2012年8月13日月曜日

エッセイ「91年生きてきて」近藤幸男さん


私は1921年8月2日の生れだから、91年間この世に生きていることになる。ずいぶん長く生きてきたと思う。
軍隊も体験し戦場にも行ったのだから、苦しい、嫌な記憶も沢山あるのに、90歳を越えた昨年夏頃から、なぜか思い出すのは楽しい記憶ばかりとなった。「健康に老いている証拠」と思っていたが、今年の2月、突然、新しい転機が訪れ、俄かに心弾む日々を送るようになった。
郡山市の14名の小中学生が市を相手取って「放射能の低い安全な場所で勉強したいから学校ぐるみで疎開してください」と訴え、父母を代理人として裁判を闘っていることを知ったのだ。
〔ブログ管理人注:正確を期すと、申し立ての趣旨は「学校ぐるみの疎開」ではなく「申立人らに対する健康に安全な場所での教育の実施を求める仮処分」。しかし、これが認められれば、被抗告人・郡山市は結果的に集団疎開の実施を迫られることになる〕
チェルノブイリ原発事故のベラルーシで「移住義務ゾーン」とされる放射線量を超える放射能を、すでに1年以上浴びてきた郡山の小中学生や父母にとっては、この集団疎開の要求は当然すぎるほど当然の要求である。だが福島地裁郡山支部は「生命に危険」という証拠はない、と申し立てを却下。仙台高裁で上告審が闘われているという。これを知って私の凋んでいた正義感が俄かに膨れ上がり、破裂した。
都道に面した我が家の玄関前に「脱原発でふくしまの子を救おう!・集団疎開裁判の支持署名にご協力を!」と大書した長さ2間の大看板を立てた。羽村市のどんぐりやま公園での「3・11一周年記念集会」にも参加して署名を訴えた。同時に、慣れぬパソコンをいじりまわして集団疎開裁判を闘う原告団のホームページにもアクセスし、裁判記録や矢ヶ崎克馬琉球大学名誉教授をはじめとする多くの科学者の意見書などをプリントしては学んだ。そしてふくしまの放射能をめぐる裁判が、国内の「原子力ムラ」のみならず国際的な原発推進勢力を相手とする闘いであり、「原発はゼロに」を目指して急速に盛り上がっている全国民的大運動と一体化しつつあることを確信するに至った。
青梅・西多摩・東京の友人知人をはじめ、全国の歌人仲間が訴えに応えて寄せてくれた支持署名は1500筆を越えた。だがこうした活動は齢相応に老化していた体の方にしわ寄せが行っていたようである。6月末のある日の真夜中、腰から足に激痛が走り動けなくなって息子夫婦に助けを求める破目となった。それで7月は闘病しながらの活動となり、8月にはマヒした右足の甲に補装具をつけることになった。
だがまだ一人暮らしはなんとかやれるのだから、丈夫な体に生んでくれた父母に感謝しなければならないと思う半面、壮大な多数者革命の展望のもとに日々前進している日本共産党の一員として、まがりなりにも62年間、学び続けてきたことが今日の楽天的人生観の土台になっているような気がしている。(終)
近藤さん詠:

    難聴の脚萎えなれど空腹感あれば91歳まだ通過点
     
    麗しき大和島根と若きらを狩りにし末裔原発に拠るか
    
    美しきオリンピックの織りなしてゆく未来図はただに平和を
    
    聾なれど「原発なくせ!」と叫ぶなり「老人決死隊」われも一員

近藤さんのブログ:yukikonkondouの日記

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関連ブログ: ふくしま集団疎開裁判

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