『さがしています』 (単行本絵本) |
アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス
アジア太平洋ジャーナル Vol. 13, Issue 6, No. 8, 2015年2月16日.
写真絵本『さがしています』に探す核のトラウマの認識
ヘレン・キルパトリック Helen
Kilpatrick
【要約】
受賞歴のある絵本『さがしています』(2012年)は、3・11をきっかけに出版された。この絵本は広島平和記念資料館に所蔵の遺品の写真に生き生きとした詩を添えたものであり、放射性フォールアウトによる長期にわたる苦しみにまつわる、さまざまな情動を掻きたてる。本稿では、この作品が倫理意識を育てる共感反応を引き起こすのに実効的な役割を果たすものであり、そしてこの種の反応が、フクシマ災害のあと、日本で(また、その国境を超えた)原子力利用の危険性の幅広い「認識」を育むと論じる。
【キーワード】
アーサー・ビナード、岡倉禎志、日本の絵本、児童文学、ヒロシマ、フクシマ、記憶
Arthur Binard, Okakura Tadashi, Japanese picture books, children’s literature, Hiroshima, Fukushima, memory
Arthur Binard, Okakura Tadashi, Japanese picture books, children’s literature, Hiroshima, Fukushima, memory
【本論】
本稿では、受賞歴のある日本の写真絵本『さがしています』を読み、文芸が放射線被ばくによるトラウマに対する共感的で倫理的な認識を育む可能性を探究する1。この挑発的な本は、アーサー・ビナードによる詩文と広島平和記念資料館の収蔵品の写真を組み合わせることによって、一連の個人的な苦しみの物語を伝えている。見開きごとに岡倉による資料館の収蔵品の写真が載っている。原爆の痕跡が残る日用品ばかりだ。写真に添えられたビナードのテキストによって、遺物はそれぞれ擬人化され、いなくなった持ち主を探している。対話体のテキストは、品物と持ち主との断ち切られた絆を劇的に表現し、読者にトラウマを想像する余地を残す。
この本はフクシマ後の他の文学や芸術と同じく、1945年、ヒロシマの原爆投下によるフォールアウトに触れ、放射線被ばくがもたらした情動的な苦しみに思いを巡らすようにさせる。また、核エネルギーの利用に注目するようにもさせる。『さがしています』はトラウマ文学と核アートのジャンルを掛けあわせることによって、放射線による過去の苦しみに対する共感的な認知を、核エネルギーの情緒的・社会的危険性に対する倫理的な認識とブレンドするのだ2。この本は強制的に過去の苦痛を現在によみがえらせることによって、政治意識を育む潜在力をもつ。
『さがしています』は格別にフクシマ・ジャンルの本というわけではないが、災害に対応して創作された。ビナードは日本語著作でいくつかの受賞歴があり、高く評価される詩人にして、とりわけ3・11以後、反核活動家なのだ3。ビナードは、ヒロシマとフクシマを結びつける『さがしています』についての新聞紙上インタビューで、東日本大震災のとき、彼は広島平和記念資料館にいたと語っている。彼は福島に出かけ、次いで広島の資料館に戻って、資料館の遺物であれば、「核分裂に頼りつづける人間について、なにを語らなければならないだろう」と考えた4。ビナードはその記事で、将来の子どもたちと生きとし生けるものの生存を保証するために、人間はヒロシマの遺物が投げかける問いに答える義務があるという見解を明言する5。ビナードは別のおり、やはり活動家にして作家、中澤晶子との対談で、ヒロシマ、チェルノブイリ、フクシマの関連性に言及し、核兵器と核燃料は同等に危険であると指摘した。彼は、これらの核にまつわる事件が一見遠い出来事のようで、実際は直接わたしたちに降りかかっていると指摘し、懸念を次のように表現する――「原爆は『昔話』として片づけられ、チェルノブイリも『遠いソ連』の問題にされてごまかされ、福島もどんどん遠ざけられ、『冷温思考停止状態』の中で隠蔽されつつあります」6。このようにビナードは、「安全」な核エネルギー利用はありうるという見解に戦いを挑んでいる。
ビナードたち、活動家とアーティストは、ヒロシマがもたらす情動的なトラウマを表現することによって、3・11に対応するさい、「被ばく」――核放射線被ばくによる苦しみ――の概念を用いて、核の脅威のふたつの形態、軍事と非軍事を結合させた7。 ヒロシマは戦争行為に用いられた核兵器によって壊滅させられたが、フクシマ惨事は、不安定な地震地帯に原子力発電所を建造するという決定を原因とする明白な「事故」だった。『さがしています』はヒロシマの終わらない苦痛を思い起こさせながら、文化とトラウマの記憶を鮮やかに保つ大切な手段を提供するだけでなく、将来の核エネルギー依存に対して警告してもいる。ジュリア・ヨネタニが池田安里による核アートに関するインタビューで雄弁に語るように、過去に現在だけでなく、未来さえも見ざるをえない8。ビナードは、フクシマ以後、日本政府が安全でない核施設に関する情報を隠蔽している、また、核事故と放射線被ばくについて、日本人をはじめとする諸国民が集団「冷温思考停止状態」を患っていると指摘する9。このように『さがしています』は、歴史、記憶、トラウマをめぐる現今の論争を背景にして理解することができる。
マーク・ペンデルトンは、体験から遠く距離をおいた人ほど、記憶が薄れ、人はまた、こころの痛手となるできごとを無視し、あるいは意図的に忘れようとさえすると指摘する10。キャシー・カルスが彼女のトラウマ研究で述べるように、文学とアートのトラウマ表現は理解の新しい様態を創造するので、文化的・倫理的特質を現す11。トラウマ作品は、他者に読まれるため、被害者の受け入れられない状況につながり、理解し、共感を表明するため、また災害の直接影響からほど遠い人も含め、人びとを情緒的または社会的に「動かす」ために創作される。人びとが他者の苦難の特質と社会的意味を認識できるようになるのは、自分で味あわなかった未経験者のために、トラウマとなる試練を伝達し、翻訳することによってのみである12。『さがしています』のような洗練された作品は、核のトラウマを知り、認識する新たな方法を示すのであり、これはそうでもなければ、それから阻害されていると感じている人びとが追体験したり、理解したりできない経験になる。
行動としての文学とアート
幼い読者を放射能の人的・社会的・環境的危険性に対する意識に導くことは、ある種の行動になる。そして『さがしています』は、3・11後の核分裂のトラウマを扱う日本の児童文学の総体拡大の一助になっている。リゼット・ゲブハルトが述べるように、フクシマが文学とアートの流れを分かち、その結果、アーティストたちはより政治的に行動し、環境に新たな焦点をあてたいと望むようになった13。一般文学における3・11への対応はある程度、国際的な学術界の注目を浴びたものの、危機に対応した児童文学はそれほど考察の対象にはならなかった。児童文学の主目的は文化的価値の伝達にあるので、これは驚くべきことだった。これらの芸術作品が核の破局的惨事をどうのように扱っているのか、どのようなメッセージを伝えているのか、核の利用に潜在するフォールアウトによる、長期にわたる社会的・情緒的影響を考えることをどのように促しているのかを検証することは、それほど重要なのだ。『さがしています』が想定する本来の読者は児童であるが、これは思考力を要する成熟した作品であり、年齢にかかわりなく、読者に断じて媚びていない。
行動主義は多くの形態で表出されるだろうが、ジュリア・ヨネタニがアートと政治の関係で評したように、アートが「単なるメッセージである場合、それはプロパガンダ作品になる」14。核問題にまつわる文化的タブーが増えており、日本では、2013年の国家秘密法[特定秘密の保護に関する法律]のような法制のため、言論の自由の権利が衰退しているので、独創的な形の情報伝達は格別に意義深い。『さがしています』のような革新的な作品が、穏やかでありながら、効果的な形の抗議を表明する一法として、この作品は、無生物の物体に苦痛の思いを吹き込むテキスト手法、つまり、人間を失うことによる個人的なトラウマを資料館の遺物に転化する換喩法[修辞法のひとつ。ある事物を表現するのに、それと深い縁故のあるもので置き換える手法]を採用している。果てしない苦痛と喪失の描写は、共感を喚起し、それが放射線被ばくの人的・社会的影響に対する倫理的で深い認識をもたらしてくれる。
『さがしています』は、話しことばと視覚表現を組み合わせることによって、認知地図化として知られるテキスト化過程が働き、苦しみに対する個人の認知(共感)と核惨事に対する政治的(倫理的)認識の可能性を両方とも開いている。認知地図は空間関係を表すメンタル・モデルであり、想像された景観を実体験と同等のものにする働きがある15。この種の地図化は概念のブレンドを特質としており、読者は「ある概念領域の地図を他の領域に適用する」ことを求められる16。読書で働く心的作用は、わたしたちの社会生活から情報を受けもするし、社会生活に広がりもする主題の位置づけを活性化する。読書能力は概念のブレンドを必要とし、この能力が文化技能を鍛える。フォコニアーとターナーが論じるように、「こどもたちは、複雑で確立された文化概念のブレンドで満ちた構造の世界に生まれ出て、社会で働くためにその多くを習得しなければならない」17。トラウマのアート、または文学において、ブレンド作用は、情緒的または社会的に「動かされる」ためには、マーク・ターナーが説明するように、読者は2組の知識(あるいはシナリオ)の枠組みを混ぜあわせて、第3の意味を創造しなければならない18。『さがしています』のようなトラウマの物語の場合、第3の意味とは、核放射線被ばくによる苦しみに伴う人間的な共感と不正義に対する倫理的認知をブレンドすることによる政治的な「認識」である。
『さがしています』を読むとき、ブレンドは私的なものを倫理的なものに重ねることによって、読者の心情を私的で共感的な洞察をより広い政治的反応に潜在的に移行させるように働く19。この作用は、リタ・フェルスキの「認識」概念と表記されるものになぞらえてもいい20。フェルスキが概略を示すように、認識は、2つの異なる側面、自己認識にかかわる読書の特質、および公的に有効ななにかにかかわる認識という政治の特質を包み込んでいる。「(読書における)認識は…認知にかかわる洞察、知る瞬間、または理解、見抜く力、自己理解(を内包する)知りなおす瞬間に関連している」21。彼女は、政治理論と対照的な認識概念は「知識ではなく、認知…受容、尊厳、公的生活への受け入れを要求することである」と説明する22。
フェルスキは、他者を知るということは、認識論的な環境を単純に知るというより、むしろわたしたち自身の私的な関与を知ることを意味すると主張する。フェルスキにとって、この第2のタイプの認識は、「(認識として)真実を要求することというより、むしろ正義を要求すること」を伴う倫理の力である23。彼女は、前者の自己認識は後者の公的認知に関与しており、その場合、いかなる類の認識であっても、「主観に先立つ客観的な関係に根ざしている」と断言する24。言い換えれば、いかなる自己認識も他者に対する認知によってのみ生じるのであり、したがって、社会的または倫理的な要素を含んでいるので、認識の2形態は一体に合流する。共感は、他者の思いを知覚することにかかわるので、社会的な領域に入りこむ。すると、共感は社会的な理解となって、読者が自己より広い社会共同体に気づくと、あるいはさらに具体的にいえば、なにかが正義に反すると読者が気づけば、共感は倫理意識に転化することができる25。そのような二股にわかれた認識過程によって、『さがしています』のトラウマ提示は、たとえ読者に直接的な体験がなくても、放射線にともなう不正義に対して、共感をもって、したがって倫理的、政治的に反応するように新たな読者を方向づけるのである。
『さがしています』では、このブレンドは、より広い社会的心性、あるいはこの場合、核分裂に関する文化的知識である知識構造、すなわち「スキーマ」[外界を認識するときに使われる知識の枠組み]のうえに位置づけられる、さまざまな筋書きのストーリーを語ることでなされる。この本は、より広い知識の理解のための枠組み、そして可能なかぎりの多様性、または自在に変わる話しことばの「台本」がかもしだす効果のためのそれを兼ね備えている26。この本は普通の絵本の形式を採用しており、読者は精神のブレンドを経験するために、動物や物体を擬人化しなければならない。この場合、撮影された遺物が、不在の人間である持ち主の転喩[代役]を演じている。しかし、事物が感じ、個人的な人間感情を経験できるとされるだけではない。筋書きもまた変化し、物がそれぞれ一人称の声を持ち合わせ、また読者に対話体で呼びかけるので、これらの品目が経験した過去の苦しみが現実となり、親密さと共感を共に促している。
本の筋書きはこれらの要素によって、ヒロシマ原爆投下の「記憶」の素描に対するダイナミックな親密さと、放射線被ばくのトラウマと危険性に対する気づきをもたらしている。読者にしても、たとえば、キノコ雲、広島ドーム、爆発のためにビルに残った影、あるいは犠牲者や被ばく者の苦しみといった、文化的知識構造に含まれる数多くの記憶の幾ばくかを持ち合わせているかもしれない。本に書かれた筋書きが、写真のものに似た昔失ったものや大切な持ち物の記憶を呼び起こすかもしれないし、あるいはことばが、たぶん学校で習ったり、読んだり、または親戚に聞かされたりした記憶や広島のよく知っていることを思い起こすきっかけになるかもしれない。ブレンドはこの種のおおよその記憶を活性化するほか、ヒロシマの放射線被ばくによる情緒的苦しみを他の状況に振り替える位置づけを促す。『さがしています』の、それぞれに新しく、親しみ深い筋書きは、いかなる既存の記憶とも混じりあい、新たな共感を刺激し、その結果、(フクシマのもののような)もっと見えにくい形の放射性フォールアウトがもたらす不正に対する認識を促す。
後にもっと詳細に論じるが、ページめくりの本質、そしてまた『さがしています』の反復構造がトラウマの筋書きを確立し、終わらない人間の苦痛と喪失に対する共感的な認知を生じさせている。このトラウマの筋書きは、一人称の親しみやすさ、実体験の記憶、喪失として展開し、終わらない悲嘆の「解明」を伴っている。見開き(2ページ)ごとに、写真の遺品が(持ち主の)私生活を3節か4節で話し、8月6日朝、原爆の「閃光」が走る(「ピカアアアアアッときた」「おとされた」「ひかった」)までの経験を物語る。それぞれの物体が、いま不在になっている持ち主の人生を終わらせた個人的悲劇を問いかけ、回顧する。ページを繰るごとに予想することによって、倫理的な認識が積み重なる。さらに品目ごとに筋書きが変わるが、さまざまに親密なトラウマのシナリオを心的に処理することによって集約される。メランコリックな文体、レベルの高いリアリズム、美しい写真の抑制された色調が相まって、品目ごとの哀調を帯びた筋書きを補強し、しかもその遺品が、墓石に使われることが多い、落ち着いた色合いの御影石の板のうえで撮影されているので、なおさらである27。 このように身近な筋書きがいやが上にも、放射線の破滅的な危険性に対する、より広範な政治的認識を煽りたてる。
『さがしています』における個人の特定
『さがしています』では、平和資料館から借り受けた日常生活の身の回り品(時計、手袋、弁当箱など)によって、個人が特定されている。これらの物体は、それぞれ個別のトラウマ、喪失、悲しみを伝えるので、その表現は、個人的、身近であり、痛切である。これらの身近な物語の筋書きのどれにしても、フェルスキのいう「親密者のショック」の経験のきっかけになるかもしれないし、また自己増幅過程を生じさせもする28。『さがしています』を読むことによる、この「自己増幅」――認知の最初の形態――は、たとえば、それぞれ個別の声を付与された写真の遺品を相手にする親密な対話という、この本のシミュレーションによってもたらされるのかもしれない。本文中の各作品の最初の行は、写真の遺品のくだけた、または親しい声による読者への「挨拶」ではじまり、時計が「おはよう」といい、敏行の靴が「いってきます」といい、敏彦のビー玉が「あそぼ」という29。(たとえば、図1を参照のこと)そのようなことばは、遺品の「個性」の力と相まって、読者に「呼びかけ」、挨拶の在来様式の記憶を呼び起こす効果をもたらす。このような挨拶は、たとえば、「おはよう」といったら、「おはよう」、「いってきます」といったら、「いってらっしゃい」、「いただきます」といったら、「どうぞ」というふうに、普通、返事をしなければならない。だから、黙っている読者に対する、この個人的な呼びかけの流儀は、即座に格別な親密さのシミュレーションになる。さらにいえば、この最初の人間的な呼びかけが、特定の苦痛の私的な告白につながるのである。遺物が直接、読者に呼びかけることによって、それに命が吹き込まれるとともに、それぞれの遺品が告白する声が親しいので、それぞれの品目の苦しみに対して、個人的な認識が呼び起こされる。
『さがしています』に配合された政治的認識
政治意識が芽生えたのは、ヒロシマ原爆投下の「閃光」を浴びて、時が凍結した遺物に共感を覚えるたからである。この閃光の効果とひとつとして、どのページを開いても触れられているように、資料館に収蔵されなかったとすれば、自然に朽ちて、歴史のなかで消え果てたはずの日常品を「凍結」させてしまった。ブレンド作用が、まずそれぞれの品目に愛着を覚えさせ、次いで凍りついた時によって、爆発の力と時間的な作用に気づかせ、読者に過去の放射性フォールアウトに伴って今もつづく苦しみを思い起こさせる。トラウマの記憶を親密に知覚すると、多くの人たちの終わらない個人的な苦しみに対する同情に結びつき、核分裂とその余波が引き起こした不正に対する倫理的認識が生じる。
また、ページをめくるごとに、被ばくが引き起こした苦しみと被害に対する不正の感覚が累積し、政治的認識を増幅する。ページをめくるごとに、新たな個人の記憶、または「物語」が、後の方のページで特に「ウラン」爆弾と表記されている原爆の炸裂による、さらにもうひとつの身近で心が痛む悲劇を露わにするので、倫理的な問いがいよいよ深くなる31。たとえば、建物を粉砕し、人びとを瞬時に殺す破壊を招いた爆弾そのものよりも、常に放射能とウラニウムを苦しみをもたらしたものとしてあげることによって、不正の思いが募っていく32。巻き添え被害(それぞれの品目の喪失と苦痛)の原因を原爆の閃光と見る認識が深まり、核分裂にともなう目に見えない潜在的な危害にしだいに気づくことによって、ますます倫理的・政治的になる。
それぞれの筋書きが気づかせる時間の分断は、親しい出会いに対する読者の期待を裏切るとともに、喪失と失望の経験を強烈にする効果を生む。この情緒の置き換えは、(品物をとうして)「挨拶」をしている人物はもはや生きていないと理解することから生じる恐怖と混じりあう。たとえば、時計が「あなたにとって、いまはなん時?」と問いかけたあと、次の行で「わたしにとって、いまは、いつでもあさの8時15分」というとき、親しげで無難に思える問いかけが、のっぴきならないものになる33。間を置かず、時計の現在が永遠の「いま」であると告げることによって、放射線による苦しみの永続性が強調されているのだ。筋書きに込められた時間性が、のっぴきならない問いかけとともにダイナミックな効果を生み、いかなる原子力の継続利用に対しても、倫理を問いつめている。止まった時間、現在がつづく時制、繰り返される「いま」が、いかなる形の核分裂からも招来されるかもしれない長期にわたるトラウマと危険の故に、核エネルギー利用に反対の声をあげているのだ。
慰められることもなく、懐かしい記憶をいまでも探し、待ち望んでいる、それぞれの品目の時間が止まっていると理解することも、さらなる核分裂による喪失の予想をもたらし、増幅する。それぞれのシナリオの末尾で、途切れることのない喪失感を果てしなく「さがしている」と表明する悲しい声によって、いなくなった14人の持ち主に対する共感がかもしだされる。たとえば、ひしゃげた嘆きの弁当箱は、放射能から食べ物を守れなかったが、いまだに孤独なまま、12歳のレイコちゃんがお腹をすかせて、「いただきます」という時を探している(図2を参照のこと)34。持ち主の口から二度と聞くことのできないことばは、身近でもあり、悲しみに満ちてもいる。このように、品物のそれぞれが今もつづけて探し、耐えていることが、核の悲劇を現在の時点にダイナミックに再現し、蓄積する状況に絡まる倫理を考えるように促している。久しく失われたものに対する、それぞれの品目の途絶えることのない渇望が、レイコのような幼い命の喪失に対する同情を促すだけではない。放射線被ばくの後遺症による人間の苦しみを確認することも、私的なことから公のものになる。
さらにまた、それぞれのシナリオが、身近な品物と持ち主のかかわりを描くことによって、ありえた生活を読者に想像させる。それも、持ち主たちの過去の生活を、喪失と死にまつわる現在の情緒が働く空間に結びつけることによってである。品目のそれぞれが、いまでも探しているものへの切ない思いを示しながら物語を終えるので、現在時点が前面に浮き上がるだけでなく、ヒントを与えられた読者は「もし原爆さえなければ…?」と失われた生活について問うことにもなり、一人ひとりの犠牲者の別の人生を想像するように仕向けられる。事実に即さない一時的な表現は、過去が現在の感情に影響をおよぼす様相を考えるための先例となる。探しているものが時には、マサタロウさんの義歯が永遠に切望している口のような身体器官だったりする(図3を参照のこと)35。大きく裂けた口とか顔から欠けた鼻といった身体を失った人体器官を探す行為が、さらに衝撃を増幅し、それ故、私的にも政治的にも認識の衝撃を増強するのだ。被ばくした遺物がもたらす絶望感が、放射線が過去から現在へ、そして未来へともたらす苦しみとトラウマの原因になったヒロシマの核分裂と組み合わさると、政治的認識はしだいに増強される。
写真に撮られた人びとの所有物の面影は、失われた器官または過ぎ去った生活への感情移入だけでなく、失われた可能性への共感をも促す。それが「もし原爆さえなければ…?」の問いと一緒になって、個人的に覚える痛恨の思い、潜在的ではあるが、結着することなく永遠につづく命を惜しむ悲嘆の思いをも抱かせる。それぞれの持ち主のさまざまに個人的な将来を想像する行為が合わさって、実現されていない生活が残した空虚と悲哀がかもしだされる。それぞれの物体が切望している現在が継続する状態は、望んでいるものを見つけることが不可能だという認識をさらに強める36。それ故、この希望のなさが不在を読者に気づかせ、失われた記憶や他の個人的な喪失を悲しませ、歴史上の原爆が引き起こした別離の苦しみを体験させる余地を与える。
さらにまた、連想が読者にそれぞれの遺物が過去に帰属していた世界を想像するように迫るので、親しかった集団の喪失を思い起こさせ、その結果、人間関係の必要性、友だちや愛しあう人たちの必要性により深く気づくことになる。愛惜の思いと終わりのない探しものは、ヒロシマに原爆が投下されなかったとすれば、あるいはフクシマで原発が事故を起こさなかったとすれば、共同体社会が失われずに住んだはずだという政治的な気づきを促す。言い換えれば、放射能被害のために家族と友だちを失う恐ろしさを想像することを読者が迫られると、その認識が政治的認識を混じりあう、フェルスキの二面概念を個人の共感が活性化するのである。
このように個々のシナリオが全体として、死と喪失の悲劇の包括的なシナリオを織りなし、核分裂の運命的な作用に対する倫理的認識を活性化する。上掲の3事例の場合、既定の様式から外れたシナリオが死の虚しさをより深く考えさせる。ジョン・スティーヴンスがいうように、「読者が筋書きの冒頭部のできごとを理解すると、次になにが起こるかを予想し、テキストが展開して、期待した筋道が完成したり、変化したりして、満足を得る」37。見開き3(レイコちゃんの弁当箱。図2)の場合、予測される筋書きのパターンがしっかり確立しており、読者は、最後の行で各品目がいまだに待っているもの、または探しているものを述べると予想することができる。だが、見開き4に初めて極彩色で登場するセツコさんの紫色ドレスの場合、筋書きのパターンが変化し、違った愛惜を即時的に表明している(図4を参照のこと)。セツコさんのドレスは、持ち主の苦しい息遣いを息が止まるまで聞いていたのを回想し、末尾の段で、いまだに探しているものを述べるのではなく、彼女の恐ろしい死を忘れることができない惨めさを表明している。現在進行から「わすれないよ」で強調される悲観的な未来への時制の変化が記憶と予想の概念と結びつき、放射線疾患による死の恐怖および喪失の恐ろしい永続性の意識を喚起する38。
見開き8は、この本の中間点に配されたクライマックスであり、第3節に筋書きの転調がある。これは、虜囚になったアメリカの兵隊とともに滅んだ日本の兵隊がもっていた鍵束の物語。添えられた写真が2ページ分全面に拡大され、その鍵束の写真は表紙でも使われており、そのシンボルとしての重要性が示されている。鍵束は、「ひとをとじこめて、なんになる? ほんとうに、とじこめなきゃならないのは、ウランじゃないか……」と問う40。最終行で、鍵束は「おれたちは、やくめをさがしているんだ」という(図6を参照のこと)41。ウラニウム封印という挑発的な問と併せて、筋書きの転調が、人間と環境に対する潜在的影響といった、より広範にわたるウラニウム利用の倫理に関して、考慮すること、また同時に、より高い意識をもつことを要求している。タモツおじさんの失われた鼻の個人的なショックが、より公共的な兵隊の鍵束の意識と混じりあって、ウラニウム(誤)利用に関する倫理の強烈さを深刻なものにしている。以上3つの筋書きが身近だったり公共的だったりするシナリオを混ぜあわせ、放射線の悪影響に関する、よりあからさまに政治的な気づきを促している。
さらにまた、このような政治的意識は、こころ痛む語りがフィクションであるとしても、物体が実在した人間(いまや物語のおかげで身近になった人たち)に所有されていたという事実に関する明敏で深まる気づきに由来している。この本の巻末に、実在したヒロシマ被爆犠牲者14名の人物紹介が掲載され、その現実性がより鋭く浮き彫りになる。持ち主の多くが非常に幼ななかったと明かされる。手袋と弁当箱の持ち主たちは、ほんの12歳だった。とりわけ品物の擬人化された詩情のある語りを読んだあと、巻末の事実注釈の悲痛な情念はほとんど触知できるほどだ。たとえば、女子高校生、満里子さんが携行していた非常袋は、母親に発見され、彼女の遺体確認の手段に使われた。その母親はその後まもなく、放射線疾患による腸内出血が止まらず、死亡した。この事実とフィクションの組み合わせが、さらに強烈な共感的で政治的な認識を喚起しており、行動への呼びかけ、あるいは、ごく控えめにいっても、核エネルギーに関連する問題を倫理的に考えるように誘っている。
『さがしています』は、停止した時間を通じて永続的な苦痛を経験している擬人化された物体の観点から書くことによって、強固な感情移入の立場を築きあげ、それに拠って、核の惨禍による倫理的影響を考察する。それもまず、これら呼び起こされ、再評価された命の身近で終わりのない苦しみを帯びた遺物たちの個別的および集団的な声に共感するように読者に迫ることによってである。こころ痛む、人間的なテキストの声は、写真に撮られた物体に命を吹きこむだけでなく、それらの失われた持ち主たちの個別性と価値を、より広範な社会を構成するにふさわしかったり、望ましかったりする個人のものとして浮き彫りにしてもいる42。苦しんでいる声、挑発的な問いかけ、個人的な物語、実在の物体の芸術的な写真、核分裂の破壊的な作用を経験した14人の持ち主それぞれの実生活の環境を説明するルポルタージュが混じりあって、『さがしています』はこれらの過ぎ去った生活の価値の真実を伝え、記憶に留めるだけではない。原爆の後遺障害を苦しみと死亡の原因として問いつめてもいる。累積効果が、読者を放射線の危険性に対するより高いレベルの倫理意識に誘い、放射性フォールアウトの不正義と核エネルギー利用の社会的危険性に関するより深い認識を促すかもしれない。この本がそうすることによって、読者を、苦しんでいる身近な日用品に対する共感から、核の危険の脅威のない普段着の生活を享受する万人の権利に関する社会的認識へと動かす。
さらにまた、筋書きは解消策や再生策を欠いており、その全体が未来に対する警戒と戦慄の感覚を投げかけている。感情移入にもとづく認識が政治性と統合して、原子力エネルギーの不正とそれがもたらしかねない恐ろしい社会的影響に関する、より深い理解を促している。体現した精神の苦悶と社会共同体の喪失は、他者、そしてわたしたちが生きており、(再)創造に関与している環境に対する人類の責任に対する省察を喚起する。したがって、『さがしています』の読書体験は、より平等に統合され、維持可能な共同社会を代価としたエネルギー需要を考える必要性に関して進行中の論争に寄与する。
『さがしています』は現実および人間の苦悶の仮想表現を統合することによって、災害後の日本における苦しみの証言を伝える表現様式を提示する。この本は、読者を新しい政治的立場へと誘う文化的記憶を活気づけるのに役立つ。この本は、過去の破局的惨事にともなう情緒的トラウマの社会的意味合いを省察することによって、文化的記憶を蘇らせるだけでなく、過去、現在、未来をともにつなぐ43。ヒロシマの歴史的事件を貫く人間の記憶の情念の作用を伝えることによって、現在まで脈々と伝わり、核の力の拡散を問いつめるという二面性をもつ認識が活性化される。言い換えれば、この本によって、過去の原爆の惨状に由来する苦しみと共感に目覚めることが、現在の社会的・環境的状況の倫理を考えるための静かな時間に誘い、3・11がもたらした放射線被曝という現時点の問題を解明するためにも有益なのだ。
【推奨されるクレジット表記】
[原文]Helen
Kilpatrick, "The
Recognition of Nuclear Trauma in Sagashite imasu (I am Searching)." The
Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue 6, No. 8, February 16, 2015.
[日本語訳]#原子力発電_原爆の子:ヘレン・キルパトリック「写真絵本『さがしています』に探す核のトラウマの認識」
【筆者】
ヘレン・キルパトリックHelen
Kilpatrickは、ウロンゴング大学の日本語主任講師。彼女の研究は、児童向け絵本作品を分析することによって、関心対象とする現代日本の文芸とアートを統合している。文学研究、ジェンダーおよびヴィジュアル・アートの分野で論文を発表し。最近の出版物に、少女の視覚的諸側面、および日本のヤングアダルト小説における越境文化の構築に関する論文がある。ヘレンは Portal: Journal of Multidisciplinary
International Studies[ポータル:学際・国際研究ジャーナル]掲載の論文“Envisioning the shōjo Aesthetic
in Miyazawa Kenji's ‘The Twin Stars’ and ‘Night of the Milky Way Railway’”[「宮沢賢治の『双子の星』と『銀河鉄道の夜』に幻視する少女の美学」]で、2013年「オーストラリアにおける卓越した日本文学研究に贈る井上靖賞」を受賞。著書にMiyazawa Kenji and his Illustrators (Brill, 2013)[『宮沢賢治と彼のイラストレーターたち』]。
【脚注】
1 アーサー・ビナード(詩)岡倉禎志(写真)『さがしています』(童心社、2012年刊)。同書は2013年に栄えある第44回講談社出版文化賞および第60回産経児童出版文化賞をダブル受賞している。ウィキペディア「アーサー・ビナード」。
2 「核アート」を論じたアジア太平洋ジャーナルの別記事:Asato
Ikeda, “Ikeda Manabu,
the 2011 Great East Japan Earthquake, and Disaster/Nuclear Art in Japan”, The Asia-Pacific Journal, vol. 11, iss. 13,
no. 2. Retrieved on 29 March 2014. 国際的に高く評価されている絵本の例に、丸木俊『ひろしまのピカ』小峰書店(1980年刊)。丸木俊(1912~2000年)は、1950年代に夫の丸木位里(1901~1995年)と共同制作した『原爆の図』で名高い。日本の核文学については、次の文献を参照のこと――John Whittier Treat, Writing Ground Zero:
Japanese Literature and the Atomic Bomb, Chicago, University of
Chicago Press, 1995.
3 2012年9月9日付け共同通信「抗議相次ぎ集会中止 講演『セシウムさいた』で(魚拓)」[アーサー・ビナード氏「本来なら花が咲き喜ばしい春の訪れを台無しにした原発事故の大変な状況を伝えたい」]。東京新聞「こちら特報部」編『非原発――「福島」から「ゼロ」へ』一葉社(2013年刊)p. 1220。ビナードが日本で最初に受賞した作品に、第6回(2001年)中原中也賞受賞・詩集『釣り上げては』。なお、日本語で執筆する外国人作家について、“FOREIGN
AUTHORS WRITING IN JAPANESE”を参照のこと。2015年3月6日閲覧。
4 Yasufumi
Kado, “U.S.
Poet Publishes Photo Book of Personal Belongings of Atomic Bomb Victims”, The Asahi Shimbun, 2
August 2012. 2015年3月6日閲覧。なお、アーサー・ビナード(詩)岡倉禎志(写真)『さがしています』童心社(2012年刊)、アーサー・ビナード「あとがき」も参照のこと。
5 Yasufumi
Kado, “U.S.
Poet Publishes Photo Book of Personal Belongings of Atomic Bomb Victims”, The Asahi Shimbun, 2
August 2012. 2015年3月6日閲覧。
6 雑誌『日本児童文学』2012年9・10月号、アーサー・ビナード、中澤晶子「《対談》われらみな『風下っ子』」p. 35。
7 「被ばく」の2形態として、原爆による放射線照射「被爆」、そしてもっと一般的で、「平和目的」または事故による照射「被曝」がある。この件に関して、詳しくはMurakami Haruki, “Speaking as
an Unrealistic Dreamer”, The
Asia-Pacific Journal, vol. 9, iss. 29, no. 7, 18 July 18 2011を参照のこと。2015年3月6日閲覧。[阿修羅:村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文「非現実的な夢想家として」」。2015年3月6日閲覧]村上はこのスピーチで、「(福島の場合)誰かに爆弾を落とされたわけではありません…我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです」と述べている。
8 Asato
Ikeda, “On Uranium
Art: Artist Ken + Julia Yonetani in Conversation with Asato Ikeda”, The Asia-Pacific Journal, vol. 11, iss. 11,
no. 1. 18 March 2013. 2015年3月6日閲覧。
9 「《対談》われらみな『風下っ子』」p.
35。日本がヒロシマ・ナガサキ原爆投下による核被ばくのトラウマを経験したという事実があるにもかかわらず、日本における原子力発電所の拡散によって、この種の思考停止が実証されている。(本稿執筆時点で、全原発が停止中)2012年3月10日にさいたま市で予定されていたビナード講演会「さいた さいた セシウムがさいた」を企画した実行委員会が抗議のために開催断念を余儀なくされるなど、抑圧と自己検閲も顕著である。東京新聞「こちら特報部」編『非原発――「福島」から「ゼロ」へ』一葉社(2013年刊)p. 1220を参照のこと。この「魚拓」もどうぞ。2015年3月6日閲覧。
10 Mark
Pendleton, “Subway to Street: Spaces of Traumatic Memory, Counter-memory and
Recovery in post-Aum Tokyo”, Japanese Studies, vol. 31, no. 3,
2011, p. 360.
11 Cathy
Caruth, Trauma: Explorations in Memory, Baltimore and London, Johns
Hopkins University Press, 1995, p. 11.
12 Stef Craps and Gert Buelens, “Introduction: Postcolonial
Trauma Novels”,Studies in the Novel, vol. 40, nos. 1 and 2, 2008, p. 1;
Karen Scherzinger, “Other People’s Pain: Narratives of Trauma and the Question
of Ethics”(review), Journal of Literature and Trauma Studies, vol.
1, no. 1, 2012,
p.
119.
13 Lisette
Gebhardt, “Post 3/11 Literature: The Localisation of Pain – Internal
Negotiations and Global Consciousness”, in Lisette Gebhardt and Yuki Masami
(eds.), Literature and Art after “Fukushima”: Four Approaches.
Berlin, EB-Verlag, 2014, pp. 11–35.
14 Ikeda,
“Ikeda Manabu, the 2011 Great East Japan Earthquake, and Disaster/Nuclear Art
in Japan”.
15 Ryan,
Marie-Laure, “Cognitive Maps and the Construction of Narrative Space”,Narrative
Theory and the Cognitive Sciences. Ed. David Herman. Stanford, CSLI
Publications, 2003, pp. 214–42; p. 215, her emphasis.
16 Roberta
Seelinger Trites, “Growth in Adolescent Literature: Metaphors, Scripts and
Cognitive Narratology”, International Research in Children’s
Literature, vol. 5, no. 1, 2012, p. 65. See also Lisa Zunshine,
“Rhetoric, Cognition, and Ideology in A. L. Barbauld's Hymns in Prose for
Children (1781)”, Poetics Today, vol. 23, no. 1, 2002, p. 130.
17 Fauconnier
and Turner, The Way We Think. p. 390. The back jacket reiterates
that “a child's entire development consists of learning and navigating ...
blends”.
18 Mark Turner,
“The Cognitive Study of Art, Language, and Literature”, Poetics Today,
vol. 23, no. 1, 2002, p. 10. Conceptual blending combines “two schematic frames
of knowledge or two scenarios ... to create a third mentalpacket of meaning
that has new, emergent meaning”. Also see, Fauconnier and Turner, The
Way We Think, p. 48.
19 ジル·フォコニエ、マーク・ターナーが展開した概念ブレンディング理論は、認知研究を統合し、人間の心がさまざまな(仮想または現実の)シナリオをブレンドして新たな意味を創造する様相の枠組みを提示する。著者らはまた、そのようなシナリオが思考によって宿りうると説明する。Gilles Fauconnier and Mark Turner, The Way We
Think: Conceptual Blending and the Mind’s Hidden Complexities, New York,
Basic Books, 2002.
20 Rita
Felski, Uses of Literature, Malden, Blackwell, 2008, p. 30.
21 フェルスキはまた、認知または自己不安の瞬間が、必ずしも認知的ではなく、感情的な反応を引き起こしうると戒める。Felski, Uses of Literature, p. 29.
22 Felski, Uses
of Literature, pp. 29–30.
23 Felski, Uses
of Literature, pp. 29–30.
24 Felski, Uses
of Literature, p. 30.
25 この後者の要点は、フェルスキの政治的認識有効性概念に関連している。
This latter point involves Felski’s concept of validity in political recognition.
This latter point involves Felski’s concept of validity in political recognition.
26 ジョン・スティーヴンスの説明によれば、「スキーマ[外界を認識するときに使われる知識の枠組み=広辞苑]」は、全概念に関する知識を形成する記憶の諸側面。すなわち、「理解の枠組みを形成する知識の構造、またはパターン……スキーマがわれわれの経験の総体の静的な要素であるのに対して、筋書きは動的な要素であり、事象または行為が展開する推移を予想する様相を提示する」。Stephens, John. “Schemas and Scripts:
CognitiveInstruments and the Representationof Cultural Diversity inChildren's
Literature”, in Kerry Mallan and Clare Bradford (eds),Contemporary
Children’s Literature and Film: Engaging with Theory, Palgrave Macmillan,
2011, p. 13–14. わたしたちが(文および/または画像)を読むと、提示された素材が記憶にある静的なスキーマの一部に合致し、核心的な部分を活性化させて、もっと動的に進展する筋書きを展開させる。スティーヴンスが脚注で示唆するように、スキーマと筋書きという用語は、もともと認知言語学に由来しているが、心に関する諸学説を活用する、ごく最近の話法理論に取り入れられている。See p. 35.
27 この独特なタイプの花崗岩は、「議院石」と呼ばれることも多く、この絵本のための撮影用に、これらの物体を置く台に選ばれた。ビナードと本の編集者は石工に依頼して、広島市外の町、倉橋島からこの石を切り出してもらった。『さがしています』p. 33、ビナードの「あとがき」を参照のこと。
28 Felski, Uses
of Literature, p. 39.
29 『さがしています』pp 2, 18, 24。この本は、文法的に正しい「あそぼう」ではなく、口語的な(幼児語)「あそぼ」を使っている。
30 Felski, Uses
of Literature, p. 30.
31 P. 12,
16(図5.タモツおじさんのメガネ、図6.ヘイタイの鍵束)を参照のこと。
32 後者の件について、匿名の査読者に感謝する。
33 『さがしています』p. 3。「あなたにとって 『いま』は なん時?」、「わたしにとって 『いま』は いつでも あさの 8時15分」。
The Japanese is: “Anata ni totte, ‘ima’ wa nan ji?” “Watashi ni totte, ‘ima’ wa itsudemo asa no hachiji jūgofun.”
The Japanese is: “Anata ni totte, ‘ima’ wa nan ji?” “Watashi ni totte, ‘ima’ wa itsudemo asa no hachiji jūgofun.”
34 『さがしています』 p. 6.
35 『さがしています』pp. 20–21.
36 この件について、匿名の査読者に感謝しなければならない。
7 Stephens,
“Schemas and Scripts”, p. 15.
38 『さがしています』p. 8.
39 『さがしています』p. 12.
40 『さがしています』p. 16.
41 『さがしています』p. 16.
42 Felski, Uses
of Literature, p.47. ここでフェルスキは、従属的なジェンダーまたは少数派を価値あるものと論じているが、久しく忘れられていた『さがしています』に登場する物体の持ち主たちもまた、時間のうちにか、積極的――または、政治的――な記憶の抑圧のうちにか、組み込まれている大衆の一部を構成している。
43 他の文献も同様な比較を描いている。1970年代から反核エネルギーの筆を振るってきた福島県の作家、若松丈太郎の3・11以前の詩作、とりわけチェルノブイリに触発されて1994年に書いた詩「神隠しされた街」、そして福島原発で隠蔽された大事故をリストアップした「みなみ風吹く日2」[いずれのリンクも訳者による。2015年3月6日閲覧]は、いまになって予言とされている。Mark Rainey, “Playing
Around With Plutonium”, Nyx:
noctournal, 8 August 2012を参照のこと。2015年3月6日閲覧。若松丈太郎(著)アーサー・ビナード(英訳)齋藤 さだむ(写真)詩集『ひとのあかし』清流出版(2012年刊)も参照のこと。中澤晶子、1988年作のヤングアダルト小説『あしたは晴れた空の下で――ぼくたちのチェルノブイリ』汐文社は、三重災害のあと、改装版(2011年刊)が刊行されている。雑誌『日本児童文学』2012年9・10月号、アーサー・ビナード、中澤晶子「《対談》われらみな『風下っ子』」p. 37、35を参照のこと。
Nuclear Trauma in Sagashite imasu @JapanFocus http://t.co/cCHGfPBm3s 脚注で紹介…
桜と予言と詩人「神隠しされた街~若松丈太郎」アーサー・ビナード: http://t.co/gqWWh3ozBP @YouTube
— inoue toshio 子どもを守れ! (@yuima21c) 2015, 3月
0 件のコメント:
コメントを投稿