2016年2月18日木曜日

【世界の潮流】ウラニウム鉱山・精錬所の元労働者たちの境遇 @inthesetimesmag

WITH LIBERTY AND JUSTICE FOR ALL…
「このご時世」、万民に自由と正義を…


1980年ごろ、ウラニウム鉱を掘削するニューメキシコ州チャーチ・ロック鉱山の鉱夫。 (Courtesy Post '71 Uranium Workers Committee)

FEATURES » 2016215

ウラニウム鉱山・精錬所の労働者たちは死んでいくが、だれも責任を取らない
Uranium Mine and Mill Workers are Dying, and Nobody Will Take Responsibility
南西部では、ウラニウムの毒にやられた労働者たちが正義を求めている

ジョセフ・ソレンティーノ JOSEPH SORRENTINO

「放射能、ウラニウムやラドンの危険性について、だれもわたしたちに教えてくれませんでした」。ポスト1971年調査で質問を受けた労働者の79パーセントは、安全対策――情報提供、装備など――が不十分と信じていた。
"No one told us of the hazards of radiation, uranium or radon." Seventy-nine percent of the workers questioned in the Post '71 survey believed that safety measures—including information and equipment—were inadequate.

元ウラニウム鉱夫らやその家族と話をすれば、死者や死について語りあうことになる。兄弟や姉妹、仕事仲間や友人たち――名前と病名が延々と出てくる。ある労働者のことばを借りれば、「癌に食われた」者も大勢いたし、さまざまな肺や腎臓の病気で死んだ人たちもいた。元労働者たちが自分の病気について語れば、口にはされなくても、彼らもまた死ぬのだということが明らかである。病気に命を奪われるのを待たない人たちもいる――ある労働者が、肺を病み、ホスピスに収容されようとしていた義理の兄弟について、「彼は哀れにも、おむつはまっぴらだというのです」といった。「彼は銃を手に取り、自殺しました」。

鉱山や精錬所で働いていた女性たちもまた、生殖障害や異常のある新生児を出産するリスクを抱えていた。「(監督たちは)わたしに言ったのです…仕事ができるようなら、赤ん坊を心配する理由がない、って」と、リンダ・エヴァース(57歳)はいう。彼女の二人の子どもたちは先天性異常を抱えている。娘は臀部を欠いて生まれた。

1970年代にウラニウム精錬所で働いていたリンダ・エヴァースは、「彼らは毎日、君たちは冷戦遂行のお役に立っているんだとわたしたちに言い聞かせていました」という。 (Photograph by Joseph Sorrentino)

筆者は、ニューメキシコ州の町、1950年代中ごろから1980年代はじめにウラニウム採掘のグラウンド・ゼロだったグランツとチャーチ・ロックで1週間かけて、元ウラニウム労働者(鉱山や精錬所、時にはその両方で働いていた人たち)に取材した。鉱山や精錬所で労働してから数年後、時には数十年後、労働者にウラニウム被曝にともなう病状が現れた。連邦政府は放射線被曝賠償法(Radiation Exposure Compensation Act: RECA)に規定された措置として、ウラニウム労働者による8,000件近くの申し立てに応じて、75000万ドル[855億円]あまりの賠償金を支払った。だが、労働者たちが賠償金を受け取るためには、連邦政府が核兵器増強のためのウラニウム購入を打ち切った1972年の前に雇用されていなければならなかった。筆者が取材した労働者たちは、19711231日の後にウラニウムの鉱山か精錬所で働いていた数千人の集団の一部であり、ウラニウム被曝にともなう病気にかかっているが、現時点でRECA賠償金を受領することができていない。

元労働者らの配偶者たちも、鉱山や精錬所に足を一歩も踏み入れたことがなくても、やはり健康への悪影響で苦しんでいる。リンダ・エヴァースが仲間たちと立ち上げた支援組織、ポスト71ウラニウム労働者委員会(The Post ’71 Uranium Workers Committee)が元ウラニウム労働者らの妻421人を調査すると、その40パーセントが、流産や死産、あるいは先天性異常のある子どもの出産を報告していることが判明した。汚染の媒体のひとつは、鉱山から家に持ち帰る洗濯物だったのかもしれない。シプリアーノ・ルセロ(61歳)は、ウラニウムを毒物であるイエローケーキに加工するアナコンダ精錬所で働いていた。「(夫の服は)臭くて、黄色くなっており、いくらすすいでも、色が落ちず、黄色いままでした」と、ルセロの妻、リズはいい、「夫の服とわたしたちのものを一緒に洗濯していました」と付け加える。

リズは28歳のときに卵巣の腫瘍を診断され、摘出術を受けなければならなかった。医者がこれはウラニウムに関連していると告げたと彼女はいう。シプリアーノとリズはエヴァースとともに、ポスト71ウラニウム労働者委員会を設立した。

では、責任はだれに?

ウラニウム採掘は危険な仕事であると久しく知られてきた。ドイツのシュネーベルクでは、早くも1546年には、大勢のウラニウム鉱夫が肺疾患で死んでいると記録されていた。ウラニウム採掘と肺疾患を関連づける最初の科学的な報告が1879年にドイツで出版され、1913年には、その疾患が肺癌であると示された。1930年代と1940年代のさらに科学的な論文は、ウラニウム崩壊の副産物、ラドンと「ラドンの娘核種」が主原因であると示唆しているようだった。

だが、労働省の歴史学者によれば、冷戦期の核武装競走に駆られて、「ウラニウム鉱夫の健康に…ほとんど注意が払われないまま」、ウラニウム採掘がつづけられたという。

1950年のこと、ニューメキシコ州ヘイスタックの近郊で、アイルランド人・ナヴァホの混血で、パディ・マーティネズという名の羊飼いがウラニウム鉱石の黄色い岩を見つけた。この発見がフォー・コーナーズ(Four Corners:ニューメキシコ、アリゾナ、ユタ、コロラド4州の境界が接する一点)の鉱業ブームに火を点け、切実に求められていた就業機会を提供した。

「(男たちは)家族を養いたいと願っており、(採掘)会社が乗り出してきて、『やあ、君たちに高賃金を払うので、どっさり稼ぐんだ』と言ったのです」と、リズ・ルセロはいう。彼女とシプリアーノが1976年に結婚したとき、彼はガソリン・スタンドで時給3ドル85セントの仕事をしていた。彼は翌年、もっと稼ぐためにアナコンダ精錬所の職を得た。「必要があったのです。家族を養わなければなりませんでした」と、彼はいう。

会社はまた、愛国心で労働者を釣った。「彼らは毎日、君たちは冷戦遂行のお役に立っているんだとわたしたちに言い聞かせていました。『わが国は、君たちのおかげで冷戦に勝利した』というのです」と、リンダ・エヴァースはいう。

ブームが巻き起こると、グランツの町は「ウラニウムの世界首都」を宣言した。

エヴァースなどの労働者たちは、病気の兆候が発現するまで何年もかかったこともあって、ウラニウム被曝の危険性を理解していなかったという。「わたしが働いていたとき、だれも病気になっていませんでした」と、エヴァースはいう。

ウラニウム鉱山で働いていたナヴァホ人労働者の喫煙者は少なかったが、1960年代に彼らの肺癌率が上昇しはじめた。支援者たちと労働者たちは、連邦政府――1948年から1971年にかけてウラニウムの単一買い上げ先――に対して救済を要求した。テッド・ケネディ上院議員(民主党・マサチューセッツ州)が1979年、放射能被曝に起因する疾患について、ウラニウム労働者およびその他の者に賠償金を支払うとする最初の法案を提出したが、1990年にRECAが成立するまで、法制化されなかった。政府はRECAにもとづき、ウラニウム鉱夫らがこうむった被害を認定し、「国家を代表して」謝罪した。2000年の法案がRECAの対象者を、ウラニウム精錬所労働者、鉱石トラック運転手、地表鉱夫まで拡張した。肺癌、肺線維症、珪肺などの疾患にかかった労働者は、100,000ドルの倍賞を受け取る資格がある。だが、この法律は1972年の前に雇用された労働者を対象にしているだけである。

しかし、核発電のおかげで、フォー・コーナーズの鉱業ブームは継続した。1979年、世界市場におけるウラニウムの供給過剰が価格暴落を招いたとき、そのブームは鈍化し、レイオフがはじまった。1989年には、ニューメキシコ州の最後の既存ウラニウム鉱山が閉鎖された。

この記事の取材で面談した元労働者の12名全員が1971年の後に働いており、したがって、RECA賠償金を支給されていなかった。1983年まで鉱山で働いていたトミー・リードは、絶えまなく咳をし、皮膚と肺にも問題を抱えており、これは納得できないと考えている。「同じ仕事をし、同じ病気にかかって、わたしたちは補償されていないのです。これにどんな理屈があるのでしょう?」と、彼はいう。

アルバカーキーの南西部研究・情報センターのウラニウム影響アセスメント調査を指揮するクリス・シュエイによれば、政府はウラニウムの購入を打ち切った1971年に責任を終えたと判断したという。多くの連邦議会議員は、1969年に成立した放射線被曝に関する新基準がウラニウム労働者を守ったと信じていると、彼は付け加えた。それでも、1971年の後の労働者たちはやはり死んでいる。どこか実効性がなかったのだ。

規制の欠落

ウラニウム労働者の健康・安全防護は長年にわたり、よく言って気まぐれ、悪く言えば、怠慢だった。1910年に事故削減を掲げて設立された内務省鉱山局(The Department of the Interior’s Bureau of MinesBOM)は、規制権限をほとんど備えず、しかも「鉱物資源開発」の任務を与えられていた。州法はちぐはぐだった。たとえば、ニューメキシコ州が1958年、ラドンの安全レベルを超えた鉱山の「あらゆる区域を一掃する」方針を策定したが、ダグ・ブルージュとロブ・ゴーブルによる国立衛生研究所2002年論文によれば、「限定的にしか実施されなかった」という。

鉱山の安全性にかかわる連邦の職務分担は1970年代に二度組み替えられた。1973年に利益の衝突が懸念されたため、鉱業実施・安全管理局(The Mining Enforcement and Safety AdministrationMESA)がBOMの役割を引き継いだ。1978年には連邦鉱山安全衛生法による全面的改革の一環として、労働省の鉱山安全・衛生局(Mine Safety and Health AdministrationMSHA)がMESAの後を継いだ。MSHAはまた、ウラニウム精錬所の責任も担った。

MSHAのモットーは、「1978年以来、鉱夫の安全と健康を防護」である。取材相手の――全員、1970年代中ごろから1982年または1983年にかけて鉱山や精錬所で働いていた――元労働者らは、同局がすこぶる優れた仕事をしていたとは信じていない。

「核の責任を問うカナダ人連合」代表、ゴードン・エドワーズ博士によれば、ラドンは「知られているかぎり最も強力な発癌物質のひとつ」という。だが、連邦政府規制当局は1970年代を通じて、ウラニウム鉱山のラドン濃度を測定するための定期連邦査察を指示しなかった。MSHAと国立労働安全衛生研究所(BOMの責任の一部を引き継いだ機関)のどちらも「このご時世」(In These Times)の取材に対して、政府が当時、ラドン・レベルの検査を実施していたと実証することができなかった。企業がみずからモニターし、高レベルのラドンを検出した場合、安全対策を実行すると想定されていたのだ。

MSHA1981年になって、毎年、鉱山のラドン・レベルを検査するようになった。何人かの労働者がその検査を憶えているが、「このご時世」に対して、検査官らが訪問するとき、監督たちが労働者たちに危険区域をバリケードで遮断させていたと語った。検査官らが退去すると、バリケードが片づけられ、労働者たちは坑内の仕事場に戻った。精錬所では、「(検査官たちが)トラックから降りてきたことはありません。たぶん、降りていたのでしょうが、わたしは見たことがありません」と、エヴァースはいう。

ラドン被曝を削減する効果的な一方法は、換気である。すべての地下鉱山は良好に換気されているとされており、1973年の指針によれば、ウラニウム鉱山は特に、作業現場で「高品質で適正量の空気」を確保し、ラドン・レベルを閾値未満に保っていなければならないと謳われている。だが、ポスト71ウラニウム労働者委員会が2009年にポスト1971年労働者ら1,302名を対象にして実施した調査によれば、自分の作業現場は適切に換気されていたという趣旨の回答をしていたのは、14パーセントだけである。36パーセントは「いいえ」、半分近くが「時どき」と答えていた。

被曝の危険はウラニウム精錬所でも同様にあるにもかかわらず、換気指針はそこまで対象に拡げていなかった。ウラニウム鉱石は精錬所で精製されて、80ないし90パーセントの参加ウラニウムを含有するイエローケーキに加工される。それを吸入すると、肺に沈着し、肺線維症のリスクを増大させ、命取りになりかねない。摂食の場合、腎臓を傷めかねない。

シプリアーノ・ルセロは、1977年から1982年までウラニウム精錬所で働いていた。彼は肺線維症にかかっており、48歳のとき、腎臓のひとつがダメになり、移植を余儀なくされた。彼は夜間に持続的気道陽圧機を使用しており、日中は酸素ボンベを離せない。ルセロは、働いていた精錬所が適切に換気されていたかと質問されると、簡単明解に「全然」と答えた。リンダ・エヴァースは、精錬所の埃〔ほこり〕がひどくて、時にはなにも見えなかったという。「排気扇はありましたが、大きすぎる箱型扇風機に他ならない代物でした。(埃を)あちこち掻き回していただけです」。

「月に一度、防塵マスク、紙の防塵マスクを支給されていました」と、彼女はつづける。「一回の交代勤務で目詰りしてしまいますので、わたしたちはバンダナを使ったり、なにも着けなかったりしていました」。

ルセロがこう口を揃える――「マスクを使えましたが、役立たず…単なる紙製のマスクでした。時にはマスクすらなく、あの埃を吸いこんでいたのです」。労働者たちはしばしば咳きこんで、黒い煤〔すす〕を吐いた。ウラニウム相手の仕事の危険性に鑑みて、会社は放射線障害に関する集中訓練を実施すべきはずだったようである――が、我流の裁量で実施していただけだった。ルセロは、「1時間か2時間ほどの座学をしました。大半は応急処置について、負傷の場合、包帯するハウツーといった類です」と話した。放射線に関する講義はなかった。ラリー・キングは8年間にわたり、主に測量員として鉱山で働いていたが、安全集会は一度きりであり、就業初日だけだったと述べた。

「放射能、ウラニウムやラドンの危険性について、だれもわたしたちに教えてくれませんでした」。ポスト1971年調査で質問を受けた労働者の79パーセントは、安全対策――情報提供、装備など――が不十分と信じていた。

包囲されて

チャーチ・ロックは、グランツの西方55マイル、ナヴァホ・ネイションに位置している。町は赤い岩の丘陵地にあり、教会の尖塔のように見える景観から名付けられた。ナヴァホの地元民は、グランツの住民と同じように、賃金のいい仕事に惹かれて、鉱山に集まった。ナヴァホの鉱夫たちは自宅から徒歩通勤圏内で働いていたので、被曝リスクが高くなった。

ラリー・キングはナヴァホであり、「オールド・チャーチ・ロック鉱山道路」と手書きされた看板を過ぎてから砂利道を外れたあたり、チャーチ・ロック鉱山の入り口から約5マイルのところに住んでいる。鉱山で作業中に被曝した圧倒的に高い蓋然性に加えて、自宅でも被曝した、そしていまも被曝している可能性が強度にある。彼の家は、1979716日、鉱滓〔こうさい〕沈殿池のダムが決壊し、9300万ガロン[350,000立法メートル]の放射能汚染水が放出された事故の現場から近距離のところにある。これは量の点で、米国最大の放射能放出事故だった。

キングは壮健そうな風貌の58歳男性だが、呼吸器系の問題で苦しんでおり、倦怠感があって、畜牛13頭などを相手に農作業をしていると息切れがする。「数年前には大量の仕事をこなしていたものですが、いまは限定的にしかできません」と彼はこぼす。

キングの家から北に5マイル行くと、やはりナヴァホの元鉱山労働者であるエディス・フッドの家がある。彼女は合算して6年間、カー・マギー鉱山で探査技師の仕事をしていた。64歳の物静かな彼女は、2006年にリンパ腫と診断されたものの、いまもエネルギッシュである。フッド宅の前庭は、かつての職場、いまは廃鉱から半マイル足らずの距離にある。ほんの少し行けば、埋められた鉱滓――ウラニウムを含有し、いまだにラドンを放出している鉱山廃棄物――の集積場がある。「ここで暮らし、働いているのですから、ダブル・パンチです」と、彼女はいう。

待ちながら

2015年になって、3名のニューメキシコ州選出・民主党議員、上院のトム・ウダール、マーティン・ハインリック両議員、下院のベン・レイ・ルハン議員が先鋒役を務め、RECAを再編し、対象をポスト1971年労働者まで拡げる法案が上下両院に提出された。

これは2000年以来で4度目の企てである。キース・キリアンは、コロラド州グランド・ジャンクションの民間弁護士であり、ポスト1971年労働者の賠償金を獲得するために戦っており、「守りを固めた」楽観主義の理由を見ている。「党派を超えた支持者がいます。実に上等。かつては、大勢の共和党員に関心を持たせることができていませんでした」と、彼はいう。

それにしても、法案に関する公聴会は開かれていないし、スケジュールはなにも決まっていない。上院司法委員会の委員長、チャック・グラスリー(アイオワ州選出・共和党)、有力委員、パトリック・リーヒ(ヴァーモント州選出・民主党)、下院司法委員会の委員長、ボブ・グッドラットのいずれも、見解の求めに応じていない。

口数少なく穏やかな話しぶりの男性、シプリアーノ・ルセロは、鉱山で働いていたとき、指示されたように仕事していた。彼は、他の多くのウラニウム労働者と同じように、労働条件について不満を漏らせば、仕事を失うリスクがあったという。仕事のひとつとして、エアフィルターからウラニウムを洗い流すさい、ウラニウム流出液を含んだ足首の深さの水のなかに立っている必要があった。放射線被曝のために、左脚がもろくなったと医者が告げたと彼は話す。その脚は3度骨折し、やがて切断しなければならなくなった。彼はいま義足を装着しており、それに「グアダルーペの聖母」が描かれている。彼は歩行に困難があり、ふつう杖を使っているが、疲れがひどくなると電動車椅子を使う。

「ある日などは、ひどいものです。ようやくのことでベッドから起きるありさまです。死に様はどうなるだろうか…窒息するのだろうか、それとも他のなにかだろうかとばかり考えています」と彼はいう。彼はほんの61歳である。

鉱山と精錬所の両方で働いたことのあるジェリー・サンチェスは、「死に神はわたしたちを迎えに来ます。あそこで働いていたなら、訪れてくるのです。まだだとすれば、やがて訪れます」という。

グランツは、典型的なブームの町、ブームが去った後の町である。いま、最良の仕事は牢獄のなかにある。そのメインストリート、つまりルート66号通りに、居住建設物とほとんど同じ数の雑草がはびこる空き地が並んでいる。半マイルの通りにサラ金業の6社――1街区に4社――が出店している。いくつかの大型ネオンサインが、もはや存在していない建物に人びとを招いている。放置されたガソリン・スタンドの看板が、マールボド1パック$1.69と広告している。ルセロは、最盛期のグランツは「大勢の人たちで大賑わいでした…レストランは一日中、満席でしたし、人びとは車と家を買っていました」という。だが、いま通りはたいてい無人である。友人たちや家族は引っ越したのかと質問してみると、彼は「いいえ。たいがい癌で死にました」と答える。

【リサーチ協力者】

イーライ・マッシー(Eli Massey)が当記事のためのリサーチに協力。

【筆者】
ジョセフ・ソレンティーノは、作家・写真家。12年間にわたり、米国とメキシコの国境の両側で農業労働者の暮らしを記録。

【クレジット】

IN THESE DAYS, “Uranium Mine and Mill Workers are Dying, and Nobody Will Take Responsibility,” by Joseph Sorrentino, posted on February 15, 2016 at;

【地図】

ニューメキシコ州チャーチ・ロック


ニューメキシコ州グランツ


民医連サイトより

201131

ウラン鉱滓を土台や壁の建材に使ったナヴァホ族の住宅
米国南西部のニューメキシコ、コロラド、アリゾナ、ユタの四つの州にまたがる地域は「フォー・コーナーズ」と呼ばれている。

広島・長崎に投下された原爆の原料になったウランは、この地域から掘り出された。第二次世界大戦後、核開発に血道を上げたアメリカ政府と企業はこの地域 にウラン鉱山の開発ラッシュをもたらした。ここはアメリカ国内最大のウラン産地でもある。この地に住む先住インディアンは労働力として雇われていった。企業は労働者と環境への影響を考慮せず、その結果、広大な地域を汚染し住民の健康被害をもたらした。鉱山労働者の肺がん罹患率(病気にかかる率)は、先住民 ナヴァホ族平均の二八倍、子どもの骨がん罹患率も全国平均の五倍にもなっている。



ウィキペディアより…


1531129日、メキシコ・グアダルーペのインディオ、フアン・ディエゴの前に聖母が現れたとされる。聖母は、司教に聖母の大聖堂を建設する願いを伝えるよう求めた。ディエゴは病気の親類の助けを求めにいこうとしていたため、話しかけてくる聖母をふりきって走り去ろうとした。すると聖母は彼を制止し、親類の回復を告げた。ディエゴが戻った時、病気だった親類は癒されていた。聖母に司教へしるしとして花を持っていくよういわれたディエゴは、花をマントに包み、司教館に運んだ。司教館に花を届けた際、ディエゴのマントには聖母の姿が映し出されていた。

フアン・ディエゴは2002年に列聖された。また、彼が聖母を見たメキシコ市近郊のテペヤク(テペヤックとも)の丘には巨大なグアダルーペ寺院(英語版)(西: Basílica de Nuestra Señora de Guadalupe)が建てられた。


1537年、ローマ教皇パウルス3世は、インディオは理性ある人間として扱われるべきという回勅を発し、植民地におけるインディオへの迫害を禁じた。

0 件のコメント:

コメントを投稿