2017年8月3日初出/8月5日更新
72年前、ハンフォードで生産されたプルトニウムを装填した米軍の原子爆弾が長崎に投下された。この惨事の物語には、ワシントン州中部で具体化しつつある新しい国立公園で、いまだ展示場所を用意されていない。
シアトル・タイムズ記者
|
彼の母親は食べ物を求めに農家へ出かけるさい、兄弟姉妹たちと一緒に家にいなさいと言いつけた。だが、12歳の少年は家を抜け出し、山道をめざし、母親を見つけて、連れてってと頼みこんだ。
30分間、歩いた距離がふたりの命を救った。午前11時2分、原子爆弾が長崎の上空で炸裂したとき、親子は爆心地から1マイル以上も離れた場所にいた。
池田は飛行機の爆音を聞いたこと、煌めく閃光を見たこと、そして衝撃波で気絶したことを憶えている。意識が戻ると、煙が空一面を覆い尽くし、その後、その雲が赤く輝いた。
「何もかも燃えていました」
5人いた彼の兄弟姉妹たちは、日本軍が真珠湾を攻撃したその日に生まれた末弟も含め、全員が数日間のうちに亡くなった。
池田は当年84歳、数千人いる長崎「被爆者」――ワシントン州リッチランドの郊外、ハンフォード秘密施設の反応炉で製造されたプルトニウムから凄まじい力を得た原子爆弾攻撃の生存者――のひとりである。
被爆者たちの物語は、カスケーズ[滝の連なり]地方の東、ヤマヨモギ生育地で展開した戦時の愛国心、犠牲、科学的達成からなるリッチランドの歴史物語でまだ語られていない章である。その後70年以上も経て、ハンフォードおよびニューメキシコ州ロスアラモスとテネシー州オークリッジの爆弾開発施設において形作られている新たな国立公園で、被爆者の物語のためにスペースを用意しようとする動きがある。
長崎に投下された原子爆弾のプルトニウムを製造したハンフォードB反応炉(右)は2009年から団体旅行客に公開されている。それは今、マンハッタン計画・国立歴史公園の一部になっており、ニューメキシコ、テネシー両州の施設も公園に含まれる。(Kjell
Redal/The Seattle Times)
国立公園局の職員らは、爆弾――1945年8月6日に広島、その3日後に長崎に投下された原子爆弾――を製造する一か八かの賭けだけでなく、人的被害や爆弾を炸裂させる決定をめぐる歴史的論争を探るための展示の実現を願っている。
今年になって公開された公文書がマンハッタン計画・国立歴史公園の基本テーマの概略を説明しており、ハンフォードでは、閉鎖された反応炉やその他の現場のツアーが提供されることになっている。だが、遺物と口述歴史記録の展示内容を開発するのに何年もかかると予想されている。資金が逼迫しており、今年の場合、3州の施設が680,000ドル[75,300,000円]の予算を分け合うことになる。
資金の問題はさておき、この公園が、爆弾の暗い側面を探る展示を含めるという野心的な意図をあくまでも実現するためには政治的意思が必要になるだろう。
米国の歴史家の多くは、200,000人以上の人間を殺した2発の原子爆弾が、第二次世界大戦を終結させる決定的な打撃になり、さらに多くの日本人とアメリカ人の命を奪うことになったはずの米軍上陸侵攻による流血を避けることができたという。これがアメリカで主流の語り口である。ハンフォードで勤務していた一部の人たちにとって、逆のことを説いて聞かせるのは異端である。
リッチランドの地元紙、ヴィレジャー(The
Villager)1945年8月14日付け紙面で日本降伏と戦争終結を伝えた記事は、「平和!われわれの爆弾が平和を確定した!」(Peace!Our Bomb Clinched It!)と謳っていた。
他の歴史家たちはロシアと日本の記録文書を掘り下げ、戦争終結について、もっと含蓄に富んだ説明を書いている。長崎の上空で爆弾が炸裂したころに進展していたソ連軍の日本領域侵攻が、日本降伏において、決定的でなくとも、重要な役割を果たしたと断言するものもいる。
今年の1月まで公園局の局長を務めていたジョナサン・ジャーヴィスは、こういった――
「わたしたちはそもそもの始めから、(爆弾の)開発だけでなく、その配備まで、完全な物語を提示すると確約していました。一部に、これは核兵器の賛美になると考えた向きもありました。わたしたちは……それが当方の意図だと考えた人の誤解を解きたいものだと思いました」
公園局は国の語り部としてのプライドを抱いており、第ニ次世界大戦期の日系アメリカ人の強制収容の詳細をカリフォルニア州のマンザナー国立歴史遺跡(ManzanarNational Historic Site)で展示するなど、不快な史実を取り上げることがますます多くなっている。
原子爆弾の完全な歴史を公開展示することは、別の次元の挑戦である。
マンハッタン計画・国立歴史公園の創立を定めた2014年法制を後押ししたパティ・マレイにとって、これは彼女自身の家族が生きた歴史なのだ。彼女の父親はケニウィックで成長し、プロジェクトに住み処を譲るためにハンフォードから離散した人びとの子どもたちと野球をしていた。このワシントン州選出の民主党上院議員は、地元の農民の犠牲と「地球半周向こうの都市に対する壊滅的な効果」を含め、公園はあらゆる側面を提示すべきであるという。
だが、議会で公園を支持したワシントン州の共和党員、ドク・ハスティングス元下院議員は、立法趣旨は日本に対する爆弾の効果に注目することではなく、先駆者としての達成に注目することにあったとして、次のように述べた――
「戦争に影響したのはもちろんですが、爆弾を開発したアメリカ人の創意工夫する能力を強調しなければなりません」
スミソニアンの国立航空・宇宙科学博物館の経験は、より完全な物語を語ろうとすれば、爆発する論争を反映している。
米国議会上院さえもが介入し、提案原稿を「修正主義的であり、幾多の第二次世界大戦復員軍人に対する侮辱」と避難する決議案を満場一致で採択した。博物館の館長は辞職し、航空機は、日本で起こった事態の様相を伴うことなしに展示されることになった。スミソニアンのエノラ・ゲイ展示を担当した学芸員、トム・クローチは、次のようにいった――
「わたしは、一部始終を語るという正直な仕事をするのは実に困難であるという結論に達しました」
日本では、数多くの人たちが、アジア太平洋における戦争と惨敗を招いた日本軍の侵略行為と折り合いを付けるために奮闘してきた。今年、日本のホテル・チェーン事業オーナーの著作本が、客室で無料配布されており、その本は、中国における日本兵によるレイプと殺人を伴う1937年猛攻、すなわち南京大虐殺(the
Rape of Nanking)の信憑性を疑っている。
その一方、広島、長崎両市は、核兵器に対抗する世界的な運動において積極行動主義の拠点として浮上している。
両市の市長たちは、自分たちの街の大方を払拭した兵器の周辺に創設された米国立公園のコンセプトに目覚ましい思いがした。そのことがジャーヴィスの背中を押し――2015年6月の日本人記者団との会見で――破壊の顛末が語られることを確約することになった。
両市長は、マンハッタン計画・国立歴史公園の展示品は核兵器の非人道性を明らかにするものでなければならないと認め、原爆遺物と写真類の寄贈を申し出た。
そして彼らは警告を発していた――展示品は、「原爆攻撃を正当行為とみなす長年の認識を強化したり」、あるいは「核兵器の開発を国力のシンボルとして祝賀したりする」ものであってはならない。
クリス・カービーは昨年の秋、新公園の最高責任者として仕事に着手したとき、その書簡をファイルから見つけた。
彼女はその手紙を執務デスクの目立つ箇所に置いている。彼女はこういう――
「これは、物語を構成する非常に重要な品目です」
「現実を学んでください」
長崎とリッチランドは強力なシンボル――きのこ雲――を共有しているが、爆弾に関する見解は大きく違っている。
政府が1943年に買収したハンフォード地区は今、北米で最悪の汚染をこうむった核施設である。
プルトニウム生産が終了して久しく、数十億ドルの除染作業が取って代わっている。だが、きのこ雲は健在であり、爆撃手の母校、リッチランド高等学校の体育館の床に描かれている。
長崎では、きのこ雲はこの世の終わりの開始を告げている。
案内板が訪問客をより奥深く内部に誘う――「あの雲の下で起こったこと、現実を学んでください。忘れないでください。他の人たちに伝えてください」。
その雲は、長さ10フィート超、ファットマンの名で知られ、ソフトボール大の塊になったハンフォード製プルトニウムを組み込まれた爆弾で生成された。
当初の標的は、日本最大級の兵器庫を備えた街、小倉だった。
歴史家のアレックス・ウェラーシュタインによれば、靄〔もや〕と煙霧が視界を遮り、爆撃手は視覚照準命令を帯びていたという。
そこで米陸軍航空隊搭乗員らは、南の島、九州の第2標的であり、大型造船所を抱えた街、長崎に向かった。
爆撃手は、港近くの照準点の北側で雲間に暫時のあいだ開いた穴から覗き込んだ。彼は、工場、結核クリニック、病院、学校、街のキリスト教伝道遺産を反映した大聖堂が点在する地区に爆弾を投下した。
この地区は、あの朝、池田とその母親が徒歩の外出から帰宅するさいに横切った地獄のような被爆地帯だった。
火炎、瓦礫、そして放射線
池田早苗は長崎攻撃で彼の兄弟姉妹5人の全員を失った。現在、齢84歳の彼は、高齢の生存者――日本でいう被爆者――のひとりであり、あの日のできごとを証言している。(Hal
Bernton/The Seattle Times)
|
池田は、衣服がズタズタに裂け、ジャガイモ畑に横たわり、弱々しい声で助けを求める、むごたらしく傷ついた人びとの集団を憶えている。
彼と母親が道を進むと、山腹に掘られた防空語の前で泣きわめいている女の子に出会った。
ふたりがなかに踏みこんでみると、少女の苦悶の原因がわかった。年齢が5歳ほどで背中が火傷で黒くなった男の子が水を求めて泣いていた。ふたりは水を持っていなかったので、池田の母親は男の子に自分の乳首を含ませ、自分たちの家の様子を確かめさせるために、息子を独り帰らせた。
池田家が住んでいた――爆心地から900ヤード[800メートル]以下の距離にある――二階建て家屋はぺちゃんこの残骸になっていた。池田は、兄弟2人と姉妹2人のうち1人が稲藁編みの寝袋の上に横たわっているのを見つけた。彼らは、6歳の妹、スズコがどこに行ったかわからないと彼にいった。家の近所で死者や瀕死者のなか、彼は妹の炭化した遺体を見つけた。
病院はあらかた破壊されており、崩壊を免れた建造物が仮の病棟になった。
当時9歳だった羽田麗子は、損傷した学校で負傷者の世話をして1週間すごした。彼女は男の子の背中から箸を使ってガラス片を抜き取ったり、母親と一緒に水の抜けた水泳プールのなかで死体を焼却したりした。
死に瀕した人たちの世話をして1週間もすごした羽田は、「わたしは感情をなくしていたと思います」といった。
爆弾を投下した航空機のパイロットで、当時は少佐だったチャールズ・スウィーニーはその数週間後、長崎被爆地帯を訪れるため、彼の搭乗員仲間の集団に参加した。
スウィーニーは、日本の軍国主義文化と自国民を人身御供に捧げた軍閥のせいで、この苦しみが「生じた」と考え、思い出を次のように記した――
「わたしは瓦礫のまんなかに立って、米日両側でこれほど多くの人たちが死んだのだと悲哀を覚えた。しかし、自責も罪も感じなかった……われわれにとっても、彼らにとっても、事は終わったのであり、われわれは救済されたのだ」
日本側の推計によれば、あの年に長崎の戦時人口240,000人のうち73,000人以上が爆弾関連の原因で死亡した。
日本の医学研究者らは、その後、数十年間にわたり白血病およびその他の癌の相次ぐ発症を追跡しており、放射線が最大に強烈だった爆心地に最も近かった被爆者のリスク係数が最も高いことが判明した。
被爆者は社会的な傷をもこうむった。
少女の多くは、出生異常のある子どもを出産するリスクのため、結婚の見通しが暗いと考えられた。
山崎千鶴代は、次のようにいう――
「そんなことが時どきありました。わたしの2番目の子どもに障害があり、男の子でしたが、ほんの4歳で死んでしまいました」
山崎は今日、優雅な中庭と日当り良好な部屋を備えた施設、年配者用のホームで暮らしている。入居者たちはそのホームで障害者のバレーボール競技会が終わった後の授賞式で集合すると、小学生のように笑いさざめく。
その居住施設は――原爆投下時――爆心地の近くで女学校を運営していたカトリック修道会によって建てられた。
その学校は生徒214名と多数の教師を失った。
このホームは「恩寵の丘」と呼ばれている。
20世紀の「驚異」
ポインタまたは指先を使って、B反応炉の360°回転映像を見ることができる。(Kjell Redal /
The Seattle Times)
ハンフォードのB反応炉を訪れるツアー客にとって、今のところ、長崎の運命は踏査されていない領域のままである。
ツアーの実施主体は米国エネルギー省であり、2009年にツアーを再開しはじめ、公園の創立以来ずっと開催している。
ツアー客らはリッチランドの町外れの簡素な建物に到着する。その中でビデオが、コロンビア川の水資源、豊富な水力発電量、遠隔地の利点から陸軍工兵隊が選んだ586平方マイル[1518
km2]のハンフォード施設の戦時期における推移について詳しく解説する。
ビデオはきのこ雲の映像で終わり、B反応炉は「20世紀屈指の驚異」であり「人間精神の証」とアナウンサーが謳う。
次いでツアー客らはバスでB反応炉に移動し、そこではハンフォードの元労働者らがガイド役になって、建設、手に汗握る起動の様子、最初のプルトニウムを産出した初期の操業について詳しく解説する。長崎は彼らの解説に登場しない。
一部のハンフォード関係者は、今こそ視野を拡げるべきだという。
ジョン・フォックスは元リッチランド市長、新しい国立公園はプルトニウムを生産したマンハッタン計画に加えて、長崎で起こった事態を伝えるべきだと考えている。(Kjell Redal
/ The Seattle Times)
|
ジョン・フォックスは元リッチランド市長であり、ハンフォードのエンジニアとして41年間の経歴があって、1945年の秋には、計画されていた日本上陸侵攻作戦に間に合うように徴兵されるだろう、そうなれば生きて帰れないだろうと考えていた。
そうはならず、戦争は終結し、彼は爆弾の功績を認めている。
そこでフォックスはカレッジを卒業し、ハンフォードで仕事を見つけ、コロンビア川沿いの美しい土地を購入し、今でも夫妻でそこに住んでいる。
齢89歳のフォックスは引退者として、建造物保全のために活動した地元グループ、B反応炉博物館協会の会長を務めている。彼は公園ツアー客がハンフォードで生産されたプルトニウムの最終的な結果を理解してくれるように願って、こういう――
「わたしは、今どきの人たちが歴史をロクに憶えていませんので、理解することが決定的に重要だと思います。それでホロコースト博物館タイプの催しをしなければならなくなるとはまさか思いませんが」
ハンフォードに11年間の核エンジニア職歴があるシャーリー・オリンガーにとって、公園に日本からの視点を取り入れることは、彼女自身の家族の物語を伝えるのに役立つ。彼女の両親――長崎地方出身の母親と米国海軍士官の父親――は戦後占領期に出会った。
オリンガーの息子と娘は2007年に長崎を訪問したものの、彼女が、プルトニウム処理工程の副産物である廃棄物5600万ガロン[21万m3]を保管しているタンク群の管理監督助手を務めているあいだ、おおむねリッチランドで成長しており、彼女は次のようにいった――
ハンフォードに11年間の核エンジニア職歴があるシャーリー・オリンガーにとって、公園に日本からの視点を取り入れることは、彼女自身の家族の物語を伝えるのに役立つ。(Kjell Redal
/ The Seattle Times)
|
「わたしの子どもたちは、ふたりとも両サイドにとても共感しています。彼らは起こった事態を非難しません。彼らは現場にいませんでした」
他にも――長崎の被爆者にとっても、ハンフォードで働いたり、その近くに住んでいたりした人びとにとって――放射線の影響を公園が間違いなく説明してほしいと思っている人たちがいる。
両親がハンフォードで働いていたあいだ、リッチランドで幼年期を過ごしたトリシャ・プリティキンは、「核兵器生産の真の犠牲者は、そうした人びとです」といった。
プリティキンの父親は、連邦補償法の元、ハンフォードにおける労働に関連すると考えられた甲状腺癌で亡くなった。母親は黒色腫で亡くなったが、彼女の放射線被曝量は労災疾患補償金の支払いに値するほど有意ではないと判定された。
プリティキン自身も甲状腺を摘出されており、副甲状腺の疾患で苦しんでいる。
彼女は、放射性ヨウ素の放出を含むハンフォードの汚染が原因になったと主張する疾患の補償を求めて連邦政府を相手取って提訴された――そして、2016年に示談になった――大規模な原告団訴訟の早くからの係争当事者だった。
公園局職員らが2年前に開催した有識者フォーラムで「風下住民」の悲惨な境遇が指摘され、公園の展示で紹介される可能性がある。
プリティキンは、「わたしたちは、押せ、押せ、の勢いでやってきました」といった。
完全な物語が語られるだろうか?
公園局はやがて原子爆弾の物語の全体像を伝えることができるようになるだろうか?
アメリカの新しい大統領が、大陸間弾道ミサイルを実験している核武装国家・北朝鮮の独裁者と争っているいま、原子爆弾攻撃の影響を描き出すことは歴史の重要な作業対象である。
だが、トランプ政権の中で、どれほどの支持を公園局がかき集められるのか分からない。
2016年にオバマ大統領は広島を訪問し、「1945年8月6日朝の記憶は決して薄らぐことはありません」と明言した。
2016年の大統領選挙戦中、当時のドナルド・トランプ候補は、オバマの広島訪問を「どうしようもない」と決めつけたうえで、「謝罪しなかっただけ、上等だ」といった。
予算にしても、不足がつづく見込みである。
公園局職員らはハンフォードで従業員をもうひとり雇わなければならない。トランプ政権が全米で1,200名以上の政府機関職員の削減を提案しているので、雇用をはじめられる時期は不明なままである。
不透明な状況のさなか、他の施設は日本人の体験の取り入れる方向に進んでいる。
長崎原爆資料館は第二次世界大戦の集結間近に、この日本の都市に爆弾が与えた損害を記録展示している。(Hal Bernton /
The Seattle Times)
長崎では、被爆者は発言をつづけている。池田は学校や原爆資料館で話して聞かせ、袖を引き上げて、あの日の消えない思い出として残るケロイド痕を見せている。
被爆者たちの語りは、次の世代に受け継がれてもいる。池田の娘、直子は平和活動家であり、語り部である。
来年の3月には、ひとりの被爆者も加わる長崎代表団がリッチランド地方を訪問する。
池田は、「わたしの話は、そのような場所に住んでいるアメリカ人に聞かせなければなりません」という。
【筆者】
ハル・バーントン Hal
Bernton: 206-464-2581 or hbernton@seattletimes.com.
この記事は、アジア太平洋圏における諸国民の相互理解の増進をめざすハワイ東西センター(East-West
Center)主催のジャーナリスト研修・取材ツアー(Jefferson Fellowship)のさいに報告されたもの。
【クレジット】
The
Seattle Times, “Will Nagasaki’s story be told at Washington state’s new
national park?” by Hal Bernton, posted and updated on August 5, 2017 at;
0 件のコメント:
コメントを投稿