2015年5月15日金曜日

アリーナ・ルディア『プリピャト・モン・アムール』、生まれ故郷の町、プリピャチへの旅

プリピャト・モン・アムール
プリピャチ、わが愛

アリーナ・ルディア Alina Rudya



19864月、チェルノブイリ核惨事のあと、わたしのようにプリピャチから避難した人びとを記録するフォト・エッセイ。

このプロジェクトについて…

わたしは、ウクライナ出身でドイツのベルリンに居住している30歳の写真家です。わたしは1986年、チェルノブイリの破局的な原発災害のあと、ウクライナのプリピャチから避難させられました。

わたしは、いま見捨てられている壁のあいだで失われたものを再発見する旅にみなさんを誘いたい。みなさんを禁断の土地を通る写真の旅にお連れし、わたしの根源に遡る旅の記録、物語、写真を分かち合いたいと思います。

わたしは、これほど多くの人びとの変えた物語は、いつでも、どこでも、今日にでも起こりうることであり、この物語を示し、語ることは重要であると信じています。このプロジェクトは、わたしの故郷の町、プリピャチに捧げられたオリジナルの写真展の続編にあたります。最終作品は本の形にして、惨事30周年を記念する2016年春に出版します。

1985年、プリピャチにて、幼いわたしと父のコンスタンティン

わたしの背景のストーリー

わたしの家族は、わたしが1歳のときにプリピャチから避難させられました。事故の夜、わたしに父はエンジニアとして原発で働いていました。当時、父は28歳、母はまだ23歳でした。

1985年、プリピャチのレーニン通りにて、わたしと母のマリーナ

2011年、上の写真と同じ地点に立つわたし

その当時、プリピャチ――チェルノブイリから3キロ離れ、原発労働者の家族のために建設された小さな町――の住民の平均年齢は26歳でした。500,000人近くの住民の全員が、1986426日の惨事から2日もたたないうちに町を離れなければなりませんでした。チェルノブイリ原子力発電所の第4反応炉がシステム試験の最中に爆発し、高レベル放射性排出物の雲を大気中に放出し、それが広大な地域に拡散しました――これは、いまだに現代史上で最悪の核惨事とされています。

惨事後のチェルノブイリ原子力発電所第4反応炉。資料写真

わたしは2011年、26歳のとき、初めて故郷の町――まったく知ることがなかったし、これからも知ることがない町――を再訪問しました。原発の事故は、わたしの両親の人生、そしてまたわたし自身の人生を根元から徹底的に変えてしまいました。わたしの欲求と情念のすべては多くの意味で、チェルノブイリの廃墟から湧きあがっています。わたしが亡くした多くの人たちは、チェルノブイリのせいで逝ってしまいました。わたしは2012年に、プロジェクトのセルフ・ポートレイトの部を仕上げるために再度の帰還をしました。

プリピャチの市標はいま、周囲に育つ森にほとんど隠されている

プリピャト・モン・アムール第1部は、いまゴースト・タウンになっている町、わたしの人生の起源となり、また(わたしの不在によって)わたしに最大の影響を与えるようになった小さな町へのわたしの再浸透を記録したものでした。これは、201211月にベルリンで成功裏に展示することができました。わたしのウェブサイトで閲覧することができます―― http://alinarudya.com/Prypyat-mon-Amour.

「プリピャト・モン・アムール」シリーズのセルフ・ポートレイト

「プリピャト・モン・アムール」シリーズのセルフ・ポートレイト

「プリピャト・モン・アムール」はドイツの高級紙シュピーゲルのウェブサイトで特集記事になった。

現在のプロジェクト

チェルノブイリ30周年が近づいているいま、わたしの人生ではなく、他の人びとの人生に焦点をあてるために、プリピャチに戻りたいと願っています。1986年の昔、やはりゾーンから避難させられた人びとです。

わたしの父のアルバムからプリピャチの写真

1985年、プリピャチにて、家族写真。父のアルバムから

その人たちの何人かはわたしと同じ年齢であり、何人かは年長でしょう――他にもご自身がすでに子持ちの人たちもいるでしょう――が、すべての人たちがチェルノブイリ核惨事によるなんらかの影響を受けているのです。わたしは、そうした人びとの一部なりとも接触し、チェルノブイリがその人たちの人生を変えた様相を見たい――そして、その人たちと連れ立って、プリピャチに戻り、現在のその人たちの生きかたの出発点――グラウンド・ゼロを刻印したいと願っているのです。わたしの仕事の肝心な部分は、その人たちの写真を、プリピャチを背景にして、その人たちのアパートで過去からの懐かしい環境のなかで撮影することになるでしょう。

キャンペーンの重要性

チェルノブイリ惨事は、他の数十万の人びとの人生と同じく、わたしの人生を変えてしまいました。30年後のいまも放射能汚染の悪影響は顕著であり、フクシマのような、さらなる惨事を考えると、核の力の安全性に巨大な疑問符が付くことは明らかです。

生身の人びとの真実の物語ほど、わたしたちを動かすものはありません。

レーニン通り17番地、わたしたちの見捨てられたアパート24号室の床のうえにあった、わたしと母の写真

わたしはゾーン出身者の物語を写真に撮影し、語ることによって、決して起こるべきではなかった、また二度と繰り返すべきではなかった惨事に、もうひとつの人間的な感触を加えたいと願っています。わたしはプリピャチに生き、プリピャチから避難させられ、また人生が惨事の影響をもろに受けたアーティストとして、この主題に対してユニークな手法を提示できると信じています。これは長年にわたり論争の渦中にあってきた主題なのです。

1985年と2012年に同じ場所――プリピャチ市レーニン通り17番地、わたしたちのアパート――で撮影された写真のコラージュ

キャンペーンの目標

わたしのキャンペーンの目標は、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所に近接する規制区域、ゾーンに――かつて1986年に避難させられた町で人びとを撮影するために、その人たちと一緒に――帰還する数回の撮影旅行の経費を賄う資金を募ることにあります。最終結果は本として出版されますし、写真展で展示もされます。写真展は、事故30周年を記念して、20164月に開催することが計画されています。

写真集

わたしは現在のところ、ざっと80枚の写真を収録した150部内外の高品質中版・写真集を出版する計画を立てています、目下、出版社募集活動中です。

「プリピャト・モン・アムール」セルフ・ポートレイトの部、写真展初日のわたし
                                              
*** ご閲覧、ありがとうございます! ***

[訳注]KICKSTARTERウィキペディア)はクラウド・ファンディング・サイト。

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