アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス
アジア太平洋と世界を形成する諸力の分析
2016年11月1日
Volume 14 | Issue 21 | Number 2
フクシマは第二のチェルノブイリ?
凡例:(原注)[訳注]〔ルビ〕
来るべき未来を待ちながら
フクシマ核惨事の6周年が近づく今も、福島第一核発電所の巨大な残骸の周辺地域はゾッとする魅力を醸しだしている。アルカディウス・ポドニーシンスキは、核危機の発端となった2011年3月からこの方、その地に惹きつけられた数千人の写真家とジャーナリストのひとり。彼がその地を扱った2015年公開の最初の写真レポートは、世界中から数百万人の閲覧者を惹きつけた。
ポドニーシンスキは、2008年にチェルノブイリを初めて訪問し、世界最悪の核事故の余波を記録した経験をたずさえて、日本におもむいた。彼が指摘しているところでは、チェルノブイリとフクシマの両方とも、災害の原因となったものはテクノロジーではなかった。彼は、日本の政治家はチェルノブイリと比較されたら気を悪くすると言い添える。それでも、フクシマに関する外国人の報告としては稀なことだが、彼の作品は日本のテレビ番組(リベラルなTV局、TBS)で取り上げられ、この比較的な視点に飢えていることがわかる。
ポドニーシンスキは、最初の訪日で「核惨事の破滅的影響」に対する信念を強めた。(160,000人が家を失ったり、避難を余儀なくされたりしたままであり)とても多くの世帯の暮らしの崩壊がもたらした苦痛はさておき、汚染された市町村を人びとの再居住が可能になる状態に戻すという難問が残っている。この除染のため、すでに数十億ドルも使われており、今後、さらに多額の経費がかかる。フクシマの事業者、東京電力株式会社による最新版の復旧計画によれば、賠償金だけで総額7兆800億円、つまり600億ドル*近くと見積もられている。
*[訳注]原文ママ:$60 billion. $70
billionのミスタイプと思われる。
チェルノブイリの核反応炉が爆発してから30年たって、ウクライナ国民は彼らが見舞われた悲劇を受け入れるようになったと、ポドニーシンスキは書く。死傷者は忘れられた。損傷した反応炉を覆う経費20億ユーロの棺〔ひつぎ〕は完成間近である。メディアが後日譚を取り上げるのは、主だった記念日だけである。「フクシマはどうなるだろう?」と、ポドニーシンスキは思う。楢葉町は昨年、三重メルトダウン事故のあとに下された避難命令を全面解除された福島県唯一の町になった。だが、町の生活基盤の大規模な再建を実施し、放射線レベルを下げるために数百万ドルも支出したものの、町当局が説き伏せて、恒久的に帰還した人びとはごく少数にすぎない。
放射能は、もちろんのこと、問題の一部にすぎない。ポドニーシンスキはこう言っている――
「避難住民は、学校、病院、店舗の不足を心配している。社会基盤が気がかりであり、じゅうぶんに再建されていない。とても多くの若い人びとが地域を離れたいま、多数を占めるようになる高齢者の必要にふさわしい基盤を整備しなければならない。だが、帰還すると決めた家族や知り合い、近所の人たちはわずかしかいないので、避難民が一番恐れているのは孤立感なのだ」。
暮らしが宙吊りになった感覚、来るべき未来を待っている思いが、かつて16,000人近くの人たちの古里であり、いまはゴーストタウンになっている富岡町に反響している。ポドニーシンスキが町に到着した正にそのとき、有名な桜の花が咲き誇っていたが、花見する人はいなかった。運命の皮肉とは、日本で新たに生まれる命のシンボルである桜の花が、汚染され、生命のない大通りに咲いていること、と彼は書く。「町と住民は再生するだろうか? 決定的な答は、疑問の余地なく彼らだけが出せる」。DM[署名]
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フクシマ~第二のチェルノブイリなのか?
わたしがフクシマを初めて訪問してから、ちょうど1年。核惨事の結果がいかに破局的なものになるか、わたしの確信を固めた訪問。それにまた、汚染され、破壊された町や村を再び居住可能な状態に戻すための人的・経済的尽力がいかに膨大なものになりかねないか、はっきり見せつけた訪問。
チェルノブイリを知っており、定期的に訪問している人物の目で見たフクシマ地帯の報告に国際社会から多大な関心が寄せられた。サイト閲覧者は数百万人に達し、ほどなく世界中の在来メディアに取り上げられ、フクシマについて、一時は最もホットな話題になった。だが、記事が日本にも届いたと知ったことが、わたしには一番うれしかったけれど、それが日本で大変な騒ぎになった(別のおりには、もっとひどい騒ぎになった)だけでなく、フクシマの現状についての日本人の知見がいかに貧弱で話にならないものか、わたしは思い知ることにもなった。
その結果、わたしは昨年からチェルノブイリよりも足繁くフクシマに通うようになった。それも、別の理由により驚くにはとても当たらない。チェルノブイリ惨事から30年の時が流れ、ウクライナ国民の大多数はとっくの昔に悲劇と折り合いをつけてしまっている。死傷者は忘れられてしまった。それはメディアの関心にも言えることであり、節目の折、事故30周年を期して回顧記事を書くだけである。さらにまた、10年近くの年月と20億ユーロ[約2300億円]をかけて、新しい棺〔ひつぎ〕の建設がついに完工しようとしており、まもなく放射性廃棄物保管場と227ヘクタール[2.27平方キロメートル]の放射性生物圏保護区が設定されることになっている。
フクシマの発電所の解体にもやはり30年かかり、棺の建設で完了するのだろうか? 破壊された福島第一核発電所の周辺町村はゴーストタウンと呼ばれ、チェルノブイリのプリピャチのようになるのだろうか? そして、フクシマはチェルノブイリのようにダーク・ツーリズムの名所になり、年に数千人の観光客を集めるのだろうか?
独りぼっちで戻りたくない
日本人は、とりわけ政治家と役人は、フクシマとチェルノブイリを比較されるのを好まず、気を悪くしさえする。ところが、どこでも似通ったものが目につくので、比較することを遠慮するのは難しい相談だ。事故の事実関係と直接原因は違っているものの、結果はほとんど同じである。避難住民が十万単位の人数に達する悲劇であり、十万単位ヘクタールの土地が汚染され、数十年の歳月と数十億ドルの経費をかけて、災害の結果を取り除こうとしている。そして、甲状腺癌の初めての大量症例。
フクシマの状況は、時間との戦い、あるいは体力検査と似ている。政府は、地域の除染と住民の自宅帰還に数十億ドルの資金を注ぎ込んできた。住民が、帰還する望み、または欲求をなくす前に、急がなければならなかった。家が崩壊し、あるいは住民が年取りすぎて戻れなくなる前に、大急ぎ。さらにまた、当局筋は住民に支払われる賠償金を打ち切る意向をほどなく表明し、それというのも、多くの住民によれば、そうした方がより効果的な帰還「奨励策」になるから。財政支援を剥ぎ取られると、住民の多くは戻るしかなくなってしまう。若い家族の多くは政府援助を待っていない。彼らはとっくの昔に立ち去って、放射性アイソトープと無縁の新しい生活の場を探すと決めた。彼らは断じて戻ってこない。
富岡町の汚染土壌廃棄袋
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私有地の除染
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だが、放射能だけが、政府が気にしなければならない唯一の問題ではない。避難住民は、学校、病院、店舗の不備を心配している。社会基盤が気がかりであり、じゅうぶんに再建されていない。とても多くの若い人びとが地域を離れたいま、多数を占めるようになる高齢者の必要を叶える基盤を整備しなければならない。だが、帰還すると決めた家族や知り合い、近所の人たちはわずかしかいないので、避難民が一番恐れているのは孤立感なのだ。
破壊された発電所から最も近い自治体、富岡町の無人になった町並み
当局筋は住民に帰還を納得させることができるのだろうか? 臨界点を超えて、避難民が他者から学び、それでも帰還するのだろうか? 当局筋はあらゆる手をつくして、現地は人に安全であると住民に納得させようとしている。彼らは、町や村、道路や鉄道駅を次から次へと再開させた。それなのに生憎なこと、やはり住民は帰還を望んでいない。最近の調査が、目下の政府方針と被災住民の意向の大幅な落差を裏づけた。住民の17.8%だけが帰還したい、31.5%がわからないと答えており、48%は帰還する意思がない。
ここはチェルノブイリになった
わたしは、初めてフクシマを訪問したおり、放射能から逃れる農民たちに置き去りにされた動物の世話をするために、お上の禁令に逆らって、封鎖区域に舞い戻った松村直登さんに会った。松村さんは数百頭の動物を引き受け、避けられない餓死や、農民に同意を無理強いした情け容赦ない役人の手による殺害から救った。松村さんはご自身の義侠心と捨て身によって、ほどなくフクシマの動物の保護者として知られるようになった。
だが、松村さんであっても、すべての動物を救えたわけではなかった。この農民によれば、3分の1の動物は、小屋の金属柵や囲いの木柵を破ったり、あるいは普通の犬小屋から逃げたりできなくて、渇き死んだという。松村さんはわたしをそのような現場に案内してくれた。
放置された農場に佇む松村直登さん
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皆が皆、松村さんの捨て身と義侠心を高く評価しているわけではない。動物を救っても、遅かれ早かれ食肉になるだけであり、農民がみずから被曝するだけの価値がないと信じる人は多い。そのような人のために、松村さんはいつもの答を用意している――食肉用に屠殺することと、放射能のためにお払い箱になった動物を殺すことでは、基本的な違いがある。
テロリスト牛
わたしは、松村直登さんのように、置き去りにされた動物の世話をするために、非合法ながら封鎖区域に舞い戻った吉沢正巳さんにも再会した。事故からほどなくして、農場の牛の何頭かの皮膚に謎の白斑が現れはじめた。吉沢さんによれば、それは放射能汚染と放射性飼料摂取の結果だった。
吉沢さんの農場は、破壊された発電所から14キロの位置にあった。この距離では、発電所の建屋は見えないが、排気筒を見ることができる。そして、吉沢さんが言うには、発電所の爆発を見ることができた(またその音を聞くことができた)し、おまけにまもなく農場の上空を流れた放射能の雲を見ることができたという。当然ながら、浪江町の住民20,000人近くのほぼ半分が、近場の山系の高地に位置する津島地区に避難した。だが、ほどなくして、まともに津島方向に吹いた風がその地区をさらに酷く汚染したことが判明し、人びとはまたもや逃げる羽目になった。フクシマが放射能で汚染された結果、ヒバクシャの新世代が出現した。その時まで、被爆者はヒロシマ・ナガサキ原爆投下の犠牲になった人びとだけの呼び名だった。今では、被曝者の概念がフクシマ核惨事の犠牲者に付与されることになった。吉沢さんが言うには、検査された被曝者120名のうち、彼は浴びた放射線量で浪江町第3位にランク付けされたそうだ。
吉沢さんはまったく無知な当局筋に楯突いて、たちまち専業活動家に変身し、彼の牛たちは新たな任務を付与され、抗議活動牛になった。その後まもなく、彼は牛一頭を農林水産省ビルの前に連れていき、核惨事のあと、動物の皮膚に白斑が現れた理由を説明するために徹底的な研究を実施しろと要求した。吉沢さんは、「わたしはフクシマの片鱗を東京に持ちこんで、抗議したのです。牛たちとわたしが核惨事の生きた証拠になれば、農場はフクシマ核惨事の経緯を伝える年代記になるでしょう」という。
吉沢さんは、事故後の核発電所建設・再稼働に抗議するさい、もはや牛たちを連れていかない。その代わり、横断幕で飾りたてた車で牛の金属模型を積載した小型トレーラーを牽引していく。「わたしは声が太いもので、頑強な右翼の連中よりもでっかい声で叫ぶことができる!」と、彼は説明する。「わたしたちは暴力に与しません。わたしたちは人を殺しません。わたしたちは過激派ではありません。わたしたちは政治テロリストなのです」と、彼は穏やかな声で話を結ぶ。ほどなくして、彼は現実の抗議現場にわたしたちを招待する。鉄道駅の開設式典が予定されており、安倍晋三首相ご御大が出席することになっているのだ。
希望の牧場の吉沢さん。スローガン「決死救命、団結!」「東電、国は大損害をつぐなえ!」。
抗議行動はまさしく平和裏に進行する。吉沢さんはまず車を運転して、総理大臣がまもなく到着することになっている街中を巡回する。運転しながら、スピーカーで「反応炉で出火したとき、東京電力の職員は逃げました。火は自衛隊の若い隊員たちによって消し止められました。あなたがたはどうして、自分が造る発電所をコントロールできないのですか?」と叫ぶ。彼は間髪をいれずにつづけ、「本日、総理大臣が当地にやってまいります。決起して、安倍さんに挨拶しましょう。安倍さんに、立派に整備された鉄道駅を見ていただくだけでなく、町の暗い面も見てもらいましょう。わたしたちは40年間、東京に電力を供給しました。わたしたちの地域だけが日本の経済成長を支えることができたのです。そして、わたしたちは今、被災しています。原子力発電所は安全だという作り話は過去のものになりました」と結んだ。総理大臣到着の刻限が迫り、群衆が集まりはじめると、警官たちと総理大臣警護特務隊員らが農民活動家に駆け寄ってくる。彼らは、横断幕を片付けろ、この場から立ち去れと彼に命令する。吉沢さんは従うが、慌てずにグズグズと命令を実行する。まるで、総理大臣に会って、「挨拶」する時間を稼ぎたいと思って、わざとその場を引き伸ばしているようだ。
警察と話し合う吉沢さん
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この農民が町から出るのを確認したがっている警官隊にエスコートされて、広場を去る吉沢さんの車
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駅から出てきた安倍晋三首相
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立入禁止区域
いつものことだが、わたしのフクシマの旅程の大半はノー・ゴー・ゾーン[立入禁止区域]訪問に割かれている。入域と内部の撮影の許可を得るのは、やはり困難で、非常に時間を取られる。それでも、見捨てられた不動産の所有者を探しだし、同行を説得し、家を見せてもらって、過去の悲劇的なできごとについて論じあうように頼むことに比べれば、なにほどのものではない。
だが、時には事情が違う場合がある。日本のテレビ番組の助力もあって、小さいが、評判の居酒屋を経営していた富岡町へわたしを連れて行ってくれると頷いていただけたコグレタツオ・カズエご夫妻の場合もそうだった。それは飲み食いするだけでなく、オーナー夫妻と一緒にカラオケで歌うこともできる店だった。
不運なことに、町と町内の居酒屋は放射能の雲の通り道に当たっており、閉店しなければならなかった。わたしは以前にも同じような居酒屋や食堂を目にしていた。草や蔦〔つた〕が生い茂り、匂いが立ち込め、黴〔かび〕が生え、瓦礫だらけで物品が散らかっている。だが、この店は違っている。店はオーナーたち[の人柄]ゆえに格別とされ、彼らは年齢を顧みず、悲劇的な経験をものともせず、放射能汚染地帯の外で新しい居酒屋を開店した。コグレ夫妻は、放置された居酒屋を見せてくれただけでなく、新しく構えた居酒屋にわたしを招いてくれた。
富岡町の放置された居酒屋にて、コグレ・カズエさん
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いわき市の新しい居酒屋を仕切るコグレタツオ・カズエご夫妻
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尋常ではなく、口を極めて慶賀すべきことに、ご夫妻の家業を継続する努力が以前の居酒屋の常連さんたちにも支えられているという事実がある。「もう一度やり直せるのは、皆さんが助けてくださるおかげです」と、コグレ・カズエさんは感謝している。彼女は間を置かずに、「居酒屋をまた開くことによって、避難させられた他の方々の手本になりたいとも思いました。やればできるということを示したかったのです」と言い添えた。
わたしたちを仰天させた事故の規模
わたしはまた、富岡町の閉鎖区域に位置する消防署を訪問する。核発電所が町に隣接しているので、ここで活動する消防隊はさまざまな非常事態を想定して、定期的に訓練していた。災害以前に同署で勤務していた消防隊員、鈴木ナオトさんがわたしに付き添ってくれる。消防署室内の中央で、大きな黒板がわたしの注意を惹いた。「あれは2011年3月の勤務予定表です」と、消防隊員は説明する。彼は苦笑いしながら、「3月11日、事故の当日には、予定がまったく入っていませんでした。その前日、放射能汚染対応に関する講習訓練を実施したのです。被曝住民救助手順や線量計使用方法、除染実施方法を練習しました」とつづける。
現実は、残念なことに訓練したことのない任務に対処しなければならなかった消防隊員たちさえも仰天させた。繰り返し実地訓練した住民避難手順でさえも役立たず、期待された効果の逆の結果になることが多かった。SPEEDI(緊急時環境線量情報予測システム)は放射性物質の拡散予測などをねらっていたはずだが、そのデータは活用されず、地方自治体に届いていなかったことが判明した。その結果、住民の多くは汚染が元よりひどい場所に避難させられ、不必要な追加放射線量による危険にさらされた。
富岡(立入禁止区域)消防署の月間勤務予定表。消防隊員の鈴木ナオトさんは、事故の前日に組まれていた放射線に被曝した人びとの救助方法に関する講習会を示している。核反応炉内部の火災事象に関する情報を伝えるための委員会の例会が3月14日に予定されていた。
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消防隊詰所。富岡地域消防業務はここで統括されていた
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今年の春、多くの人たち、とりわけ地方自治体当局者、避難住民、さらには僧侶さえにも助力と支援をいただいたおかげで、富岡、大熊、双葉、浪江の閉鎖区域を中心に、わたしは興味深い場所を数多く見ることもできた。惨事から5年たったにもかかわらず、その大半が閉鎖されたままであり、数多くの有価物が転がったままだ。だから、わたしは場所を特定できるような情報を開示しないことにする。
レンタルビデオ・ショップの倒れた棚
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居酒屋
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食堂
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複合水泳プール施設
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幼稚園の庭に放置された三輪車
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スーパーマーケット
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SEGA ゲームセンター
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病院
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衣料品工場
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体育館
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パチンコ・パーラー
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保育園。線量測定値9.3 uSv/h
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子どもたちの通園バッグ
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学校
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学校図書室
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夜間パトロール
希望
わたしはフクシマ周回の旅シリーズを終えるにあたり、富岡町に戻り、町を一番有名にし、町民が一番自慢に思う景勝地――日本最長・最古に数えられる桜のトンネル――を見る。桜並木は富岡の町民にとって常に、世間によく知られた観光の呼び物、あるいは町の歴史的シンボル以上のものである。町民たちが桜の花の景観美を愛でるだけでなく、桜並木は、暮らし、祭り、集会、茶の間の話題の一部でもある。
桜の木は、天然の美と力強い象徴的な意味を備え、いつの時代も日本の芸術作品に登場することから、日本人の文化的アイデンティティのアイコンになった。桜の花は、再生の時、新たな命の芽生えの時、春の到来を告げる。桜は霊的な意味で、命は――ほんの数日で枝から散る満開の桜の花と正しく同じように――悲劇的なほどに短く、はかないけれど、いかに美しいか、わたしたちに思い起こしてくれる。
富岡町内の閉鎖区域の検問ゲート
核が介在する運命の皮肉といおうか、この新しく生まれる命を表す日本のシンボルは今日、富岡の、汚染され、命の失せた街路に咲いている。孤独と沈黙のさなか、桜の花が咲くとともに、町と住民は再生するだろうか? 決定的な答は、疑問の余地なく彼らだけが出せる。
桜が満開のメインストリート
【筆者】
Arkadiusz
Podniesiński
アルカディウス・ポドニーシンスキは、ポーランド人の写真家・映画作家、テクニカルダイバー[ウィキペディア「テクニカルダイビング」項目を参照のこと]、英国のオックスフォード・ブルックス大学卒。彼は2008年以来、チェルノブイリ立入禁止区域の写真ドキュメンタリー制作に従事しており、現地を数十回も訪問している。彼の主だった追跡業務は、事故に関連する場所の写真撮影、労働者や避難区域住民に対する面接取材、それに核発電所の精算処理および新たな棺の建設の進展を記録することである。彼の別作品について、フクシマに関するものはこのリンク先、チェルノブイリに関するものはこのリンク先で閲覧することができる。
David
McNeill
デイヴィッド・マクニールは、The Irish Times[アイリッシュ・タイムズ紙]、The Economist[エコノミスト誌]、その他の新聞・雑誌に寄稿。アジア太平洋ジャーナルの編集員、共著に、Strong
in the Rain: Surviving Japan's Earthquake, Tsunami and Fukushima Nuclear Disaster (Palgrave
Macmillan)[『雨ニモ負ケズ~地震、津波、フクシマ核惨事を生き抜く』]。
AmazonJP |
【クレジット】
Asia
Pacific Journal / Japan Focus, “Fukushima: A Second Chernobyl?” by Arkadiusz
Podniesiński with an introduction by David McNeill, posted on November 1, 2016
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2015年10月25日日曜日
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