2016年9月10日土曜日

エコロジスト誌【評論】なぜ日本に落としたのか? ヒロシマ・ナガサキ原爆投下に見る人種差別


なぜ日本に落としたのか?
ヒロシマ・ナガサキ原爆投下に見る人種差別

リンダ・ペンツ・ギュンター Linda Pentz Gunter
2016817

1942年当時、米国の日本人観。Photo: James Vaughan via Flickr (CC BY-NC-SA).

わたしたちは8月になって、71年前のヒロシマとナガサキの原爆投下を追憶するさい、それを可能にした当時の人種差別プロパガンダをおおかた忘れていると、リンダ・ペンツ・ギュンターは書く。わたしたちは同じようにして、歴史を消毒して、アフリカ系アメリカ人が核兵器を海外のアメリカ植民地主義と国内の人種差別に結びつけ、核兵器の使用に抗議した声を排除してきた。

71年前、米国はヒロシマとナガサキに対し、それぞれ86日と89日、原子爆弾を投下した。

わたしたちが、この恐ろしいできごと、そしてその即発的および継続中の影響について、じっくり考えるとき、たぶん「人種差別」はこころに浮かぶ最初のことばではないだろう。

だが、ヴィンセント・J・イントンディが著し、“African Americans Against the Bomb”[原爆に反対したアフリカ系アメリカ人たち]という標題で昨年出版された興味深い本によれば、アフリカ系アメリカ人を核軍縮運動に引き入れ、その後の戦争が彼らをその運動に留めたものは、原爆投下を人種差別行為とみなした認識だったという。

イントンディは序文でこう説いている――「1950年代の朝鮮で、また10年後のヴェトナムで、米国が核兵器を使用すると脅したとき、原爆使用の決定に人種がかかわったという黒人活動家の恐れは深刻化する一方だった」

イントンディは、原子爆弾を使用したり、それを使用すると脅迫したりする敵方に非白人を選ぶ、このえこひいきこそが、アフリカ系アメリカ人を、核廃絶運動だけにとどまらず、また全米規模だけではなく、世界規模の公民権および人権のさまざまな問題を集約した形態の社会運動に引きこんだと強調する。

黒人反核運動――歴史から吹き飛ばされて

1945年以降、黒人活動家たちは、核兵器、植民地主義、黒人の自由獲得闘争は関連しているという論陣を張った」と、イントンディは書く。

アフリカ系アメリカ人は「米国のベルギー統治領コンゴ産ウラニウム取得からフランスのサハラ砂漠核実験まで」植民地主義を認定したとイントンディは書く。「人権を求める世界規模の闘争の一環として、黒人社会の多くの人びとを平和と平等を求める継続的な戦いに駆り立てたものは」原子爆弾の使用と継続的な実験だった。

核兵器反対闘争に参加した人たちのなかに、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアはもちろんだが、WEB・デュボイス、ポール・ロブスン、マリアン・アンダーソン、その他大勢の面々がいた。だが、原爆禁止行進、あるいはSANE(正気の核政策を求める全米委員会)/Freeze(核凍結運動)の台頭について議論されるとき、この面々が連想されることは稀である。

没後の2013年、オバマ大統領から自由勲章を授かったベアード・ラスティンほどに平和と正義を求める闘争と軍拡競争の関連についての明確な理解を体現した人物は、おそらくいないだろう。

それなのに、平和と軍縮に関して歯に衣を着せなかったラスティンの働きにもかかわらず、ウィキペディアに見る彼の略伝には、「核」という単語はまったく見当たらない。反核運動におけるラスティンの指導力は、彼の仲間のアフリカ系アメリカ人たちの指導力と同じく、歴史書から消されてしまった。だが、イントンディの本からは消されていない。

国民全体の非人間化

ヒロシマとナガサキに原爆を投下した米国は正当化されるか否かをめぐる論争は今日も継続されている。最も広く受け入れられている――だが、激しい挑戦を受けてもいる――賛成論の根拠は、日本に降伏を余儀なくさせ、第2次世界大戦を終結するために必要だったというものである。しかし、その裏にある人種差別は火を見るよりも明らかである。イントンディは、詩人のラングストン・ヒューズが提起し、他の多くの人たちも口にする疑問を引用する――どうして米国はドイツやイタリアに原爆を投下しなかったのか?

その答えは、イントンディが紹介するような、国民全体の非人間化に駆りたてる、呆れはて、痛烈な反日本人感情にある。その例に、高名なタイム誌があり、同誌は「平凡で理性のないジャップは無知。こ奴はたぶん人間。クズ同然…見ればわかる」と宣った。

明白なことに、このような侮蔑は、すべてアフリカ系アメリカ人社会であまりにもお馴染みのものである。アフリカ系アメリカ人たちはそのおかげで、ヒロシマとナガサキの無辜の被爆者たちに、もっと広げて言えば、植民地主義に抑圧された世界の人びとに共感できるようになった。

したがって、イントンディによれば、日本に対する原爆の投下はアフリカ系アメリカ人社会の目に白人系アメリカ人のとは違ったレンズを通して映ったというわけである。デュボイスは、ヒロシマとナガサキの遺産がどんなものになるか、即座に気づいた。彼は、それが企業の不当利得陰謀を招き、その最も苛酷な影響が米国の労働者階級を直撃するだろうと警告した。

イントンディは、デュボイスが1950年にハーレムの記者会見で「大企業は皆さんの気持ちを社会改革から逸らしておくために戦争を望んでいます。皆さんの税金を、学校ではなく、原子爆弾に注ぎこんだほうが、金が儲かるからです」と語ったのを引用している。

ギヴ・ピース・ア・チャンス――われわれが言いたいのは、平和にチャンスを

米国は今日になっても、学校より遥かに多額の予算を核兵器に割り当てている。オバマ政権は今後30年間で核兵器を「アップグレードして改造する」ために1兆ドル使う計画を発表した。(オバマの広報官は最近になって、大統領が離任前にその金額のかなりの削減を図るかもしれないと仄めかした)

だが今では、ロブソン、デュボイス、ドロシー・ハイト、ディック・グレゴリー、その他のアフリカ系アメリカ人の声は、核軍縮運動を先導していない。今日、核廃絶を訴える大衆は、おおかた白人であり進歩派、ほぼ全員が年配者である。

なぜ彼らは消え失せたのだろう? 1950年代と1960年代の反核運動に参画したアフリカ系アメリカ人の多くは志操堅固な左翼であり、その一部は共産党の党員か支持者だった。マッカーシーの赤狩りと全米的な共産主義者弾圧が、一部のアフリカ系アメリカ人を含め、あらゆる戦線で撤退に追いやったとイントンディは示唆している

しばらくこだわっていた人たちもいた。イントンディが彼の本で引用しているが、1983827日の公民権運動20周年行進のさい、キング牧師が I Have a Dream”(わたしには夢がある)と演説してから20年後、運動の公的な綱領はやはり核軍縮の重要性を次のように謳っていた――

「今の時代にキング博士が生きていれば、今でも「非武装の真実」ということばを使って、わたしたちは熱核反応による集団焼身自殺の地獄の瀬戸際に立っていると説明しているだろう……わたしたちは、平和と繁栄を人類全体の現実にするために、世界規模の権力闘争の力学を核武装競争から人間の能力を活用する想像力コンテストに転換しなければならない……わたしたちはアメリカ国民のみなさんに、米国に現存し発展している諸運動を基盤として活用し、軍拡競争を「平和競争」に転化するようにアメリカ国民に訴える」

黒人の命が大事!

だが、平和の出番はなかった。繁栄は多くの人びとに、とりわけアフリカ系アメリカ人社会に届かなかった。反核運動は最終的にレーガン大統領を路線変更するように説き伏せたものの、米国でも、すでに核保有を実現したどの国でも、核兵器は廃絶されなかった。イスラエル、それにインドとパキスタンなど、他の国ぐには核兵器を開発した。

核兵器は「必要」または「抑止力」であるという考えは、抗議の声とありとあらゆる反証が揃っているにもかかわらず、当時は幅を利かせていたし、今になっても相変わらずである。

他の多くの人もやはり大義を捨ててしまった。ヒロシマとナガサキが今、71年前の過去となって、わたしたちが核兵器の偶発的または意図的な使用による即発的な絶滅という絶え間なく現存する脅威に向き合っているというのに、この永続的な脅威の感覚と理解はあやふやになってしまった。

アフリカ系アメリカ人社会にとって、優先事項は変わってしまった。六法全書から分離規定は抹消されたが、それは存続した。アフリカ系アメリカ人の機会は拡大したが、じゅうぶんでなく、得られる者はあまりにも少ない。住民の幅広い階層がゲットー化した怠慢の罠にかかり相変わらず憔悴していた。断続的な爆発――ワッツ、ニューアーク、ワシントンDCの暴動――が勃発したが、社会を完全に貧困と差別から解放する行動は不十分なままである。

米国における人種差別の深度の非黒人社会による根源的把握は、達成されたことがなかった。そのため、“Black Lives Matter”(黒人の命が大事)運動の背後にある意味と意図が誤解され、あのちっぽけな単語‘also’の欠落が批判と訂正要求を招き、敵意さえも掻きたてた。
[訳注]“Black Lives Also Matter”(黒人の命もまた大事)

アフリカ系アメリカ人の貢献を認識する

第二次世界大戦当時の米国陸軍大将、ジョセフ・スティルウェルが日本人は「ガニ股のゴキブリ」と最大級に下劣なことばで侮辱したような考え方を、米国政府とそのプロパガンダ部隊がアメリカ人の集団精神に焼き付けたので、ヒロシマとナガサキに対する原爆投下決定は可能になった。タイム誌からの引用で既述したように、米国の報道陣がスティルウェル大将の背後に控えていた。

次いで、写真――焼かれて皮膚が垂れ下がった子どもたち、黒焦げになり、あるいは蒸発さえした遺体、放射線疾患による苦悶の死――が現れはじめた。そして、佐々木禎子が登場し、彼女の故郷の街、ヒロシマに原爆が投下されてから10年後、享年12歳で白血病で亡くなる前に彼女が折った平和の千羽鶴が目に届いた。

このようなイメージが運動を活性化した。だが、こうしたイメージはまた、数千人のアフリカ系アメリカ人を刺激し、認識と共感を抱かせて、彼らはその実状に人種差別を見て、核兵器廃絶運動に対して、実質的だが、おおむね知られていない貢献を果たす動機を獲得したのである。



【筆者】

Linda Pentz Gunter 
リンダ・ペンツ・ギュンターは、メリーランド州タコマ・パークの環境保全団体、Beyond Nuclear(核を超えて)の国際問題担当。

【クレジット】

The Ecologist, “Why Japan? The racism of the Hiroshima and Nagasaki bombings,” by Linda Pentz Gunter, posted on 17th August 2016 at;



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