2014年4月10日
福島第一核惨事は、これが単に日本の危機だけにとどまらないことを見るための扉を開いた。これは地理と時間を超えた危機なのだ。時間軸を60年遡って、漁船・第五福竜丸、そして日本の人びとに原子力を押し付けるアメリカの方策にこの危機の根源を探る。
テキスト
フクシマ核惨事3周年
いまふたたび命を見つめよう…
いまふたたび命を見つめよう…
わたしが日本から戻ると、いつもアメリカの人たちに「では、いま日本はどうですか?」と聞かれます。
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福島第一惨事3周年の今日、わたしは60年前に起こったできごとについてお話します。
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1954年3月1日の朝早く、大石さんは水平線の上に鮮やかな光を目撃し、その少しあと、ドドっと重い地鳴りのような音が海の下から聞こえました。そして、水平線に巨大なキノコ雲が見えましたが、乗組員は何が起きているか、わかりませんでした。2時間もすると、キノコ雲がすごいスピードで船に迫り、真っ白な灰が彼や他の乗組員の上に降ってきました。それがなにか、まだわかりませんでした――灰は熱くも冷たくもなかったのです。
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まもなく、漁民たちは吐き気とめまいに襲われました。2~3日してから、灰(ほんとうは噴き上げられたサンゴ礁)に触れた部分が火傷をしていました。10日たつと彼らの髪の毛が抜けはじめました。船は3月14日、なんとか日本の岸辺に帰りつきました。最初、意図的にSOSを発信しなかったのは、米軍に撃沈されるかもと恐れたからだと推測されています。
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反核・反米感情の盛り上がりは、まさしく第二次世界大戦後に米国が望まないものでした。米国はまもなく、国益を守るための方策を実施しました。1954年4月、業務調整庁(OCB)――前年にアイゼンハウアー大統領が創設した執行委員会――が「水素爆弾および関連開発に対する日本国民の好ましからぬ態度を相殺するための米国の行動に関する概要チェック・リスト」と題する内部文書を発行しました。
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OCB報告はまた、米国が日本国内で実験用原子炉を建造すると提案すべきであると勧告していました。アイゼンハウアー大統領は、日本国民の心に宿る核テクノロジーのイメージを死の軍事技術から安定と繁栄の象徴に転換する米国の尽力の一環として、「平和のための米国の原子力」プログラムを起ちあげました。
このゴールを達成するために米国は、第二次世界大戦後に事実上の米国植民地になった日本に成長著しい核産業の経済的・戦略的恩恵を分かち合う機会を提供しました。
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これは、日本の人びとに、そして世界の人々に、どのように原子力が押し付けられたのかを示す、ささやかな一例であるにすぎません。
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同じ手口が世界中で何度も何度も繰り返されています。
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福島市の近くで、別の人が奇形のカエルを見かけ、それがとてもひどい奇形だったものですから、跳びはねるのは別にして、最初、これはカエルだと言い当てるのもむつかしかったそうです。以上の話は、わたしが会った人たちが説明した本当のことであり、その人たちはこうした環境異常を記録したり写真に撮ったりしていました。
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12月から1月にかけて1か月の日本滞在で、わたしもまた、普通でない症状を経験しました。皮膚に発疹ができたのですが、治らないのです。フクシマにいたとき、喉がいがらっぽくなり、眼に痛みがありました。
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IAEAと福島県立医科大学とは共同で福島県民の健康データを収集し、照合しています。この仕事は単なる見せかけではないのか、あるいはなお悪いことに、秘密のデータを集めたいだけではないのかと人びとの多くが危惧しています。「専門家ら」には予断にもとづく結論があるのだと心配する人たちが多いのです。その結論とは、人びとが病気になるとすれば、福島第一原発事故のせいではないというものです。
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イライラすることに、日本と海外の放射線専門家らはこれらの甲状腺癌は福島第一事故とは無関係との見解を維持しつづけています。
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日本人の多くが、毎日決めなければならない選択に向き合っています。
マスクを着用するのか、しないのか。
子どもを連れて、家から汚染度の低い土地に移るか否か。
セシウムが入っているかもしれない、このほうれん草を買うか否か。
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けれど、わたしたちの人生で最重要な選択は、わたしたちの誰にも決して手の届かないものでした。採掘されたウラニウムのすべて、その結末としてのわたしたちの暮らしのなかの放射性核種を受け容れるか否か選択することはわたしたちに許されていませんでした。
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いま、わたしたちになにができるでしょうか?
ときに、わたしの大きな部分が状況を修復するには手遅れだと感じます。
これは世界政治と経済の泥沼にはまりこんだ状況――力とお金を奪い合う闘争――なのだ。祈りによって重武装した人びとの行進を止めるのは厄介だ。
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生命を気にかけるなら、わたしたちは少なくとも核汚染のペースを遅らせる方途を見つけようとしなければなりません。そして、放射線の影響についての解釈をいわゆる専門家たちに委ねるのではなく、人間たち、動物たち、植物たち、この地球上の生きとし生けるものに現実になにが起こっているか、注目しなければなりません。
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本日はご一緒いただき、耳を傾けられ、またこれまでの3年間、日本の悲劇に関心をご表明いただき、ありがとうございます。
あなたの慈悲のこころがわたしにとても大きな強さを与えてくれます。
勇敢に状況にかかわる日本のみなさんにも感謝します――
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わたしは、なにが起こっているか見つめつづけ、真実を求めつづけたいと願っています。
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【参照記事】
第五福竜丸・元乗組員大石又七さんインタビュー
――事件までの経緯とようすを教えてください
――事件までの経緯とようすを教えてください
14歳から漁師になり、20歳のときに乗ったマグロ船が第五福竜丸です。1954年1月22日、第五福竜丸は23人の乗組員を乗せて、焼津港(静岡)を出港しました。3月1日に14回目の最後の延縄漁を行なっていました。そして、午前6時45分に事件が起きました。
朝、私が仮眠していたとき、光が空をサーッと流れ、空が黄色い光に覆われました。徐々に空を覆った光に赤色が加わり、夕焼けのような光景になりました。2~3分間は光が空を覆っていたと思います。核実験場からは160㎞ほど離れていたので、爆発は水平線の先にあり、乗組員は何が起きているか、わかりませんでした。 …つづきを読む
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