2014年4月3日木曜日

【国家安全保障ニュース・サービス】#核兵器 政策をめぐる日米裏交渉史~米国が法を曲げて、日本のプルトニウム大量蓄積を支援

核兵器政策をめぐる日米裏交渉史
米国が法を曲げて、日本のプルトニウム大量蓄積を支援
United States Circumvented Laws
To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium
ジョセフ・トレント Joseph Trento 201249
国家安全保障ニュース・サービス National Security News Service
もんじゅ高速増殖炉
米国が米国の最高機密である核兵器施設に対するアクセス権を意図的に日本に許し、またアメリカの納税者が負担した巨額の国税を費やした研究成果を移転して、日本が1980年代以降に70トンもの兵器級プルトニウムを抱えこむのを容認したことを国家安全保障ニュース・サービス(NSNS)による調査が明らかにした。こうした活動のため、日本の軍備計画に転用しうる細心の注意を払うべき核物質の統制に関連する米国法の侵犯が繰り返された。NSNSCIA報告を調査した結果、米国が1960年代以来、日本の秘密核武装計画について知っていたことがわかった。
レーガン大統領とブッシュ副大統領
米国機密技術の移転は、レーガン政権が100億ドル相当の原子炉の中国への売却を許可した時期に始まった。日本は、そのような細心の注意を払うべき技術が潜在的な核敵対国に売り渡されると抗議した。レーガン政権およびジョージ・HW・ブッシュ政権は、細心の注意を払うべき技術と核物質の日本移転を、そのような移転を阻む諸法や諸協定に反して容認した。米国エネルギー省のサバンナ・リバー施設およびハンフォード核兵器複合施設から高度に敏感なプルトニウム分離技術、さらに巨額資金の注ぎ込まれた増殖炉研究が、ほとんど拡散防護保障措置もなく日本に売り渡された。移転プロセスの一環として、日本の科学・技術者たちはハンフォード、サバンナ・リバー両所へのアクセス権を付与された。
日本は核兵器配備を手控え、米国による核の傘の下にとどまってきた一方で、NSNSは、同国が電気事業諸社を隠れ蓑に使って、中国、インド、パキスタン保有の核戦力を合計したものを凌駕する核戦力を構築しうる核兵器材料を抱えこみえたことを知ることになった。
この米国による意図的な核拡散は、元来の核兵器保有諸国が協定や国内法規に反して核拡散に務めているとする、イランなどの国ぐにの主張を煽りたてる。米国と同様、ロシア、フランス、英国は、自国の軍備複合施設を活用して、世界のあちこちに政府所有または助成産業といえる民間原子力産業を起こした。イスラエルは日本と同じように主たる受益国であり、日本と同様、1960年代以来、核武装能力を保持するにいたった。
1年前、天災が人災と複合して日本北部を大規模に破壊し、人口3000万の東京都市圏を危うく居住不可能にしてしまうまでの一歩手前に追いこんだ。核惨事は日本の現代史に悩みをもたらしている。日本は核兵器攻撃をこうむった世界唯一の国である。20113月、津波が沿岸域を一掃したあと、福島第1原発の原子炉3基の水素爆発とそれに次ぐメルトダウンによって、一帯に放射能が撒き散らされた。原発周辺の半径18マイル(30キロメートル)圏は居住不可とみなされている。これは国家的な犠牲地帯である。
2011年東北震災・津波後の福島第一原発
日本がこの核の悪夢という結末にいたった経緯は、国家安全保障ニュース・サービスが1991年から追及してきた主題である。われわれは日本が二重目的の核開発計画を保持していたことを知った。表向きの計画は、国家のために無限のエネルギーを開発・供給することだった。だが、秘められた要素、すなわち公表後速やかに日本が核武装大国になりうるだけの核物質および技術を蓄積するための公表されない核兵器開発計画があったのだ。
原子力開発計画は、2011311日――地震と津波が福島第1原発を打ち壊した、その当日――までに70トンのプルトニウムを蓄積したが、その秘められた営為は隠されていた。秘密の核兵器開発計画と同じく、日本は平和目的の宇宙探査計画を高機能の核兵器運搬システム開発の隠れ蓑に使った。
日本の政治指導者らは、政府と産業界を連ねる長い系列が軍事関連の応用をすべて秘匿してこそ、日本国民が確信的に原子力を日常生活に持ちこむのを容認できるであろうことを理解していた。かかる理由により、日本の歴代政権は、無害なエネルギー開発と民生目的の宇宙開発を推進する計画を装って爆弾開発計画を謀ってきたのだ。日本が1941年にエネルギーの将来を確実にするために戦争に突入し、ただ単に核兵器攻撃をこうむった唯一の国になるだけで終わったのは、もちろん皮肉なことである。
東京電力
エネルギーは常に日本のアキレス腱であってきた。米国による禁輸に直面した同国は、石油確保の必要に迫られて、パールハーバー攻撃に突っ走ったのであり、その後も引き続いた石油不足が、その戦争の敗北において再び立ちふさがった主要因だった。ただ一つの営為――核爆弾を生みだした原子の分裂――が、日本の屈服を嫌が応にも確実にした。いま日本は、その同じ原子を――次の世紀まで持ち越すことのできる安定したエネルギー源を確保し、同じく重要なこととして、母国が再び不面目な敗北をこうむらないように保障するために――同国自体の目的に振り向けようとしている。
日本は、エレクトロニクスや自動車産業に取り組んだのと同じ流儀の果敢さで核開発計画にとりかかった。中核的な企業グループの各社が、長期的な潜在利益を約束する仕事を与えられた。さらに政府は、財務、技術、法制度といった、いかなる面の支援をも惜しまず、これらの企業を育成した。この戦略が輝かしいばかりに功を奏して、日本は一世代のうちに戦後の茫然自失状態から経済大国に変貌した。
核技術開発の任に指定された5企業は、1950年代におけるドワイト・アイゼンハウアー米国大統領の「核の平和利用」計画のもと、日本の標準装備となっていた従来型の軽水炉を超えて、大きな前進を図らなければならなかった。アメリカ人やヨーロッパ人が達成できなかった事業――増殖実験炉計画を商業炉の成功につなげること――を推進しなければならなかったのである。思い上がった日本企業は、自分たちならできると自信満々だった。なんといっても、日本人は産業化の第一人者なのだ。自動車、テレビ、マイクロチップの分野でより良い品質と低コストを達成し、アメリカ企業よりも優位に立っていたのである。核事故はほとんどの場合、ヒューマン・エラーの結果として起こる。適切な教育や訓練を受けていなかったり、融通がきかなかったりする凡庸な操作員のせいだ。アメリカ人やロシア人なら、事故もありうるが、日本人では考えられない。
佐藤栄作首相
中国、北朝鮮、インド、パキスタンが核兵器システムを開発すると、日本とその西側同盟諸国は脅威拡大に対抗して結束を強化した。1960年代の米国のリンドン・ジョンソン大統領と日本の佐藤栄作首相の秘密会合、およびそれに続く数回の日米高官会議によって、核技術を秘密裏に移転することが、エスカレートする一方の東アジア軍拡競争に対応するために日本を要塞化する戦略の一環となった。この方針は、レーガン政権期に米国の政策の抜本的な変革が法制化されてクライマックスを迎えた。米国は、自国産の核物質の日本向け出荷に対する統制権限を実質的に譲渡したのである。
世界と人々の福利を損なうことだが、日本国政府は日本国民のよく知られた核兵器嫌悪を逆手に取って、メディアや歴史学者らが同国の核兵器開発を調査するのを阻止してきた。その結果、20113月の悲劇の日まで、日本の核産業はおおむね批判的な眼差しから隠されてきた。世界の核拡散阻止機関である国際原子力機関も似たり寄ったりであり、やはり目をつむっていた。
かくも長年のあいだ、最高機密であってきた日本の産業界を一瞥するのも稀なことだが、われわれが調査してみると、日本と欧米の核政策と、冷戦期ならびに冷戦後に核政策を形成してきた当局者らに対する深刻な懸念が浮上する。多国籍企業と官僚らは公衆の安全保障を犠牲にして欺瞞行為を働いている。彼らは、平和目的の原子力計画の装いのもとで巨大な利益をむさぼったのである。
F号プログラム:日本最初の核兵器開発計画
1940年代初頭、世界が人類史上最大の血なまぐさい紛争に封じこめられ、ドイツ、英国、米国、日本の科学者たちは原子の封を解いて、想像を絶する力を備えた兵器を開発するために血眼になっていた。この理論を熾烈な現実に転換する競争は、産業総力戦によって幾百万の人間を破壊した戦争に秘められた含みを持たせることになった。日本は理論物理学の分野において欧米の競争相手と同様に進歩していた。同国は原材料とその原料を原子爆弾に加工する産業の純余力に欠けていただけである。だが、資源がなければ、日本の軍事機構はなにほどのものでもなかった。
説明を追加
日本人は1940年以来、各連鎖反応科学を果敢に研究していた。仁科芳雄博士は戦前の核物理学研究によってノーベル賞にノミネートされていた。当時、仁科と若手科学者グループは、爆弾で米国を打倒するために理化学研究所で寸暇を惜しんで作業していた。予備研究に2年間費やしたあと、F号と呼ばれる原子爆弾開発計画が1942年に京都ではじまった。1943年時点で、日本版のマンハッタン計画は爆弾級のウラニウムを分離できるサイクロトロンを完成しただけでなく、原子の計り知れない力を解放する知識を有する核科学者チームを育成していた。アメリカがグランドクーリー水力発電所の全電力を消費するほど巨大なウラニウム濃縮施設をワシントン州の砂漠に建造したころ、日本人は独自の爆弾を製造するのに足るウラニウム資源を求めて帝国内を探しまわっていたが、成果は限定的であるにすぎなかった。
日本は支援を求めて、ナチス・ドイツに目を向けた。ナチスも核兵器開発を追求していた。しかし、1945年はじめに連合国軍はラインに達し、ロシア軍はプロシアを確保した。ヒットラーは土壇場のあがきを試み、1,200ポンド(約540 kg)のウラニウムを積載したUボートを日本に派遣した。19455月、米海軍艦隊がそのUボートを捕獲した。潜水艦に搭乗していた日本軍士官2名は自決を果たし、ウラニウムの積み荷は米国マンハッタン計画で活用するためにテネシー州オークリッジ向けに転送された。日本はウラニウムを持ち合わせず、小型原子爆弾を12個以上つくることができなくなった。
1944年、両国の原爆開発計画が完成に近づいたころ、ダグラス・マッカーサー将軍の島伝い作戦が日本の本土間近に迫っていた。B29爆撃機の編隊が東京などの主要都市に火の雨を降らせた。仁科は開発拠点を、現在の北朝鮮に含まれるフンナム(興南=化学工業が発達)の小集落に移さなければならなかった。移転のため、日本の開発計画は3か月の時を空費した。
194586日、エノラ・ゲイが一発の原子爆弾を広島に投下した。爆発は7万を超える人びとを即死させ、その後の数日に次ぐ数週間、さらに幾千もの人びとを死に至らしめた。
仁科は爆発という単語が届いたとき、アメリカ人が受賞レースで彼を打ち負かしたと即座に理解した。だが彼はまた、彼自身の原子爆弾も功を奏するだろうと内心で確信した。仁科と彼のチームは、彼ら自身の実験の準備をするために全力で働いた。ロバート・ウィルコックスなどの歴史家たちやアトランタ・ジャーナル=コンスティチューション(Atlanta Journal-Constitution)の執筆者であるデイヴィッド・スネルは、仁科チームが成功したと信じている。ウィルコックスは、1945812日――長崎原爆投下の3日後、そして日本の降伏文書署名の3日前――日本がフンナムで部分的に成功した爆弾の実験をしたと書いている。その時点で、この試みは単なる象徴にすぎなかった。日本にはもっと多くの兵器を生産する手段も米国本土に兵器を正確に届ける手段が欠けていた。
日本の戦後復興において、ヒロシマとナガサキの原爆投下は、日本人に対するアメリカの非人道性の象徴であるとともに、大日本帝国の野心の愚かしさの象徴になった。日本国民は核兵器に嫌悪感を抱いた。日本の指導者らは国民の見解を共有してはいたが、核戦力による終戦を受け入れたことから、核爆弾の戦略的な価値に対して格別に評価する感慨を募らせてもいた。
戦争が終わると、数千の米兵らが日本を占領した。米国は日本に対する核攻撃のあと、この核戦力を獲得する願望と能力が世界中に拡散することを恐れた。米国政府は、日本が独自の核爆弾開発に以前に想定されていたよりも間近に迫っていたことを知った。日本の核兵器開発能力を潰すことが重要優先事項になった。国際的な核拡散防止合意に向けた交渉に加えて、占領米軍は日本の核兵器開発計画の再開を阻止するために、数か所のサイクロトロン、その他の日本の原子爆弾開発計画の名残を破壊した。軍隊はF号計画の物質的な遺物を破壊することができたが、仁科と彼のチームが戦中に蓄えた膨大な知識の集積を破壊することはかなわなかった。
日本の核開発計画の開始
後年になって、F号計画の背後にいた人物らは日本の原子力開発の指導者になることだろう。彼らの手始めの優先事項は、日本において核エネルギー研究の継続の足固めをするために十分な量のウラニウムを備蓄することだった。
戦争とそれを終わらせた原子核爆発は、日本国民に強烈で忘れられない印象を残した。彼らはヒロシマとナガサキの破壊を嫌悪した。だが日本の指導層は、海外エネルギー依存、すなわち日本が産業時代に登場してからこのかた日本の足枷になってきた依存を脱するための選択肢に原子力がなりうると認識していた。
日本の降伏をもって、米国は太平洋の覇権国家になった。だが、1949年に中国で共産党が勝利し、ソヴィエト連邦が核実験に成功するにおよび、その地位は危うくなった。共産主義諸国が太平洋で米国に対抗しており、日本は突如として征服された敵対国から価値ある同盟国に立場が遷移した。
1952年に北朝鮮軍が大挙して南侵したとき、米国はまったく迎え撃つ用意ができていなかった。ほどなくして、武装が貧弱で訓練も行き届かない米軍海兵隊は釜山で海を背に包囲された。米軍司令官、ダグラス・マッカーサー将軍はこのときに初めてトルーマン大統領に核兵器の使用を進言したのだが、その後、朝鮮戦争中に何度もこれを繰り返すことになった。
その核兵器は沖縄に配備されていた。釜山で米軍部隊が崩壊の危機に直面していたころ、米空軍機B29が中国と朝鮮を爆撃するためにエンジンを吹かして待機していた。戦中の後期、中国軍が朝鮮に進軍したとき、核を搭載した爆撃機が日本から飛来して、中国と北朝鮮の空域に侵入した。1機の戦闘爆撃機が撃墜されている。
朝鮮戦争は日本にとって重要な転機になった。3000年におよぶ国史上で最大の屈辱となった敗北からほんの7年目にして、日本は自国を打ち負かした、その同じ軍隊のために兵站基地の役割を担ったのである。当時、日本独自の軍隊は実質的に存在しなかった。米兵らが東京の安っぽい売春宿に足繁く通うのと同じほど自尊心を傷つけるのは、日本の防衛が完全にアメリカ人の手に握られていると思い知ることだった。トルーマンが中国を相手に核の瀬戸際外交をもてあそんでいたとき、みずからの第二次世界大戦敗北を刻印したのと同じ核爆弾に日本の防衛を頼っていることが明らかになった。
1950年代のはじめ、米国は日本政府に対して原子力分野に参画するよう強引に迫った。アイゼンハワー大統領は核エネルギーの破壊力を目の当たりにして、それを厳格な制御下に置くと意を決していた。彼はまた、世界は米国が核分裂技術を完全に独占することを受容しないとも理解していたことから、代替案――「平和のための原子力」――を打ち上げた。アイゼンハワーは、日本やインドといった資源の欠乏した国ぐにに、技術・経済・道義的援助の形で原子炉を供与した。日本は経済と社会基盤を再建するにしても、自国内資源に欠けており、慢性的なエネルギー不足に悩む経済という難問の解消策として原子力に飛びついた。
日本はアメリカの「平和のための原子力」プログラムによる支援を得て、本格的な規模の原子力産業の展開を開始した。日本は大勢の科学者らを核エネルギー開発の訓練を受けさせるためにアメリカに送りこんだ。戦争のあと、ふたたび国際社会に足場を築き、ふたたび主権と国勢を取り戻すために、日本政府は乏しい資金を割いて、意欲的に研究施設や原子炉に注ぎ込んだ。
日本は戦時の経験があったので、核産業を無から築きあげる準備ができていたが、「平和のための原子力」のおかげで、欧米から原子炉の完成品を輸入するほうが安上がりだった。
「平和のための原子力」プログラムは、アメリカ製だけでなく、英国やカナダの核輸出をも支援していた。英国は一番手を切り、日本に同国のマグノックス炉(核燃料被覆材にマグネシウム合金を用いる原子炉:訳注)を売った。ゼネラル・エレクトリックとウェスティングハウスは急いで業界シェアの残りを確保し、原子炉設計図と構成部品を法外な価格で日本に販売した。日本の業界は速やかに他の「平和のための原子力」プログラム参入諸国の模範になった。日本の若い世代の才能のある科学者たちがこの時期に育ち、こぞって核エネルギーの全面活用に励んだ。
業界が活性化すると、日本は米国から独り立ちして自国の核開発研究を再開した。日本の官僚らはアメリカ人の督励を受け、核燃料サイクル全体を活用する計画を立案した。当時のコンセプトは理論的なものであるにすぎず、アインシュタインが後にその名を汚すことになる書簡をルーズベルト宛てに執筆した1939年の時点における原子爆弾と同様、現実のものではなかった。理論的にいえば、従来型の原子炉で燃やした使用済み核燃料からプルトニウムを分離し、それを新型の「増殖炉」の燃料に使うことができる。まだこれを実用化した者はいなかったが、これは技術の時代の黎明期だった。日本、アメリカ、ヨーロッパの科学者らは科学の進歩が秘める可能性に夢中になっていた。日本の中心的な計画立案者たちや官僚らも同じように熱心だった。増殖炉計画は、日本が米国から輸入していたウラニウム資源の最も効率的な利用を可能にするはずだった。それは日本をアメリカ産エネルギー依存から乳離れさせ、またプルトニウム――最も強力で最も入手困難な爆弾材料――の膨大な蓄積を可能にするだろう。
秘められた冷戦期核政策
佐藤首相とジョンソン大統領
196410月、中共が最初の核爆弾を爆発させ、世界を震撼させた。世界は驚愕に捕らわれたが、日本ほど強烈に感情のたかぶった国はなかった。3か月後、佐藤栄作首相がワシントンを訪問し、リンドン・ジョンソン大統領と秘密会談をおこなった。佐藤はジョンソンに常軌を逸した最終通告を提示した――米国が核攻撃に対する日本の安全を保障しない場合、日本は核兵器を開発するだろう、と。LBJはこの最終通告に強いられ、日本を対象とする米国の「核の傘」を拡張した。皮肉なことに、後に佐藤はこの保障のお陰で、核兵器を保有せず、製造せず、日本領内へのその持ち込みを許さずとする日本の「非核三原則」を確立することができた。この政策によって、佐藤はノーベル平和賞を勝ち取った。日本国民にしろ、国際社会にしろ、これら三原則が全面的に実施されることは断じてないと知る者はだれもいないし、佐藤は秘密の核兵器開発計画の継続を許していた。
その後の歳月、何千発もの核兵器が日本の港湾や駐日米軍基地を通過していったことだろう。歴史的な佐藤・LBJ会談の前でさえ、日本は米軍核兵器の日本国内貯蔵を公的に無視することを暗黙裡に同意していた。日本の当局者らは抜け目なく文書になにも記載しなかったが、エドウィン・O・ライシャワー米国駐日大使が1981年の新聞インタビューで協定を暴露した。日本政府は1960年には、核武装した米海軍艦船が日本の港湾や領海に入ることを許容すると口頭で合意していた。日本の前駐米大使、下田武三をはじめ、複数の現職または元職の日米当局者らがライシャワー大使の説明を支持している。
日本政府は1980年代にこの問題を質問されたとき、そのようには理解していないときっぱり否定し、米国と定めた協定条件と異なった解釈がありうるとは「考えもおよばない」といった。それにしても、鈴木善幸首相が事実調査を外務省に指示したとき、同省にできたのは、協定に関する文書化された記録は見つからなかったということだけだった。
機密指定を解除された米国政府公文書が非核三原則のまやかしを証明している。その文書は、米国が核兵器を日本の港湾に定常的に持ちこんでいた証拠を日本政府の当局者らが無視していたことを浮き彫りにしている。米軍の方針立案者らは、日本政府が沈黙しているのを、日本の港湾への核兵器持ち込みを暗黙裡に容認していることと受け取った。米空母キティ・ホークは何十年間も横浜を母港としていたが、定常的に少数の核兵器を搭載していた。
日本は、米軍が核兵器使用を想定する共同軍事演習に参加することさえしていた。これらの裏話は、核兵器に関する日本政府の公的政策と行動との乖離(かいり)を明示している。
1970年代初期の日本における極めて重要な論争のひとつは、核拡散防止条約(NPT)に加盟するか否かというものだった。この条約は基本的に核の現状を凍結する。核保有5か国が核武装を維持する一方、他の国ぐには核兵器獲得を手控えると誓約した。条約署名国は100か国を超えた。注目に値する例外は、インド、パキスタン、イスラエル、日本といった、核の保有権をおおっぴらに維持する少数の国ぐにだけだった。この論争は、日本におけるこの問題に関するたいがいの決定と同じく、公開討論の場ではおこなわれなかった。だが、アメリカ人は聞き耳を立てており、彼らが聴いたことが核にまつわる日本の野望を完全に新たな光のうちに引き出した。
中曽根康弘は日本の防衛庁の長官であり、新しい世代の核武装を支持する政治家だった。彼は即時の核武装を支持しなかったものの、将来に核兵器を開発する日本の権利を制限するはずの行動には、いかなるものにも反対した。彼は1969年の政策文書の中心的な起草者のひとりであり、その国家安全保障の章に次のように書かれている――「当面のあいだ、日本の政策では核兵器を保有しないことになっている。だが、日本の政策として核兵器を製造する経済的および技術的潜在力を常に維持するであろうし、日本はこの問題に対する外国からの干渉を受け入れないであろう」。
6年後、中曽根はふたたび核をめぐる論争の渦中にあった。論争でかけられていたものは、日本の核武装能力であり、日本政界の最大の賞――総理大臣の椅子――だった。中曽根は表向きNPTに賛成して、総理大臣への出世を確保した。日本の協力の対価は、核兵器利用に最適な物質と技術を含む場合でさえ、日本の核開発に干渉しないとするジェラルド・フォード大統領の誓約だった。フォードによる保証をえて、日本は1976年についにNPTを批准した。日本の核通商は滞りなく継続した。米国は日本の原子炉に濃縮ウラニウムを供給しつづけ、使用済み核燃料のヨーロッパにおける再処理と日本へのプルトニウムの送還を許し、そのプルトニウムは将来時点において増殖炉で利用するために日本で蓄積された。
核分裂の拡散を食い止める
スリーマイル・アイランド原発制御室を
視察するジミー・カーター
ジミー・カーターが1976年の大統領選に勝利すると、彼は核分裂性物質の拡散を統御する果敢な政策を実施した。カーターは海軍潜水艦の原子炉の元技術士であっただけに、他の世界指導者のだれよりも、プルトニウムと高濃縮ウラニウムに秘められた巨大な力を熟知していた。彼は、その力を――日本を含む――アメリカの最も緊密な非核同盟諸国の手から遠ざけようと決意していた。
カーターの政策には正当な理由があった。日本が1976年にNPTを批准していたのにもかかわらず、翌年にCIAが実施した研究は、1980年までに核保有に参入する最大の能力があるとする3か国のひとつに日本を名指ししていた。日本国民の歴史的な核兵器反対論だけが日本の核配備に対する逆風になっていた。他のどの要因も日本の核武装能力に対する順風になっていた。その時点で、CIAは――それに、さらに輪をかけて秘密主義のCIAの姉妹機関、NSA(国家安全保障局)は――日本の内幕の状況を把握していた。
カーターは、プルトニウムが世界の安定に極めて予測困難な影響をもたらすことを知っていた。プルトニウムは唯一の最も入手困難な核爆弾原料である。比較的に遅れた国ぐに――それにいくつかのテロ集団――でさえ、いまではプルトニウムや濃縮ウラニウムを核兵器に加工する技術をもっている。だが、プルトニウムまたは濃縮ウラニウムの精製は極めて困難で費用のかかる仕事である。カーターは、プルトニウムと濃縮ウラニウムの拡散を制限することによって、核兵器の拡散を制御できると知っていた。カーターはプルトニウム拡散防止を彼の核拡散防止政策の要石に据えた。
カーターが大統領に就任し、速やかに1978年の核拡散防止法を議会で押し通し、それによってすべてのウラニウム・プルトニウム出荷に議会による承認の要件を課し、日本のさまざまな慎重な取扱いを要する核技術を阻むにおよんで、日本人は衝撃を受けた。カーターは、日本が核兵器の作成に利用できる核物質や技術の移転を阻止すると意を決していた。この決定は、アメリカの核既得権益層にも大いに不好評だった。アメリカの核科学者たちは、カーターが仲間内の一員、核エネルギーの知識があり、理解している人物だったので、彼に大きな期待をかけていた。
カーターの尽力が使用済み核燃料を再処理するアメリカの計画に終止符を打った。カーターが再処理を止めたのは、韓国や台湾によるプルトニウム蓄積の影響を恐れたからである。それは韓国や台湾に加えて日本を巻き込むアジアの軍拡競争に発展するだろうと彼は信じていた。
カーターによる米国の核ドクトリンは、プルトニウム主体燃料サイクルに核エネルギーの未来像を見ていたアメリカの核科学エリートたちにとてつもなく不評だった。彼らは原子力がアメリカ経済の大ブームにとって足枷になっていった問題――石炭燃焼による酸性雨、石油の不足と禁輸――の解消策になると見ていた。安価で清浄な核エネルギーのほとんど無尽蔵な供給が期待できれば、アメリカは文句なしの世界の経済主導国の地位を回復できるだろう。だが、多くの人たちにとって、核エネルギーはそれさえも超えた地平を開くものだった。アメリカが燃料サイクルを完成――核物質の循環を完成できるなら、人類全員が核による嵩上げ効果のおかげで向上するだろう。国中の研究所やワシントン州インデペンデンス大通りに所在するエネルギー省のフェレスタル・ビルのなかでは、増殖炉計画に向けた熱狂はほとんど宗教的高揚の最高潮に達していた。
アメリカの核既得権益層の考え方をなぞってみれば、増殖炉が世界の核経済に革命をもたらすなら、米国はヨーロッパの同盟諸国や日本とそれを共有しなければならない。科学の基盤そのものが自由な情報交換であり、アメリカの科学者らはヨーロッパと日本の同輩たちと包み隠さずに情報を共有していた。協力は両方向の交流である。増殖炉が技術的に途方もない難関を抱えていることが判明しており、エネルギー省は、米国と同じように長く問題に取り組んできていたドイツ、英国、フランスの失敗から学びたいと切望していた。カーターの政策は、プルトニウム主体の核エネルギー・サイクルを開発し、共有するというアメリカの取り組みに水を差した。
強力な核兵器・原子力ロビーにとって無念なことに、カーターは核ルネッサンスという新たな構想を放棄した。カーター政権は、核通商の縮小、科学者間の自由な知識の交流への介入の時代を招来した。原子力規制委員会のリチャード・T・ケネディ、ベン・ラッシュ、米国エネルギー省のハリー・ベンゲルスドーフといった人たちにとって、制約はまったく受け入れがたかった。ジミー・カーター再選の失敗によって、核既成体制に新たな機会が訪れた。
逆コース――レーガンがカーターの政策を覆す
リチャード・ケネディ
熱烈な核信奉派の最右翼のひとりが、リチャード・ケネディという名のキャリア官僚である。元陸軍将校である彼は、原子力規制委員会でひっそりと仕事に励み、その出世はカーター大統領の各政策に対する激烈な反発の人質に取られていた。それも、1980年の大統領選でロナルド・レーガンが勝利すると一変した。大統領としてのレーガンの初仕事は、アメリカの敵味方を問わず外国とともにプルトニウムを民間電力事業で利用することを米国に禁じたカーターの核ドクトリンをひっくり返すことだった。レーガンは彼の核政策を担当する右腕にケネディを選んだ。ケネディは核エネルギー担当特任大使という新たな地位に立って、軽蔑していたカーター政策の解体を監督した。新政権は、アメリカと外国のプルトニウム信奉を復活させた。
だが、カーター時代のひとつの遺産が、向こう見ずにも国際核通商に飛び込もうとするアメリカの足を引っ張った。カーターは1978年に原子力法を議会で押し通していたが、それは包括的な規制法であり、外国が米国産である核物質を輸入・使用する条件を厳格に制限していた。同法の規定により、議会は国境を越える核燃料出荷の案件をいちいち承認しなければならなかった。この法律は、核の自由交易を構想するケネディの眼に、我慢のならない邪魔ものに映った。そこで、彼は法規定の回避に乗り出した。
レーガン売り込みの初期段階において、アメリカの従来型および核戦争準備型の産業に対する現金の大量注入量が劇的に増大するにつれ、新型弾頭を設計したり、核増殖炉の難問を解消したいと企てたりする科学者たちに政権は大金を詰めこんだ。
クリンチ・リバー増殖炉概念図
この計画の中心に、テネシー州の風光明媚なクリンチ・リバー渓谷に所在するエネルギー省オークリッジ研究所の実験施設があった。同地、アパラチア山麓の丘陵地帯で、アメリカの最も才能豊かな科学者たちが増殖炉を組み立てていた。途方もない約束を秘めた技術だった。発電しながら、元は使用済み核燃料だったものを生粋のプルトニウムに転換するのである。増殖炉は核科学の『聖杯』となり、燃料サイクルの閉じられた円環は、ほとんど無制限のエネルギー供給の扉を開けるといわれた。クリンチ・リバー増殖炉プロジェクトは技術の最先端をいくといわれ、レーガン政権下、エネルギー省はプロジェクトを金漬けにした。1980年から87年までにプロジェクトで費やした資金は、大枚160億ドルに達した。すると議会は、始まったときと同じように突如として、プロジェクトを凍りづけにした。
国内最優秀の頭脳を駆使し、ほぼ無制限の予算を注ぎ込んだにもかかわらず、増殖炉プログラムは功を奏しなかった。それにしても、失敗したのはクリンチ・リバーの科学者チームだけではなかった。ドイツ、フランス、英国の増殖炉計画もまた、実験段階から商業的に有効な実用段階への跳躍を果たせなかった。新型核兵器へのレーガンの関与は決してへこたれなかったが、80年代中期の不況が長引き、議会による歳出削減から軍産複合体のあらゆる側面を守るわけにもいかなくなった。1987年、議会はクリンチ・リバー予算を摘み取った。科学者やエネルギー省官僚の幹部らにとって、増殖炉をライフワークとしてきただけに、これは惨事だった。失敗し、国の支援を失ったにしても、それでも彼らは核燃料サイクル構想を依然として護持していた。
とかくするうちにも、いまだに執念深く増殖炉技術を追求する国がひとつあった――日本である。1987年当時、右肩上がりの日本経済の資金は、無尽蔵に思えた。増殖炉を経済的に実現できる国があるとすれば、それは日本だった。だが、日本の科学者らが成功するためには、アメリカ人らが脱落した局面から始めなければならなかった。
次に起こることを理解するには、アメリカ政治が実際に動く仕組みを理解しなければならない。歴代政権が4年または8年ごとに交代し、議会、とりわけ下院は定期的に議員が入れ替わるのに対して、官僚機構はほぼ一枚岩的な継続性をもって動く。キャリア官僚は官僚機構の内部で、ご執心のプロジェクトの背後に身を潜め、歴代政権をやり過ごすことができる。レーガンは議会が増殖炉計画にとどめを刺す前に、その未来をリチャード・T・ケネディの手中に預けた。
ケネディはワシントン・インサイダーのハリウッド配役版みたいに見えると、古くからの政敵、デイモン・モグレンはいう――「彼の見てくれは、煙の立ち込める密室で生涯を過ごした男のそれであり、物腰に斡旋収賄の匂いがまとわりついていました。タマニー会館(訳注)から出てくるのを見かけたとしても、おかしくありませんよ」。ケネディの友だちはもっと親切だ。原子力規制委員会の同僚、ベン・ラッシュはケネディの政治的直感を賞賛した――「彼は、おそらく実業界にいる多くの人びと以上といった程度まで、国内外の政治的現実に非常に適合していました」。敵・味方一致して、ケネディーは前に塞がる下位の官僚を踏みつけにしたと認めていた。彼は、アメリカの増殖炉計画の要の部分を日本に譲渡することによって、それを救済する調整役として完璧にうってつけの人物だった。
(タマニー・ホール《 1) 1789 New York 市に設立された慈善共済組合 Támmany Socìety (タマニー協会) に起源をもつ民主党の派閥組織; ボス政治家による支配を背景に, しばしば不正手段により市政を牛耳った; 代表的な政治家は BossTweed 2) タマニー協会の本部が置かれた Manhattan の会館》=リーダーズ英和辞典第2版より引用)
計画は、ワシントンの複雑怪奇なお役所仕事の巧妙な操作を要するはずだった。これほど重要な技術移転は何十もの部局の何百人もの担当者による承認を要する。だが、まさしくそれほど大規模で込み入っているという理由により、抜け目のないインサイダーであれば、真の信者である幹部らの小グループによる手を借りて、窓口をすり抜けることができる。8年間にわたる日本との増殖炉共同開発によって、大義を熱烈に信奉する若手の科学者たちと官僚が誕生した。なおかつケネディは、にわかに信じがたい勝利――無理矢理に議会の承認をえた、1985年の共産主義中国に対する原子炉の販売――に輝いた。
日中両睨みの核取引
中国のウェスティングハウスAP1000型原子炉
1984年、ウェスティングハウス社は、中国に原子炉を供与し、100億ドル相当にも達する取引を当てた。この契約は、アメリカの核産業にとって信じられないほどの儲けものであり、米国を世界の核取引の覇者にするためのケネディの尽力の要石になるはずだった。ただひとつの問題は、すべての入札者に核機密をもらしてきた中国の底抜けの記録だった。
当時の民主党院内総務補佐、アラン・クランストンは上院の熾烈な審議で、ケネディの観測に関してレーガン政権が「情報を――実質的に行政機構のどこでも周知されているはずなのに――保留し、抑制し、隠蔽しており、これに関して議会は懸念すべきものと判別しかねない」と告発した。中国が国際的な核の無法国家である5か国、パキスタン、イラン、南アフリカ、ブラジル、アルゼンチンに核技術を売り渡していたことはすでに知られていた。クランストンとたいがいのアメリカ政府当局者は1984年時点で、中国が先進的な核兵器設計をパキスタンに譲渡していたことを知っていた。中国政府はまた、南アフリカの核爆弾に装着されかねない濃縮ウランを売り払っていた。中国はアルゼンチンに爆弾製造計画用の重水を売却する一方、大の敵対国であるブラジルに核物質を売り渡し、イランと核協定を交渉していた。中国の核拡散履歴の記録はこれを超えて劣悪になりようもない代物だったが、ケネディは鉄壁の保障措置を交渉する代わりに、両サイドが好きなように読み取れるような曖昧模糊とした合意文書を携えて北京から帰国した。中国は、拡散防止誓約に署名したり、アメリカに中国が原子炉で燃やした燃料を再処理して核兵器に利用するプルトニウムを抽出するのを差し止める権利を付与することに合意したりすることを拒否していた。
民主党院内総務補佐
アラン・クランストン
ケネディは19856月に北京を再訪し、核拡散防止交渉のアメリカ側を主導した。彼は新協定を持ち帰ったが、それは前回のものとほとんど同じだった。だが、100億ドルのプロジェクトはワシントンで立ち枯れるには強烈であり、予定されていた鄧小平主席のワシントン訪問をキャンセルするという脅しが、ケネディに必要だった突破口になった。政府が、中国の核の脅威を封じ込める最善の方法は、その筆頭供給国になることだと主張を喧伝する一方、ウェスティングハウスは下請契約をばらまいて、取引に対する政治家たちの人気を煽り立てた。
中国との契約のおかげで、ケネディの側近グループは政府の怪物集団にのしあがり、ロビー企業や日本資金によるシンクタンクの大物らに有望な報酬が期待できるにもかかわらず、ケネディの取り巻き連中の中心人物たちは政府部内に残った。いまや日本の増殖炉計画が日程にのぼり、米国国務省内におけるケネディの右腕、フレッド・マクゴールドリック、そしてエネルギー省の請負人、ハロルド・ベンゲルスドーフは、政府部内中にいる増殖炉門徒たちに再招集をかけた。彼らの目標は、アメリカの納税者が支払った1600万ドル相当のクリンチ・リバーの技術を、アメリカの投資額の1000分の1以下の代価で日本の最大手電気事業会社に移転することだった。この計画はすでに、大概は日本の5大企業のために仕事している日本人やアメリカ人のコンサルタントによって承認済みだった。
主として2つの障害が彼らの前途に立ちふさがっていた。米国内法と国際法とが、クリンチ・リバーで開発された技術、とりわけ使用済み核燃料からプルトニウムを分離するのに用いられる再処理技術に厳格な制限をかけていた。この計画はまた、兵器級プルトニウムと高レベル核廃棄物の何百回にもおよぶ国際海上輸送を必要とした。
軍備管理軍縮庁、ルイス・ダン
1986年初頭、ケネディはほとんど毎日のように、軍備管理軍縮庁(ACDA)の中堅職員、ルイス・ダンと会っていた。ACDAは拡散リスク評価の執筆を請け負っており、日本との取引が生き残れるかどうかの決定にこれが大きくかかわっていた。
ダンはみずからのキャリアを核兵器の拡散に反対することにかけていた。だが、ケネディと同じように、核技術を管理する最善の方法は世界を主導する核供給国になることだと信じてもいた。ダンは静かなうちにも意を決した流儀で、ケネディと同じほど影響力のある日本との協定の提唱者だった。ダンが煩雑にケネディに会った会合の記録は秘密指定されたままであるが、ケネディの日程表が二人の人物の常軌を逸して緊密な協力を浮き彫りにしている。
ダンは、フォギー・ボトム所在の国務省庁舎に入る半独立機関、ACDAで働いていた。1年近く少なくとも週に3回、ダンは3階のACDA執務室を出て、ケネディの役員室までの長い距離を歩いた。彼らは、議会が日本に対する技術移転の可否を決定するのに使うリスク評価について何時間も論じ合った。
1989年半ばにダンが執筆した報告はACDAをきりきり舞いさせ、即座にペンタゴン、CIA、原子力規制委員会からの懐疑論で迎えられた。中央情報局は何年も前から、日本は核武装に踏み切る技術を保有し、その意志があると警告していた。じっさい、日本の政策立案者たちは1950年代初頭にさかのぼる一連の政策文書と内部討論で核保有選択肢を明示的に留保していた。一番の証拠として、1969年に日本政府の最高レベルで回覧された内部計画文書には、日本は核兵器を開発する技術的・財政的手段を維持する――そして、必要なら開発する――と記されている。不吉な但し書きとして、その文書は「どのような圧力を外国からかけられようとも」そうすると断言する。
CIAは、1969年の計画文書と他にも日本が脅威を感知する場合に核武装に踏み切る意思と手段を保有することを示唆する大量の証拠文書の存在を知っている。1960年代以降、この問題に関してCIAが米国大統領に送付した報告は、1965年にリンドン・ジョンソンが佐藤栄作首相に提供した「核の傘」公約を下支えしていた。同局は、LBJ以降のどの大統領も日本の核潜在能力について知っていたことを確認していた。それなのに、この警告が官僚機構の実務レベルまで滴り落ちてくることは滅多になく、そのレベルではクリンチ・リバーの機械装置の移転といった実務的な決定とか、日本に関する調査結果とかが苦心惨憺して練られていた。
国防総省を迂回する
CIAは日本の核計画に数十年にもわたり疑惑の目を向けていた。CIANSAはアメリカの敵対国と同様、同盟国に対しても定常的に盗聴していた。CIAは長年にわたって変わることなく、日本は核武装に踏み切る潜在能力と――適正な環境のもとでそれを発動する――意思を有していると報告していた。
だが、ケネディが日本相手の核機密と核物質の取引を促進しようと強引に急き立てていた1987年の当時、CIAはその輪から外れていた。皮肉なことに、日本の核武装潜在能力について最もよく知っていた部局が、核技術の日本移転に関する米国内の討議について一番知らなかったのである。CIAは外国政府の監視を委任されている。CIAが競合部局に対するスパイ活動を完全に自制しているとまではいえないが、この事案において、クリンチ・リバー・プロジェクトを日本に移すことを目指すケネディの内輪の尽力について、同局はほとんどなにも知らなかった。結局、CIAは決定から外されていた。筆頭異議申立人の役割はペンタゴンの手中にあった。
国務省、エネルギー省、ACDAが日本との全面協力に好意的であった一方、ペンタゴンは日欧間で爆弾品質プルトニウムの海上輸送にあたる船舶のハイジャックを恐れていた。ペンタゴン陣営を主導していたのが、レーガン政権の核プログラム担当国防次官、フレッド・イクルだった。テロ攻撃にまつわるイクルの懸念は本物だったが、はるかに深刻な懸念は公開討論の水面下に沈潜しており、この事案は政治的にいかにも不人気だったので、ペンタゴンの外で提起されることは滅多になかった。国防総省とCIAの諜報分析官たちは長年にわたって、日本が侮れない核兵器を開発する能力を有していると信じていた。政権内で日本の技術力を疑うものはほとんどいなかったが、日本には核武装に踏み込むだけの政治的可能性があると信じていたには、イクル、その他の少数の者たちだけだった。
ジェームズ・アウア海軍大佐
ケネディには、ペンタゴンに同調者がひとりいた。ジェームズ・アウア海軍大佐は国防長官執務室の日本担当士官だった。日本の万物に関してペンタゴンの第一人者だった。彼はまず横浜を母港とする誘導ミサイル駆逐艦の指揮官として、後に米海軍兵学校に相当する日本の施設の学生として、20年の海軍経歴の半分近くを日本ですごした。日本文化と緊密に接するようになる多くの西欧人と同じように、アウアは改宗者だった。ことばを話し、文学を読み、日本の古典ダンス様式、歌舞伎の目利きになった。
1986年当時、米軍の官僚機構は日本をめぐって国務・エネルギー両省に対抗していたので、その芸はペンタゴン内でじゅうぶんに彼の身を助けたことだろう。文官たちが世界情勢に関して日本を力強く有能なパートナーと見ていた一方で、とりわけ核エネルギーの分野において、ペンタゴンの軍人たちははるかに暗い見方をしていた。米軍は朝鮮戦争の時期からこのかた、ソ連人、中国人、北朝鮮人を港湾内に閉じ込めている米兵たちの背中のうえで途方もなく成功した経済を築いた只乗りとして、おおむね日本を見ていた。ワシントンの他の主要省庁ならいざしらず、なんらかの証拠を検分する前に国防総省が日本の事案に好意的であるということなど、およそありえなかった。
このルールに対する異論を主導したのがアウアであり、彼はまた、熱心な親日家として、ペンタゴンを通して日米合意を後押しするのにまさしくピッタリの位置を占めてもいた。ケネディの日程表にアウアの名前が散見されはじめた。アウアは国防総省の日本担当士官として、プルトニウム取引事案に関して、ほとんどすべての文書処理と高官級会合の内情に通じていた。彼はまた日本大使館や大手5社現地オフィスにいる大勢の友人や仲間たちと毎週のように接触しており、さながら日本のために活動する影の外地勤務員だった。アウアがペンタゴンの審議内容や戦略をケネディや日本人に漏らしていたかどうかははっきりしない。ペンタゴンの日米合意に関する肝要な関心事は、適正な防衛ができなかったシーレーンを使った、膨大な量の兵器級プルトニウムおよび核廃棄物の運搬だった。
ペンタゴンは安全確保問題をめぐってケネディに対峙した。国防総省は報告に次ぐ報告において、少なくとも対潜駆逐艦でなければ、プルトニウム輸送船の適切な防護は無理であると結論づけていた。海軍で20年以上の指揮官体験を積んだリチャード・スピアのような軍人たちは、ルイス・ダンによるACDA分析を強みとするケネディ一派によって、彼らの警告が却下されたと知った。日米協定が施行される前にただ一度おこなわれたパナマ運河経由のプルトニウム海上輸送のさい、その安全な通交を確保するために、海軍は小艦隊を配備した。この作戦は、イラン・コントラ疑惑で名高いオリヴァー・ノース海兵隊中佐によって調整された。いまや、フォギー・ボトム庁舎のなかで、ほぼ全面的にケネディとダンによって実施された分析を説得力として、米国は、貨物船に乗務した少人数の保安官によって護衛された、何百トンものプルトニウムや他の核分裂性物質の公海上輸送を許可しようとしていたのだ。
当時の国防次官補代理、フランク・ギャフニ―は、輸送プランに対するペンタゴンの反応を全面抵抗同然の対応のひとつとして回想する――「輸送を防衛するにしても、打つ手がまったくありませんでした。わが国の準備には、多大な手抜かりが予想されました。しかも、日本人は世界半周航海に対する確信犯的な攻撃を食い止める意思も能力も備わっていませんでした」
イクルとギャフニーが予測したシナリオをいえば、砲艦1隻を撃退する能力のない低速で武装の貧弱な輸送船の図である。プルトニウム積載船は、いかなる国家に対しても、あるいは第二次世界大戦時代物の駆逐艦、さらにいえば、ただの武装高速艇に手の届くテロ組織に対しても手の施しようがなかった。
ペンタゴンはプルトニウム空輸案を好んでいたが、衝撃耐性を想定されていたキャスクを試験すると、裂けて穴が開くにおよんで、この案は行き詰っていた。グリーンピースがこの試験結果を入手し、ただちにメディアに持ち込んだ。これで、ペンタゴンお気に入りのプルトニウムと高レベル放射性廃棄物を空輸する案はオシャカになった。
ペンタゴンはまた、日本人がプルトニウムを独自の核兵器開発計画で使うのではという懸念を抱いていた。CIAは別にして、日本が一夜にして核武装に踏み切ることができると信じていた米国政府の部局はなかった。だが、たとえ日本が核武装するにしても、他の政府機関もそうだが、国防総省は日本を協定違反と決めつけなかっただろう。継続中の共産主義に対する産業・経済・イデオロギー闘争において、日本はアメリカのおそらく最強の冷戦同盟国だろう。日本の軍隊が掛け値なしに防衛目的のものであり、1986年時点でそれを用いる意思がなかったにしても、国防総省の長い記憶が、日本が極めて侮りがたい軍事立国であったことを思い起こさせた。最高レベル将官の多くは古くからの軍人家系の出身であり、父や叔父が第二次世界大戦で日本を相手に戦っていた。日本を国務省が巨大で平和主義の経済エンジンとみなし、エネルギー省が愛しい増殖炉の代理母とみなしていたとすれば、国防総省はいまだに日本を眠れる巨人とみなしていた。だがこの度は、その巨人はアメリカ側についていた。
核武装を備えた日本は、アメリカの軍事資源の枯渇を大いに緩和するだろう。朝鮮半島に地上軍の2個師団を維持する必要があり、中国とソ連極東ミサイル基地を封じ込めるために核武装艦および航空機を太平洋に貼り付けねばならず、ペンタゴンの主任務――中央ヨーロッパの平原における総力戦争の準備――が妨げられていた。レーガン政権の戦略は、ソ連の戦争マシーンがソヴィエト連邦とその衛星諸国もろともに破綻するまで圧力を加えることだった。日本がもっと攻撃的になり、核武装すれば、この試みにおける途方もない資産になるだろう。だから、国防総省が戦術的見地からプルトニウム海上輸送に反対する論陣を張った一方で、日本へのプルトニウムと技術の移転に反対を唱えたのは、形だけのものだった。
アウアには、舞台裏に潜むこの心情に乗じる才があった。ペンタゴンは1986年遅くに不承不承ながらも、プルトニウム海上輸送が重要な核拡散リスクの構成要因とならないと述べる、ダンの報告を承認した。ガフニーの説明によれば、ペンタゴンは主管官庁ではなかったので、全力を尽くして戦ったとしても、国務省とエネルギー省はおそらく支持を集めて、反対陣営を打ち負かし、たぶん主だった人物らの出世欲に応えただろう。
米国カロライナ州、サバンナ・リバー施設

サバンナ・リバーとハンフォードの秘密
ペンタゴンは、クリンチ・リバーの技術が核兵器に利用するのに理想的なまでに適していることを知っていた。そのプロジェクトの理論研究の大半はオークリッジ国立研究所で実施されていた。だが、機械装置類の開発と実地研究は、国の核兵器研究開発を推進する他の主要施設のうちの2大拠点、サウスカロライナ州エーケン近郊のサバンナ・リバー施設のプルトニウム分離峡谷状装置、ならびにワシントン州ハンフォードでおこなわれていた。
ワシントン州の施設群は1940年代にマンハッタン計画でプルトニウムを分離するために建造され、50年代と60年代、その事業が新しいサバンナ・リバー施設で大規模に拡張された。クリンチ・リバー・プログラムがフル回転をしていた時期には、最初、ヒロシマとナガサキを灰燼に帰した爆弾を製造し、いまや水素爆弾頭を組み立てていた、その施設が、毎年数十人の日本人科学者の来訪客を受け入れていた。施設の廃止が避けられなくなっていた時期には、日本人がさらに大挙して来訪していた。
増殖炉は、他の使い道としては核兵器しかない物質、プルトニウムで稼働する。プルトニウムを産出する技術は、定義として核兵器事業に含まれる。そのような事業は米国においては、政府が独占的に所有する片手で数えられるほどの核兵器製造施設に限定されている。ハリー・トルーマン大統領は核兵器製造能力の私物化がもたらす固有のリスクを認識し、私企業と軍から独立したアメリカ爆弾開発計画を設立した。
クリンチ・リバー・プログラムの最大限の注意を払うべき技術は、このような遠隔地の核保留区域に収納された。ところが日本の業界関係者らはそもそもの端緒から、なにを作っているのか見たくて、アメリカの基地への訪問を所望した。日米協定は5年の協力期間を定めており、その間、日本とアメリカの科学者が増殖炉計画で一緒に働き、その資金の大半は日本の電気会社から出ている。エネルギー省のプロジェクト管理官、ウィリアム・バーチがいうように、考え方は「同じ釜の飯を食う」ことだった。同じ釜の飯を食うために、米国は日本のルールに則って振る舞うことになった。そして、日本が欲しがった特定項目は、そっくり核兵器開発プログラム由来のものだった。
リストの最上段に、サバンナ・リバー施設に格納され、1世代にわたって兵器用プルトニウムを撹拌分離してきた先進的なプルトニウム分離装置が記されていた。サバンナ・リバーは遠心分離装置を建造し、それを試験して、それがアルゴンヌ国立研究所でさらに試験を受けたのち、日本に向けて船積みされ、使用済み核燃料から兵器級プルトニウムを分離するのだが、欺瞞的にリサイクル機器試験施設(RETF)と命名された施設で使われた。RETFは、日本の増殖炉計画の要だった。日本人は自前の高品質プルトニウムを生産する高生産能力を備えた工場を必要としていた。工場が建設中だったころ、日本はフランスと英国に精錬作業を委託していた。
サバンナ・リバーで軍用プルトニウムを生産してきたアメリカの経験は、日本の開発計画に申し分なく適していた。米国の他の兵器開発研究所もまた日本の計画に貢献した。ハンフォードとアイダホ州のアルゴンヌ=ウェスト研究所は、『常陽』増殖炉で使うプルトニウム燃料集合体の試験を何千時間もかけて実施した。日本人科学者たちはこれらの試験に一体的に参画しており、米国核兵器施設の実質的な自由通行権を得ていた。ある日、日本が核兵器を配備するとすれば、日米協定にもとづく兵器利用可能な技術の包括的な移転のおかげだろう。
米国の核の傘の重要性を議論する日米同盟関係者たち
エネルギー省と日本の巨大核エネルギー事業者である動力炉・核燃料開発事業団(動燃)との協定は、反核禁制条項の詳細なリストを侵害していた。核物質をアメリカ側の同意なしに第三国に移転しないという日本側の保証も、米国側の事前承認なしにアメリカ製核燃料をプルトニウムに再処理しないという約束も備わっていなかった。つまり、向こう30年間、米国は日本における米国産核物質に対するあらゆる統制を放棄したのだ。
この取り決めはまた、アメリカ製核物質の再処理または移転が核兵器拡散リスクを増してはならないと命じる米国法、カーターの原子力法をも侵害していた。とりわけ、いかなる兵器目的流用にさいしても、米国が時宜にかなった通告を受けることを協定は保証していなかった。現実に、日本は事故つづきの東海村再処理工場で、兵器級プルトニウム70キログラム――核兵器20発を製造するのにじゅうぶんな量――を行方不明にしていた。たった1本の協定で、米国は核物質管理を放棄し、それによって可能だった、急速な核配備を阻止するためのあらゆる安全確保措置を諦めたのである。移転の時点で、日米両サイドの当局者らは、増殖炉開発計画の唯一確実な産物がプルトニウムであり、それが大量に抽出分離され、その純度は米軍核兵器に使われるプルトニウムのそれの2倍であることを知っていた。
移転に携わったアメリカの官僚と科学者らにとって、それは科学と国際協力に対するクーデターだった。いつものとおり、原爆によるヒロシマとナガサキの惨状に照らせば、核武装日本国の概念は信じるのがむつかしい。
米国産の増殖炉と再処理技術の包括的な移転に加えて、日米協定は日本に、米国から無制限な量の核物質を輸入し、規制なしにそれをプルトニウムに再処理し、それを第三国に移転する権利を付与している。
ジョン・グレン上院議員
ジョン・グレン上院議員は元宇宙飛行士であり、協定の意味するものを把握できるだけの科学の素養があり、協定に強硬に反対して戦った。だが、ケネディの一派は、休日閉会の本の数刻前、通告なしに協定案をキャピタル・ヒルに送った。グレンの賛同者の大多数はすでに退出しており、彼は遠くから眺めて、協定案が採択されるのを見つめているしかなかった。米国会計検査院長は協定が違法であるとただちに声明を出した。どのみち、ジョージ・HW・ブッシュ大統領は協定に署名した。日米協定の署名の前に、米国は米国産燃料からのプルトニウム分離の申告は、案件ごとの申告であると斟酌した。この協定はその代わり、日本が米国原産の核物質を日本国内で再処理・貯蔵する包括的な権限と、また使用済み燃料をプルトニウム分離のためにヨーロッパの指定施設に運送する権限を付与した。
協定案が署名されて成立してほどなく、ケネディと彼の仲間たちは正規の報酬を得た。協定がペンタゴンの了承を得るのにケネディに協力した海軍大佐、ジェームズ・アウアにとって、それは大した出世の機会だった。協定成立からまもなく、アウアはネイビーブルーの海軍制服を脱いで、日本企業の全額出資により、ヴァンダービルド大学に新設されたシンクタンクにおける終身身分の教授職のツイードジャケットに着替えた。
マクゴールドリックとベンゲルスドーフは数年後に政府職を辞して、日本の核産業のための民間コンサルタントとして、巨万のドルを稼ぐ事業を築きあげた。
1988年、上院がケネディの日米核協定を批准した時点で、日本はプルトニウムを負債ではなく資産とみなす世界でほんの少数の国ぐにのひとつだった。ソ連とアメリカは、この半減期の長い放射性元素の膨大な量を保管し、安全を確保する方法を案出しようと苦心していた。ドイツやイタリアといった場所では、強固な民衆の抗議のため、政府はプルトニウムの国外保管を余儀なくされていた。
日本の兵器運搬手段開発プログラム
1970年代、日本は果敢に宇宙開発計画を追求しはじめていた。日本は第二次世界大戦の敗北から立ち上がり、第一級の工業・技術大国を築きあげていた。ジェット機時代が宇宙時代に道を譲り、日本のような強大国が独自の宇宙開発計画を推進するのは当然のことだった。日本の場合、いつもそうだが、その決定は感情的なものではなく、実用的なものだった。未来の通信は衛星に依存するだろうし、戦争は長距離ミサイルを駆使して遂行されるだろう。1969年時点ですでに日本は短期間の事前通告により核武装に踏み切る能力を維持すると決定していた。当初から長距離弾道ミサイルと衛星照準能力が、その国防基盤構造の一部に想定されていた。
1969年、日本は積極的な宇宙探査に乗り出し、宇宙開発事業団(NASDA)を開設して、それに潤沢な資金を投入した。事業団の目的は、宇宙空間の有効活用の推進だった。日本には月への一番乗り競争には興味がなく、通信と探査のための衛星が欲しかった。そして、それを手に入れる方法を知っていた。
アメリカが「平和のための原子力」プログラムのもとで日本に核技術を移転したのとまったく同じように、宇宙の秘密もやはり開示した。宇宙開発事業団はアメリカの支援によりN1液体燃料打上げロケットを開発し、それを使って、1977年に通信衛星「きく2号」を打上げた。この偉業によって、日本は米国とソ連に次いで、地球静止軌道に人工衛星を投入した世界で3番目の国になった。
宇宙開発事業団はきく2号の打上げ成功のあと、遠距離通信、放送、気象観測、その他の地球観測機能を備えたさまざまな実用衛星を打ち上げるために、N-IIおよびH-IIロケットを開発した。H-II――大型・高効率・国際級打上げロケット――は、1994年から飛んできた。H-IIの打ち上げ性能は、核弾頭装備を大陸間射程で打ち上げる能力に匹敵する。初めてのきく2号の打上げに成功したにもかかわらず、日本の常に変わらないネックは正確さである。アメリカ人、そしてロシア人さえとも違って、日本のロケット科学者らは正確な軌道に衛星を確実に投入する能力にかけている。
きく2号の後継衛星は、不正確で不安定な軌道の履歴をたどった。10年の稼働を見込んで設計されたきく3号は、軌道を保つために燃料を使い尽くし、わずか2年半後に空から落ちた。きく4号は2年ももたなかった。どこでも科学者たちは手強い問題に直面するとそうするように、日本人たちは近道を探した。それは、ソ連共産主義の崩壊にともなって見つかった。
1991年、見た目に気密構造と思われたソ連の宇宙・ミサイル開発プログラムの保安体制だったが、科学者たちが西側に逃走すると、大きな穴が開いて打ち捨てられた。日本の秘密情報機関は混乱に乗じ、当時のソ連の最新型だった中距離弾頭ミサイルの臨戦第3世代、SS-20ミサイル運搬ロケットの設計といくつかの装置類を入手した。3発の弾頭を装備するSS-20運搬ロケットは技術の宝庫であり、それから日本はミサイル誘導について多大な知見を学んだ。他目標誘導という技術は、現代のすべての弾道ミサイル軍にとって要になっている。1基のミサイルが複数の弾頭をそれぞれの個別目標に向けて発射すれば、それに対する防衛は事実上不可能になる。
日本はまたルナーA月探査機(参照:ウィキペディアを開発していたが、これは宇宙探査ロケットであり、多くの面で大陸間弾道ミサイル・システムと似通っている。ルナーAシステムは月面上の正確に決定された目標に3基の観測装置を設置するように設計されていた。この技術は弾道ミサイル用途にそのまま流用できる。複数再突入弾頭運搬技術と照準の試験に加えて、観測装置によって、剛性を強化した電子機器を製造する日本の能力を試験できるはずだった。観測装置に搭載された機器は、月面を強打し、岩中に突入するさいのすさまじい圧力に耐えねばならなかった。これは、米国がB-12爆撃機搭載用に開発したB-61-11のようなバンカー・バスター小型核兵器のために完成した技術とまったく同じである。ルナーA計画で完成した技術によって、日本は世界のどの国にも匹敵する先端的な核兵器と運搬手段を開発する選択肢を手にしたのである。
局地的な懸念事項と初期の核惨事
ウォルター・モンデール大使
日本で核兵器をめぐる心情は変わりつつあった。おそらく最も意味ありげな発言は、当時のウォルター・モンデール米国大使に大使館のディナー・パーティで閣僚の羽田ハツモ(羽田孜か?=訳注)がつぶやいたことばだろう。後に駐中国大使になった羽田(羽田孜に大使の経歴はない=訳注)は、北朝鮮が爆弾を持つか、地域の安全保障状況が悪化すれば、日本は核武装に踏み切らなければならないだろうとモンデールに語った。日本国民は教育されなければならないだろうが、それは問題にならないだろうと羽田はいった。中国と北朝鮮が核兵器実験を実施して、地域の不安定さは悪化する一方だった。1980年代はじめ、バブル経済がはじけると、日本は多くの分野で支出を削減した。だが、核エネルギーへの関与を諦めることはなかった。その分野において、日本はやはり世界のリーダーだった。
1990年代になって、東京都知事――実質的に東京の市長であり、日本で最も有力な政治家のひとり、石原慎太郎が初めておおっぴらに核兵器の獲得を主張した。驚くことに、民衆の激しい抗議の声はほとんどあがらず、知事は大差で再選された。
そもそもの出だしから、日本の増殖炉プログラムは、日本の産業はアメリカ人とヨーロッパ人ができなかったこと――極めて複雑に込み入った増殖炉サイクルを安全に稼ぎながら動かすこと――ができるという信念にもとづいて説明されていた。その信念は、2世代にわたった物づくりの成功体験によって育まれた日本の国民的な自信に根ざしていた。日本の献身的で熟練した労働力と品質管理という特別なブランド力によって、日本はさまざまな産業分野で世界を主導する国になっていた。原子力発電は、日本の卓越した労働者と経営が可能にする単にもうひとつの成功分野になるだけだろうと信じられていた。
敦賀原子力発電所
30年前なら、日本に最も容赦ない批判を浴びせる人でさえ、たぶん日本は西洋人の尽力が失敗した局面で成功するだろうと認めたかもしれない。だが、そのような楽観論は、一連の核災害によって核産業が他のどの産業ともまったく違っていることが見せつけられた結果、たちまち色あせてしまった。1995年にもんじゅ高速増殖炉と、1997年に東海再処理工場とが相次いで深刻な予想外の放射能漏れを起こし、両方の事故で意図的な隠蔽の疑惑を招いた。最もひどかったのは、もんじゅ高速増殖炉の火災と放射能を帯びたナトリウムの漏出だった。もんじゅを運営する動力炉・核燃料開発事業団(動燃)は事故について国民に向かって嘘を繰り返した。動燃は事故原因を明かしているビデオ映像を隠そうとした。二次冷却系の破裂したパイプから2ないし3トンの放射性ナトリウムが漏れだしたのである。これは、増殖炉技術の歴史のなかで最悪の漏出事故だった。虚偽情報を流した理由に動燃があげたひとつに、もんじゅが日本のエネルギー計画にとってあまりにも重要なので、原子炉の運転を危うくするわけにはいかないというものだった。いうならば、増殖炉計画の前では、国民の安全は二の次ということである。
1211日早朝、福井県の職員集団が勇気ある行動に出なかったら、動燃の意図的な隠蔽は首尾よくいっていただろう。職員らは隠蔽を疑い、施設に立ち入って、ビデオテープを押さえた。この行動は、前回、1980年代はじめの福井県の敦賀原発1号炉事故の直接の結果だった。福井県職員らはその事故を調査することを許可されなかった。もんじゅ事故が起こったとき、職員らは二度と追い返されるものかと決心していた。動燃本体がビデオ隠し工作に関与していたことが暴露されると、ひとりの動燃役員が自殺した。
日本の核施設で大問題が相次いだなか、第二次世界大戦からこのかた、見ることもなかった軍事反撃が日本人の精神に舞い戻ってきた。1999年の春、日本の領海に迷い込んできた北朝鮮のトロール船に日本の艦船が発砲したのである。この戦闘は、終戦以来で初めての日本の銃器が怒りの火を吹いた例である。純粋に軍事上の観点でいえば、この交戦は取るに足りないものであるが、これが日本人の軍人魂の再覚醒を象徴していただけに、北太平洋地域はこれを留意した。
バーンウェル核再処理施設
日本のほか、フランス、ロシア、英国だけがいまだにプルトニウムを資産にみなしている。これらの諸国は商業用再処理産業に数十億ドルを投資している。米国は、サウスカロライナ州バーンウェル、サバンナ・リバー施設のゲートのすぐ外に所在する唯一の再処理施設を放棄し、それからはその施設をまったく運営していない。フランスのラ・アーグと英国のセラフィールドにある巨大な政府所有工場だけが、外国の顧客のために使用済み核燃料からプルトニウムをトン単位で分離している。顧客の最大手は日本であり、日本は増殖炉を建造する自信がありながら、方針を変えて。英国とフランスからプルトニウムを購入している。
フランスと英国の再処理事業者が日本に変換するプルトニウムは、核兵器に利用できるほど純度が高く、その一部は米国で採掘されたウラニウムに由来している。レーガン政権のリチャード・ケネディが押し通した日米協定のおかげで、もはや米国にはこの物資の輸送と利用に対してなんの影響力ももたない。日本の惨憺たる核事故のあとでさえ、また核兵器を制限し、テロ集団による核物質の入手を阻止する努力が払われているにもかかわらず、米国原産の核物質がいまだにトン単位で日本に海上輸送されている。一回の航海ごとに数百発の爆弾に足りるプルトニウムが積まれているのだ。
日本国民が世界で最も熱烈な核兵器反対論者であるにもかかわらず、日本の安全保障はがんじがらめに核兵器に結び付けられている。アメリカの核の傘は目下、中国や北朝鮮といった核武装した近隣諸国に対する最後の防衛線になっている。そして、日本の指導層が持ちだす理屈は、アメリカが日本を防衛するためにあえて核戦争に踏み込むという確証が現実にはないというものだ。中国か北朝鮮から飛来する爆弾が自国領で爆発する可能性があるので、多くの日本の指導者たちは核の選択肢を望ましいだけでなく、不可欠なものと考えるようになった。
リチャード・ケネディは1998年に物故し、アーリントン国立墓地に埋葬された。年月の流れのなか、彼の門弟たちは心地よい暮らしをつづけた。だが、この男たちがケネディ特命大使に尽くした労苦の果実を享受しているとき、彼らが創りだした政略の現実がこの上なく劇的な形で立ち現れようとしている。
英国カンブリア州シースケール、セラフィールド核再処理施設
セラフィールド核再処理施設は、サバンナ・リバー施設は英国政府所有バージョンである。かつて核爆弾の主成分、世界最強の致死性物質であるプルトニウムの生産専用施設であったセラフィールドは、ほんの数年前まで近隣の町の暮らしを支える基盤だった。6,500人の労働者がセラフィールドで働き、世界中の発電所で放射線照射された原子炉燃料から世に渇望されるプルトニウムを分離している。これは危険な仕事だ。顕微鏡サイズのプルトニウム微粒子1個で、死の病、肺や血液の癌の原因になりうる。セラフィールドはプルトニウムをトン単位で製造し、また他にもさらに大量の放射性廃棄物も産出していた。サバンナ・リバーもそうだが、英国の工場は周辺環境に放射能を撒き散らしていた。1952年から、アイリッシュ海の魚類、貝類、海藻類、さらには土地の鳩までがセラフィールドからの放射性排出物で著しく汚染されてきた。プルトニウム工場は、たったの10年ごとに100億リットルの放射性廃水を海に垂れ流していた。
セラフィールドの再処理事業の最悪の危険な結果は、それが地球の裏側でもたらしたのかもしれない軍拡競争である。それも、セラフィールドを運営する政府所有の事業体、英国核燃料会社(BNFL)が最高額を提示した顧客のためにプルトニウムを量産するせいだ。英国の元核兵器設計者、フランク·バーナビー博士は、日本に向けて繰り返し船積みされたセラフィールド製のプルトニウム燃料は純度がじゅうぶん高く、核兵器用に使えるという。彼の説明によれば、英米両国とも、いわゆる原子炉級プルトニウムで核兵器を製造し、実験していたのである。
核拡散防止の専門家、故ポール・リーヴンザルは、セラフィールドに一番近いシースケールの町の人びとは核兵器の原料になりかねないプルトニウムを自覚もなしに送り出していたといい、このように告発する――「そんなことを、サッチャーの英国政府は英国の雇用の大義名分でやらせたのです」
ケネディ特命大使の協定は、ありうるテロ攻撃からプルトニウムを防護する任務を帯びた政府管轄船舶による核物質輸送船舶の護衛を要請していた。この文言の精神は軍艦による搬送品の護衛を要するというもののはずだったが、船会社は日本国内の圧力に応じ、米国、英国、日本の政府を説得して、2隻の輸送船による相互護衛を許諾させた。輸送船のオーナー企業は太平洋核輸送社(Pacific Nuclear Transport Limited)であり、これはBNFLの子会社だが、経費節減を望む日本の電気会社の連合体が一部所有していた。
日本、フランス、英国の各国間でつづけられた核貿易は、ほどなく定期的なものになった。年に何千トンもの米国原産・原子炉廃棄物の日本向け輸送は、1995年春まではおおむね穏便のままにつづけられた。フランスと英国による日本向けプルトニウム輸送の継続には、利益を超えた、もうひとつの理由があった。やめれば、ロシアが乗り出すはずだった。経済的には、世界唯一の熱心なプルトニウムの買い手、日本に需給バランスが有利に働いていた。日本の近隣アジア諸国は、日本が核武装に踏み込む見通しに直面して――また、これら諸国間の血なまぐさい歴史を思い起こして――フランス政府所有の再処理事業者、アレヴァから買いはじめた。
輸送は平穏無事では済まなくなった。
パシフィック・ピンテール
フクシマの核惨事は、兵器級プルトニウムに関連して、日本最初の緊急事態ではなかった。1995320日のこと、核爆弾数百発分もの廃棄プルトニウムを積載したパシフィック・ピンテールが荒天のなか、保護を求め、チリの海域に入ろうとしたとき、日本は間一髪でチリの沿岸を汚染するところだった。
その1995320日、ブレイン・アクストン船長は40年間の海上勤務で見たこともない悪天にみまわれた。軽武装外洋船、パシフィック・ピンテールは荒れる海であえぎ、40フィート(約12メートル)の大波が船首を超え砕け、嵐のなか、水しぶきが横なぐりに飛んでいた。船は、南アメリカ突端はホーン岬の沖合、南極海強風帯――世界最悪の死の海域――のど真ん中にいたが、天候はアクストン船長の抱える問題のひとつにすぎなかった。
ピンテールは、船倉の積み荷――フランスから日本に向けて搬送中の、プルトニウム含有高レベル放射性廃棄物のキャニスター28基――をめぐって、チリ海軍の哨戒艇と息詰まるように睨みあっていた。ピンテールが浸水すれば、毒性の積み荷は南アメリカ西岸の全域を毒物で汚染しかねなかった。アクストンとチリ側の相手は、惨事の可能性にはっきり気づいていた。
アクストンは横なぐりのしぶきと雨を通して、哨戒艇の掲げたチリの旗を判別できた。チリ側の艇長はすでに、ピンテールがチリの200マイル排他海域に進入するのを阻止するために必要であれば、いかなる措置であっても発動する権限を得ているとアクストンに警告していた。そのことばはアクストンに明確だった。この上なく慇懃な物腰で「針路を反転せよ。さもなければ、撃沈または拿捕する」といったのだ。
チリ政府としては、ピンテールが沈没するとすれば、チリ経済の大黒柱である南太平洋漁業の区域からできる限り遠く離れた位置のことでなければならないと意を決していた。チリの哨戒艇長は警備周波数帯を通して警告を叫びつづけていた。哨戒艇が荒海をついて、ピンテールに発砲する位置を定めようとしていたとき、艇長はサンチャゴに無線で呼びかけつづけ、発砲許可を乞うていた。許可は来なかった。アクストンが賭けたように、チリ人は放射性廃棄物の積み荷を自国の海の底に置きたくなかった。海は荒れ、双方の船とも、ようやく浮いているありさまだった。相手側に乗り込むなど、論外だった。ピンテールがチリ側海域に進入しつづけ、パタゴニア海岸の風下で嵐を逃れても、チリの哨戒艇は見ているしかなかった。意味ありげな話だが、嵐で散々な目にあったピンテールが、2週間後に日本の海域に到着したとき、東方で台風が発達中であり、日本側オーナーたちは嵐を避けるために日本沿岸から300マイル離れた位置で待機するようにピンテールに命じた。
ヨーロッパからの廃棄物・MOX燃料輸送
(プルサーマル導入原発)
20109月、フランスのアレヴァ社が最初のプルトニウム主体混合酸化物(MOX)燃料を福島第一原子力発電所3号炉に装填した。年を経るごとに、ますます多くの日本の指導者らがますます大胆に、軍備賛成、原発推進を広言するようになった。20113月の津波と核惨事に先立つ時期、中国人船長が船を海上保安庁の巡視船に突っ込みさせ、逮捕されたあと、日本の核武装化の案件はとてもおおっぴらに語られるようになった。石原慎太郎・東京都知事は英紙インディペンデントのインタビューで、日本は1年で核兵器を開発できると言い放ち、世界に向けて次のような強烈なメッセージを発信した――「わが国の敵対国、中国、北朝鮮、ロシアのすべて――つまり、すぐ近くの隣国のすべて――は核兵器を保有しております。世界に、同じような状況の国がありますか? 人はコストやらなにやらと、とかくいいますが、事実として、外交交渉力とは核兵器のことなのです。(国連)安全保障理事会の(常任)理事国の全部が核兵器を保有しています」。石原はインディペンデントに、衝突は、巡視船に突っ込んだ容疑で告発された中国船の船長が釈放されて終息したが、アジアに自国の弱みをさらけ出したと語った。「(日本に核兵器があれば)中国だって、尖閣諸島に手を付けるような無茶なことはしませんよ」
知事がこのように発言する前の週、中国政府は同国の2011年度国防予算が13パーセント増額されるだろうと発表していた。日中間の緊張をさらに高める要因として、中国は公的に20111月時点で世界第2位の経済大国になり、日本を追い抜いていた。
知事は、日本が核武装すれば、第二次世界大戦中に北方4島を奪ったロシアでさえ、日本にもっと敬意を払うだろうといった。さらに彼は、憲法が武器の製造と輸出にかけた制約をすべて除去すべきだと国民に忠告した。「わが国は最新型の兵器を開発し、外国に売り込むべきです。米軍が産業を粉砕する前は、日本は世界最優秀の戦闘機を造っていました。それを取り戻さねばなりません」。日本の国家主義者らは、米軍占領期に米国が執筆した日本の戦後憲法を破棄すべきだと言い立てている。
知事が以上のように発言した1か月後、福島第一原子力発電所で、プルトニウム主体MOX燃料を装填した3号炉を含む原子炉3基が炉心メルトダウンを起こした。初めて、より広い範囲の日本国民が、自分たちの政府と影響力のある電力会社の関係について、またプルトニウムの備蓄について、真摯な疑問を発しはじめた。
1年後のいま、答えよりも疑問が多く残る。

【編集者追記】
国家安全保障ニュース・サービス(NSNS)の記者らは1991年以来、秘められてきた日本の核兵器開発計画について調査を実施してきた。われわれの作業は長年にわたって進められた。NSNSはその結果、福島第一原子力発電所で進行中の大惨事にまといつく虚偽と秘密主義についてユニークな洞察を得ることになった。当記事は、NSNSの現役または元記者、フェロー、インターンらの共同作業の果実である。
【訳者お断り】
本稿の翻訳作業が完了する直前のことですが、かねてから貴重な情報源として信頼してきたPeace Philosophy Centreサイトに、酒井泰幸氏による既訳が掲載されていることに気づきました。立派な翻訳が公表されているのに、いまさら拙訳を公開する意味があるのかと一瞬、迷いましたが、よい記事には、さまざまなバージョンの翻訳があってもいいと思い直し、失礼を承知しながら、拙ブログに掲載させていただきます。なお、下に酒井氏翻訳版へのリンクを貼っておきます。
Peace Philosophy Centre
法の抜け道を使って日本のプルトニウム蓄積を助けたアメリカ:
NSNS ジョセフ・トレント論説


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池澤夏樹 (いけざわ・なつき)
1945年北海道帯広生まれ。作家、詩人。88年『スティル・ライフ』で芥川賞、93年『マシアス・ギリの失脚』で谷崎潤一郎賞、2000年『花を運ぶ妹』で毎日出版文化賞、2011年個人編集の世界文学全集で朝日賞、ほか受賞多数。他に、『きみが住む星』『池澤夏樹詩集成』『カデナ』『嵐の夜の読書』『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』『双頭の船』など著書多数。


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