In-depth critical analysis of the forces
shaping the Asia-Pacific...and the world.
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アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス
アジア太平洋…そして世界を形作る諸力の批判的深層分析
都民の警察~警察博物館に見る歴史の東京警視庁版
アジア太平洋ジャーナル Vol. 13, Issue. 43, No. 2, 2015年11月2日
チェルシー・シンディ・シーダー Chelsea Szendi Schieder
凡例:(原注)[訳注]
序論
東京の警察博物館の入り口で、都民の警察としての東京都警視庁の理想を体現している明るいオレンジ色のキャラクター、擬人化したネズミに似せた姿、眼と耳が大きく、頭にアンテナが生えている「ピーポくん」が、両手を広げて立ち、来館者を歓迎している1。東京警視庁はこの空想的なマスコット・キャラクターを1987年に採用した2。プラカードの説明文に、ピーポくんの大きな目で世の中の隅々まで見わたし、大きな耳で都民の声をもれなく聞くことができ、頭のアンテナで社会の動きを素早くキャッチすると書かれている。「ピーポ」は英語の人びと「ピープル」と警察「ポリス」の頭文字を組み合わせたもので、ピーポくんは「人びと」と「警察」が溶け合った「人びとの警察」という当代の理想形の権化である。あらゆる人間活動が、(視覚的、聴覚的に、そして触覚的にさえも)彼の支配下にある。彼は博物館の入口のすぐ外で来館者を出迎えている。ピーポくんは、オープンで都民と接触している、完璧に温和な警察のテーマをほのめかしている3。
ピーポくん |
東京警察博物館に取り揃えられたさまざまな展示物もまた、歴史物語に関連しており、警視庁が人びとの有能な保護者であってきた140年間の歴史を表現している4。警視庁は1994年に同庁の120周年記念事業の一環として博物館を開設した。銀座に近い京橋にあった元・警視庁広報センターに開設された、この入場無料の博物館は、「東京都民に警察の歴史をもっと知っていただくように促す」ことを目的にしている5。この地味な4階建てビルの各フロアは、明治時代の木版印刷文書や警察官制服から最初の警察ヘリコプタまで、いくつかの展示物や文書類を収納している。ビデオを使って運転シミュレーションを体験したり、子どもたちが小ぶりな制服を着て、ロビーに並べられたさまざまな警察車両のなかでポーズを取ったりするなど、特製ゲームやアトラクションも数多く用意されている。展示品は、秩序を保ち、犯罪と交通事故の脅威から人びとを守る警察の努力を強調している。他の展示物は、政府を危険な経時的脅威から守る警察を示している。博物館は、警察と都民が麗しく協力している政治色のないイメージを伝え、同時に警察が抗議行動に対決した事例を紹介していて、近代日本史の警察版の内容を浮き彫りにしている。
警察博物館の外観 |
都民の警察を表現する
ピーポくんの造形は都民と警察の完璧な連合の現代的な表現であるが、親切な守護者としての警察の理想は新しいものではない。梅森直之は、そのような「家父長的な態度」と「警察官の役割の包括的な定義」は1968年の明治国家と樹立の直後に発展したと論じている6。梅森はこの論点を說明するために、1867年に出版された川路利良の人気が高い警察の教科書[『警察手眼』]を引用している。日本の近代警察の創設者として警察博物館で顕彰されている川路は、「一国ハ一家也。政府ハ父母也。人民ハ子也。警察ハ其保傅[ほふ=子守役]也」と述べた7。この発言は、日本の国家を家族にたとえる戦前の政治的な隠喩を思い起こさせ、警察官が人民を保護するだけでなく、養育する親切な人物であると示唆している。この表現では、警察の役割は人民との関係で大きな存在であり、人民を国家と警察の被後見人と見ており、家父長的である。
博物館の展示とイントラアクティブ演出物の多くは、犯罪と戦い、災害救助をおこない、交通安全を確保するといった保護者としての警察の役割を強調している。教育ビデオとゲーム類は、犯罪者に対抗し、安全を確保する方法を来館者に指導している。
「東京の秩序を守る」という――成人向けと児童向けの2本が用意された――広報ビデオは、最も日常的に見かける地区のポリス・ボックス(交番)を拠点にした警察活動をはじめ、東京都警視庁のさまざまな業務と部署を紹介している。かなり最近の1995年2月に発足した部署は、「防犯部」を改組した「生活安全部」であり、銃器規制から若者や外国人の潜在的違法行為の監視におよぶ、「犯罪全般」から都民生活を守る任務を説明しており、日本における犯罪取り締まりについて、警察の拡張的な解釈を伺わせている8。しかし、部署の名称は、単なる防犯対策を超えて、特定の「生活様式」、あるいは世界観の防護さえも示唆している。
防犯対策コーナー |
抗議活動取り締まり~警察版の史観
防犯対策と交通規制は、おおむね物議を招かない警察活動の側面である。だが、市民の抗議に警察が対峙するとなれば、所与の社会にさまざまに存在する互いに相容れない世界観が紛争に持ち込まれる9。東京警視庁の警察博物館は、警察が「危機」に対峙した事件に主眼を置く公安活動を展示している。このような事件の扱いは、抗議が大規模な政治秩序に挑んでいるので日常の防犯対策とは懸け離れており、決定的な危険の根っこにイデオロギーの過剰な熱狂があることを示唆している。
博物館の一角に展示されている歴史的な三大危機の演出は、脱イデオロギー的な表向きの顔をした秩序の保護者としての警察の自己表現に適っており、同時に、1960年代末期と197年代初期の事件が現在の警察の自己イメージに与えた強い影響を実証している。展示されている三事件とは、1936年の2.26事件、1968年の日大「紛争」、1972年の浅間山荘事件である。これら三大事件はすべて警察を大きな戦時的対立に巻き込み、警察官の死傷者を出した。
歴史的危機の展示コーナー |
最初の事例、2.26事件は大日本帝国陸軍の青年将校らが指揮したクーデター未遂事件である。後の2事例は、1960年代の学生運動を母体として勃発した。1972年2月の浅間山荘事件は、逃走中に一女性を人質にしてたてこもった武装過激派グループを警察が包囲した事件であり、10日間近くにわたる銃撃戦になり、1970年代最大のメディア特別報道イベントになった10。この事件はまた、事件に関与していた5人の青年が連合赤軍の構成員であり、その後、組織内の血なまぐさい粛清が明らかになって、社会の憤激を招き、元過激派の多くが自己批判したことから、若者の運動と急進的左翼政治思想に対する大衆の支持が退潮に向かった分岐点としてしばしば引き合いに出されている11。これら二つの事件――2.26事件と浅間山荘事件――は世間に衝撃を与え、政治の転換点になった。しかし、博物館の展示物でもっと興味深いものは、1968年の「日大紛争」の展示である。これは、1960年代末期の学内に依拠した学生運動のほとんど無視されてきた歴史の概して忘れられた部分である。その展示内容は、そのような世間の注目を大いに集めた歴史的事件に対して、学生の過激主義を社会秩序に対する脅威として捉える警察の見方を強調している一方で、かつて激烈になっていた大学紛争を公共の場で追憶する稀有な例になっている。
警察博物館の展示は、1960年代末期の学生運動をイデオロギー的に危険なものに仕立てている。解説に、「左翼過激派の暴力学生たちは1966年から、大学のキャンパスを革命の砦に仕立てあげようとして、さまざまな大学で紛争を過激化しました」と書かれている。展示には、1968年に日本大学経済学部の本館に立てこもった学生たちに対峙した警察官が死亡した事件も含まれている。日本大学の学生たちは、1960年代末期における日本のとても多くの大学の学生たちと同じように、建物にバリケードを築き、大学当局に交渉を強要して、警察と衝突していた。彼らは、不人気のヴェトナム戦争における日本の米軍協力などの国際論争と同時に、学費値上げなどの学内問題も言い立てていた。1960年代末期の学内紛争の最盛期には、全国の大学数の約80パーセント――165大学――がなんらかの政治論争に巻き込まれていた12。このうち70大学で、学生たちがバリケードを築き、学内の建物から大学当局者を物理的に締めだしていた13。
1960年代末期に、学生運動側に死者が出たため、世間は抗議に同情していたが、警察側にも死者が出ていたので、学内抗議行動に対する実力行使による取り締まりがはじまる原因になった。日本大学の闘争で警察官が死亡したことにより、政治家たちの多くが学生運動に反感を抱くようになり、ある自民党議員が「学園の紛争、この暴力は、もはや断じて許すべきではありません」と発言した14。この議員は学内騒動の取締中に警察側の負傷が――10,000人を超えており、入院が400人に達するほど――多いと言い立てながら、負傷した学生や他の活動家の数をあげていない。だが、同時期における学生側の負傷者数もやはり多かった。負傷した学生の医療支出を扶助することも、学生運動を法的に支援する目的で設立された市民グループが実施した支援事業の一環だった15。ある警察官が救急車で搬送され、病院に到着すると、街頭デモの衝突で負傷した学生でごった返しており、医療スタッフに冷たい目で迎えられたと回想し、学生の抗議行動が世間の広範な支持を得ていたことを証言した。警察官は公立病院スタッフの敵意を恐れており、警察病院に転送されると大いに安堵した16。計量化は困難だが、学生運動に与していた世間の支持は、1960年代末期のいくつかの局面における抗議行動に対する警察力の強制的な行使の正当性を疑うための決定的な要因になっていた。
東京警視庁の警察博物館の展示は概して、国の代理としてふるまう警察から日本の初期デモクラシーを守る方策に関する戦後日本の激しい論争を避けている。警察活動に関する論争は排除されているのだ。だが、1950年代の論争は、たいてい労働者の抗議行動やストライキに対する警察の暴力の問題をしばしば俎上にのせていた。戦後の憲法で合法化され、保護されていた労働組合は、戦後の抗議行動で許容される限界をしばしば試していた。政治家たちは国会で、抗議行動に対する警察の直接的な暴力だけでなく、労働争議の報道写真など、抗議行動参加者たちに関する情報源の押収を非難していた17。展示内容は、戦争と占領のあとに再建された国家警察力が直面した、そのような賛否がわかれる問題を避けることによって、戦時を日本の近代国家像からの逸脱としてみる見解に合わせている。
1960年6月18日、国会前抗議行動の朝日新聞写真(出処:ウィキコモンズ)。
東京警視庁の警察博物館に展示されている写真は、過激派学生運動に付きものの「ジグザグ編成」で抗議デモをする、はるかに少数の参加者しか示していない。
しかし、戦後の警察力の再建にまつわる現実はずっと複雑であり、戦時における警察の役割の記憶は、とりわけ抗議への対応において、戦後期を通じて間近であり生々しかった。警察が戦時国家に連座していたことには、疑問の余地がなかった。問題は、戦後の警備政策が法と秩序の名のもとに異議申し立てを粉砕しないように防ぐ方策だった。合法化された日本共産党と日本社会党だけでなく、概して保守色の強い、統合された政権与党、自由民主党の代議士たちも、この問題を取りあげていた。自民党の中野文門は1958年遅く、衆議院の公聴会で国民の歓心を求める最近の警察の企ての誠意に疑問を呈し、「まさにだれの『公共の安全と秩序』のために、警察は働いているのだろうか?」といぶかるようになったと発言して、拍手喝采を浴びた。このような法と秩序の体制のもとでは、百姓一揆や(中野が付け加えていう明治維新のような)「革命」は起こりえなかったとさえ、中野が発言するほどの政治的雰囲気だった。中野の不安は、警察が信頼を獲得していないのに、国民は警察を信頼するように単純に説かれているという感触に根ざしていた。彼はまた、戦時体験がこの状況に対する彼の理解に影響しているといい、「私なども、戦争中ずいぶん信じておったのであります。そういう戦前から信じろ、信じろとおっしゃった方が、それがみんなはずれておった。その同じ方が、戦後になってまた信じろ、信じろとおっしゃっても、私はなかなか信頼することができないのであります」と述べた18。市民との意思の疎通における警察の基本的な誠意に対する懸念が、政府最上層部における警察力増強に関する議論に影を落としていたのである。
1960年の米日安全保障条約改定における国会内の衝突にまつわる政治混乱は、警察と抗議運動のどちらが、戦後日本の新生デモクラシーに脅威をおよぼしているのかをめぐる論争を引き起こした。安保反対デモに参加した学生運動の活動家たちが警察力の限界を試しはじめ、1969年11月27日に国会敷地に突入したとき、ある自民党議員が、国民によって選ばれた国会議員が、その信託に基づいて国政を審議する、「神聖なる殿堂」を冒涜するものだと非難し、民主主義の名のもとに、警備の増強を要求した。国務大臣がそれに応えて、抗議側に対する警察措置にも若干「判断の甘き点」があったのではないかと反省していると認めた19。1960年6月15日、学生運動の女性活動家、樺美智子が死亡し、全国に衝撃を与えたが、彼女を殺害した暴力の出処について見解の鋭い対立を残した。一部の向きはデモ側を非難したが、多くの人たちは樺美智子を国家暴力に殺された殉死者に仕立て、戦後民主主義の脆弱さの象徴とみなした20。警察博物館では対照的に、1960年の安保条約改定をめぐる大衆デモと警察の抗議行動取り締まりは、1枚の写真に小さくまとめられて展示されている。市民抗議行動の最高潮期に撮影された航空写真は、国会門前の街路がデモする市民で満ち溢れているのを示している。濱谷浩が撮影したものなど、地上レベルの写真もまた、大衆抗議行動に参加した人びとの広範さを明らかにしている21。
東京の警察博物館に展示されている国会前安保抗議行動の写真。
説明プレートに、「叫ぶ」デモ隊から「国会を守る」警察部隊と書かれており、市民の政治参画および狂信的な運動に対して秩序を維持する観点から警察の弾圧が介入する可能性に関する複雑で激烈な交渉が省かれている。
結論
警察博物館に展示されている歴史の警視庁版は、規模と影響力が控え目であるものの、社会秩序を維持する官憲と都民の円満な関係を強調している。博物館の展示は抗議行動を政治秩序に対する脅威として表現しているだけであり、政治意思の潜在的な表現とは見ていない。しかし、市民が賛否のわかれる政治に参画するとき、この合意と非政治的な警察擁護の筋書きは疑問を突きつけられている。警察が最終的に国を防護する任務を帯びているとすれば、大衆が国の政策を批判するために街頭に繰りだす状況で、なにが起こるのだろう?
国家と行動する大衆が衝突するとき、警察の役割はたちまち論争の焦点になる。安倍政権の政策に反対する最近の抗議行動に参加した人なら、だれでもこのようなできごとにおける警察の厳重警備について証言できる。警察はデモ参加者と東京都民を分断するために動き、国会議事堂など、政治権力の場からデモ隊を締めだした。都民の警察としての警察の理想は、道を平穏に渡ったり、警察の阻止線のどちら側かにいたりしてくださいと、警察官がたいがいの抗議行動参加者に演じてみせた、丁重だが、断固とした身振りを說明する。しかし、現在の政権に対する批判者が、国民から国家を防衛する東京警視庁の役割の検証に踏みこまなければ、驚くべきことだろう。特に日本社会の多くの分子、とりわけ若者たちが新たに街頭に登場しているいま、デモ行動で警察に対峙していることが、国家政策に反対して、要求を掲げる国民をとりなしたり、抑圧したりする警察の役割の新たな意味合いを引き出し、民主的な支配に批判的な疑念を投げかけることになるだろう。
【筆者】
チェルシー・シンディ・シーダー(Chelsea Szendi Schieder)は、明治大学政治経済学部の准教授。2014年にコロンビア大学で現代日本史の博士号を取得。Monthly Review and Dissentに記事を投稿。日本の戦後学生運動における女子学生参加の政治的な意味に関して、仮題“Coed Revolution”[『男女共同の革命』]を執筆中[高橋一行氏による紹介と要約:チェルシー・シーダー『新左翼の女子学生たち』(1・上)]。
【クレジット】
Chelsea Szendi Schieder, "The
People's Police: The Tokyo Police Museum's Version of History", The Asia-Pacific Journal, Vol. 13,
Issue 43, No. 2, November 2, 2015.
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• Linda Hoaglund, ANPO: Art X War – In Havoc’s Wake
【脚注】
1 接尾辞「くん」は、ピーポが男性であることを表す。
2 さまざまな機関、地方、イベントを売り出すために創案された多くのマスコットに対して、文化評論家のみうらじゅんが名付けた造語「ゆるキャラ」と呼ばれることが多い。See Debra Occhi, “Yuru Kyara Humanity
and the Uncanny Instability of Borders in the Construction of Japanese Identies
and Aesthetics,” Japan Studies - The Frontier, n.d., 7–17.
3 日本で軍隊漫画が流行っているのにもまた、サビーネ・フルスタックが指摘するとおり、軍隊組織を「可愛い系の政治色のないイメージで表現する狙いがある。See Sabine Frühstück,"AMPO in Crisis? US Military's Manga Offers Upbeat Take
on US-Japan Relations," The Asia-Pacific Journal, 45-3-10,
November 8, 2010.[リンク先記事に可愛い系軍隊漫画の例を満載]
4 主要都市の多くと一部の中小都市にも、警察博物館がある。一部の例をあげれば、ニューヨーク市警察博物館、ロンドン市警察博物館、パリの警察本部博物館、北京警察博物館、香港の警察博物館、シンガポールの警察遺産センター、カイロの国家警察博物館、サンパウロの市民警察博物館などである。国際警察署長協会の警察博物館リストを一覧すると、カリフォルニア州だけで21件の警察博物館を数えることができる。“Museums.” International
Police Association. July 2016. Accessed November 1, 2015.
5 1994年7月14日付け毎日新聞「警察庁の『警察博物館』がオープン」。
6 Umemori Naoyuki.“Modernization Through Colonial Mediations: The
Establishment of Police and Prison System in Meiji Japan” (Ph.D. Dissertation,
University of Chicago, 2002). 30.
7 Ibid., 31.
8 1995年2月2日付け朝日新聞「犯罪部が改称、生活安全部に」。
9 Donatella della Porta, “Social Movements and the State: Thoughts on
the Policing of Protest,” in Comparative Perspectives on Social
Movements, ed. Doug McAdam, John D. McCarthy, and Zald Mayer (Cambridge
University Press, 1996), 65.
11 Patricia G. Steinhoff, “Death by Defeatism and Other Fables: The
Social Dynamics of the Rengō Sekigun Purge,” in Japanese Social
Organization, ed. Takie Sugiyama Lebra (University of Hawaii Press, 1992);
Yoshikuni Igarashi, “Dead Bodies and Living Guns: The United Red Army and Its
Deadly Pursuit of Revolution, 1971-1972,”Japanese Studies 27, no. 2
(September 2007): 119-137.
12 Yukiko Sawara, “The University Struggles,” in Zengakuren:
Japan's Revolutionary Students, ed. Stuart Dowsey (Berkeley: The Ishi
Press, 1970), 138.
13 高沢皓司、高木正幸、蔵田計成『新左翼二十年史――叛乱の軌跡』(新泉社、1981年)、p.117。
15 For more on such support groups active both in the 1970s and today,
see William Andrews, “Trial Support Groups Lobby for Japanese Prisoner Rights,
Fight to Rectify Injustices,” Japan Focus 12, no. 21 (May 25,
2014).
16 原田弘『ある警察官の昭和世相史』(草思社、2011年)、p.135。
[訳注:本文では、中野文門参議院議員の発言になっているが、正しくは公述人の評論家、中野好夫氏の発言]
20 See Chelsea Szendi Schieder, “Coed Revolution: The Female Student in
the Japanese New Left, 1957-1972” (Ph.D. Dissertation, Columbia University,
2014).
21 For Hamaya's photographs and historical context see Justin
Jesty, “Tokyo 1960: Days of Rage & Grief,” MIT
Visualizing Cultures, 2012.[リンク先に、濱谷浩氏の写真集と英文テキスト]。
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