2017年8月21日月曜日

【ワシントン・ポスト】ヘイトへの道――シャーロッツヴィルは出発点にすぎない


ヘイトへの道――6人の若者にとってシャーロッツヴィルは出発点にすぎない
2016年のテキサス農工業大学にて、自分はこれでオルタナ右翼を学ぶ姿勢を固めたという、白人愛国主義の指導者、リチャード・スペンサーの講演に先立って、抗議者側と話をするウィリアム・フィアーズ。彼が812日の右翼結集集会に参加するためのシャーロッツヴィル行きは、もっと長く、できごとがもっと盛りだくさんな旅だった。齢29歳のフィアーズは、「今や生きるか死ぬかの問題」と口にした。(Spencer Selvidge/Reuters)

テレンス・マッコイ Terrence McCoy 2017819 7:02 PM 

彼はシャーロッツヴィルで、ユダヤ人排斥スローガンを連呼し、トーチを掲げて解放公園を練り歩くといった行動をやったにしても、1年前には、オルタナ右翼が存在すると気付いてすらいなかった。ヒラリー・クリントンが昨年の8月、選挙演説でその運動を糾弾するまで知らなかったが、その時点から、ウィリアム・フィアーズ(29歳)の過激化は迅速に動いた。

フィアーズは昨年12月、運動広報役のひとりで「オルタナ右翼」の名称を造語した人物、リチャード・スペンサー(Richard Spencer)がテキサス農工業大学で講演すると聞き、車を2時間走らせて聴きに行った。彼は講演会場で、自分と同じような人たち、白人国家主義など決して連想させない人びと――ハーケンクロイツなど付けず、スーツを着用した男たち――に会って、大した存在に所属したいと思うようになった。そこで彼は他の集会に参加するためにテキサス全域のあちこちの出かけ、地元のウェブサイトに「ヒューストン一番のヅケヅケ言うネオ・ナチス」と名指されるようになり、アドルフ・ヒトラーのオルタナ右翼ミームなど、最初は馬鹿げている――「人びとに憎まれちゃう」――と考えていたが、ほどなく楽しむ術を学んだ。
[訳注]meme=文化の伝達や複製の基本単位。リチャード・ドーキンスが提唱。人間の文化も遺伝子と同様に受け継がれ進化するという考えに基づく。(広辞苑)

「たぶん1年ほどの間だったが、ぼくの進化は加速的に進んだ」と、彼はいった。

先週末のシャーロッツヴィルにおける右翼結集(Unite the Right)集会は、数十名の負傷、車にはねられた一女性の死、大統領がまたもや巻き込まれたスキャンダル、アメリカの人種をめぐる自己分析の再度の全米的な発作という結果で終わったが、その集会は米国がこれまで知るかぎり、文字通りあるとあらゆる種類の白人国家主義者の集まりだった。クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan)構成員、スキンヘッド、ネオ・ナチスがいた。だが、それほど馴染みがなかったのは、このグループ、ウィリアム・フィアーズの集団だった。

金曜日夜の解放公園行進の松明〔たいまつ〕に火を付けたイメージは、ファイアーズの同類の――こざっぱりして、破廉恥、若い――非常に若い特質を明らかにした。彼らは、オルタナ右翼の彼らが練り歩いていた大学の学生だとほとんど見受けられるほどだった。

シャーロッツヴィルにて812日、白人国家主義者集会に対する抗議行動の渦中、人間一人が殺害され、19名が傷害された。街が暴力の現場になった様相を映像で示す。(Video: Elyse Samuels, Zoeann Murphy/Photo: Evelyn Hockstein/The Washington Post)


彼らは何者だったのだろう? かなり短い彼らの人生の何が、集会に参加するために無理にでも国土を横断してドライブしなければならないと思わせるほどの悲嘆を与えたのだろうか? どうなっているのだろう?

[憤激に駆られたネオ・ナチのシャーロッツヴィルへの旅]

その答えは複雑多岐にわたっており、一人ひとり違っているが、シャーロッツヴィルの集会場まで数百マイルの道をドライブした、年齢21歳から35歳までの若者6名に対する長々とした面接取材にもとづけば、やはり類似性はある。彼ら男たちにとって、面白半分どころの話ではなかった。一部の者にとっては数か月かけて、他の者にとっては数年かけて、溜まりに溜まりつづけた何かだった。この軌跡には転機があり、シャーロッツヴィルの街路に立ち、オンライン・アヴァターの匿名性の束縛を断ち切り、世界に顔を見せるまで、そのひとつひとつの転機が彼らを鍛えたのである。

すべての道はシャーロッツヴィルに通じる

ひとりの男は、ニューオーリンズから965マイルの旅をしてきた。もうひとりは、ペンシルヴェニア州ハリスバーグ――247マイルかなた――から到着した。もうひとりは、オースティン――1,404マイルかなた――から夜を徹して丸々20時間以上のドライブをした。さらにもうひとりは、オハイオ州デイトン――442マイルかなた――から旅してきた。

35歳にして、「最初のオルタナ右翼」を自称するマシュー・パロットは、多くの者たちが、白人至上主義、ユダヤ人排斥の信念を広言し、白人だけの民族国家を志向する過激保守主義の小規模で分散的な運動に言及しており、その彼にとって、インディアナ州パオリの自宅からシャーロッツヴィルまで540マイルの道は、一昔以上も前に始まっていた。

パロットは人付き合いが苦手で、15歳のときにアスペルガー症候群を診断されていた。そこで、家族は金を出し合い、インターネット接続付きコンピュータ――トレーラーハウス居住地区では希少品――を彼に買い与え、彼はそれを「俺のベッドルームにある秘密の扉(ポータル)」と見るようになった。彼はチャットルームで常に反対側の立場に立って、知能戦の味を覚え、いかにして進歩主義を論破するか、その方法に固執し、ついには彼のいうように「自己過激化で終わった」。

彼がいうに、その過激化は彼自身の疎外感に根ざしており、インディアナ大学に進学して、エリートに相対したときに、それが深まり、まもなくエリートを見下すようになった。パロットは、「連中は俺のアクセントと出歯をからかい、俺を、白人の屑、田舎者呼ばわりしたんだ。仲間付き合いできるやつは誰一人としていなかった」と話した。

「最初のオルタナ右翼」を自称するマシュー・パロット(35歳)はインディアナ州パオリからシャーロッツヴィルまで540マイルの道をドライブしてきた。彼は、「俺はもっと攻撃的にならなきゃ」といった。(AJ Mast/For The Washington Post)
彼は最初の学期を終えると退学し、23歳のとき、セントルイスを拠点とする白人国家主義団体、保守市民評議会の全国会議に行くまで、幻滅感で苦しんでいた。白人至上主義のかつての姿と現状を比較したのは、この時だったと彼は考えている。老いぼれたちが「俺に『お前は誰の孫なんだ?』と訊ねたとき、俺は室内で一番若かった。連中は耄碌していた……そしていま、連中はあまりにも弱々しくなって、いま何が起こっているのか理解できない」と、彼はいった。

何が起こっていたか。かつてパロットの人生を規定していたのと同じ疎外感と目的欠如意識が他の多くの者たちの人生を特徴づけるようになっていた。経済が転覆し、求人市場が縮小し、学生ローン危機が勃発し、パロットの世代の一部のあいだに恨みと被虐感情が根付いていた。

白人国家主義者団体、伝統主義青年ネットワークをほどなく設立し、リクルート活動をはじめたパロットは、「これは仮説的な存在の類ではない。工場仕事がなく、成長経済がなくなり、わが国が屈辱的な劣化サービス経済を抱えているいま、『俺はマクドナルド労働に嵌め込まれている』ということなのだ……彼らはハシゴを蹴っ飛ばされたと感じている」と語った。

では、こうした状況全体の責任を非難されるのは誰なのか? オルタナ右翼の参加者たちは、非人格的な経済要因や彼ら自身の失敗を元凶だとは見ていない。

南部貧困法律センターのライアン・レンツは、「いくつかの点で、それはイスラム過激主義者のそれとそれほど違っていません」という。同じような条件の組み合わせ――不満を抱える若い男たち、仕事の不足、答を約束する過激イデオロギー――が、オルタナ右翼運動のリクルート活動を煽っている。彼ら若者たちは「露骨な請求書付きで商品を売りつけられている。政府は君たちに反する仕事をしており、白人にはクソひとつくれないと説かれており、最初のアフリカ系アメリカ人大統領のホワイトハウス在任期間中、こう言われていたのです」と、レンツは述べた。

面接取材を受けた若い男たちの全員に、白人、とりわけ白人男性が差別の対象になったと感じた瞬間、彼らの新しいアイデンティティの基盤を形成した知覚が訪れた。

ルイジアナ州メテリ―のペイトン・オウブレ(21歳)は、高等学校を卒業し、仕事を探しているときにそれを受け取った。失業中のオウブレは、「ぼくの住んでるところでは、マクドナルドやウォルマートのどこに行っても、たいがいの従業員は黒人なんだ。500回は応募したが、電話一本かかってこなかった。ウォルマートに行くたび、白人はいなくて、彼らが雇われ、ぼくが雇われないとは、どうしたことだ」と話した。

「白人特権、ぼくはいまだに白人特権を当てにしている」と、彼はいった。

オハイオ州デイトンのトニー・ホヴァター(29歳)には、カレッジをドロップ・アウトして、メタル・バンドのドラマーとしてツアーしているとき、ラスト・ベルト[中西部の鉄鋼業衰退地域]とアパラチア山地の町まちを通過しているさいに、それが訪れた。これほど多くの米国民物語が貧しい都市少数民族の苦境を中心に語っているにしても、ここに見たこともない貧困が存在しているのに、だれも貧困白人について語っていないと考えはじめた。「体制全体が一群の人びとを見捨て、なんの責任も取らず、なんの救済策も実施していないありさまが分かるでしょ」と、彼はいった。

テキサス州オースティンの中流上層家庭で育ったコーナー・ペリンの場合、それは、カレッジ在学中、白人だからという理由で、キャンパスのリベラル派が自分の男子学生友愛会を排斥していると感じたときだった。彼は、「連中がわれわれを攻撃することを止めさえすれば、白人だという理由で、わたしはなにも言えません。わたしは人種を語ることができないし、わたしが反ユダヤ人派呼ばわりされているという理由で、ユダヤ人について話すことはできないし、わたしは自分の人種の女とデートしたいと言えません」といった。

ペンシルヴェニア州ハリスバーグのエリク・スター(31歳)の場合、喧嘩による秩序紊乱行為および製造と配布の意図のある[違法物]所持で有罪判決を受けており、貧しい黒人の近隣社会のなかで白人意識が育った。彼は、「俺はいじめられ、俺はおもちゃにされ、俺はぶん殴られた。白人野郎、白ンボ、白人坊や」といった。

そして、ウィリアム・フィアーズの場合、不法侵入罪、加重誘拐罪、規制物質所持罪の判決を受けており、収監中にそれが起こった。「ぼくが思うに、いかなる人種であっても、この現代世界で、白人が監獄で経験するような形で人種差別を経験する者はいない。監獄では、白人が最後なのだ」と、彼は語った。

これら――富裕と貧困、田舎と都会、学歴と無学といった――異種の地理、社会階級、養育環境から、彼らは先週末、自分たち白人は現代アメリカの本物の犠牲者だという信念を共有しつつ、同一の場所、シャーロッツヴィルに集合した。

戦闘準備完了

「わたしは戦いの渦中にいたかった」と、ペリンはいった。

「俺はもっと攻撃的にならなきゃ」と、パロットはいった。

「ぼくらは何かのために戦ったことはなかった」と、フィアーズはいった。

彼らが絵のように美しい大学町の街路で振るったり受けたりした暴力は、オルタナ右翼の進化において今日までで最も重要な瞬間のできごとだったと、インタビュウ対象の男たちは信じている。オルタナ右翼は常に拡散的な運動であってきたが、同時に極めて共同参画的なものでもあってきた。人びとはトランプ大統領を賛美するミームを作成して共有し、ヒトラーとホロコーストをからかう。彼らは、4chanRedditDiscordといったサイトでイベントについて議論する。彼らは数百マイルの距離を超えて互いに知り合う。彼らはレイシスト(人種差別主義者)やナチと名指されることを恐れないようになって、また実際、彼らの一部はそのような呼び名が自己を解放すると気づき、パロットがいうように、「病みつきになる」と悟りさえした。

しかし、シャーロッツヴィルは彼らのいう制約的な社会的タブーなるものをさらに超越する機会を提示した。多くの者は、青いビジネススーツ、ヘルメット、ガスマスク、ゴーグルを着用したフィアーズのように、暴力の用意をして来た。彼は他のオルタナ右翼メンバーのグループと一緒にワゴン車に乗っており、それを「戦場に移送されている」と表現した。彼はワゴン車の窓でボトル類が破裂したことを憶えている。人びとはワゴン車を叩いた。車は解放公園の手前で停まり、できるだけ速く降りろと皆が叫びだした。フィアーズは旗を武器のように掴み、前線に大股で向かい、乱闘に没入した。彼はパンチを放った。パンチをくらった。嫌悪を感じた。「誰かが棒でぼくの頭を叩いた。その一撃でぼくのゴーグルが割れ落ちた」と、彼はいった。

スターは、カウンター抗議者たちのことを「小さな蛮人」といった。

ペリンは、「人間の劣等種」といった。

その日のシャーロッツヴィルで、ヒーザー・ヘイアーを殺害し、他の19名を傷害した車の突っ込みに繋がった一連のできごとも、それを受けて、全米の政治家や国民から発せられた糾弾の声も、面接取材の対象者らに自分たちの信念は間違っていると納得させることはできなかった。一部の者たちにとっては、犠牲者意識を固めさせただけだった。彼らは、口を封じられ、監視され、自分たちの権利を剥奪されたと感じた。あたかもヘイアーの死がすべてを変えてしまい、制御の利かない力が解き放たられてしまったと感じた。

フィアーズは、「まるで戦争みたいで、誰かが死亡し、気味悪い感じだった。今や生きるか死ぬかの問題であり、この運動に関わっていたら、今ではそのために死ぬ覚悟をしなきゃなんなくて、こんなこと初めてだ」といった。

フィアーズはヒューストンで建設作業員の仕事をしており、自宅に戻るため、集会が終わるとすぐに長い旅に出立した。彼は家族に話し、「自分の言うことは、とてもよく分かってもらえた」。弟が「動揺していた」ので、宥めようとした。自分が死ねば、どうなるだろうかと考えた。「殺されるとしても、構わない。ぼくはたぶん殉死者かなにかになり、あるいは記憶に残るだろう」と、彼はいった。

彼は、まもなく「黒人の命が大事」(Black Lives Matter)のイベントがまたもや挙行されることを知っており、行くための計画がある。彼は、「ぼくはメガフォンを持っていって、連中が何を言い出すか見てやる。これ以上の暴力沙汰にならなきゃいいとは思う……だけど、避けられないかもしれないし、暴力に構わず、行くしかない。暴力的な人種間戦争になるとしたら、やるべきだし、たぶん戦争を拡大するしかない」といった。

Alice Crites contributed to this report.

【記者】
Terrence McCoy
テレンス・マッコイは、貧困、不平等、社会的公正を担当。社会問題の解決策についても併せて執筆。

【クレジット】

The Washington Post, “The road to hate: For six young men, Charlottesville is only the beginning,” by Terrence McCoy, posted on August 19, 2017 at;

【関連記事】

2017817日木曜日
NYデイリーニュース【ルポ報道】シャーロッツヴィルの惨劇

ヴァージニア州の学生街で812日の土曜日、白人至上主義者の集会に抗議して集まった人びとにネオナチの車が突進、32歳の女性を殺し、他にも少なくとも19人を負傷させた。

ヴァージニア州シャーロッツヴィルで812日(土)、車を運転し、カウンター抗議グループに突入した容疑で警察に逮捕されたジェイムズ・フィールズ・ジュニア。
(アルベマーロ郡シャーロッツヴィル地方拘置所)

「右翼結集」集会を追いかける集団に車が故意に突入し、抗議者らが負傷。

夕刻になって、乱闘を監視していた州警ヘリコプターが数マイル離れた場所で墜落――当局によれば、乗員2名が死亡――シャーロッツヴィルの流血は、なお一層のこと悲劇的になった。

殺戮〔さつりく〕は、数百人の白人国家主義者らがヴァージニア大学の本拠地に集合――そして暴力沙汰の勃発につながり、知事が非常事態を宣言――した混乱の24時間のうちに発生した。


0 件のコメント:

コメントを投稿