2013年9月17日火曜日

【海外論調】CNN: バーバラ・ジャッジ フクシマ後の日本で核の希望を元気づける女性

 


先端をいく女性たち
Leading Women
バーバラ・ジャッジ
フクシマ後の日本で核の希望を元気づける女性
キャトリナ・デイヴィス Catriona Davies, CNN
201325 -- Updated 1241 GMT (2041 HKT)
バーバラ・ジャッジは、40年以上の広がりをもつ経歴において
法律家、銀行家であり、数えきれない委員会の席に座ってきたが
いまフクシマ原発再開に関して東京電力に勧告する立場にある。
CNN日本の2011年核惨事の現場、フクシマへの訪問を描写するのに、「すばらしかった」ということばを使う人は稀だろう。だが、バーバラ・ジャッジ夫人は並の人ではない。
ジャッジは齢66歳、米英の二重国籍を有し、弁護士にしてビジネスウーマンであり、フクシマ原発所有会社、東京電力に迎えられ、20113月、完全に中断してしまった日本の核エネルギー計画の再出発を後押しすることになった。
2011311日、日本は記録に残る最大の地震と津波にみまわれ、膨大な死者数の各地の荒廃をこうむった。フクシマ原発に押し寄せた海水のために、冷却不能となり、原子炉3基の部分的メルトダウンにいたった。
この核事故は、最終的に「国際核・放射線事象評価尺度」で最悪事象とされるレベル7に分類され、当局は原発から半径20km圏内の住民を避難させた。
「女性は日本のビジネスで     
重役クラスとみなされていません」 
    バーバラ・ジャッジ夫人      
ジャッジは東京電力「原子力改革監視委員会」副委員長として、作業員らと会話するために、土曜日にフクシマを訪問した。
「すばらしかったですわ」と彼女はいった。「絶望でなく、まさに希望と熱意だけでした」
ジャッジは東京電力の従業員らに会ったのだが、その一部は事故当日に勤務していた人たちであり、そのほかにも、現場再開の準備のために、その後ずっとガレキを片付け、除染するために原発で働いてきた人たちもいた。
「その人たちはとても献身的でしたので、すこぶる感銘いたしました」とジャッジはいった。「彼らはヒーローでした」
彼女はこう言い添えた――「現場をきれいにするために、どれほどの仕事が成し遂げられたか、また世界一安全なサイトにしたいという高い志に、わたしは驚嘆しました」
ジャッジは、2004年からの2年間、英国原子力公社の議長職にあった人であり、東京電力の原子力発電復興に手を貸すという、人の嫌がる仕事を楽しんでいる。
経験があっても、自分が東京電力で新たな役割を担うものとしては部外者であったと彼女にはわかっている。
日本におけるジャッジの最初の仕事は、東京電力がセーフティ・カルチャー(安全文化)を変革し、社会的信用を回復するのを助けることだった。
「事故の前まで、原子力規制にあたる者と原発運転にあたる者とのあいだに非常に緊密な関係がありましたので、これはとても大きな課題でした」とジャッジはいった。
1年後のフクシマ
「彼らはみなお互いに知りあいであり、一緒に教育を受け、ですから、規制をめぐる対抗的な緊張がなかったのです。
「カルチャーを変革し、問題の核心を突く人たちが讃えられ、報われるようにすることが必要でした。彼らは、なにか間違っているというのが怖かったのです」
土曜日のフクシマ初訪問にあたって、ジャッジが特に熱望していたのは、女性たちに話しかけることであったのは、女が最も強硬な原発反対派である可能性が高いと信じていたからである。
彼女はこういった――「およそ2万人の命が地震と津波の結果として失われましたが、死亡者のうち、だれ一人として、放射線の結果として落命したものはいません。また放射線専門家たちは、だれも放射線のために死ぬようなことはないだろうと信じております」
健康に対する放射線の影響に関する評価には、とても大幅にばらついている。スタフォード大学、ジョン・フーヴェとマーク・ジェイコブスンによる研究では、放射線被曝の結果、主として日本で、130人の追加的な癌死亡がありうると見積もられている。
オレゴン州立大学、核工学・放射線保健物理学科長、キャスリン・ヒグリーはCNNによる2012年のインタビュー(July 2012 interview with CNN)で、フーヴェとジェイコブスンの研究の手法が標準とされているが、それでも不確実性があるといった。
フクシマ、近景

どれほど世界で癌疾患がすでに存在するかを考えると、ある人の癌は、福島第1原発のできごとが原因であると証明するのは非常に困難になる。世界保健機構は、2008年に世界で780万人が死亡したと推計していて、その数に比べて、130はまったく小さい、と彼女は言い足した。
国連科学委員会が全面的な調査を実施しているが、その暫定的な結果として、健康に対する重大な影響がないことがわかった。
原子力にかかわる仕事は、ジャッジが、法律から銀行業務、数えきれない委員会へとたどってきた経歴の最後の転身である。
「よい仕事をみつけるのは       
よい子守より困難です」       
  バーバラ・ジャッジ夫人           
ジャッジは1980年代、アメリカ証券取引委員会の史上最年少の委員であり、英国商業銀行初の女性理事であった。
彼女の姓は、イギリス保守党の元幹事長、サー・ポール・ジャッジとの再婚によるものであり、この人も同じように実業界や公共団体で非常に多彩な肩書をこなしてきた。
ジャッジ――当時はバーバラ・トーマス――の経歴は、母親から受け継いだ成功欲求を備えたスター的な法科学生としてニューヨーク大学でスタートした。
「もともと、わたしが女優になりたいと母親に告げると、わたしたちの家族に腹ペコの女優はいらないと母がいうものですから、演じたいなら、陪審団を前に演じるべきであり、だから法律家になりました」と彼女はいった。
「母は、わたしの知る限り、最も頭の切れる人物であり、女性は独立する機会を与えてくれる経歴を持つべきであると信じていました」
ジャッジの卒業はアメリカの大手法律事務所に女性雇用を拡大する意欲があった時期と重なり、トップ成績と相まって、いくつもの勧誘を確保することができた。
「わたしは非常に一所懸命、しばしば午前3時まで働きましたが、31歳のときに法律事務所の共同経営者になれましたので、元は取れました」と彼女はいった。
ジャッジは、33歳のとき、史上最年少のアメリカ証券取引委員会(SEC)委員に就任した。
「あれは、わたしの人生を変えた大きな節目でした」と彼女はいった。
ジャッジはSEC在任中、息子、ロイド・トーマスをなしたが、12日間の休みを取っただけであり、13日目には復帰し、200人の株式仲買人を前にスピーチをおこなった。
「わたしの母はいつも、育児がうまくいけば、出世できるのよ、とわたしにいっていました――じっさい、よい仕事をみつけるのは、よい子守よりも困難です」と彼女はいった。
「渦中にいて感じていたよりも    
わたしはいまパイオニアみたいだと  
感じています」           
  バーバラ・ジャッジ夫人     
「わたしは自分の息子とすばらしい関係にあり、彼が幼かったころでさえ、わたしがフルタイムで働いているのを、彼は誇りにしていました。
「真剣な職業をもち、同時に真剣な母親でいることができます」
SEC在任3年後の1983年、ジャッジの最初のオットが香港に転勤となり、そこで彼女を、当時の英国領で夫と同居するために、英国商業銀行、サミュエル・モンタギュー & カンパニーで史上初の女性理事の職についた。
「その銀行はすこぶる男社会であり、とりわけ銀行家ではなく、法律家として訓練を受けたアメリカ人女性にとって、受け入れられるのは困難でした」
30年たって、今でもジャッジは変わらぬ猛烈なペースで働き、朝飯前の仕事をこなすために、毎朝5時半前に起床している。
彼女は、齢87歳になるまで大学の副学部長職を辞さなかった母親の後を追おうと計画している。
第一人者の誉れが散在する経歴の所持者――1970年代と80年代の男社会でトップに昇り詰めた――ジャッジは、避けようもなく女性たちのパイオニアだと記述されることになるだろう。
「渦中にいて感じていたよりも、わたしはいまパイオニアみたいだと感じています」と彼女はいった。「わたしは、職業人生のなかで自分が『女』であるとほんとうに考えたことがなく、ただ『人物』であると考えていただけです」
「ほんとうのパイオニアは、わたしの母でした」




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