2015年4月7日火曜日

35年後のTMI「スリーマイル・アイランド小史」 via @tmi35project


  
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スリーマイル・アイランド小史


 
スリーマイル・アイランド、略称TMIは、ペンシルヴェニア州ミドルタウンの近く、サスケハナ川の島にある原子力発電所です。

位置関係でいえば、ミドルタウンはハーシー・パークから13.5キロ、州都ハリスバーグから16キロ、アーミッシュが根付くランカスターから43.5キロ、ゲティスバーグから77キロのところにあります。

これらの地域社会はたいがい、生態系の豊かなサスケハナ川の恵みを生活の基盤にしています。サスケハナ川流域はまた、たまたま米国有数の洪水多発地帯になっています。TMIはサスケハナ川の公式名をブリンサー島という島に立地しています。

TMI1号機の建造は19685月にはじまりました。2号機の建造は19697月にはじまりました。その当時、核エネルギーは「メーターで計る必要のないほど、安価」なエネルギー源と考えられ、エネルギー産業の未来を象徴していました。政府はこの新技術をさまざまな目的に使いたいと意欲的になっていました。

TMI1号機を4億ドルの建造費をかけて、19749月に完成し、稼働しました。2号機は197812月に稼働しました。2号機の建造は予算を超過し、工期が遅れ、地域の核監視団体、スリーマイル・アイランド警報(TMIA)と原子力環境同盟(ECNP)による訴訟を招きました。

TMI2号機が稼働して、ちょうど90日目(予測耐用期間の1120)の1979328日、原子炉が部分的なメルトダウンを起こしました。事故は午前4時ごろにはじまりました。未知の機械的不良のため、送水ポンプが蒸気発生器の冷却に欠かせない水を供給できなくなり、その結果、炉心を冷却できなくなりました。この故障のため、原子炉が停止しました。

原子炉停止のあと、一次系の圧力が上昇しはじめました。圧力を下げるため、排気弁が開けられました――が、弁が動かなくなり、開けっぱなしになりましたが、この事態は原発操作員らの知識を超えていました。その結果、貴重な冷却水が抜けてしまいました。誤った情報伝達がいくつか重なり、原子炉を安定させようと努めるあまり、さらなる冷却水供給を遮断しましが、それが事態をさらに悪化させているとは気づいていませんでした。

冷却水を喪失したため、炉心は過熱しました。燃料ペレットの半分とその被覆容器が溶け、後になって部分的メルトダウンと診断されることになる事態にいたりました。

関係者たちは、どのように行動すればよいのか、わからなくなりました。事態を制御下に置くために産業と地域の関係者らは緊急出動しましたが、TMIの幹部職員たちと原子力規制委員会(NRC)は互いに矛盾する説明をばらまいていました。

ペンシルヴェニア州のソーンバーグ知事は、原発から半径8キロの圏内に住む妊娠中の女性と幼児の予防的避難を求めました。

(女性と子どもたちは、細胞分裂が活発なので、変異した体内の細胞が増殖しやすく、放射線による突然変異と癌のリスクが高くなります)

原発から50キロの周辺地域から、約144,000人の人たちが逃げだしました。秩序と緊急避難計画が欠けていることが明らかになりました。ジミー・カーター大統領は一般住民を落ち着かせるために、NRC原子炉規制事務所のハロルド・デントン室長を派遣し、原発で起こっている事態を住民に説明させました。

デントンはNRCが公表した専門技術的な情報を理解しやすい用語に噛み砕いて説明しました。彼は、水素の泡のために原発が爆発するかもしれないという恐怖を静めることに役立ちました。
(水素の泡は、溶けた燃料と水の化学反応で発生します。水素は、やがて制御できる規模で燃えました)

ジミー・カーター(Jimmy Carter)は現地に飛び、帰宅しても安全であることをみなに知ってもらうために、TMIに現れた姿を見せることさえしました。

核燃料の取り出しが19798月にはじめられました。この仕事に約1,000人の作業員が従事し、経費が約97300万ドルかかりました。そのころ、住民たちは原発の説明責任を声高に問いはじめ、周辺町村で健康調査をおこないはじめました。

1号炉は無期限に停止していましたが、いまだ混乱のさなかにありながら、19797月にその安全性が確認できると、NRCはそれを再稼働させる意向を表明しました。住民活動家たちは主導権を求めて戦いました。

NRCは、2号炉の事故とフォールアウトは制御されていたのであり、一般人の健康問題はなかったと確実に証明できると主張して対抗しました。

PANE(核エネルギーに反対する人びと)という活動家グループは、NRCは精神的苦痛を考えていないが、政策決定に心理的な福利を組み入れるべきであると主張しました。グループはNRCを提訴し、最高裁に訴訟を持ちこみましたが、NRCの勝訴とする判決が下りました。

19825月に1号炉再稼働の賛否を問う住民投票がおこなわれ、反対する一般住民の声が決定的に勝利しましたが、1号炉は198510月に再稼働されてしまいました。

TMI契約先の電力会社、メトロポリタン・エジソン社(Met Ed)は、裁判所命令11号に対して抗告申し立てを断念したのに加えて、1984年に司法省との司法取引に応じました。その結果、Met Edは罰金45,000ドルを支払うとともに、ペンシルヴェニア州緊急事態管理局の資金となる100万ドルの口座を開設しました。この法的結着には、地方税納付者がMet Edの弁護費用を負担する必要がないという条項も含まれていました。

ペンシルヴェニア州最高裁は19959月、下級審の決定を破棄し、GPUMet Edの新しい社名)がTMI-2号炉事故経費分を電気料金納付者に課金することを許しました。この決定は、TMI-2号炉が電気料金納付者による7億ドルの負担で建造されたという事実を看過していたのです。10億ドルの経費が原発の核燃料を抜き取るために使われ、その原発はいま無為に停止し、または別のことばで言えば、「監視付き保管」下にあります。


TMI事故に関して、注目される健康調査がいくつかあり、さまざまに異なった結果を出しています。活動家が運動し、長年にわたり法廷闘争がおこなわれているにもかかわらず、TMI-1号炉は今日にいたるまで稼働しています。NRC2009年、その運転免許期間を延長した。1号炉は2034年まで運転が継続することになります。事故の結果、人びとは原子力の賛否両論に厳しい目を向けることを余儀なくされ、核産業に技術面および安全面で前進する新しい時代をもたらしました。そのような前進が充分なのか、あるいはNRCTMIで勃発した事態の説明責任を完全に果たしたのかは、いまなお異議を唱えられているのです。

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