「チェルノブイリは放棄された。日本はフクシマ核惨事後の除染を試みている」
@JulieMakLAT さんのフクシマ訪問記 ⇒ ロサンゼルス・タイムズ紙記事(ビデオ+テキスト) http://t.co/qSiWGaMEp6 pic.twitter.com/KFRVKW8fhi
— inoue toshio 子どもを守れ! (@yuima21c) 2015, 3月 18
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フクシマ4周年 気の遠くなる膨大な規模の放射能除染
2015年3月17日
東京電力株式会社本店にて、東日本大震災4周年の黙祷(Franck Robichon / European
Pressphoto Agency)
【2015年3月11日】蛍光ピンクとイエローののぼりが路端にはためき、その優しい音が気味悪い静けさを破っている。この土地の家々は固く閉ざされ、通りはほぼ無人であり、かつて米、トマト、キュウリが芽生えていた田畑は作付されていない。
狩俣茂雄はヘルメットとマスクを着用し、車を降りる用意をする。
「『わあ、お祭りのようだ』という人もいます」と、おじさんのような62歳の環境省職員はいう。「それから、旗に『除染作業実施中』と書かれているのを目にするのです」。
同僚が放射線計測器を取り出し、表示を見て、「0.29マイクロシーベルト」という。「それほど高くない」。
狩俣茂雄は、福島第一原子力発電所の約20キロ北、避難区域内のこの地域における作業――これまでに企てられたなかで、最大規模であり、最大資金を要する放射能除染の一部――の責任者である。
日本がフクシマの2011年メルトダウンの影響を受けて試みていることの規模と複雑さを考えると、気が遠くなる。除染計画は、東京から225キロ北西、福島第一原発の事故に被災した105市町村で実施されている。
日本国民の多くは、この大規模な取り組みをひどい間違いを正すための厳粛な責務であると考えている。他にも、これはドン・キホーテ的な資源の無駄遣いではないのかと疑問に思う向きも、直に被災した人たちのなかにさえいる。
狩俣の一行は、手袋、ヘルメット、胸ポケットに放射線検知器を忍ばせた夜光チョッキを着用した作業員の一団を検分するために、脇道を進む。無人の住宅の庭に新しい土砂を敷きつめている作業員らがいる。隣の住宅では、作業員らが足場に登り、屋根と雨樋の拭き掃除をする準備をしている。
富岡町の除染作業(Ken Ishii / Getty Images)
道の向かい側の竹藪の近くで、二人の男たちが、ほぼ風呂桶サイズの2本線入り大型ゴミ袋を支えるプラスチック製の枠を起こしている。二人の背後に同じ黒い袋が数十も並べられ、それぞれに放射能に汚染された土砂、草木の葉、木っ端、その他のガレキが詰められて、予定のわからない日に、いまだ仕様未定の最終処分場へと搬送されるのを待っている。
東北大震災が北日本の基盤を揺るがし、命取りの津波を誘発し、福島第一原発惨事を引き起こしてから4年後、数百平方マイルの土地が放射能のために居住禁止のままである。約79,000人の人びとがいまだに帰還できない。
だが、日本は、政府が簡単に1,000平方マイルを居住禁止区域に宣言し、350,000人の人びとを移住させ、基本的に放射能が数十年または数世紀かけて消えるまで放置すると決めた1986年のチェルノブイリ事故と違って、福島の土地をふたたび居住可能にすることを企てている。これは、前例のない試みである。
個別に除染していく作業に投じられた労力と資金の総計は驚異的である。日本政府はこれまでの4年間で福島第一原発の外部の除染作業に1兆6400億円を支出し、4月からの新年度予算の要求額は4200億円であると、環境省水・大気環境局除染渉外広報室長、筒井誠司はいう。
ピーク時には、約18,000人の作業員が除染に従事しており、2月時点で、その員数は12,000人まで減少した。しかし、南相馬市あたりでは、町の北部――避難指示の出ていない――方面の住民が、あまりにも除染作業員が多いので、朝夕の出退勤、オレンジ色、黄色、青色のパワーシャベル、その他の重機類の現場間移動のため、道が混みあうと苦情をいっている。
作業員による尽力の賜物が例の――550万袋に達し、増える一方の――巨大なズタ袋に詰まっている。その袋が、福島の田園地帯、道路沿い、駐車場、裏庭に散在している。袋には認識票が添付され、バーコードが記されて、当局者らが内容物の種類と放射能レベル――そして袋の耐用期限――を知ることができるようになっている。
景観のいたるところ、袋が積みあがり、作業員たちが散開しており、費用対効果分析に疑問を呈する地域住民もいる。
「除染――事業に終わりはありません。巨額の資金を使っており、おそらく住民が他の地域に再定住するのを助けるのに使ったほうがよいでしょう」と、南相馬市の元職員、星巌(ほしいわお)はいう。多くの放射能避難民は、自宅を失い、移住しなければならないと理解していた津波被災者と違って、自宅がまだ建っているとわかっているので、どっちつかずの状態になっていると彼はいう。
災害のあと、星は避難所業務の調整役をしていたが、1年後に、上司たちが税務課の職務に復帰するように彼に告げると、役人生活をやめてしまった。「わたしは時どき、除染事業がゼネコンの営業部に運営されていると思うことがあります」と、彼はラッキー・ストライクをふかしながら付け加えた。
災害の前でさえ、この地域の人口は急速に老齢化し、若年層は東京や他の中核的な都市に流出していた。帰還を欲する人たちの多くは、年配の市民である。除染事業のおかげで、彼らは帰宅できるようになるかもしれないが、いずれにせよ、彼らの地域社会が数十年内に消滅しないという保証はない。
「すでに諦めている人たちもいます。わたしは大半の人びとが帰還するとは考えていません」と、狩俣は認める。「避難したあと、多くの人たちが帰還を願っていましたが、すでに4年たっており、その数はおそらく半分になってしまいました。長くなれば長くなるほど、減っていくでしょう」
【初出】
[ビデオ、スライドショー付き]
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