ジョン・ハーシー『ヒロシマ』…1946年8月31日付けニューヨーカー誌の広告スペースを除く全誌面を割り当てられた30,000語の長編記事が世界に伝えた原爆の恐怖 via @DrHCaldicott https://t.co/po9QMHzsjn— inoue toshio 子どもを守れ! (@yuima21c) 2016年8月28日
— Caroline Raphael (@CSRaphael1) 2016年8月22日
ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』
ジャーナリズムの歴史で最高の成果と賞賛される雑誌の記事が発表されてから、8月末で70周年を迎える。本文30,000語、見出しにただ一言「ヒロシマ」と記されたジョン・ハーシーの記事は圧倒的な衝撃力を備えており、キャロライン・ラファエルが以下に記すように、核兵器の恐ろしさをあますことなく戦後世代に伝えている。
筆者は1946年8月31日付け発行のニューヨーカー誌の原本を持っている。表紙は、この上なく当り障りのない図柄――楽しく陽気、気持ちの安らぐ夏の日の公園を描いた絵――で飾られている。裏表紙で、ニューヨーク・ジャイアンツ、ニューヨーク・ヤンキース両球団の監督たちが「毎度、チェスターフィールド(シガレット)を買おう!」と宣伝している。
街のイベント紹介と映画案内、ダイヤモンドと毛皮製品と車と船旅といった豪奢な商品の広告とページを繰っていくと、本号の本編部分は全巻そっくり、「原爆一発による都市のほぼ完璧な抹消」についての一本の記事に割り当てられるという編集部の簡単な告知が目に入る。編集部はこのような措置を採用し、「われわれのなかで、この兵器の信じがたいとしか言いようのない破壊力を理解する人はほとんどいない、また、すべての読者のみなさんが、この兵器を使用することの凄まじい意味合いを理解するためには、時間を費やしても構わないとご容赦していただけるものと確信しております」という。
70年前、報道の「急速拡散」について語る人はいなかったが、ニューヨーカー誌掲載、ジョン・ハーシー記事「ヒロシマ」は正しく急速拡散を達成した。語りつがれ、論評され、世界中の何百万とも知れぬ人びとに、1945年8月6日とそれにつづく日々、ひとつの都市だけにではなく、ヒロシマの人びとに起こった事態の真実を理解するにつれ、読まれ、聴かれつづけた。
叙勲従軍記者にしてピュリッツァー賞小説家、ジョン・ハーシーが、ニューヨーカー誌に広島赴任を依頼されたのは、1946年春のことだった。彼は他の記者らの仕事と同じように、都市と建設物の破壊状況、再建の現状について、9か月かけて取材した記事を書くのだと予想していた。
ハーシーは航海中に病を得て、ソーントン・ワイルダーの小説『サン・ルイ・レイの橋』を与えられた。橋が落ちたときに渡っていた5人の人物が登場するワイルダーの物語に触発されて、建物ではなく、人間について書こうと決めた。そして、『ヒロシマ』を当時の他の記事に抜きん出たものにしたのは、その単純な決断だった。広島に到着すると、彼は被爆者たちに面会し、原爆が投下される前の刻限から説き起こして、彼・彼女らの物語を紡ぎはじめた。ずいぶん後年になって、彼は自分が感じた恐怖を語り、数週間の滞在だけで済ますことができただろうかと語った。
彼は記事をニューヨークに持ち帰った。日本で申告していれば、記事が公開される見込みはほとんどなかっただろう。写真、映画フィルム、報告書などを国外に持ち出す当時の企ては占領米軍によって差し止められていた。資料は検閲され、あるいは封印され――時には――いと簡単に抹消された。
ジョン・ハーシー 1914年~1993年
米国人宣教師の息子として中国で生まれる
10歳で帰米し、後にエール大学で学ぶ
1937年にタイム誌の記者になり、戦争中はヨーロッパとアジアから発信
米軍に占領されたシシリアの町について書いた小説処女作『アダノの鐘』(1944年)がピュリッツァー受賞
ハーシー記事の編集者たち、ハロルド・ロス、ウィリアム・ショーンは、担当記事が極めて常軌を逸しているユニークなものであることを承知しており、掲載号は極秘のうちに準備された。雑誌の広告スペースを除く誌面全体が一本の記事に割り当てられたのは、かつて一度もなかったことであり、その後もまったくない。その週の発行号に自分の記事が掲載されると期待していたジャーナリストたちは、校正刷りはどこに行っちまったのだろうといぶかっていた。発行の12時間前になって、掲載号が米国の大手新聞全社宛てに発送された。論説記事が新聞読者に雑誌の購読を勧めるように仕向ける巧妙な手口である。
300,000部全冊が即座に売り切れ、記事は、新聞用紙が配給制だった地域を除いて、世界中数多くの新聞や雑誌に転載された。アルバート・アインシュタインは1,000部を購入して、科学者仲間に贈呈しようと目論んだが、複写作業で四苦八苦する羽目になった。アメリカ「今月の本」クラブは加入者全員に無料特別版を配布しており、その理由は、理事長の挨拶文を借りれば、「現時点において、この記事を措いて、それ以上に人類にとって重要でありうる書き物を思いつくのは困難であると当クラブは判断いたしました」ということである。2週間もしないうちに、ニューヨーカー誌の古本が表示価格の120倍もの付け値で売られていた。
『ヒロシマ』がジャーナリズム作品として、なにものかを明示しているとすれば、それは物語としての持続力だろう。ジョン・ハーシーは、従軍記者としての経験全体を小説家としての技能と結合させていた。
この記事は、ほんの1年前には不倶戴天の敵だった人たちに生の声を与えた根源的なジャーナリズム作品だった。わたしたち読者は、佐々木さん、谷本牧師、未亡人の中村さんとその子どもたち、クラインゾルゲ・イエズス会神父、そして藤井、佐々木両医師と、現実の悪夢、半死半生の人びと、焼かれ、焦げた肉体、打ちのめされた被爆者の介護を試みる絶望的な企て、熱風、火災をこうむり、壊滅した都市の地殻変動に遭ったような光景のなかで出会うことになる。
6名の登場人物
佐々木とし子:20歳前後の人事部事務員。爆心地から約1.5キロの地点で被爆し、脚に酷い重傷
谷本清:日本基督教団広島流川教会の牧師。放射線疾患を発病
中村初代:シンガポールで戦死した仕立屋の未亡人。10歳を頭にする子どもをもつ
ウィルヘルム・クラインゾルゲ:ドイツ人のイエズス会司祭。滞日外国人として緊張を感じており、放射線被曝で患う
藤井正和、佐々木輝文(佐々木とし子と無関係):ご両人ともに医師だが、気質が非常に違っている
東洋人は、パール・ハーバーのずっと以前から悪魔のように見られていた。漫画に描かれる黄禍は、アメリカ人魂の奥深く沈殿していた。タイム・ライフ誌は1941年、日本人を中国人と見分ける方法を読者に教える、尋常でない記事――「あなたの友人をジャップと見分けるには」――を掲載した。エノラ・ゲイのパイロットは、原爆を投下した当日、SFヒーロー、バック・ロジャーズになったように感じたといったと伝えられている。
そこで、5人の日本人男女と1人の西洋人、合わせて6名をクローズアップすれば、一人ひとりが「生涯で見ることになると考えていた以上に多くの死者を目にしていた」のであり、彼・彼女らの人物像は意外なものであり、衝撃的であった。ニューヨーカー誌に投書した読者は、ほぼ全員が記事を賞賛しており、自分たちと同じ一般人――事務員や母親、医者や聖職者――がこのような恐ろしい事態を耐えぬいたとは、自分としては恥ずかしく思うし、戦慄的だったと感想を記していた。
ジョン・ハーシーはヒロシマから報道した記者の先駆けではなかったが、報道記事やニュース映画が数多く殺到しても、完全に把握するのは無理だった。あまたある報道は都市の破壊、きのこ雲、壁や路上の死者の影について伝えても、ハーシーのように、終末の時を生きた人びとに肉薄していなかった。
政府と軍部が強引な隠蔽と否認を企てたにもかかわらず、この新兵器が、太陽のように輝く「無音の閃光」を発してから長く時を経てからも、人間を殺害しつづけることもまた、一部の人たちにますます明らかになっていった。
『ヒロシマ』は、サンフランシスコのトロリーバスに乗っていた男性やクラッパム(ロンドン南西部の一地区)の乗合バスに乗っていた女性が、放射線疾患の悲惨さを見つめる羽目になり、原爆投下時に死ななかったとしても、被爆後遺症でやはり死亡すると理解することになった最初の出版物である。ハーシーは冷静で決然とした散文で、生き延びた人たちが目撃した内容そのものを伝えた。ビキニ環礁でさらなる原子爆弾が実験されてから、ほんの3か月後に核軍備競争がはじまると、新兵器の真の威力が理解されはじめるようになった。
ハーシーの記事に対する、そしてアルバート・アインシュタインがその記事に寄せた公然たる支持に対する反響として、元・米国陸軍長官、ヘンリー・スティムソンは雑誌に記事「原子爆弾使用の決断」――結果はどうであれ、原爆使用は正当化されるという開きなおった反論――を投稿した。
常軌を逸した記事のニュースは英国でも報道されたが、記事本編が長すぎて――ジョン・ハーシーが改編を許さず、新聞用紙の配給制が相変わらず継続していたことから――雑誌に掲載できなかった。そこで、BBCはアメリカのラジオ局の先例にならい、リスナーの心情に与える衝撃を心配する経営幹部もいたものの、6週間ほどあと、新たに開局したBBC第三放送で4日間連続の朗読番組を放送した。
ラジオ・タイムズ誌は、アリステア・クックに長文の背景解説記事の執筆を依頼した。その記事掲載がニューヨーカー誌上で言及されると、気の利いた漫画の宝庫だと評判を招き、クックはそれを「当代きっての手厳しいジョーク」と受け流した。
Find out more
Listen to Hersey's Hiroshima at
23:00 on Monday 22 August, on BBC Radio 4, or catch upafterwards on the BBC iPlayer
The 1948 reading of Hiroshima will be played
in four parts, at 18:30 from Tuesday 23 to Friday 26 August, on Radio 4 Extra
- you cancatch up on the iPlayer here
番組の聴取率が高く、BBCはさらに多くのリスナーに聴いてもらうために、ほんの数週間後、BBC娯楽専門局で一度に全文を通読する番組を放送することを決定した。その年のBBCハンドブックによれば、「リスナーを楽しませ、娯楽性を逸脱することなく世界全体のリスナーの興味を惹きつける」分野の管轄は娯楽専門ラジオ局であるという。この2時間番組には娯楽性がほとんどなかった。デイリー・エクスプレス紙の評論家、ニコラス・ハラムは、かつて聞いたなかで最悪、ひどい番組だったと評した。
BBCはまた、ジョン・ハーシーをインタビュー番組に招いており、彼の返信電報がBBCアーカイヴスに残っている――
「ハーシーは、ご招待およびBBCのご関心とヒロシマ朗読放送にこころから恐縮いたしますが、本人または、いかなる御仁であれ、他者による付言を排して、記事そのものに語らせる方針を首尾一貫して堅持しております」
実のところ、彼は生涯を通じて三度か四度しかインタビューに応じていなかった。残念なことに、そのどれもBBCによるインタビューではなかった。
1948年の「ヒロシマ」朗読の録音はBBCアーカイヴスに残されている。この悲惨な物語を朗読する歯切れのよい英語音声の効果は抜群である。散文がリズミカルに、しばしば静かの詩のように、またアイロニーを含んで読みあげられる。朗読者のひとりは、当時、俳優のリチャード・アッテンボローを相手に新婚ほやほやだった若手女優、シーラ・シムだった。
11月には、『ヒロシマ』の書籍版が出版された。多くの言語に翻訳され、点字版も発売された。ところが、日本ではダグラス・マッカーサー将軍――1948年まで実質的に日本を統治した占領軍最高司令官――が、原爆投下の影響に関する、あらゆる報告の流布を厳格に禁じていた。ハーシー記事に登場する6名の被爆者のひとり、谷本牧師が日本語の翻訳を完成した1949年まで、書籍とニューヨーカー誌記事掲載号は禁制品だった。
ハーシーは彼が出会った被爆者たちを決して忘れなかった。原爆投下40周年にあたる1985年、彼は日本を再訪し、その後40年のあいだに被爆者たちが体験したできごとの物語を伝える最終章「ヒロシマ、その後」を執筆した。後に、6名のうち、2名が死去し、うち1名は放射線関連疾患で死亡したことが確実である。
More from the Magazine
【クレジット】
BBC News Magazine, “How John Hersey's
Hiroshima revealed the horror of the bomb,” by Caroline Raphael, posted on August
22, 2016 at;
【amazon.jp】
内容紹介
「20世紀アメリカ・ジャーナリズムの業績トップ100」の第1位に選ばれた、ピュリッツアー賞作家ハーシーによる史上初の原爆被害記録。1946年の取材による1~4章は、6人の被爆者の体験と見聞をリアルに描いて世界に原爆の惨禍を知らしめ、原水爆禁止・核廃絶の運動に影響を及ぼした。85年の再訪で成った5章「ヒロシマ その後」では、原爆症との闘い、市民としての生活・仕事・活動など、稀有な体験者たちの戦後史をヒューマンな筆致で跡づける。
【付録】
2014年8月9日土曜日
2012年5月25日金曜日
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