以下の文章は、5月21日(土曜日)に早稲田の日本キリスト教会館で開催される5年連続集会『虹の彼方へ』第4回に小生が現場からの報告者として招かれましたので、主催者からの要請により、レジュメというより、自己紹介代わりにまとめた拙文にブログ掲載用として加筆し、イメージ画像を加えたものです。救援連絡センター機関紙『救援』第563号「お知らせ欄」…https://t.co/ZHrzN9wuwb pic.twitter.com/76kDhHPQKC— inoue toshio 子どもを守れ! (@yuima21c) 2016年5月16日
郡山通信
神話的現在を生きる
ぼくは若いころ、出身地の神戸の小さな商社でタイプライターを相手に仕事していたことがある。ロックやフォークのLP盤とコンポーネント・オーディオが全盛の時代であり、ボーナスをはたいて、ヤマハのスピーカー2本を7万円で購入し、ご満悦だった。
吐火羅列島の諏訪之瀬島――環太平洋火山帯と黒潮が織りなす野生の領域――に、当時の和製ヒッピーたちがコミューンを営み、島に自生するガジュマルの英名に因んで、バンヤン・アシュラムと称していた。
時あたかも1970年代、沖縄の施政権返還の背景に、自衛隊基地、石油基地、リゾート基地侵出の嵐が南の島々を襲い、全国的にも乱開発と地域住民闘争が角逐していた時代だった。ヤマハは、世界のヒッピーが巡礼する野生の聖地に目をつけ、リゾート開発を目論んだのである。
ヤマハ・ボイコット運動は、脱・体制(ドロップアウト)志向だったヒッピー運動の一部が「抗・体制」に向かう契機になり、ぼく個人としても、時代に疎外された主体性を取り戻す機会になった。
(現在は村に移管) |
和製ヒッピーのロック音楽は、しょせん蟷螂の斧……ヤマハは、港湾、滑走路、リゾートホテルを着々と整備した。だが、時代は変わる。折からの海外旅行ブーム到来とともに、ヤマハの国内リゾート開発は採算倒れに終わり、一時は滑走路に亜熱帯の草木が繁茂した。
枝手久島・鈍(ドン)の浜から反対派集落、平田と阿室を臨む(イラスト:山田塊也)
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そのころ、ぼくのヒッピー人生の先達、絵と詩、文が達者な山田塊也(通称、ポン:奇しくも東京電力核惨事の前年のチェルノブイリ記念日、2010年4月26日没)がインドから持ち帰った神話物語『ラーマヤナ』の細密画を見た。魔王ラーヴァナがラーマ王子の妃シーターを天翔ける戦車で誘拐するシーン。魔王の十面の顔は自己満足でほてり、十本の右手は武器を握り、十本の左手は金銀財宝を掴み持っている。四頭の天馬は、強力なエンジンさながらにエネルギッシュだが、目に狂気をたたえ、方向はバラバラ。畑の畝から生まれたシーターは、おそらく大地の娘。インド民衆が連綿と受け継いできたイマジネーション、その一幅の絵に託された世界観に感嘆し、ぼくの脳裏に権力者の正体が刻み込まれた。
東シナ海を前にして、浜辺に佇めば、沖合に紺碧の海原、サンゴ礁に砕ける白波、その内側に青く輝く広大な潮間帯。背後にアダンや蘇鉄の茂み、亜熱帯植生の息遣い。だが、珊瑚が砕けた白砂の浜に目を移すと、現代の寄りもの、夥しいプラスチックのゴミ。なかでも腹立たしいことに、志布志石油基地からアラビア湾に向かうタンカーのタンク洗浄で海洋投棄されたスラッジ粒子がどす黒く光るレース模様を白浜に描いている。沖合の海面下では米ソ両国原潜の艦長たちが超大国の威信を背負って、危険極まる鬼ごっこにふけっていることだろう。
2012年の夏だったか、霞が関の歩道を議員会館のひとつに向かって歩いていたとき、ぼくに話しかけてきた若い女性が、国会議事堂や官庁街、周りを見渡しながら、「まるでSFの世界を歩いているみたい」とつぶやいた。そう、彼女もこの世界の現実に気づいていたのだろう。
時代は変わる。石油基地誘致派と反対派の睨み合いが膠着しているうちに、石油をめぐる国際状況は危機から生産過剰に様変わりしてしまった。鹿児島県による焼内湾水質調査に対する阻止海上行動、無我利道場メンバーの漁協加盟権の確認を求める裁判など、闘争の山場はあったものの、さしたる衝突もなく、東亜燃料が撤退を表明するという、いわば不戦勝である。
大阪府立大学「MA-T計画と死の灰から生命を守る町民会議」PDF
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ところが1976年に突如、徳之島使用済み核燃料再処理工場計画、いわゆるMAT計画が浮上した。ポンは「ヤマハのピアノを叩いていたら、プルトニウムが飛び出した」といい、ぼくは黒潮にプルトニウムを点滴する悪夢を想像した。宇検村石油基地反対村民会議の若手中心人物はプルトニウム管理社会を夢に見たといった。その地獄とは、「青ざめた人たちがテーブルを囲み、グチグチと陰口や世間話にふけっている」光景だそうだ。
立派な立地調査報告書が流布したものの、MAT計画にさしたる進展はなかった。宇検村の政治状況が平穏化すると、退屈な日常生活が戻り、村当局者に尻尾を振る人たちが目につき始めた。リュック一つで一人入植したぼくは、ライトバンに世帯道具を詰め込み、つれあいと娘一人、飼猫一匹を道連れに、フェリーに乗り込むことになった。友人はぼくの北帰行を「政治難民の流浪」と評した。(なお、当時のぼくには予想外の展開だったが、ぼくたち家族が離村したあと、右翼「松魂塾」の実力部隊が宇検村久志地区に入りこみ、怪我人を出すなど、暴力的な無我利道場追放運動を起こした)
雪深い奥会津に居を定めたぼくは、これから平凡で地道な暮らしを築くのかと思っていた。だが、時代は容赦しない。いま思えば、1986年のチェルノブイリ核惨事が新たな転機になった。脱原発福島ネットワークとつながったことから、会津の地で反原発運動に加わることになった。
その7年前の1979年、スリーマイル・アイランド事故が勃発したときのこと、ぼくはたまたまミニコミ誌『魚里人(イザトンチュ)』印刷のために奄美から上京していた。
中嶌哲演師近影(出処:週刊金曜日「原告団長の意見陳述書(大飯原発差し止め控訴審)」)
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若き日のイケメン僧侶、中嶌哲演師(小浜市、明通寺)が通商産業省(当時)資源エネルギー庁のロビーでスリーマイル事故抗議行動の挨拶をしたさい、「五戒の第一戎『殺すなかれ』は、あなたが殺さないだけでは成就しません。『殺さしめるなかれ』、すなわち人の殺生を阻止してこそ成就します」と仏教者の覚悟を吐露した光景を今でもハッキリ憶えている。
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ブッシュのイラク戦争がはじまると、世界的な反戦機運に乗って、商社勤務の杵柄、社長が褒めた拙速主義の英語読解力を駆使し、海外情報や評論の翻訳をはじめ、これが、現在のブログとツイッターを媒体にした反核情報の収集・発信活動につながることになった。
2011年3月11日は転機の最後のダメ押しだった。バブル崩壊を機に花卉栽培を諦めて、奥会津から郡山市に移り、アルバイトをしていたぼくは、仕事を失い、公園の散歩や山歩き、スーパーに並ぶ生鮮食品の品定めなど、都会暮らしのさまざまな楽しみを根こそぎ奪われた。
ぼくたちが3月13日から10日間、北関東方面に緊急避難していたとき、郡山市民の大方はプルームが通り過ぎるなか、家族総出で公園給水所の長い列に並んでいたはずだ。
核のオロチ、利権国家と国際マフィアを前にして、徒手空拳の庶民では、なす術もないのかもしれない。わが街の主権者、市民は口を閉ざしているようだ。座談会の席で、子や孫たちを被曝から守れと訴えたいというぼくは、店を構えて四代目だという若手商店主に、「現在の放射能レベルは問題ないという専門家もいます。危険だという学者もいます。そのどちら側についても、あなたは『中立』でなくなってしまうじゃありませんか」と諭された。あるいはまた、郡山駅前で反原発バナーを広げている若い女性に中年男が寄ってきて、「オメー、どこに勤めているんだ」と凄む。目に見えない放射性粒子が舞う街の、「目に見えない」被曝地戒厳令の光景……
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「若いわたしはこころ惑い、愚かな森に踏み入った。ひもじい精神…お情けの乾いた飯にかじりつき、たまには小石も喰った、ざんげのつもり。時には、虚空自身にかみついた」(故・サカキ・ナナオの詩「I am a Yogin. ぼくのミラレパ」)。今の時代を生きるぼくにできるのは、森の暗がりに目を凝らすこと。自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の声で発信すること――このささやかな志が、週に一度だけでも街の広場に立ち、押し黙って行き交う郡山市民や旅行者たちに大声で訴えたいこと。
枝手久闘争がきっかけで交流があった先達アナーキスト、WRI(戦争抵抗者インターナショナル)日本部書記だった故・向井孝さんが発行していたミニコミ『イオム通信』の「イオム」とは、エスペラント語で「できるだけ、ちょっとだけ」の意だそうである。やがて、会津の山奥に住む孫たちに「郡山のジイチャンは大きな口を叩けないが、できるだけのことはやったよ」と言えるはずと思いながら、今週の金曜日も夕刻の駅頭に立つ。
「ニュースがお気に召さないようでしたら、あなたご自身で出ていって、ご自分のニュースをお創りになればよろしいのです」――1970年代、報道記者ウェス・ニスカーによるKTIMラジオ担当ニュース番組の降板挨拶(Rebecca Solnit, “Hope in the Dark“扉)
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