2015年5月14日木曜日

#VICE:ゲルト・ラドウィッグが撮影した世界最悪の核大惨事




ゲルト・ラドウィッグが撮影した

世界最悪の核大惨事

201551
写真:ゲルト・ラドウィッグ GERD LUDWIG
テキスト:アリーナ・ルディア ALINA RUDYA

©Gerd Ludwig(ウクライナ、プリピャチ)25年たって、遊園地は観光の目玉。

初出: VICE Germany

29年前、1歳だったわたしは、両親とともにウクライナの小さ町――キエフから約100キロ――プリピャチに住んでいた。暮らす町がチェルノブイリ原発から3キロでなければ、これはごく普通の物語になっていたことだろう。あるいは、わたしの父がエンジニアとして――原子炉の一つを動かし――働いていたという事実がなければ。

当時のプリピャチ住民の平均年齢は、26歳くらいだった。4号炉がシステム試験中に爆発し、高レベル放射性物質のプルームを大気中に放出して、住民(約50,000人)は一人残らず36時間以内に逃げなければならなくなった。今日にいたるまで、これは史上最悪の核事故である。

この破局的な惨事がわたしの生きかたを決定づけ、わたしの父、コンスタンティンをはじめ、放射能が健康にもたらす影響のために多くはもはや生き永らえていない数千の人たちの命運を決めた。

写真家、ゲルト・ラドウィッグの最新シリーズ、"The Long Shadow of Chernobyl" (Edition Lammerhuber, 2014) (『チェルノブイリの長い影』)は、災害現場周辺の立入禁止ゾーンを訪れた20年間にわたる9度の旅の結果が蓄積した作品である。わたしは、写真について作者と語りあい、たがいのゾーン体験をわかちあう特権に恵まれた。

©Gerd Ludwig. 防護服を着込んだゲルト・ラドウィッグ

あなたは旧ソヴィエト諸国でずいぶん仕事をしていらっしゃる。どういうことに関心を抱かれたのでしょうか?
若いころからです。第二次世界大戦のさい、わたしの父はドイツ陸軍に徴兵され、ソ連に侵入した部隊にじっさいに配属されていました。父は戦闘に明け暮れ、スターリングラードに達しました。帰国後、父の体験談がわたしのベッドのお伽話になりました。わたしが成長すると、質問しはじめました。父の説明はまったく不行き届きで、わたしは、ロシアとその他のソヴィエト共和国に対して、途方もない罪意識を抱きながら成長したのです。そういうことですので、初めて"Geo Magazine"*ゲオ・マガジン)からロシア派遣の仕事を獲得したとき、ロシア――ドイツに侵略されて、あれほど苦しめられた国――を批判するような写真を撮るべきでないと自戒しました。
  *ナショナル・ジオグラフィックに類似したドイツ発祥の国際誌

チェルノブイリの撮影は、どのような結末になったのですか?
2度目の本格的な派遣は、ナショナル・ジオグラフィックに依頼された1993年の仕事でした――旧ソヴィエト共和諸国における汚染を取材する仕事です。チェルノブイリを含める必要を感じたのは、その時でした。仕事のごく小さな一部と思っていたのですが、それ自体が取材対象になってしまいました。主題としてのチェルノブイリへの関心が深くなりはじめ、再訪しなければならないことがわかっていました。実際に再訪するまで11年かかりました。2005年、2011年、2013年に再訪し、長期間、滞在しました。被災者、プリピャチのゴーストタウン、立入禁止ゾーン、原子炉そのもの、そしてベラルーシ、ウクライナ両国のフォールアウト被災地域を撮影しました。

©Gerd Ludwig (ベラルーシ、ヴェスノワ、2005年)5歳のイゴルは、身体障害、知的障害、情緒障害を併せ持った聾唖者。孤立感と不安感にとりつかれ、たいがい子ども部屋のカーテンの後ろに隠れてすごす。Chernobyl Children International(チェルノブイリの子どもたちインターナショナル)による支援がなければ、精神障害児施設は存在すらしなかっただろう。

わたしも何回か、実際に自分自身の物語を撮影するためにチェルノブイリへ行きました。事故はわたしたちの人生を根元から変えてしまいました。わたしの熱望と熱情はいろいろな意味で、チェルノブイリの廃墟から湧きでるのです。時には、事故が起こらなかったとすれば、わたしの人生はどうなっていたのだろうと考えたりもします。たぶん、まだあの町に住み、結婚し、子どもを二人ばかりもうけているでしょうし、ひょっとすると、わたし自身が核物理学者になっていたかもしれません。
では、あのすべてが起こったとき、あなたはあの町にいらっしゃったのですね?

ええ、わたしたちはプリピャチで暮らし、わたしの父は2号炉を運転していました。事故の夜、父は遅番に就いていました。父の友人たちは4号炉の制御室で勤務していました。父は、その人たちが状況を打開するために――できることはなにもなかったのですが――走りまわっていたのを見たとわたしに言いました。父は夜勤が明けるなり、母に電話して、窓を閉め、屋内にいなさいと告げました。でも、その理由を告げるわけにはいかなかったのです。いまになってわかるのですが、ある種の秘密保持契約に署名しなければならなかったのです。あるとき母は、あの日のうちに友だちに警告してあげたのに、その人たちはビーチに出かけてしまったとわたしに言いました。その人たちには、危険を知る手がかりさえなかったのです。

あちらに初めて行かれたとき、怖くはなかったですか? ご自分の健康を危険にさらしていると思わなかったのですか?
一回目の訪問の準備は万事怠りなく、3週間ほどかけて調査しました。ガスマスク、線量計、長靴カヴァー、オーバーオール防護服など、防護用品を1ケースそっくり詰めこみ、移動していました。ところが、チェルノブイリに到着すると、無防備のまま作業している人たちを怖がらせるので、防護装備を着用しないでほしいとお役人たちが頼むのです。プリピャチの墓地――高度に汚染された場所――や出戻りした人たちを訪問したとき、わたしは無防備のままでした。写真家として仕事するために、危ない橋を渡って、人びとの協力を得る必要があるのです。チェルノブイリで、わたしは汚染地帯で穫れた卵、魚、じゃが芋を食べました。心配はしましたが、恐れてはいませんでした。

優れた写真をものにするために、そのようなリスクを引き受ける価値があるとお考えですか。
わたしたちはジャーナリストとして、 しばしば危ない橋を渡ります。しかし、わたしたちは罪のない被災者たちのために――そうでなければ、聞いてもらえることのない物語りを聴きとるために――そうするのです。この人びととともにいること、彼らとともに食べたり飲んだりすること、それが彼らの苦しみを聴きとり、彼らの魂を見ることになるのです。

©Gerd Ludwig (ベラルーシ、オクトジャブルスキ、2005年)教室や管理事務室が間に合わせの診療所に様変わりした。甲状腺の異常と癌の発症は、議論の余地なくセシウム沈着の結果である。

あなたに敵意を向ける人はいましたか?
どこにいても、敵意をもった人に出会うものです。たいていの場合、わたしが撮影した人たちは感謝の思いを見せてくれました。ナショナル・ジオグラフィックの仕事をしているとき、ほんの23時間滞在するというのではありません。わたしは、頭をもった人間ではなく、カメラ装備の人体として人びとの生活に踏みこむのではありません。まず人間として、一人ひとりにお会いするのです。みなさんとお話し、自分の来歴を打ち明けて、初めてみなさんがわたしにこころを開いてくれると期待するのです。カメラを荷ほどきするのは、そのときです。この人たちがみずからの物語を分かち合ってくれるのは、雄々しいことだとわたしは考えています。苦しんでいる人たちにカメラを向けると、わたしがみなさんの悲しみをかきたて、一瞬にしてみなさんの記憶をさらに痛々しいものにしてしまうのです。

あなたは長い時間をかけて、放射能が人びとの健康におよぼした影響を撮影なさりました。たぶん障害を負った子どもたちの写真がわたしのこころを最も激しく揺さぶりました。
チェルノブイリ事故が人びとの健康にもたらした結果は、科学界で実に物議を招いています。しかし、議論の余地がない統計があります――被災地では、白血病とその他の癌の統計レベルが他の土地に比べてはるかに高いのです。ゴメリ州で――これは、災害の重大な影響を受けたベラルーシ南部の領域ですが――汚染地帯出身の若い女の人たちに会ったのですが、彼女たちは未来の子どもたちの幸福と健康について極度に心配していました。そのような恐れとストレスだけでも、人の健康に有害になりえます。わたしは、ソヴィエト体制の伝統のせいで、親たちが障害を負った子どもたちを安易に諦めることが、欧米の国ぐにに比べて多いと気づきましたが、ベラルーシ政府が発達障害の発現に対するチェルノブイリ災害の寄与を余りにも過小評価していると思い知りもしました。このことについて、あえておおっぴらに発言する数少ない人たちは、増えつづける健康問題と災害が放出した放射能との関連をはっきり見ています。

ゾーン内で最も印象的な経験は、どのようなものでしたか?
2005年のことですが、わたしは西側の写真家のだれよりも深く4号炉の間近にあえて踏みこみました。わたしは労働者たちが――完全防護装備で身を固めていても――1日あたり15分しか作業できないような区域を撮影しました。アドレナリン放出レベルが途方もないものでした。わたしは2013年に原子炉を再訪し、前回よりさらに間近に踏みこむことができました。暗い廊下の奥深く、わたしをエスコートしていたエンジニアが重い金属ドアをこじ開けました。

エンジニアがわたしを引っ張りだす前に、素早く何回かフラッシュを炊くことができただけですが、それでも、壁にかかった時計を捉えることができました。時計は午前123分――原子炉が爆発し、チェルノブイリの時間が永遠に止まった瞬間――を指したまま、止まっていました。

©Gerd Ludwig. 4号炉の放射線レベルはいまだに非常に高く、ゲルトが時計の写真を撮るのに数秒間しか使えなかった。1986426日、正確には午前12358秒、時間が永遠に止まった。

原子力について、どのように感じておられますか? また、あなたの写真で人びとになにを語りたいですか?
わたしは自分自身にラベルを貼ったり、ジャケットに反核の類いのバッジをピン止めして歩きまわったりするのは好きになれません。世の人はわたしが偏向しているといとも簡単に決め付けるものです。わたしはわたしの写真そのものが語ってほしいと願っています。わたしはこの目で見たものを撮影し、観る人が自分自身の結論を引き出してほしいと願っています。しかし、わたしの写真を見たあとで、それでも原子力が安全だと考えることができる人はいないのではと思っています。

チェルノブイリ再訪を計画なさっていますか? それとも、これはあなたにとって閉じられたページなのですか? フクシマなど、他の核事故については、いかがでしょう?
フクシマに行く計画はありません。世界のすべての核惨事を追いかけるつもりはありません。しかし、30周年に合わせてチェルノブイリ写真集をもう一冊――小ぶりな静物コレクション――を計画しています。目下の本は小休止――振り返り、さらに続けるための休止符――なのです。

ゲルト・ラドウィッグGerd Ludwigウェブサイト:http://www.gerdludwig.com
他の作品を閲覧したり、著者サイン入り写真集 The Long Shadow of Chernobyl (『チェルノブイリの長い影』)を購入したりもできます。

©Gerd Ludwig(ウクライナ、プリピャチの近接地)放射能汚染の危険を警告する道路標識。

©Gerd Ludwig(ウクライナ、プリピャチ、1993年)ウクライナに隣接する最も汚染された地域のひとつ、いわゆる赤い森の区域で定期的に放射能を測定する科学者たち。その名は、木々のジンジャーブラウン色[金と茶の中間色]にちなむ。その木々は、事故直後に放出された膨大な放射能に被曝した結果、枯れ死んだ。赤い森の多くは燃やされ、その残骸は「廃棄物墓地」に埋められている。

©Gerd Ludwig(ウクライナ、キエフ、1993年)チェルノブイリの近くで生まれた子どもたちは両親世代の無知の代償を支払わなければならない。診療所で少年が皮膚炎の治療を受けている。この子は、地域内で大幅に増えているアレルギー疾患発症例の一例にすぎない。

©Gerd Ludwig(ウクライナ、キエフ、1993年)この少女は、同級生や友だちが初めてのパーティを楽しんでいるとき、病院で皮膚炎の注射治療を受け、苦痛な数週間を過ごさなければならない。

©Gerd Ludwig(ベラルーシ、ミンスク、2005年)オレグ・シャピロ54歳、ディマ・ボグダノヴィッチ13歳はふたりとも、甲状腺癌を患っている。彼らはミンスクの病院で治療を受けている。これはシャピロにとって3度目の甲状腺手術だった。ディマの母親は息子の病状は核フォールアウトのせいだと言い張るが、医者たちはもっと慎重である――「ベラルーシの政府はそのようなあけすけな物言いを好みません」。

©Gerd Ludwig(ウクライナ、ロソッカ、1993年)浄化作業中に使用され、「放射性物質墓地」に長期埋葬される時をじっと待っている、トラック、ヘリコプター、戦車、ブルドーザーなど、高度に汚染された何千もの車両や機器類。

©Gerd Ludwig(ウクライナ、プリピャチ、2011年)当局がプリピャチの住民を避難させはじめるまで36時間かかった。住民たちは、避難はほんの一時的なものであり、文書類と重要な私物を数点だけ持っていくべきだと告げられた。

©Gerd Ludwig(ウクライナ、パリシェフ、2011年)立入禁止ゾーン内、農場家屋を覆って繁茂したつる草。

©Gerd Ludwig(ウクライナ、ラジャンカ、2011年)出戻りのウラジミール・バイチフスキは54歳であるにすぎないが、彼の肌が健康状態を憂慮すべき病識を伝えており、医者たちにしても、それを高レベル放射線で説明できるだけである。妻が2006年に亡くなってから、彼は立入禁止ゾーンで孤立・孤独なままに暮らしている。

©Gerd Ludwig(ウクライナ、プリピャチ、2005年)立入禁止ゾーンで食べるものを探している犬たち。野生的な風貌から、狼と牧羊犬の雑種だと間違って主張されることが多い。

©Gerd Ludwig(ウクライナ、チェルノブイリ、2005年)チェルノブイリで毎年恒例の災害記念日、夜の祈りに交代勤務労働者たちがローソクの明かりで集う。

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クレジット】

この日本語訳稿は、Gerd Ludwig Photography Studio(ゲルト・ラドウィッグ写真スタジオ)のご斡旋により、VICEの担当者のみなさまにご承認いただいて、当ブログに掲載しています。

出処:VICE
Gerd Ludwig Photographs the Effects of the World's Biggest Nuclear Catastrophe, May 1, 2015: http://www.vice.com/en_uk/read/chernobyl-gerd-ludwig-photo-201.

VICE Japanによる日本語訳:
「ゲルト・ラドウィッグが撮り続けた未だ収束しないチェルノブイリの惨劇」

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