2017年8月22日火曜日

【英紙ガーディアン】本物の恐怖は『シン・ゴジラ』でなく、硬直した官僚制と物言わぬ国民


ゴジラは日本の本物の恐怖が巨大爬虫類ではなく硬化症の官僚制にあることを露わにする
日本国民が依存性麻痺で自分自身の発言ができないなか、最新作『シン・ゴジラ』は大量破壊を見せつける

『シン・ゴジラ』は昨年、実写国産映画の興行成績トップ作品になった。

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10年以上の期間で初の和製ゴジラ映画『シン・ゴジラ』の封切りから5年前、日本の北東部海岸線が巨大地震と津波に襲われ、その結果、同地域の福島第一核発電所でメルトダウン事故が勃発した。被害について国民は、誤報を知らされたり、情報を隠されたりした。政府は3か月後まで「メルトダウン」という用語を使おうとすらしなかった。小説家、村上春樹は全国紙のインタビューで、国家的な人間性欠陥、無責任な自己欺瞞を診断し、次のように述べた――

1945年の終戦や2011年の福島第一核発電所事故の本当の責任は、だれも取っていません。残念なことに、地震と津波が最悪の加害要因であり、われわれ全員が被害者だと理解されていると思います。これがわたしの最大の心配事です」

日本の極めつけダークで最も精巧なアニメの最高傑作『新世紀エヴァンゲリオン』の創作で最もよく知られ、崇められているオタクのヒーロー、映画『シン・ゴジラ』の監督、庵野秀明は、視覚的にも、情緒的にも、彼の同国人を窮地から逃がさない。水の力で運河沿いに積み上げられた車やヨットの映像は、2011年の災害を効果的に再現し、ゴジラを津波の化身にしている。防護服や明るい青のジャンプ・スーツを着用した救助隊員と政治家はそれぞれに大災害の余波の超現実的なイメージを反映している。

しかし、映画の前半部では、怪物は自然でも幻想でもない。それは官僚機構――具体的にいえば、日本のしゃちこばった公務員であり、その多くは横並びのネズミ色スーツを着用した男性で、自分たちのキャリアを守ることをあまりにも気にかけ、人命を救うかもしれない決定のリスクを引き受けるにも手続きの前例を踏襲している、彼らにとって、責任とは、いかなる代価を払っても、縮小を心がけるべきものである。

なぜ怪獣はいつも日本に戻ってくるのだろう? オーストラリア、ニュージーランド、シンガポールに向かわないのは、なぜだろうか?

彼ら公務員と回りくどい交渉のシーンが上映時間を長々と占めているので、タイトルの由来になった怪獣が海から現れ、お仕着せの制服を着用した人間ロイドと違って、爬虫類みたいな皮膚を動かしたり、トレードマークになっている鳥のような雄叫びをあげたり、実際に何かをやってみせたりすれば、破滅的であっても、ホッとする。

危険が東京近くにおよぶと、閣僚が「駆除だ。捕獲だ。爆破だ」といって、空っぽの物思いに空元気を吹き込む。すると同僚のスーツ男が、「誰に向かって言ってるんだ?」と応じる。

官僚の非効率さを風刺することは、もちろん日本の独壇場ではない。(ギャヴィン・フッドの正当に評価されていない2015年スリラー作品『アイ・イン・ザ・スカイ』は英米両国の官僚の迫り来る暴力に対する複雑怪奇な反応を同じように茶化している)しかし、日本の観客にとって、放射能に由来する危機に対する反応を利己的にいじくっている機能が麻痺した公務員の『シン・ゴジラ』による描写は、国内の鋭った棘を突きつける。

『シン・ゴジラ』は昨年、実写国産映画の興行成績トップになり、現在までのフランチャイズ映画31本の最高興行収益を達成し、7部門の日本アカデミー賞を獲得した。自国であること、大型スクリーンで物語が上映されたことという村上の分析は、母国で最も強力に反映されていた。

ゴジラ・シリーズの1954年オリジナル作品に関する伝統的な解釈は、怪獣が暗示するものが、日本の広島と長崎に対する米軍の核兵器攻撃であり、さらに当時の時代が流れてからは、死の灰が日本漁船を汚染し、少なくとも1名の死者を出した、米軍によるビキニ環礁における水爆実験であるというもの。

 この上なく辛辣な批評が日本で均される」

だが、文芸評論家、加藤典洋は、たぶんより正確には、第二次世界大戦中に死に、敗戦国として今日まで保持する経済・軍事同盟を通して、米軍の征服者ら(およびデモクラシーの薄ぺらな幻影)を受け入れるとともに、恥とともにたちまち忘れられた推定310万人の兵士らや民間人の亡霊、怒り、休息をしらない象徴でもあると主張した。結局、60年にわたって制作された31本の映画の謎――なぜ怪獣はいつも日本に戻ってくるのだろう? オーストラリア、ニュージーランド、シンガポールに向かわないのは、なぜだろうか?――を加藤は書き記す。

加藤の疑問と解釈が、『シン・ゴジラ』では――一官僚が憤激に駆られて、まさに「どうしてまたここに来たんだ」と訊いて――前面に押し出された。(映画がドナルド・トランプの登場前に制作されたことを忘れてはならないが)アメリカ人は、圧倒的な力を背景に上から目線で一方的な精神の官僚として映画の周縁部で登場し、中心的なキャラクターとしては、米国政府の日系アメリカ人代表、カヨコ・アン・パターソンが、俗物性と自己愛性が日本人のエチケットに対する意図的な無知を露わにする人物として登場する。

だが、この上なく辛辣な批評が日本で均される。『シン・ゴジラ』は、発言したり、自分自身で行動したりする意思のない国民の人物描写と依存で麻痺した国家像の提示において、ほぼ完全にみずからに課した破壊の堆積の上に居座っている。

【寄稿記者】

Roland Kelts
ロランド・ケルツは日系アメリカ人ライター、Japanamerica: How Japanese Pop Culture has Invaded the US(ジャパナメリカ――日本のポップ・カルチャーはいかにして米国を侵略したか)の著者。

【クレジット】

The Guardian, “Godzilla shows Japan’s real fear is sclerotic bureaucracy not giant reptiles,” by Roland Kelts, posted on Monday 21 August 2017 14.04 BST at;



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