アジア太平洋ジャーナル Vol. 13, Issue 9, No. 4, 2015年3月9日
『ボディinフクシマ』制作ノート:災害進行地帯の旅
The Making of “A Body in Fukushima”: A Journey through an Ongoing Disaster
The Making of “A Body in Fukushima”: A Journey through an Ongoing Disaster
ウィリアム・ジョンストンWilliam Johnston (撮影・執筆)
尾竹エイコEiko Otake(パフォーマンス)
尾竹エイコEiko Otake(パフォーマンス)
『ボディ・イン・フクシマ』は、福島第一原発の周辺で演じる尾竹エイコをウィリアム・ジョンストンが撮影した静止画像と、エイコがその静止画像を編集したビデオ構成からなる進行中のプロジェクトである。以下の本文中に代表的な画像とビデオを組み込んである。
『ボディ・イン・フクシマ』2014年冬。ビデオ完全版リンク
2013年11月のある日、わたしが電話にでると、エイコが「ビル! 福島に行って、常磐線の駅でわたしが演じるのを撮影する考えはどうかしら?」と興奮していうのが聞こえた。パフォーマンス・デュオ、エイコ&コマの片割れとしてのほうで名が通るエイコとわたしはここ数年間、教室でコンビを組んで仕事し、それまでによく知り合っていた。わたしたちは2つの講座「日本と原爆」と「山頂除去石炭採掘」で共同授業し、運動訓練と歴史・環境研究を組み合わせていた。わたしたちは二人とも、これらと関連項目に年来の関心があり、日本の3・11三重災害について長広舌をふるった。2011年3月11日の地震と津波からほどなく、東北の人たちを思うわたしたちの関心について話し、進行中のフクシマ核惨事に対する不安な気持ちを分かちあった。また、わたしは、彼女が3・11からほんの5か月後に友人と福島を訪問していたことを知っていた。だが、この新提案はわたしにとって、不意打ちの驚きだった。
その年早く、フィラデルフィア、ペンシルヴェニア美術アカデミーの理事長、ハリー・フィルブリックがエイコ&コマを名高い30番街駅公演に招いていた。しかし、コマは足首損傷を患っており、エイコは彼女の経歴で初めてのソロ作品の創作を決心した。
エイコはフィラデルフィア駅の壮麗さを思うと、フクシマ近くの常磐線沿いに見た、見捨てられた駅について改めて考えた。
エイコは、あの当時、何か所かの駅は予見できる将来に再び使われることはないだろうと考えていたのを思いだした。それらの駅それほど遠くはない過去、通学する子どもたち、通勤客、買い物客、観光客、旅行客で賑わっていたのだ。彼女は30番街駅のホールでスーツを着たビジネス男女やスーツケース携行の旅行者らを眺めていて、「わたしがこの大理石の床に穴を開け、まるでフクシマに届く井戸のように掘り下げていったら、どうなるかしら。その穴は、アリスの不思議の世界の別宇宙に行くための通路になる」と考えた。フィラデルフィア公演の前に福島の駅で踊ることによって、「ふたつの場所の距離を伸縮自在にする」と彼女がいうように、それが可能になるようだった。エイコは後に、「福島の駅の写真と福島とフィラデルフィアで踊っている写真を撮ることを考えた。その方法で、わたしの体がフクシマのかけらを運び、フィラデルフィアの人たちに見せることができると考えた」と振りかえる。旅は、エイコの考えた『鉄道駅のなかのボディ』シリーズの制作ツアーとしてはじまった。
わたしたちは20014年1月14日に待ち合わせて上野発、福島県、いわき行きの列車に乗った。いわき駅でレンタカーを借り、当時、常磐線で行くことのできた最北駅、広野にまず向かい、その駅から、3・11災害の結果、閉鎖された駅の下見をはじめた。
午後も遅くなっていたが、エイコが最初の演技場に考えていた木戸駅の下見をすることにした。駅は板張りされ、街路は無人で気味悪かった。一見して地震の被害はなく、その内陸深くまで津波は達していなかった。猫が家の前を突っ切って走った。パトロールカーがわたしたちの脇を通ったが、警官たちはなにも言わなかった。歩道の破れたゴミ袋から私信、本、漫画がこぼれていた。木戸は、日本が2002年にワールドカップを共同開催したときに日本のサッカー選手の訓練場に使われたJヴィレッジから近く、無人の通りの街灯にサッカーの図柄があしらわれていた。駅の前に線量計が立っており、木戸を通過し、北西方向の多くの町に拡散した不可視の災害をわたしたちに思いださせる。
わたしたちは翌朝、木戸駅の東側、海岸に近い一帯を車で廻った。道の両側あちこちに巨大な黒ビニール袋が並べられ、ずっと遠くの田畑では、それが二層、三層、時にはもっと高く積み上げられていた。それが放射性の土砂や瓦礫を詰めこんだ1トン袋であることを後で知った。道路の間近に半ば崩れた家屋が建っており、わたしはその私道に車を駐めた。わたしたちは車を降りて、近くを歩きまわった。地震と津波による損傷を受けた家々は、目に見えない放射性の埃で包まれているので、3年近く手付かずのままになっていた。手頃なサイズの一軒家は、正面のガラス張り引き戸が津波で砕かれ、家屋の正面全体が風雨にさらされ、それはこの地区のほとんどすべての家で同じことだった。二階に通じる階段からコンピュータ音声が時刻を告げていた。わたしは、こんなに長く電池がもつものか不思議に思った。他に聞こえるのは、色あせたカーテンを吹き抜ける風の音だけだった。アヒルのぬいぐるみが、いまでは放射性がれきの一片に他ならなくなっているが、割れたガラスの破片のうえに転がっていた。
もう一軒の家は屋根が地震で傷んでいたが、津波の被害はほとんど受けていなかった。修理するまで雨漏りを防ぐために、白い防水シートが砂袋の重しを付けて設置されていた。
わたしたちは車のほうに戻り、駐車した私道に隣接した家屋を探索した。大きな、伝統様式で建てられた家であり、小型の竜巻が一掃したようなありさまのインテリアのうえにそびえる屋根を、自然に形成された巨大で無傷な梁が支えていた。家財道具は完全な無秩序状態で散乱していた。ひっくり返り、倒れた柱で串刺しになったアップライト・ピアノの前の棚に、人形類、その他のものがいまだに鎮座していた。居間だったに違いない部屋に2脚の椅子が設置され、それに座り、素敵な庭だったはずの地所を眺めることができた。家の主たちが帰宅して、一時、座っていたに違いない。わたしは、彼らが味わった思いの丈を想像できるだけだった。
通りを挟んだ向かいの家は、同じほど大きく、優美だった。正面はやはり津波に襲われていた。隅の柱は流失していたが、屋根は大きな梁で支えられて無傷のまま残っていた。がれきのあいだに写真が一枚落ちていて、そのガラスは砕け散っていた。だが画像は判別できた。よき時代、おそらく1970年代か1980年代に撮影された地区航空写真であり、おびただしい数の家が群集している。わたしは帰宅後、そこは破町とそのものズバリの地区名、おそらく過去の津波の名残で呼ばれていることを知った。
わたしたちはたがいに顔を見合わせ、二人とも、わたしがその場でエイコが演じている画像を何枚か撮影する必要があると了解した。壊れた家は、元の「ボディ・イン・フクシマ」の意図から外れているが、なぜか場がわたしたちの注目を要求していた。それがプロジェクト全体の転機になった。わたしたちは常磐線の駅を最終目標に定めつづけていた一方で、ほかの注意を惹くロケーションも探した。そういう場所はたくさんあった。わたしたちはその日、2014年1月15日の残り時間を、木戸から竜田へ、そしてさらに北の富岡へと旅して費やした。わたしたちは夜ノ森駅を見て、その日を終えた。わたしたちが訪れた他のすべての場所は、短期訪問者を受け入れていたが、夜の森は入域許可区域の境界のすぐ向こうにあった。わたしたちはそれを正当な理由と考え、短時間の滞在で済ました。
わたしたちの千秋楽は1月17日、晴れあがり、寒い日だった。最初の目的地は新地の駅だった。そのロケーションに向かって、GPSに従って、道を進んだ。駅と思しき現地になにもなかったので、わたしはGPSシステムに問題があるに違いないと思った。だが、そこは実際に正しい場所だった。新地駅は津波で徹底的に破壊され、放射能の影響を受けた区域の外だったので、完全に解体されていたのだ。避難区域の内側にあれば、富岡駅のように、建っていたはずだ。わたしたちはそこから北隣の駅、坂元に向かった。その駅も修理不能なまでに津波の被害をこうむって、解体され、野原のうえにアスファルト舗装のコンクリート製プラットフォームが残っていた。プラットフォームの前に小さな銘板が設けられ、駅の改札口があった地点を示していた。風は冷たかったが、エイコはそこで時間を延長して演技した。わたしたちは翌日、車を内陸深く走らせ、福島第一メルトダウン現場の北にある駅を訪問できるように、放射能汚染された全域を迂回した。わたしたちは午後、避難区域、あるいは婉曲的な日本語で「帰還困難区域」の内側にある浪江のすぐ北の駅、桃内に到着した。その駅は地震で少しだけ損害を受けていたが、津波到達地点からはたっぷり離れていた。わたしたちはその頃までに、仕事のリズムをつかんでいた。わたしがエイコの演じる場所を提案すると、彼女はそれに応じるか、別の場所を提案し、少し考えてから、衣装を選んだ。ある場所の可能性を使い尽くすか、わたしたち自身が消耗すると、次の場所に移動した。短い冬日の日光は、わたしたちが仕事を終える前にたそがれた。
最後に訪れた駅は駒ヶ嶺だった。まだ寒く、風が強かったが、エイコはほの暗くなるまでカメラの前で演技した。
わたしたちはロケ地間を移動する車中で、沈黙していることが多かった。いまは無人になっている家に住み、なにもなくなっている鉄道駅を行き来していた人びとの多くは二度と帰ってこないという認識に、わたしはいたくこころ動かされていた。4年後のいまでさえ、避難者の多くは「仮設」住宅暮らしをしている。帰還の可能性を完全に諦め、国内各地に移っていった人たちもいる。元の住人はいっときに数時間だけ自宅を訪れることができたが、家財が無傷であっても、放射能のため、持ちだして使えない。避難区域の外側、東北の大部分は、再建途上にある。だが核メルトダウンは人災であり、核エネルギー推進者たちが約束したことは決して実現しない。いざ事が起こると、彼らの主張では、まさに想定外だったということになる。だが、この言い分はそらぞらしく聞こえた。原子炉を設計し、運営した技術者や経営者らが、この種の事故は起こりえないと想定すると意固地になって決めていたと言っておいたほうが無難であるようだった。原発計画は企業利益に深く根ざしていたのだろう。原子炉設計案を承認した政府の規制当局は、そのような想定を是認したのだ。
フクシマのメルトダウンはこの観点において、より大きな流れを反映していた。攻撃と傲慢になって噴出した怒りと無知が20世紀の前半を支配していたとするなら、強欲と無知がその世紀の後半を支配するようになり、いまも続いている。第一次と第二次の世界大戦は少なからず、現実と空想上の不正行為によって勃発した。諸国民のほぼ全員が、自国のため、だがとりわけ自国の犠牲者のため、死と破壊をどうにも避けられない帰結として受け容れ、戦争遂行努力にわが身を投じた。1945年以降、アジア各地で数えきれなく残酷な戦争がつづいていた一方、ヒロシマ・ナガサキのあと、70年間にわたり核戦争は回避された。人びとは同時に、際限のない経済成長と膨れ上がる一方の富の狂気を無視するようになった。核エネルギーは、どの経済大国であっても、必要なだけの電力を約束するように思えた。核エネルギーの推進者らは、世界中の原子力発電施設で数多く大小の事故が起こっていたにもかかわらず、安全だと誓約し、今日にいたるまで、そのように言い張っている。日本初の大事故は、福島第一原発3号機が7時間にわたり制御不能に陥った1978年のものである。原子炉は首尾よく制御を回復したが、事故は2007年まで隠蔽されていた。原発支持者のなかに、炭素排出量を削減できるという人が多い。それはたぶん本当なのだろうが、とりわけ地震が頻発する国で、原子力は100パーセント安全には決してならない。フクシマでじゅうぶん浮き彫りになっているように、爆発と事故は環境と人間に対する惨事をもたらしうる。また、危険性を隠したい連中によって、核の危険性に対する無知が醸成されてきたという事実を無視するわけにはいかない――日本国民を原子力に対して心穏やかにさせるため、1990年代に創案されたキュートなマスコット、プルトニウム少年を思い出してみよう。
わたしたちは1月18日に福島を離れ、作家であり長崎原爆の被爆者、林京子を訪問しにそこから直行した。わたしたちが制作したイメージを彼女がどのように見るか、エイコとわたしは緊張していた。林さんは画像10枚の選集を見終わると、「あなたが写真のなかにいるので、わたしはたっぷり時間をかけて、それぞれの情景を見ることになります。細かい点までじっくり見せます。どうしてエイコがここにいるのか、どうしてここにいると決めたのだろう、どうしてここに身を置いたのだろうと、あれこれ考えることになります」といった。
ハリー・フィルブリックは画像集を見るなり、ペンシルヴェニア美術アカデミーで展示したいといった。エイコが他のキュレーター[学芸員]たちに画像集を見せると、2014年秋と2015年冬、コロラド・スプリングズの現代美術ギャラリーズとウェズリアン大学[コネチカット州ミドルタウン]を会場に、3回の展覧会を開催する予定がたちまち決まった。
エイコは米国に帰り、わたしは日本に滞在して、次のプロジェクトの調査をしていると、ほどなくしてエイコがわたしに連絡し、夏に福島を再訪するつもりはないかと訊ねた。スケジュール上の困難は付きものだが、それこそしなければならないことだと、わたしにはわかっていた。
わたしたちは7月下旬5日間の日程で、1月に行った場所の多くを再訪した。あれこれ変化したものもあったが、福島のいろいろな場所が予見可能な将来にわたり核の荒れ地になると運命づけられているのは余りにも明らかだった。わたしたちは終日、仕事し、夜、その日の画像を評価した。冬に撮影した画像は2,000枚に満たなかったが、夏にはその倍以上の画像を撮影できた。
。
このプロジェクトを遂行するさいの、わたしの願いは、とりわけ福島の人びとに対して、だがまた福島を超えて、核の力がもたらしてしまった苦しみに注目を惹くことであってきた。苦しみそのものを目撃することによって、目撃したものについて、じっくり考え、変化をもたらす一助になれる。エイコのパフォーマンスはわたしにとって、福島第一原発メルトダウンに被災した人間と生きとし生けるものの苦痛を可視化し、わたしたちが疎遠なままであったはずのことがらについて、ある種の身近さを備えた証人になるのを後押しするものだった。多くの人たちは、惨事が進行中であり、またこれから長期にわたり進行中であることを忘れてしまい、あるいは忘れたがっている。安倍政権が日本の原子力発電所の送電網復帰に全力をあげている、このとき、企業利害関係者とその政府内支援者らはわたしたちの忘却に賭けている。そのことこそが、このプロジェクトを終わりのない旅にしているものなのだ。エイコとわたしがこれを続け、再び核エネルギーの真の代価の証人になることを、わたしは望んでいる。
【筆者】
ウィリアム・ジョンストンWilliam Johnstonは、コネチカット州ミドルタウン、ウェズリアン大学の東アジア研究・社会科学教授であるが、2015年から2016年にかけて、ハーバード大学の日本研究エドウィン・O・ライシャワー客員教授を務めている。著書に、Geisha, Harlot, Strangler, Star: A Woman, Sex, and Morality
in Modern Japan. New
York, Columbia University Press, 2005[『芸者、売春婦、大旦那、スター~女、セックス、現代日本の倫理性』、The Modern Epidemic: A History of Tuberculosis in Japan. Cambridge, Council on East Asian Studies Publications,
Harvard University, 1995[『近代の疫病~日本結核史』]など。また、論文に「封建漁民から列島の人々へ~網野善彦の歴史叙述の旅路」(From Feudal
Fishing Villagers to an Archipelago’s Peoples: The Historiographical Journey of
Amino Yoshihiko)『現代思想』 (revue de la pensé d’aujourd’hui), vol.
41, no. 19, 2014, pp. 232-249.
ジョンストンは、19世紀の日本におけるコレラ流行の歴史に関する著作を執筆中である。彼の写真作品は、フィラデルフィアのペンシルヴェニア美術アカデミー、コロラド・スプリングズのコロラド州立大学・現代美術ギャラリーズで展示され、ニューヨーク・タイムズなど、多数の出版物に掲載されている。
【パフォーマー】
尾竹エイコEiko Otakeは、日本で生まれ育ち、1976年以来、ニューヨークで活動する運動主体の総合パフォーマンス・アーティスト。40年間以上、エイコ&コマとして世界で活躍している。エイコとコマは50を超える作品を共同制作し、セット、衣装、音響、メディアを手作りしている。エイコは目下、2014年10月にフィラデルフィアのアムトラック鉄道駅における12時間公演“A Body in a Station”を手始めとしたソロ活動プロジェクト“A Body in Places”を展開している。このプロジェクトとともに、写真家ウィリアム・ジョンストンと共同制作したコラボ写真展“A Body in Fukushima”が巡回している。エイコは、マッカーサー・フェローシップ研究奨学金の受給者であり、サミュエル・H・スクリップス・アメリカ舞踏フェスティバル賞、ダンス・マガジン賞を授かり、USAフェローシップとデューク・パフォーマンス・アーティスト賞の初代受給・受賞者であり、ウェズリアン大学とコロラド大学で授業を定期的にこなしている。
尾竹エイコEiko Otakeは、日本で生まれ育ち、1976年以来、ニューヨークで活動する運動主体の総合パフォーマンス・アーティスト。40年間以上、エイコ&コマとして世界で活躍している。エイコとコマは50を超える作品を共同制作し、セット、衣装、音響、メディアを手作りしている。エイコは目下、2014年10月にフィラデルフィアのアムトラック鉄道駅における12時間公演“A Body in a Station”を手始めとしたソロ活動プロジェクト“A Body in Places”を展開している。このプロジェクトとともに、写真家ウィリアム・ジョンストンと共同制作したコラボ写真展“A Body in Fukushima”が巡回している。エイコは、マッカーサー・フェローシップ研究奨学金の受給者であり、サミュエル・H・スクリップス・アメリカ舞踏フェスティバル賞、ダンス・マガジン賞を授かり、USAフェローシップとデューク・パフォーマンス・アーティスト賞の初代受給・受賞者であり、ウェズリアン大学とコロラド大学で授業を定期的にこなしている。
【推奨されるクレジット表記】
William Johnston with
Eiko Otake, “The
Making of ‘A Body in Fukushima’: A Journey through an Ongoing Disaster,”
The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue 9, No. 4, March 9, 2015.
#原子力発電_原爆の子: 写真パフォーマンス『ボディ in #フクシマ』制作ノート:災害進行地帯の旅
#原子力発電_原爆の子: 写真パフォーマンス『ボディ in #フクシマ』制作ノート:災害進行地帯の旅
Related
articles
•
Carolyn Stevens, Images of Suffering, Resilience and Compassion in Post 3/11
Japan 3.1
• Alexander
Brown and Vera Mackie, Introduction: Art and Activism in Post-Disaster Japan
•
Gennifer Weisenfeld, On Imaging Disaster: Tokyo and the Visual Culture of
Japan’s Great Earthquake of 1923
•
David McNeill and Paul Jobin, Japan’s
3.11 Triple Disaster: Introduction to a Special Issue
0 件のコメント:
コメントを投稿