさることになりました。講演者お二人のうち、幸いなことにマリコ博士には日本語に翻訳された論文がいくつかありますので、それを手がかりにこの度の来日講演の意義を考えてみたいと思います。
すげのや昭公式ホームページ |
ベラルーシの首都ミンスクの国立甲状腺癌センターおよびゴメリ州立癌センターで医療支援活動の体験が豊富な長野県松本市の市長、菅谷昭さんは、『金融ファクシミリ新聞』オンラインの2011年3月12日付けTOPインタビュー「政府、汚染の深刻さを未だ理解せず」において、「私は福島で原発事故が起きた当初から、放射能汚染の問題についてはチェルノブイリに学び、チェルノブイリから情報を収集することが大事だと訴え続けていた」と述べておられます。
いまさら言うまでもないことですが、政府はチェルノブイリ事故の先例に学ぶどころか、いわゆる御用学者を総動員して情報の隠蔽・歪曲を図ってきました。マスメディアもいわゆる中立性を標榜しつつ、必要かつ十分、的確な情報提供を怠っているといっても過言ではありません。
福島地裁郡山支部に向かう申立人弁護団 自由報道協会有志The News |
311原発震災後の日本社会は、いわば情報戦争――命と健康を第一とする生活人勢力と保身を第一とする既得権益勢力との戦争――の様相を呈していると言ってもいいでしょう。戦争であれば、何人たりとも傍観者であることは許されません。たとえば、いわゆる「ふくしま集団疎開裁判」において、福島地方裁判所郡山支部の清水裁判長らは「100ミリシーベルト未満の放射線量を受けた場合における晩発性障害の発生確率について実証的な裏付けがない」こと、「4月19日付け文部科学省通知において年間20ミリシーベルトが暫定的な目安とされたこと」などを理由として、郡山市内の小中学生14人の主張をことごとく退け、みずからが原発ムラに与すると表明しました。
本稿末尾に掲げるマリコ博士の論文3本の抜粋をお読みになるだけでも、このような情報戦争状況は、チェルノブイリ事故の影響をこうむったベラルーシ、ロシア、ウクライナの状況の再来であることが明確にわかるはずです。
マリコ博士については、京都大学原子炉実験所・安全研究グループ(今中哲二、海老澤徹、川野真治、小出裕章、小林圭二諸氏)が早くから紹介していたのですが、筆者は寡聞にして、つい最近までマリコ博士の存在すら知りませんでしたが、読者のみなさんの多くもそうであると勝手ながら推察するものです。
この度、ベラルーシのミハイル・V・マリコ博士、そしてウクライナのエフゲーニヤ・ステパーノヴナ教授が来日なさり、日本各地で講演なさることになりました。お二人に学ぶことには、計り知れない価値があると当ブログ子は考えています。
では、マリコ博士論文の抜粋をお読みください…
チェルノブイリ事故から11年たった。この間、多くのデータがベラルーシ、ロシア、ウクライナの科学者によって明らかにされてきた。これらのデータは、チェルノブイリ事故が原子力平和利用における最悪の事故であったことをはっきりと示している。この事故はベラルーシ、ロシア、ウクライナの環境に大変厳しい被害を与え、これらの国の経済状態を決定的に悪化させ、被災地の社会を破壊し、汚染地域住民に不安と怖れをもたらした。そして、被災地住民とその他の人々に著しい生物医学的な傷を与えた。
今日、チェルノブイリ原発の核爆発が生態学的、経済的、社会的そして心理学的に、どのような影響を及ぼしたかについては議論の余地がない。一方、この事故が人々の健康にどのような放射線影響を及ぼしたかについては、著しい評価の食い違いが存在している。チェルノブイリ事故直後に、被災した旧ソ連各共和国の科学者たちは、多くの身体的な病気の発生率が著しく増加していることを確認した。しかし、“国際原子力共同体”は、そのような影響は全くなかったと否定し、身体的な病気全般にわたる発生率の増加とチェルノブイリ事故との因果関係を否定した。そして、この増加を、純粋に心理学的な要因やストレスによって説明しようとした。“国際原子力共同体”がこうした立場に立った理由には、いくつかの政治的な理由がある。また、従来、放射線の晩発的影響として認められていたのは、白血病、固形ガン、先天性障害、遺伝的影響だけだったこともある。同時に、“国際原子力共同体”自身が医学的な影響を認めた場合でも、たとえば彼らはチェルノブイリ事故によって引き起こされた甲状腺ガンや先天性障害の発生を正しく評価できなかった。同様に、彼らには、チェルノブイリで起きたことの本当の理由も的確に理解することができなかった。こうしたことを見れば、“国際原子力共同体”が危機に直面していることが分かる。彼らは、チェルノブイリ事故の深刻さと放射線影響を評価できなかったのであった。彼らは旧ソ連の被災者たちを救うために客観的な立場をとるのでなく、事故直後から影響を過小評価しようとしてきたソ連政府の代弁者の役を演じた。本報告では、こうした問題を取り上げて論じる。(全文を読む)
被曝をうけた人々において一般的な病気の増加が認められたのは、チェルノブイリ事故からしばらくしてのことであった。ソビエト時代の医療責任者は、そうした病気の増加は、汚染地域で暮らす人々のいわゆる「放射能恐怖症」によるものである、という説明を試みた。そのような見解は、チェルノブイリ事故とその医学的影響の規模に関する本当の情報を隠蔽しておきたいというソビエトの政策の現れであった。残念なことに、そうした政策は、他の電力生産方法との経済的競争にさらされ厳しい状況に置かれて、生き残りをかけた斗いをしていた原子力産業によって支持されたのである。
多くの放射線防護の専門家がいまだに、放射線被曝によって一般的な病気が増加するということを認めないのは、このことと関連している。Rosalie Bertellが何年か前に述べたように、放射線防護の専門家は、核兵器開発を含め国家の政策を正当化することを自分たちの職務と考え、人々の健康を守る気はないのであろう。
チェルノブイリ事故の本当の健康影響を無視してしまうことは、次の核災害がどこかの先進国で起きた際に、大変に深刻で危険な状況をもたらすことになってしまう、ということを我々は肝に銘じておくべきであろう。(全文を読む)
ここで、ベラルーシにおける原発計画の歴史を振り返っておこう。ベラルーシで最初に原発建設計画が持ち上がったのは1960年代のことであった。実際に建設が始まったのは1980年代初めで、場所は、ミンスクから約30kmのルデンスクという小さな町であった。電気出力100万kWのソビエト型軽水炉(VVER-1000)2基が、ミンスクに電力と暖房用熱水を供給する予定であった。
しかし、この建設計画は、以下の2つの理由で80年代終わりに中止となった。1つは、1988年にソビエト当局が、原発建設に関する新しい規則を導入したことである。その規則では、100万人以上の都市から100km以内での原発建設が禁止された。当時のミンスクの人口は約160万人であった。2つめは、チェルノブイリ事故の結果、ベラルーシのほとんどすべての国民が、原子力発電に対し恐れや心配を抱くようになったことである。
この不安はきわめて強かったので、ベラルーシ共産党中央委員会は1989年11月、共産党組織のすべてのレベルにおいてベラルーシでの原発建設に反対するという決定を行なうに至った。この決定は、国家の政策や経済に関してそれまで国民を無視してきたソビエト・ベラルーシにおいて、前代未聞の決定であった。(全文を読む)
0 件のコメント:
コメントを投稿