ECOLOGIST |
ジョン・ダワー John Downer
2014年12月20日
核産業とその支持者らはさまざまな言い草を繰り出して、核の破局的惨事を正当化し、弁解しようとしたとジョン・ダワーは書く。そのどれひとつとして、筋の通ったものでなかったが、彼らの目的――政治とメディアの極致を操り、世情に「安全」を訴える手練手管――には役立った。だが、それほど安全であったなら、核の責任限度がこれほど低いのはなぜだろう?
「本物の競争市場で代替エネルギー事業者と角を突き合わせたりしなければならないなら、過去において、だれも核反応炉を建造しなかっただろうし、今日において、だれも建造しないし、反応炉の所有者は、できるだけ急いで核事業から撤退することだろう」
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英国政府の元主席科学顧問、サー・デイヴィッド・キングは事故が勃発してからまもなく記者会見の場で、機能停止を誘発した天災は「極めて想定外の事象」だったと断言した。
そのさい、彼は事故の原因になった地震と津波の尋常でない性格を強調する事故直後の解説をいろいろと並べ立てた。
そのころ、さまざまな専門家集団が同じような主張をし、ジャーナリストはその主張に追随した。あるコンサルタントがニュー・アメリカンに書いた次のような嘆き節が一般的な論調を代表している――
「……フクシマ『惨事』は反核集会のスローガンになるだろう。原発が設計耐震性の6倍のエネルギーに持ちこたえ、波高15メートルと推測されている津波が海抜10メートル地点の予備発電機を押し流したことを憶えている人はほとんどいないだろう」
このようなあらゆる説明で率直または暗に表明される主張は、フクシマの直接原因は非常に稀であり、核施設の将来とほとんど無関係であるというものである。日本を襲った特異な天災を除いて、原子力は安全であり、あの天災は日本に特有の問題であり、現実的な時間枠の範囲内で、どこでも二度と起こることはないと主張する。
説得力はあるが薄っぺらな論理
この論理はさまざまなレベルで薄っぺらである。ひとつには、天災の「異常性」は疑わしく、地震にしろ、津波にしろ、おどろくべきことでないと信じるだけの、れっきとした理由がある。なんといっても、あの地域は地震活動が盛んであることは周知のことであり、あの地震は前世紀も入れて4番目の大きさの強度にすぎなかった。
4年前の2007年7月16日、柏崎刈羽原発が予想外のマグニチュードの地震に被災したとき、日本の核産業は耐震性不足に直面さえしていたのである。
これをきっかけに、何人かの専門家がフクシマの耐震性不足を強調したが、当局者らは、いまフクシマに関連していわれていることと同じようなことをいった。津波も、前例のないことではなかった。
同じ地域で869年7月に同じようなことが起こっていたことは、地理学者たちによく知られていた。これは確かに遠い昔のことだが、データが1000年周期の再来を示していた。
一方、津波がなかったとしても、地震だけでもメルトダウンを引き起こしたのかもしれないと指摘する報告――作業員の証言により、津波の前に警報音がなっていたという数々の証拠に支えられている見解――がいくつかあった。日本の原子力委員会の委員長。班目春樹は、フクシマの運営会社、東京電力が冠水を予測できたことを否定したと批判した。
日本はそのような災害に「特に弱い」という主張も同じように疑わしい。たとえば、ウォールストリート・ジャーナルが2011年7月、米国の反応炉が設計に予測を反映されていない地震のリスクを抱えていることを業界と規制当局が知っていたことを示すNRC(原子力規制委員会)の私的Eメールについて報道した。
この記事は、規制当局がこの新たな知見に対応する措置をほとんど、あるいはまったくとらなかったと指摘した。まるで彼らの危惧を実証するかのように、フクシマから6か月もたたない2011年8月23日、ヴァージニア州ミネラルのノース・アンナ原発が設計上の想定を超える地震に搖さぶられた。
事故はすべて「独特」――次の事故も「独特」
さらに、日本を襲った事象を例外として、原発になんに対しても安全であるという暗黙の断定を念頭においた「独特のできごと、また脆弱性」という言い草を疑うだけの、もっと大きな基本的な理由がある。
2011年の地震と津波は二度と起こらないので、原子力は安全だと主張する連中は、要するに、2011年の事態は予想できなかったが、これ以外はすべて予想できるといっていると理解しておくことが重要である。
それにしても、ちょっと考えるだけで、これはとてもありえないことだとわかる。これは――フクシマを含め、多数の工学的災害が少なくとも部分的には、技術者らが考えもしなかった条件が原因で勃発していたにもかかわらず――専門家は核施設が耐用期間中に遭遇する課題のすべてを包括的に予測すると確信できる(あるいは、工学用語でいえば、すべての核施設の「設計基準」は正しい)と想定している。
セーガンが指摘するように、「これまでに起こらなかったことは、いつでも起こる」。9・11のテロ攻撃はおそらく、このジレンマの最も写実的な実例だろうが、ほかにもどっさりある。
ペロー(2007)は、権威筋が公式に認識しない潜在的災害シナリオの光景をきめ細かに探求しているが、彼にしても、そのすべてを考察していたとはとてもいえない。
もっと多くのことがいつでも仮定されている。たとえば最近、研究者たちが大規模な太陽嵐の影響を予測したが、かつて核以前の時代、これが北米とヨーロッパの電気系統を何週間にもわたって機能停止させたことがあった。
非典型的および/または修正可能な人間の弱点
事故が繰り返さないことを立証するために言い立てられる、フクシマを説明する二番目の論拠は、原発を運営し、または規制していた人びと、そしてその人たちが仕事のよすがにしていた制度的文化に焦点を絞る。このレンズを通して事故を観察しがちな傍観者は、いつも変わらず、それを人間の弱点――エラーか不当行為、またはその両方――の結果であると解釈する。
そのような言い草の大多数は、認定する不手際をフクシマに特有の規制または運営にまつわる事情に関連づけており、したがって、フクシマを「核」事故として扱うより、「日本的」事故として描写する。
たとえば、多くの人たちは米国と日本の規制当局の違いを強調し、しばしば日本の規制機関(原子力安全・保安院)は経済産業省に従属していると指摘し、そのため、保安院の安全確保責任と経産省の核エネルギー推進責任との利益相反が生じていたと主張する。
彼らはたとえば、保安院は国際原子力機関(IAEA)が先だって別の施設が地震に被災したさいに発表した報告書で独立性の欠如を批判されていたと指摘する。あるいはまた、保安院が核産業に対する国民の信頼を損なうのではと恐れるあまり、IAEA新基準の施行を拒んでいたことを示す証拠があると指摘する。
他の説明は、施設の運営会社、東京電力に矛先を向け、著しく「怠慢」だと断罪する。この流派に共通の断定とは、たとえば、破局的事故にかかわりのあった重要な循環パイプのひび割れのデータなど、東電は長年にわたり数々の規制違反を隠蔽していたというものである。
これらの説明には意味合いがふたつある。その一、「わが国」の運営会社は「規則を遵守している」ので、(「わが国」がどこであれ)このような事故は「わが国」で起こらない。その二、これらの失策は修正可能であり、だから、同類の事故は、日本でさえも、二度と起こらないだろう。
フクシマにまつわる人間の弱点に関する説明が、これらの弱点が日本を超えた業界全体の特性であるとあえて描写している場合、やはり大多数はこれらの弱点は根絶できるものであると解釈している。
たとえば2012年3月、カーネギー国際平和基金はフクシマにまつわる一連の組織的弱点を強調した報告書を発行したが、その弱点のすべてが日本にだけ意味があるわけではないと考察されていた。
それでも、報告書――標題『フクシマが予防可能だった理由』――はそのような弱点は解消可能だったと論じる。「最終的な分析として、フクシマ事故は原子力にともなう事前に未知だった致命的な欠陥を露呈するものではなかった」と、報告は結論した。
IAEAが大急ぎで発表した反応炉監視強化策『5点計画』など、フクシマ後の核にまつわる世界中の権威筋の動きと見解に、これと同じメッセージが反響しており、管理の見直しと改革を約束している。
例外神話
しかしながら、先の外因的な災害にまつわる言い草と同じく、これら「人間の弱点」説の論理もまた薄っぺらである。たとえば、日本人の不正行為と失態が掻きたてた編集者の驚愕にもかかわらず、そのどちらも例外ではないと信じるだけの立派な理由がある。
たとえば、日本が複雑な工学基盤を管理することにかけて第一級の評判を得ていることを否定するのはむつかしいだろう。あるワシントン・ポストの論説も次のように標題されている――「競争力があり、技術の優れた日本人が完璧に安全な反応炉を造れないのなら、だれが造れる?」。
日本人の管理の弱点に関する報告は、規制の欠陥、運転員のエラー、企業の不正行為に関する報告が、原子力と報道の自由を備えた国のどこでもあふれているという事実に関連づけて考察されなければならない。
それにまた、事故調査が国の安全行政の変化を見つけてきたが、後にさらなる精査を拒まれている長い伝統がある。
たとえば、西側の専門家がチェルノブイリに関してソ連の核産業の実務を非難したとき、ソ連人がスリーマイル・アイランドのような事故はソ連で決して起こらないと主張し、西側の安全文化のお粗末さを強調していた言い草を無意識のうちに言い返していたのだ。
「人間」の問題は潜在的に解決可能であるという主張は、操作エラーがあらゆる複雑な社会・工学システムに内在する特質であると信じるだけの有無をいわせぬ理由があるので、維持するのはむつかしい。
たとえば、技術的な日常業務でさえ、じっくり観察すれば、机上の設計で見るよりも、現場では必然的・不可避的に「粗雑」であることがわかる。
このように、ヒューマン・エラーと違反行為は曖昧模糊とした概念なのである。ウィン(1988:154)が観察したように――「安全でない、または無責任な行為に、技術的なルールを拡大解釈し、適用することは、事後に解明を迫るプレッシャーがあったとしても、明らかに特定されることは決してない」。「違法行為の説明」の文化的に満足する性格は、それ自体が慎重さを要請する大義であるべきだ。
これらの研究は、最もおおまかな規則でさえ、ときには解釈を要請し、不確実な条件のもとで決定を下さなければならない状況から作業員らを解放しないことを示すことによって、「完璧な規則遵守」の観念を台無しにする。
わたしたちはこの意味で、特にフクシマが予防可能だったとする説明は、全般的に核事故が予防可能であるとする証拠にならないと深く認識すべきである。
類推で論じること――いかなる特定の犯罪も避けることができた(そうでなければ、犯罪に当たらない)と論じることは真であるが、わたしたちはこのことから、犯罪という現象を撲滅できると決して推論しないだろう。あらゆる複雑な社会・工学システムと同様、核の世界に人間の弱点はある程度まで付きものである。
また、核施設に求められる信頼性に関連して、そのレベルが常に非常に高いはずだ、あるいは少なくとも、それに対するわたしたちの確信があまりにも覚束ないと考えるのが安全である。したがって、人間の弱点と不正行為を研究し、理解し、対処する価値が疑う余地なくあるが、それらが「解決した」と結論することを避けるべきである。
施設設計が代表的なものでなく、また/あるいは修正可能である
上記で概説した、フクシマの環境と運営にまつわる言い草と並んでいわれているのが、施設そのものを強調する言説である。
こちらは、フクシマの反応炉(GEマーク1型)が他のたいがいの反応炉を代表するものではないと論じ、同時に、同じように危険であるいかなる反応炉も設計を「修正」することによって安全になると約束して、事故との関連性を核産業全般に限定する。
この流派の説明は、しばしば施設の老朽化を強調し、反応炉の設計が時間をかけて変更され、おそらくより安全になっていると指摘する。ある英国の公僕は部内のEメールで、この言説を体現し、それを全面に出した決定を伝えたが、(後にガーディアン紙に掲載された、その文面で)次のように断言している――
「われわれ(事業革新・職業技能省)は…日本における事象が劇的な様相ではあるが、この1960年型反応炉に付きものの安全性推移の一環であるにすぎないことを示す必要がある」
このような形で反応炉の老朽化を強調することが、災害直後のフクシマ論議の主流になった。たとえば、ガーディアン紙のコラムニスト、ジョージ・モンビオト(2011b)は、フクシマを「安全特性が不適切な老いぼれ施設」と書き表した。
彼はその機能停止を、隣に立地しながら、津波に耐えた福島「第二」原発のような、後の設計の品位をあげつらう証拠にするべきでないと結論した。「40年前に造られた施設を21世紀の発電所に反対する主張で使うのは、ヒンデンブルグ惨事を引き合いにして、現代の空の旅が安全でないと言い張るようなものだ」と彼は書いた。
「不十分な津波災害に対する深層防護規定」(IAEA、2011a:13)といった他の説明は、反応炉の設計を強調しているものの、より一般化しうる短所に焦点をあてており、マーク1型反応炉やその世代だけに固有のものと解釈できない。
暗示――これらすべての問題を解決できるし、するだろう
しかし、これらの失敗は修正可能であるとか、その類いのことをいうのは暗示だった。アメリカ原子力学会は事故直後に「原子力産業はこの事象に学び、将来、わが国の施設をより安全なものにするため、その設計を改訂するだろう」と世界に約束したとき、その方向を定めたのである。
原子力の責任を担う公的機関のほぼすべてが、それに追従した。たとえば、IAEAは定期的に繰り返す一連の調査の指揮をとり、それがやがてIAEA『原子力安全に関する行動計画』にまとめられて発表され、それにつづいて連続的に会合が開かれ、他の専門機関の代表たちがその場で自分たちの分析を共有し、技術勧告を作成した。
諸団体は常に「学ぶべき多くの問題が残っている」と決議し、さらなる研究と将来の会合の開催を勧告した。しかし、ここにもまた、疑問の種がどっさり詰まっている。
第一に、フクシマに固有の設計や世代が例外的に脆弱性の原因であるということを疑うに足る理由がたくさんある。たとえば、前述したように、災害後に確認された――予備電源まわりの不適切な防水など――特有の設計不備の多くは、反応炉設計の全般にわたって広く適用できる。
また、反応炉の設計または世代がなんらかの形で例外であるとしても、その例外主義には決定的な限界がある。現時点で世界で稼働中のマーク1型反応炉は32基あり、その他にも、同じような稼働年数と世代の反応炉が多くあり、特に米国では、現時点で運転されている原子炉のすべてが1979年のスリーマイル・アイランド事故の前に就役している。
第二に、既存施設の大多数に改修を施せば、フクシマの教訓をすべて反映できると信じるだけの理由はほとんどない。たとえば、核施設の耐震性を大幅に改善するためには、大規模な設計の変更が必要になり、構造物全体を解体して、一から造りなおしたほうが現実的かもしれない。
これが技術勧告をめぐる動きが止まっている理由なのかもしれない。したがって、違った、またはもっと現代的な反応炉であれば、より安全であるというのは本当かもしれないが、わが国の反応炉はそうでない。
NRCは2012年3月――急を要する勧告の一部を実施するように電力会社に求める3件の「即時施行」命令を発布し――停電と燃料プールに関連する新基準をいくつか発表した。しかし、求められる改善は比較的小規模なものであり、この例の「即時」は「2016年12月31日までに」を意味していた。
その一方、そのころNRCが付与した新規反応炉4基の認可には、NRCがフクシマから学んだ広範な教訓を活かすための拘束力のある義務条項は含まれていなかった。いずれの例でも、ますます孤軍奮闘を強いられていたNRC委員長、グレゴリー・ヤツコだけが反対票を投じた。2016年期限に反対したのも、彼ひとりだった。
複雑なシステムのびっくりさせつづける能力
最後に、そして最も基本的なことに、いかなる反応炉設計もリスク分析が示すのと同じほど安全であることを疑うだけの先験的な理由がたくさんある。複雑なシステムの観測者たちは、どのように設計しても、基幹技術が必然的にある程度の動作不良を起こしがちである理由に関する有力な論拠の概略を描いた。
そのような論拠で、最も卓越しているのが、ペローの正常事故理論(Normal Accident Theory; NAT)であり、これは、さまざまな事象が起こりうる機会が多いシステムにおいて、非常にありえない(つまり、いかなるリスク計算も予測できない)事象の合流が原因である事故は「正常」であるとする、単純だが、抜群に確率的な洞察を備えている。
この観点において、「故障発見・即決修理」論は、将来が孕んでいる「運命的な偶然の一致」がどれほど多いか、知るすべをもたらさないので、怪しいものになる。IAEAのフクシマに関する予備報告「教訓1」は、「……核施設の設計は、外部事象の滅多に起こらない複雑な組み合わせに対する適切な防護策を含むべきである」というものだった。
NATは、減らしようがない数のこれらの「複雑な組み合わせ」に形式的分析と管理統制の手が永遠に届かないはずである理由を説明する。
大差のない結論を実証する、もうひとつの方法は、技術的知識の基本的な認識論的曖昧さを指摘し、複雑で安全重視が不可欠なシステムには非常に高度なレベルの確実性が求められるので、この曖昧さの重大性が拡大する様相を挙げることである。
この状況において、判断は絶対的に正しいものでなければならず、ますます重大になる。このような計算には、エラーの入りこむ余地がない。99%の確率で反応炉は爆発しないといっても無意味であり、爆発するかしないかは半々であるというのが正しい。
完璧な安全性は決して保証されない
この観点から見て、複雑なシステムは、前もって予測することが不可能な間違った信念が招き寄せる失敗に陥りがちであり、筆者はこれを別のおりに「認識事故」(Epistemic Accidents)と呼んだ。
「故障発見・即決修理」論は、将来が孕んでいる新たな「教訓」がどれほど多いか、知るすべを提示しないので、完璧な安全を保証できないといっておくことが肝要である。
技師たちと規制官たちにとって、核施設が遭遇するかもしれないすべての外部事象を予想していたと確実に知ることが不可能であるのとまったく同じように、彼らにとって、システムそのものが完全に正確であると理解していると知ることは不可能である。
安全余裕、余剰防護、深層防護を増大すれば、疑いなく反応炉の安全性が改善するが、どれほど技術の妙技を注ぎこんでも完璧な安全性を達成できないし、核施設に求められる「理解可能な」レベルの安全性さえ覚束ない。ガンダーセン(2011年)がいうように、「……完璧に安全な反応炉はいつも曲がり角の向こうなのだ」。
核の権威筋は時おりこれを認める。たとえば、IAEAが惨事の知見を2012年勧告にまとめたあと、会合の議長、リチャード・メサーヴは、「核の事業において、『仕事が終わった』ということは決してできません」と要点を語った。
その代わり、彼らは改善を約束する。メサーヴはこうつづけた――「スリーマイル・アイランドとチェルノブイリの事故は、安全システムの全般的な強化をもたらしました。フクシマの事故に同じような効果があることは明白です」。
だが、真の問いは、いつになれば安全性が適切に強化されるかなのである。それがスリーマイル・アイランドとチェルノブイリのあとでなかったなら、フクシマにどんな違いがあるのか?
信頼性神話
本論のねらいは要するに、フクシマの規模の事故は二度と起こらないと断言することは誤解を招くということである。反応炉に求められる信頼性が計算不可能であると信じるだけの確かな理由があり、反応炉のじっさいの信頼性が公的に計算されたものよりずっと低いと信じるだけの確かな理由があるからである。
これらの限界は、核反応炉のじっさいの歴史的事故率で明白に証明されている。最も初歩的な計算でさえ、民生用核の事故は公的な信頼性アセスメントが予測したものより遥かに頻繁に起こっていることを示している。
正確な数値は(たとえば、フクシマをメルトダウン1件と数えるか、3件と数えるかといったふうに)「事故1件」の分類によって左右されるが、ラマナ(2011)は深刻なメルトダウンの歴史的確率を3,000炉年に1回とし、タエビら(2012: 203fn)は1,300炉年から3,600炉年のどこかに1回としている。
どちらにしても、裏にある信頼性はアセスメントの主張より何桁も低い。たとえば、著名なフランスの核施設製造業者、アレヴァは英国の規制当局に提出した申告で、同社の新型「EPR」反応炉における「炉心損傷事象」の可能性を1炉あたり160万年に事象1件とする確率計算を記載した(Ramana 2011)。
2:事故は許容範囲内
フクシマを説明する二番目の基本的な言い草は、事故の影響は許容範囲内である――核事故のコストは高上りに見えるかもしれないが、時間でならせば、代替エネルギーに比べて許容できる――という主張に頼っている広範な核産業を事故が台無しにするのを防いできた。
「事故は許容範囲内」論は常に核事故による健康への影響に関連して考案される。「わたしの知るかぎり、だれひとりとして放射線で死んでおりません」と、サー・デイヴィッド・キングはフクシマに関連する記者会見の場で語り、彼が巧妙に表明した所感は、事故後の世界のどこでも論説に繰り返し反映されることになる。
「原子力は考えられるかぎり最も手厳しい試験にかけられ、人びとと地球に対する影響は小さかった」と、モンビオット[ガーディアン紙のコラムニスト]はある独特のコラムで結論づけた。
「歴史は、原子力が滅多に殺すことがなく、ほとんど病姫を起こさないことを示した」と、やシントン・ポストは読者に請け合った(Brown 2011)。たとえば、McCulloch (2011)、Harvey (2011)も参照のこと。フォーブス誌記事のタイトルが、「フクシマの避難者は、放射線でなく、恐怖の犠牲者」と宣言した(Conca 2012)。
この主張はもっと洗練された形で、他の代替エネルギーとの比較を引き合いに出す。アメリカ肺協会の2004年論文は、石炭火力発電所が毎年24,000人の命を縮めていると主張している。
チェルノブイリは今日にいたるまで最も毒作用の強い核惨事であると広く考えられており、過去と将来において4,000人内外の死の原因になっていると常に考えられている。
(専門家の大多数が否定しても)フクシマの影響でさえも比較が可能なら、核エネルギーが周期的に事故を起こしたとしても、統計によって、その人的損失はほとんど無視できるように見える。
しかしながら、そのような数値には非常に異論が多い。部分的には石炭火力のほうが原発より多いからである(もっと公正な比較は、キロワット/時あたりの死者数を考えることかもしれない)。だが、主な原因としては、核事故による健康への影響の計算が基本的に曖昧だからである。
慢性的な放射線障害は、広範な疾患として発現しうるが、そのどれも――統計的に判別されなければならず――放射線に誘発されたものして明確に分別されず、しかもそのすべてに長い潜伏期間があり、時には発症するまで数十年かかり、あるいは世代を超えることもある。
何人、死んだ? 解釈によりけり…
だから、核事故の死亡率推計は必然的に数々の複雑な前提と判断に頼ることになり、同じデータなのに、根本的に異なった――だが、等しく「科学的」な――解釈の余地が生まれることになる。他のものに比べて説得力のある主張もあるが、この領域では、「真実」はわたしたちがそうあるべきだと常に思うようには「おのずから輝く」というわけではない。
たとえば、フクシマにおける推計の根拠になる、チェルノブイリの死亡率に関するさまざまな研究を取り上げてみよう。これらの研究の根拠とされるモデルそのものが、ヒロシマとナガサキの被爆者のデータを根拠としており、これはその精度と妥当性が幅広く批判されてきたのであり、しかも明確な正解のない一連の選択をおこなうモデル制作者を要する代物なのである。
モデル制作者は、放射線が人体に作用する様相にまつわって相競合する説、たとえば、事故が放出した放射性物質の量に関して大幅に異なる判断、その他もろもろのあいだで選択しなければならない。そのような選択が緊密に相互連関しており、相互依存関係にあるのだ。
たとえば、事故で放出されたアイソトープの構成と量に関する推定は、その分布に関するモデルを左右し、それが放射線の人体に対する影響の様相に関する学説とごっちゃになって、リスクにさらされた特定の住民集団に関する結論を左右する。
これはまた、死亡率の大幅な急増を放射線の害と解釈すべきなのか、それとも放射線関連の死と見える事例の多くがじっさいは他のなにかの兆候であると解釈すべきなのかといった判断を左右することになる。これが果てしなくつづき、理論と正当化の変転極まりないタペストリーを織り成し、微妙な判断がこのシステム全体に波紋を広げる。
純然たる結果として、アセスメントの根拠になる前提にかかわる――通常、研究のごく早い段階でなされ、たいがいの傍観者にとって、ほとんど不可視の――秘かな判断が研究の知見に劇的な影響を与えることになる。この結果は、チェルノブイリの死亡者に関して大幅に食い違った断定に見て取ることができる。
上記に挙げた「正統派」の――4,000人を超えないとする――死亡者数は、IAEA主導の2005年「チェルノブイリ・フォーラム」報告から引用したものである。あるいはむしろ、要録版に添えられていた、IAEAの大幅に縮小・改変されたプレスリリースからの引用である。報告本体の健康の部はずっと大きな数値をほのめかしている。
それなのに、「死亡者4,000人」の数値は、同様な調査の結果と大きく違っているにもかかわらず、たいがいの国際的な核の権威筋に是認され、引用されている。
たとえば、翌年に公開された2本の報告はずっと大きな数値を挙げている。ひとつは30,000から60,000の癌死亡を見積もり(Fairlie &
Sumner 2006)、もうひとつは200,000かそれ以上としている(Greenpeace 2006:
10)。
その一方、ニューヨーク科学アカデミーが2009年、ヤブロコフによる極めて実のあるロシア報告を出版しており、その本では、死者数の幅をさらに大きく広げ、チェルノブイリに起因する癌による世界の早すぎる死亡例の数を、2004年までで985,000内外と結論づけている。
これらふたつの数値――4,000と985,000――のあいだに、他の専門家によるチェルノブイリの死者数に関するさまざまな推計が連なっており、その多くが正確で権威があるように見える。グリーンピース報告はさまざまな推計の一部を一覧表にし、それらをさまざまに異なる方法論に関連づけている。
科学なのか? それともプロパガンダなのか?
この数値論争のそれぞれ異なった陣営は、敵側が意図的に欺こうとしていると常に思っている。さまざま大勢の批評家たちが、たいがいの公式見解は業界の援軍が執筆したものであり、業界が人間にもたらした放射性降下物の証拠を主張と反論の乱痴気騒ぎの賭博場に投げこんで、核の破局的惨事を「洗浄」しようとしていると主張している。
たとえば、カリフォルニア大学バークレー校の元医学物理学教授、ジョン・ゴフマンが、エネルギー省は放射線被害の保守的なモデルを推奨することによって、「ヨーゼフ・ゲッベルスのプロパガンダ戦争を遂行していた」と書いたとき、彼の告発は、その内容よりも、その実直さが際立っていた。
それに、その証拠は確かにある。過去において、米国政府が国民の不安を鎮めるために、放射線の害に関する科学に暗い影を意図的に落としていたことに疑いを差し挟む余地はない。たとえば、1995年の米国・人体放射線実験に関する諮問会議は、冷戦期の放射線研究が政治目的のために大幅に削除されていたと結論づけた。
原子力委員会(NRC)の元委員が1990年代初頭に次のように証言している――「核エネルギーをめぐる戦いにおいて、規制当局者の職務が核施設の所有者や運営者と一体化していたことの結果として、反核陣営に不利になるように情報を管制しようとする傾向がありました」。だが、双方それぞれが執着する現実について選り好みしているといったほうが役に立つだろう。
この領域において、完全に客観的な事実はなく、これほど判断が多いので、ちっぽけな、ほとんど人目につかないような歪曲であっても、一見したところ客観的な危害計算の形を定めているのかもしれないと容易に想像できる。
実のところ、相異なる核の危害計算の分かれ目となる判断の多くは本来から政治的なものであり、核の被害に関して完璧に中立的な説明というようなものはありえないという結果になる。
たとえば、研究者らは「死産」数に入れるか「死亡」数に入れるか、決めなければならない。アセスメントがもっぱら死亡のみを強調するのか、あるいは放射線に関連するすべての傷害。疾患、異常、機能障害に対象を広げるのか、決めなければならない。「縮められた」命を「失われた」命に含めるのか、決めなければならない。
このような設問に正解はない。データを増やしても、解決しない。研究者らはただ選択しなければならない。その純然たる結果は、いかなる核惨事の害も、歪みのあるレンズを通して、遠目で垣間見るしかないということ。
フクシマの健康に対する影響に関する最大限に厳密な計算でさえ、とても多くの曖昧さと判断が埋めこまれているので、いかなる研究も決定的でありえない。残るものは、印象だけであり、批判的な傍観者にとっては、目が回るような可能性の感じだけである。
コスト推計――何十兆円になるのか?
確実に言えるのは、フクシマの死亡率は低いと確約することが、担保において誤解をもたらすということだけである。放射線学的な死亡率をめぐる事実と数値の十字砲火の激しさを考えると、健康のレンズを通してフクシマを眺めるだけでは、役に立たない。
じっさい、災害の影響を見るためには、他の――はるかに曖昧さの程度が低い――レンズもあることを考えると、死亡率を強調すること、それ自体がフクシマを極小化していると考えることもできる。
フクシマの健康に対する影響に関して、たっぷり争われているので、事故が許容範囲内のものであるとめるような形に解釈することもできるが、他の条件では、許容範囲内だと言いくるめるためにいじくるのが、もっと難しい仕事になる。
たとえば、災害の経済的影響を取り上げてみよう。健康と安全の面でフクシマの影響にもっぱら焦点をあてたことにより、その経済的な影響がほとんど隠されてしまっているが、それでも後者は、議論の余地があっても、より重要であり、確かに曖昧さの程度がましである。
核の事故は多様な面でコストがかかる。反応炉を密封する必要のための直接費、環境放射性降下物を研究、監視、緩和するコスト、危険にさらされた人びとの再定住、倍賞、処遇にかかる費用などなどである。
チェルノブイリから25年以上経過したいまでも、事故は西ヨーロッパを悩ませ、数か国の政府の科学者たちがある種の肉類を検査しつづけ、その一部が食品流通経路に入らないようにしている。
さらに、農地や産業施設といった資産の喪失、発電所や周辺施設の電力の喪失、事故による観光業界の打撃など、外部で発生する数々の間接コストがある。核の事故による正確な経済的影響を見積もるのは、死亡率とほとんど同じほど困難であり、計算結果は同じ基本的な理由によりさまざまに異なってくる。
フクシマ周辺の避難区域――大部分が数世代にわたり居住不能である約966平方キロの地域――は、日本の国土の3%を占め、人口が密集しながら、そもそも土地の20%だけが居住可能である山の多い地域だった。
しかし、コスト見積もりは同じ程度までにはバラバラに異ならず、フクシマの死亡率とは対照的に、財務コストが巨額になるという点では、ほとんど争いがない。日本政府はすでに2013年11月、フクシマの浄化経費だけで8兆円(ざっと800億ドル、または470億ユーロ)――数十年かかり、数百億ドルかかると予想される原発解体費を含まない額――を割り当てていた。
独立系の専門家たちは浄化費用が5兆ドル辺りになると見積もっている(Gunderson &
Caldicott 2012)。しかも、この見積もりには、食品・農業部門の災害損失額など、概略を前述した間接費を含んでおらず、日本の農林水産省はこれを23兆8410億円(ざっと240億ドル)と見積もっている。
これらの競合する見積もりのうち、高上りの金額のほうが妥当であるように思える。評判悪くも控え目なチェルノブイリ・フォーラム報告も、関連コストが事故から丁度20年で「数兆ドル」に達したと報告しており、フクシマの三重メルトダウンがそれより安上がりになるとはとても思えない。
たとえ、チェルノブイリがフクシマより危害が大きかったという想定(ますます薄っぺらになっている共通認識)を認めるとしても、その同じ報告が、ベラルーシ単独の30年間のコストが2兆3500億ドルになると予想しているのであり、ベラルーシの失われた機会の損失、倍賞支払い、浄化経費が日本のそれに匹敵するとはとても思えないのも、ほんとうのことなのだ。
たとえば、日本のずっと高い生活費、議論の余地のない反応炉6基の喪失と少なくとも原発遺跡の閉鎖決定、その他多くの要因を考えてみるがよい。チェルノブイリの反応炉はベラルーシに属してさえもいなかった――それは、現在のウクライナにある。
核災害の責任詐欺
これらの数値を視野に置き、米国の核事業会社が一産業――間口は広いが、たった1200億ドルの事故賠償保険プール――の開設を求められ、それ以上の損失に対して、プライス=アンダーソン法で守られ、米国議会がこの法律であらゆる核災害のコストを社会化したことを考えてみるとよい。
反応炉事業は――権威ある、第一級のリスク・アセスメントをあげて、安全性を謳っているにもかかわらず――ほとんど唯一、民間保険の契約ができないので、米国の核産業はそのような常軌を逸した政府の保護を必要としており、どこの国でも事情は同じである。
業界独特の限定責任頼りは、どのように原子力を経済的に正当化しても、フクシマのような大事故の不可避性を認めることができず、しかも存続し、競争力を残しているという事実を反映している。
核災害の経済学に関する2012年報告の著者、マーク・クーパーは次のように指摘する――
「核反応炉の所有者と運営者がフクシマ型の核事故の全面責任に向き合ったり、助成金の軛を逃れて、本物の競争市場で代替エネルギー事業者と角を突き合わせたりしなければならないなら、過去において、だれも核反応炉を建造しなかっただろうし、今日において、だれも建造しないし、反応炉の所有者は、できるだけ急いで核事業から撤退することだろう」
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ジョン・ダワーJohn Downerは、ブリストル大学(英国)社会学・政治学・国際研究スクール、世界不安センターに勤務。.
本稿は、ロンドン経済学・政治学スクールのリスク解析・規制センター刊'In the shadow of Tomioka - on the
institutional invisibility of nuclear disaster'(「富岡の影にて~核惨事の不可視性について」の抄録。
この抄録版は、編集段階で重要な脚注資料を本文に組み込み、ほとんどの参照文献は割愛している。学者、科学者、研究者などの諸氏には、オリジナル版を参照してくださるようにお願いする。
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