2012年5月25日金曜日

ナガサキ報道の発禁処分と御用ジャーナリズム~放射線リスク報道管制の源流


昨夜(5月24日)、福島市で開催された「矢ヶ崎克馬・守田敏也ジョイント講演会」の終了後、矢ヶ崎先生と放射線影響研究所RR4-11報告についてお話ししたとき、放影研の前身、アメリカ原爆傷害調査委員会(ABCC)による放射線健康リスクの隠蔽が話題になりました。
福島原発事故後のいま、山下俊一らが福島県で行なっている悪業は、ABCCのそれをそのまま引き継いでいるかのようです。そして、こと放射能被曝の真実に関して、福島県はまるで報道管制のもとにあるかのようです。
そのようなことを考えていると、昔、TUP(平和をめざす翻訳者たち)速報に投稿した記事を思いだしました。長崎原爆による放射線障害の真実を伝えるジャーナリストは糾弾されたり発禁処分の憂き目にあったりする一方、御用記者はピュリッツアー賞に輝く。アメリカ軍部が主導した原爆報道管制が、現在の原発事故報道管制の源流になっているようです。
では、2005年に公表した翻訳記事を、ほんの少しの推敲を加えるだけで再録してみましょう。なお、Japan Focusサイトの原文は見当たらないようなので、Yale Global Onlineの次の記事を原典としておきます――

Nagasaki 1945: While Independents Were Scorned, Embed Won Pulitzer



マーク・セルデ
「長崎1945年:検閲とピュリッツアー賞」TUP速報525
これまで米軍による検閲のために隠されていた被爆1か月後の長崎の被害状況を伝えるルポルタージュ記事が、広島・長崎原爆60周年に間に合わせたかのように、物故した当の米人記者の子息の手で発見されました。この記事は毎日新聞によって翻訳され、その翻訳文が阿修羅サイトに保存されています[本文中の訳注参照]
日本関連の情報を英語で発信するジャパン・フォーカス・サイトの代表世話人、マーク・セルデン氏が、この新発見の記事を素材にして、当時の原爆報道を振り返ります。
井上
☆60年目に日の目を見た原爆報道★
長崎1945年: 検閲とピュリッツアー賞
60年目に新発見の没記事が原爆報道の裏表を明るみに
Japan Focus
――マーク・セルデン
ジャパン・フォーカス 2005年7月14日
広島、長崎の原爆投下から60年たって、シカゴ・デイリーニュース紙記者、ジョージ・ウェラーの特派記事が発見され、米軍による検閲のベールの陰に隠されていた、死に至る放射線障害に関する――この言葉が日常語になる前――最初期の報道の一端が再浮上した。
ウェラーは、米軍の検問をすりぬけて、手漕ぎ舟と列車を乗り継ぎ、長崎に到着し、破壊状況や米兵捕虜の運命、そして謎の“疾病X”、すなわち放射線障害の実状を記録した。だが、占領当局の承認を受けるために記事と写真を提出したところ――今年になって、彼の子息が特派記事の原稿を発見し、公開するまで――検閲機関に差し止められたままになってしまった。
この記事再発見は、オーストラリア人従軍記者、ウィルフレッド・バーチェットによる広島に関する最も有名な初期の報道と実に興味深い対照をなす。
太平洋戦争が終結した時、報道連合の取材陣全員が米艦ミズーリ甲板上でおこなわれた日本の降伏式典[1945年9月2日]に焦点を合わせていたし、米軍は、記者たちを東京に留め置き、原爆攻撃を受けた二つの都市から遠ざけようとしていたが、9月2日、バーチェットは米軍の警戒態勢をすりぬけ、広島行き20時間行程の列車に乗りこんだ。
バーチェットは、被爆後の惨状のただなか、コンクリート・ブロックを椅子代わりにして、ベイビー・エルメス[携帯タイプライター]で速報を書き起こした。「最初の原爆が都市を破壊し、世界を揺るがしてから30日たった広島で、人びとは――天変地異を無傷で潜りぬけたというのに、記者が原爆病と書くしかない未知の何らかの原因のために――謎と恐怖のうちにいまだに死につづけていた」
長崎1945年:
原爆投下後30日たって、人びとはいまだに
謎と恐怖のうちにしに死に続けていた。
バーチェットはこう続ける――「広島は被爆都市には見えない。まるで怪物スティームローラーが転圧して、都市の存在そのものを押しつぶしてしまったかのようだ。記者はこれらの事実が世界に対する警告として伝わることを願って、できるだけ感情を加えずに記している」
カメラは没収されたが、テレックス発信の差し止めに失敗した検閲官たちをまんまと出し抜き、バーチェットは世界にスクープを放った。爆心地から送られた最初の記事は、1945年9月5日付けロンドン・デイリーエクスプレス紙にトップ全段抜きの大見出しで掲載され、原子爆弾の最も謎めいた恐ろしい影響である放射線について世界に伝えた。
この報道によって被害抑制措置の必要性に迫られた米国は、民間の死傷者数を過少に見積もった公式談話を再確認する方針を採り、死を招く放射線と長期にわたるその影響についての報告を全面的に否定し、記者は日本人の宣伝に引っ掛かっていると批判した。
広島の医師たちは、放射線障害の主な症状についてバーチェットに説明し、治療を試みるにしても、自分たち医者はまったく無力であると語った。「火傷に対して、まず一般の症例と同じような治療を施したのですが、患者たちは衰弱するばかりであり、死んでいきました。それに続いて、なかには爆弾が破裂したときに市内にいなかった人たちさえもいたのですが、身体に火傷が見当たらなくても発病し、亡くなりました。食欲不振になり、毛髪が抜け、身体に蒼白斑が生じ、鼻、口、眼からの出血が始まりました……どんな症例でも、患者は死にます……私たちには手の施しようがありません」
バーチェットの記事が現れてから4日後には、マンハッタン計画の最高指揮官、レスリー・グローブス少将[*]が、事実関係を明らかにするとして、報道記者30名をニューメキシコに招いた。ニューヨーク・タイムズの科学記者、ウィリアム・L・ ロウレンスは、3月にグローヴスにスカウトされ、ペンタゴンお抱え記者になっていた。彼は米国内でトリニティ実験を視察し、米空軍機から長崎の原爆投下を目撃した。ロウレンスは、長崎の壊滅を回顧して、「死のうとしている卑しい悪魔を哀れんだり、同情したりする者がいるだろうか?パール・ハーバーやバターン半島の死の行進を思えば、できることではない」と言った。ロウレンスは「核時代」という言葉を造語した人物であるが、原爆に関する米国の公式発言の大半を執筆し、ニューヨーク・タイムズ紙で原爆を主題にした10回の連載記事を発表し、原爆による破壊や放射線の危険性を矮小化し、米国の技術の勝利を祝福した。最も重大なことに、ロウレンスは、死を招く放射線の影響を否定するグローヴスの言葉を忠実に繰り返した。
9月12日付けニューヨーク・タイムズ紙はロウレンスの記事にこういう見出しをつけた――「米国の原子爆弾実験場、東京の作り話の嘘を暴く――ニューメキシコ射爆場の実験、放射線ではなく爆風が殺傷と実証」。記事は、「爆発の翌日以降にも放射線が死亡原因になっているとする日本の宣伝」に対するあからさまな攻撃をもって書き出されていた。この記事や、技術的達成を賞賛し、原子爆弾に関連する死を過小評価する、その他の報道によって、ロウレンスはピュリッツアー賞を獲得した。これは、今日の言葉で言う丸抱えジャーナリズムに与えられた、この上なく手厚い、ご褒美の最初のころの例である。
NYタイムズのロウレンス記事(出処pdf
ウェラーの記事は、そのカーボン・コピーが、同記者が95歳で亡くなってから2年後の2004年、彼の子息、アンソニー・ウェラーによってローマのアパートで発見され、2005年6月、毎日新聞が日本語と英語の連載記事にまとめ、紙面とオンライン[*]で公表したが、やはり不安を掻き立てる読み物になっている。だが、ウェラーが下した結論はバーチェットのものとは著しく異なっている。
[以下本文中のウェラー記事引用は毎日新聞翻訳版による。
同紙記事オンライン版はすでに削除されているが、阿修羅サイトに転載あり――

「長崎原爆ルポ:ジョージ・ウェラー記者原稿全文」
その1. http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/372.html
その2. http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/371.html
その3. http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/370.html
「長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 検閲で没収」[毎日新聞・國枝すみれ記者]       http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/369.html
投稿者:彗星 2005年6月19日
バーチェットが核戦争の危険性を警告し、米国による原爆攻撃に対して不穏な疑念を表明していたのに対し、ウェラーは、二つの都市を原子爆弾で破壊する決定には何も間違ったところがないと、米国の免責を忠実に支持した。彼の第1信の書き出しはこうだった――「原子爆弾は無差別に使用可能な兵器として分類されるかもしれないが、長崎への投下は選別された妥当なもので、これほどの巨大な威力が予想されていたにしては十分慈悲深いものだった」。
ウェラーは、次のように書いて、米国は軍事目標を攻撃したとするトルーマンの主張を繰り返した――「死の兵器工場の中に工作員が忍び込んだとしても、手で原爆を綿密に仕掛けることはできなかっただろう……」。これは、広島でもそうだが、長崎で、民間人死者数を可能なかぎり最大にすることを狙って、爆心地点が綿密に定められていたという事実を無視した断定だった。
ウェラーは、原子爆弾は他のどんな爆弾とも同じであると主張した――「原爆はすさまじいものであるという印象が増していく。しかし、特別な兵器ではない。日本人は米国のラジオから、地面には極めて有害な放射能が残っているという説明を聞いている。ただ、肉の腐敗臭がいまだに強烈な廃墟の只中を数時間歩くと、記者も吐き気をもよおすが、やけどや衰弱の兆候はない。この爆弾が、これまでよりせん光が広がり強力な破壊力を持っていることを除いて、ここ長崎では誰もまだこの爆弾が他のどの爆弾とも異なるという証拠は見つからない」。ウェラーが長崎を歩きまわったのは、原爆投下の直後ではなく、放射線の影響が減衰していた1か月後のことであり、これが彼に幸いしたのだ。
それでも、ウェラーもまた、おそらくは彼の意に反して、疾病Xの症状特有の恐怖に気づくようになった。「原子爆弾に特有の“疾病”は、治療されていないので治癒せず、診断されていないので治療されていないが、今でもここにいる人びとの生命を奪っている。外傷のない男たち、女たち、子どもたちが病院で日ごとに死んでいる……」[*] それでもウェラーは、原爆は「これまでよりせん光が広がり強力な破壊力を持っていることを除いて、他のどの爆弾とも異ならない」と主張する。
[この引用部分は、前掲出所に見当たらないので、本稿訳者による翻訳]
ウェラーは、他の面でも原爆被害の過小評価を試み、長崎の死者数を2万人とし、短期間のうちに4000人の死亡がさらに予想されると報じた。今日、私たちが知る事実として、原爆は、1945年末までに広島で14万人、長崎で7万人の生命を奪い、他の人びとも放射線の長引く影響を背負いつつ生き延びることになった。
真実を語る:
オーストラリア人バーチェット(左)とアメリカ人ウェラー(右)
前者は糾弾、後者は発禁
60年前、二人の報道記者が米軍の検閲体制を出し抜き、広島と長崎に与えた原爆の衝撃に関する説得力のある記事をものにした。そのうちの一方、バーチェットは世界に向けて事実を語り、原爆犠牲者に対する放射線の影響という真実を否認する米国の公的姿勢を暴露した。他方のウェラーもまた、原爆特有の性質を頑なに否定しながらも、爆風と炎によるだけでなく、放射線による致死的な被害について報告した。検閲のために長く日の目を見なかったウェラーの記事を、今日でも一読に値するものにしているのは、原爆の影響についての彼なりの実況報告であり、民間人攻撃の擁護と放射線特有の影響の矮小化の原因になった条件反射的な愛国心ではなかった。そして、おそらくこのことが、この記事が、長崎に対する原爆投下を熱烈に擁護していたにもかかわらず、米軍検閲官たちによって公表を禁じられた理由を説明するだろう。
[筆者]マーク・セルデン(Mark Selden)は、ジャパン・フォーカス世話人。著書のひとつに(キョウコ・セルデンと共著)"The Atomic Bomb:Voices From Hiroshima and Nagasaki"[『原子爆弾――広島、長崎からの声』]がある。本稿は、イェール大学グローバル・オンライン掲載記事に少しばかり加筆。 

[原文]
Nagasaki 1945: While Independents Were Scorned, Embed Won Pulitzer By Mark Selden, posted at Japan Focus on July 14, 2005.

Copyright 2005 Mark Selden
TUP配信許諾済み
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[翻訳]井上利男 /TUP


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