2014年4月24日木曜日

内なる変革: ナオミ・クライン、気候変動を克服する道を語る

名は体を表す。当ブログ『原子力発電_原爆の子』は脱原発の願いをこめて運営されていますが、ナオミ・クラインの論じる気候変動の問題には、原発社会の問題との共通点が多々あるようです。(訳者)



【初出】2014422日 The Nation
内なる変革: 障害は外部的なものだけではない
The Change Within: The Obstacles We Face Are Not Just External
気候危機はいかにもタイミングが悪く、それに対処するためには、新しい経済だけでなく、新しい思考様式が必要である。
ナオミ・クライン Naomi Klein
「わたしたちの文化を仕切る概念がわたしたちを守らなくなったとすれば、そのような概念を変革する力はわたしたちの内部にある」と筆者・活動家は語った。 (Image, via the Nation)
気候変動がすでに進行している様相の厄介な点のひとつは、生態学者たちが「ミスマッチ」とか「ミスタイミング」と呼ぶものに表れている。これは、動物たちが温暖化のために、とりわけ繁殖期に、不可欠な栄養源を絶たれる現象のことであり、十分な食餌にありつけなくなれば、個体数の急激な減少につながりかねない。
多くの鳥類種の渡りの様式は何千年もかけて進化してきたものであり、だからこそ芋虫などの栄養源が最も豊富なときに卵が孵化し、親鳥が腹ペコの幼鳥に餌をたっぷりと運べる。だが、春の到来が早くなったいま、芋虫が孵化するのも早くなり、一部の地域では、雛鳥が孵化しても芋虫が不足し、数々の健康と繁殖への打撃の脅威となる。グリーンランド西部で同じように、カリブーが分娩の土地に到着しても、数千年にわたり頼りにしてきた飼料植物がいまや気温の上昇のために成長が早まり、時期が一致しなくなる。雌カリブーはそのため、乳分泌、生殖、子育てに必要なエネルギーの不足に陥り、これが出産と生存率の減少に直結するミスマッチとなる。
科学者たちは、キョクアジサシからマダラヒタキまで何十もの生物種について、気候関連のミスタイミングを研究している。だが、彼らは重要な一種――わたしたち、ホモ・サピエンス――を忘れている。わたしたちもまた、たとえ生物学的な意味でなくて文化的・歴史的な意味であっても、気候関連のミスタイミングのすさまじい事例に苦しんでいる。わたしたちの問題とは、政治・社会状況が気候変動の性格と規模に比類なく敵対的であった歴史上の瞬間――規制緩和資本主義を世界に拡散する大遠征の出陣のとき、80年代それ行けドンドン期が最終段階にいたった瞬間――に気候危機がわたしたちの両膝のあいだに生まれ落ちたことである。気候変動は総合的な問題であり、人類が達成したことのない総合的な行動の必要性を突きつけている。しかも、これは総合的な世界をめぐるイデオロギー戦争のさなかに主流意識に入りこんだのである。
このいたく不運なミスタイミングのため、わたしたちがこの危機に有効に対処する能力にありとあらゆる類いの障害が生じた。つまり、地球上の生命を守るために企業行動に史上空前の統制を発動する必要がある、まさしくその瞬間、企業の力は優勢だった。つまり、わたしたちが規制する力を最大限に必要としていた、まさしくそのとき、規制は禁句だった。つまり、公的機関の増強と再生を最大限に必要としていた、まさしくそのとき、公的機関を解体し枯渇させる方法しか知らない政治家連中がわたしたちを支配していた。またつまり、大規模なエネルギー変革を達成するために、政策が最大限の柔軟性を必要としていた、まさしくそのとき、政策立案者たちの手を縛る「自由貿易」政策一式の枠がはめられていた。
次の時代の経済を阻害する、これらさまざまな構造障壁に対決することは、いかなるまっとうな気候運動にとっても、不可欠な務めである。だが、これは当面する唯一の仕事ではない。わたしたちはまた、気候変動と市場独占のミスマッチがわたしたちの自我そのものに障壁を生じさせた様相に対峙しなければならず、この障壁のため、ひそやかでおびえた眼差しを向ける以上に決然と、切迫している人類の危機の最たるものを見るのがなおのこと難しくなっている。わたしたちの日常の暮らしが市場と技術至上主義との両方のために改変されている習わしのため、わたしたちは――別の生きかたが可能であると信じる意欲はおろか――気候変動が現実であると確信するのに必要な観察手段の多くを欠いている。
また、わたしたちが集まる必要があった、まさしくそのときにわたしたちの公共空間がバラバラになり、消費を減らす必要があった、まさしくそのときに消費主義がわたしたちの生活の文字通りすべての側面を覆いつくし、減速して、気づく必要があった、まさしくそのときにわたしたちは加速し、見通す時間を長くとる必要があった、まさしくそのときにわたしたちがたったいまの瞬間だけを見ることができなかったのも、大して不思議ではない。
これがわたしたちの気候変動ミスマッチであり、これがわたしたちの種だけでなく、この惑星の他種すべてに影響をおよぼしている。
これは福音となるが、わたしたち人間はトナカイや鳥類と違って、進化した論理的思考能力とそれに付随する意図的に適応する才能――並外れた速度で古い行動様式を変革する力――に恵まれている。わたしたちの文化を仕切る概念がわたしたち自身を守るのを邪魔しているなら、そのような概念を変革することはわたしたちの能力のおよぶ範囲内のことである。だが、それが可能になるまえに、まずわたしたちの個人的な気候ミスマッチの性格を理解する必要がある。
気候変動は消費削減を突きつけるが
わたしたちは消費者である他に自分を知らない
気候変動は、単にわたしたちの消費行動を変える――SUVに代えてハイブリッド車を買う、飛行機にのるときにカーボン・オフセット(炭素排出権)を購入する――だけでは解決しない。問題の核心として、これは相対的に豊かな階層による過剰消費により生じた危機であり、いってみれば、世界で最も躁気質の消費者はますます消費を減らさなければならなくなるだろう。
問題は、さかんにいわれているような「人間性」ではない。わたしたちは、これほどたくさんの買い物をするように生まれたわけではなく、ほんの一昔前には、はるかに少ない消費でまったく同じように幸福(多くの場合、もっと幸福)だった。問題は、わたしたちの特異な時代に消費が担うようになった膨れあがった役割にある。
後期資本主義は、ショッピングがわたしたちのアンデンティティを形成し、共同社会を発見させ、わたしたち自身を表現するので、消費者としての選択を通してわたしたち自身を創造するようにと教える。だから、地球の維持システムにかけられた負荷が重すぎるので、欲しいがまま買い物することはできないと人に説くことは、ほんとうの意味で自分自身になることはできないというに等しい一種の攻撃として受け止められる。これが、もともとの「3つのR」――レデュース(減らす)、リユース(再利用する)、リサイクル――のうち、三番目のリサイクルだけがなんらかの市民権を認められた理由であるようであり、それも決められた箱にレフューズ(廃物)を放りこんでいる限り、買い物をつづけるのを許されるからである。他の二つは、消費削減を求められることになり、唱えられた途端に死語になってしまった。
気候変動は足が遅く
わたしたちは足が速い
弾丸列車に乗って、地方の景観のなかを突っ走っていると、田舎道の人びと、トラクタ、車、あなたが抜き去るなにもかもが静止しているように見える。もちろん、じっとしてはいない。みな動いているのだが、列車に比べて速度が遅いので、止まっているかのように見えるのだ。
気候変動でも同じこと。わたしたちの文化は、あの化石燃料の動力付き弾丸列車のようであり、次の四半期報告、次の選挙期間、次の分散投資払込、あるいはスマートフォンやタブレットの個人認証に向かって突進している。変動する気候は窓の外の風景のようだ。わたしたちのキビキビした見渡しのきく視点から、静止しているように見えるが、それでも変動しており、そのゆっくりした進展は、氷盤の後退、海水面の上昇、着実な気温上昇で測ることができる。気候変動は抑制せずに放置しておくと、間違いなく加速し――島嶼諸国の地図からの抹消、市街を水没させるスーパー暴風雨の形になりそうだが――わたしたちの欠陥のある目を捉えるだろう。だが、そのときには、おそらく転換点を過ぎた時代がはじまっているだろうから、わたしたちが行動しても違いを出せないだろう。
気候変動は局地的であり
わたしたちは同時にあらゆる場所にいる
問題は、単にわたしたちが余りにも素早く動いていることだけではない。ある種の花の早すぎる開花、湖の異常に薄い氷の層、渡り鳥の遅すぎる到着など、変化が生じている領域は極めて局地的なのだ。そのような交わりは、そのような場を単に景色として見るのではなく、恵みの母として深く知る場合だけ、また現地の知識が神聖な信頼によって世代から世代へと伝えられる場合だけに成立する。
だが、そのようなことは都市化し、産業化した世界でますます稀になっている。わたしたちは――新しい仕事、新しい学校、新しい恋のため――気軽に家を手放す。そうすることで、それまでの暮らしで蓄え、また祖先(わが家の場合、先祖たち自身が移住を繰り返していた)が築きあげた場所にまつわる知識が断たれる。
わたしたちのうち、定住をつづけている人たちにとってさえ、日ごろの暮らしは住んでいる土地の自然から切り離されているということもありうる。わたしたちのように、空調の施された家、職場、車のなかで外部気象から遮断されていれば、自然界で進展する変化はたやすくわたしたちを素通りする。スーパーマーケットに行けば、いつも輸入産品の小山が積まれており、終日、トラックでもっと入荷するので、わたしたちの住む宅地周辺の農地産品が歴史的な日照りによって壊滅していても、まったく念頭にないということもありうる。なにかほんとうに不都合な事態が進行していると気づくためには――過去の最大記録を塗り替えるハリケーン、あるいは数千の住宅を破壊する洪水といった――なにか大事変が必要なのだ。たとえ気づいたとしても、真相が身に染みる前に次の危機にたちまち気を取られるので、その認識を長く保つのが厄介である。
その一方、自然災害、凶作、家畜の飢え、気候変動が煽る民族紛争がさらに多くの人びとを父祖ゆかりの土地から追い立てるにつれ、気候変動は毎日のようにせわしなく寄る辺ない人びとに重荷を加えている。そして、人間が移動するごとに、特定の土地に対する決定的に大切なつながりが失われ、土地に身近く耳を傾ける人はますます少なくなる。
気候汚染物質は目に見えず
わたしたちは見えないものを信じなくなった
BP(英国石油会社)のマコンド(ガルシア・マルケス『百年の孤独』の舞台)2010年、メキシコ湾に石油の奔流を漏出して、壊滅したとき、同社CEO、トニー・ヘイワードから聞かされた言い草はこうだった――「メキシコ湾はとてもでっかい海です。石油の量とわたしどもが散布する処理剤の量は、海水の全量に比較すれば、ほんのちっぽけなものです」。当時、この弁明は広く冷笑され、それも当然だったが、ヘイワードはわたしたちの文化で後生大事にされる信念、目に見えないものはわたしたちを傷つけず、それにじっさい、おおっぴらに存在しないとする信念を代弁しているにすぎなかった。
わたしたちの経済は、廃棄物を投げ捨てることのできる「あちら側」がいつも存在しているという仮定を頼りにしている。規制の枠から取り出したゴミの行き先になるあちら側があり、排水口を流れ落ちた廃水の行き先になるあちら側がある。わたしたちの資材を生産するための鉱物や金属を採掘するあちら側がいつもあり、その原材料が最終製品に加工されるあちら側がある。だが、BPの原油漏れが残した教訓とは、生態理論学者、ティモシー・モートンの言葉を借りれば、わたしたちの住処は「『あちら側』のない世界」なのだということ。
わたしが15年前、『ブランドなんか、いらない』を出版したとき、読者のみなさんは、自分たちの衣類や雑貨が製造される現場の虐待的な条件を知って、ショックを受けた。だがそれ以来、わたしたちはその条件と共存して――正確にはそれを容認するわけではないが、不断の忘却状態のうちに――生きることを学んでしまった。わたしたちの経済は、幻影のそれ、意図的な目隠しのそれなのだ。
空気は究極の不可視物であり、空気を温暖化する温室効果ガスはこの上なく捉えがたい幻のようなものである。哲学者、デイヴィッド・アブラムは、人類史の大半において、空気に力を与え、わたしたちの敬意を要求するものが、まさにこの不可視性なのだと指摘する。「イヌイットは、シラ、世界の風のこころと呼ぶ。ナヴァホは、ニルチ、聖なる風という。古代ヘブライ人は、ルアク、突進する霊と呼んだ」のであり、大気は「命の最も神秘的で神聖な相」なのだった。だが、わたしたちの時代では、「われわれは二人の人間のあいだに渦巻く大気を滅多なことでは認識しない」。アブラムはこのように書く――わたしたちは空気を忘れたあげく、それをわたしたちの下水道にしてしまい、「われわれの産業の不要な副産物の完璧な投棄処分場にみなし…煙突管から立ち昇る、最も煤けた、鼻をつく煙でさえ、分散し、拡散するであろうし、常に、最終的に目に見えない存在へと解消する。なくなってしまったのだ。視界からも、念頭からも」。
* * *
わたしたちが気候変動を把握するのをこれほど困難にしている、もうひとつの要因は、わたしたちの文化が、いつまでたっても現在のもの、わたしたちを生みだした過去からも、またわたしたちがみずからの行為によって形作ろうとしている未来からも意図的にそれ自体を遮断しようとする文化であるということ。気候変動は、わたしたちが過去の世代に対してなしたことが、ただ単に現在に影響をおよぼすだけでなく、未来の世代に不可避的な影響をおよぼすことに関わっている。このような時間枠は、たいがいのわたしたちにとって、耳慣れないことばになってしまった。
これは、個々人の判断を提示したり、自分たちの浅はかさや根無し草ぶりゆえにわたしたち自身を叱りつけたりして済むことではない。むしろ、わたしたちが、化石燃料に固く歴史的に結びついた産業計画の申し子なのだと認識することに関わるのだ。
そして、まさしくわたしたちが以前に変わったように、わたしたちは再び変わることができる。偉大な農民詩人、ウェンデル・ベリーが、わたしたちの一人ひとりが自分の「故里」を愛する義務を負っているという内容の講演をするのを聴講したあと、わたしは彼に、わたしやわたしの友人たちのように、コンピュータの世界に生き、マイホーム用のショッピングに明け暮れる根無し草人間のために、なにかアドヴァイスがありませんかとたずねた。「どこかで立ち止まりなさい」と彼は応えた。「その場所を知るという千年つづく営みをはじめなさい」
これはたくさんのレベルでよい忠言だ。なぜなら、わたしたちの人生をかけた、この戦いに勝つために、わたしたちみなは拠って立つ場所が必要だ。
© 2014 The Nation
ナオミ・クラインは、ジャーナリスト、提携コラム作家、国際的にもニューヨーク・タイムズ紙上でもベストセラーとなった『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴くhttps://blogger.googleusercontent.com/img/proxy/AVvXsEhKrE5QIbmwTgRlkfCQQAldsDOZeWAb2h4dp8V0dViu0rinqBlpv1Wu7EEP16mTpAipubSxW6K50dCoPRDdtAz9ITYF6sJZuEolFHxWwVydKkRvPTRA8WMvdukRp7aTtlBR8Mg_pBk2mKA7R3srWfi9JZC1Qk7wkI1W5g8Y7uK6aP4o4X_fDU7nAcw=https://blogger.googleusercontent.com/img/proxy/AVvXsEhKrE5QIbmwTgRlkfCQQAldsDOZeWAb2h4dp8V0dViu0rinqBlpv1Wu7EEP16mTpAipubSxW6K50dCoPRDdtAz9ITYF6sJZuEolFHxWwVydKkRvPTRA8WMvdukRp7aTtlBR8Mg_pBk2mKA7R3srWfi9JZC1Qk7wkI1W5g8Y7uK6aP4o4X_fDU7nAcw=上巻下巻の著者。https://blogger.googleusercontent.com/img/proxy/AVvXsEgwW2LTkWpsOeFH6HZiqgFDzyoQXY61ao1ebECXZQzVq4OSiJyNRcopkN7JXRrfHgadh2VVgZ5MNhMi9AdUolNvv34wmW6dW2TSrma4VmI53FxUXzmLwsBRPyRqyCzXJNY-zhjXspn11zHXTgY70wBtP5QGOnlcFWjYJYaPEmwtvDiqTh01x7ieajM=前著に『ブランドなんか、いらない―搾取で巨大化する大企業の非情https://blogger.googleusercontent.com/img/proxy/AVvXsEgyGrC5K0-pk_ZxUIhPf1eGwcWsFhlQpMojkSGypJzxY8gSH6MG2g_7loy-W06kYYZ7vMhfHQU2qXAKBX4z7_fqlSst233uy9-NGG8ntfl_IQ9MOFbg2EwWvEy3keWItPsYeMziaUFKucTCf7PZje9IqBUKHhEWyMUNgG4Yrzfw3P-6v0jizLRVQIM=』、“Fences and Windows: Dispatches from the Front Lines of the Globalization Debate
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