ロバート・シュトルツ Robert Stolz
田中正造(1841-1913)は、日本「最初の環境保護論者」であると広く認められている。元・村名主であった彼は、1890年代、東京から北西の渡良瀬川と利根川の足尾銅山による鉱毒に対する戦いを先導した。田中の活動は、工業化する日本に対する農民の警告として受け止められることが多いが、より正確には、双子の自然過程、「毒」と「流れ」にもとづく社会に関する洗練された生態学理論を発展させた近代的な環境思想家の働きとして見ることができる。彼はこの立場に依拠して、明治国家による関東平野の治水計画、すなわち水系全体の大規模な改造工事であり、日本国による最初の自然への介入に対する論戦をつづけたのである。田中の根本的河川法および「毒」と「流れ」の哲学は国家洪水制御プランに対抗して、人間の力の名のもとに、生きている自然の声を無視することから生じる害悪を説いている。彼の法律は、流れを「人造のものならず」、自然の、まことにあらゆる生命の基本として崇める。
田中の理論は、洪水調節池の用地確保に必要だとされた谷中村を破壊から守るための闘争のなかで展開したものだが、大規模ダム築造の時代の前に書き留められたにもかかわらず、誤った環境政策を社会的な苦しみに結びつける、彼の鮮やかな理論は、現代の社会、経済、環境をめぐる論争にも大きく問題提起しており、それはなにも日本に限らない。彼の「毒」という拡大しうる概念は、地球温暖化など、広域的で新たな形態の環境劣化を指すのにとりわけ適切であると思える。選挙制国会を備えた立憲君主国に日本を改革することに成功した1870年代自由民権運動の古強者・田中は、環境劣化が日本国民の新たに勝ち取った民権を侵食する脅威になると見た、おそらく最初の人物だったのだろう。人類の自然に対する関係について、発展してやまない田中の見識は、足尾銅山および国家洪水制御プランに対する彼の闘いのうちに、生態系と社会とを不離一体のものとなるまでに結びつけたのだ。
図1:田中正造の肖像(出所:佐野市、 栃木県立博物館『田中正造とその時代』 2001年) |
足尾鉱毒事件
足尾銅山は――日光東照宮の足尾産銅瓦に見るように――17世紀から採掘されてきたが、明治立志伝中の人物・古河市兵衛(1832-1903)が1877年に経営権を獲得してから、規模と産出量とを大きく拡大した。1882年と1884年には、それまでに増して豊かな銅の鉱脈が発見された。これらの発見によって、また古川が最先端採収技術を導入したこともあいまって、銅山の産出高は急成長した。ひなびた山間の町だった足尾は1880年代に入って、フレッド・ノートヘルファー(Fred Notehelfer)のいう、日本最初の電気鉄道、最初の水力発電所、圧縮空気削岩機、電灯照明、遠心ファン換気装置を誇る「国内で最先端の技術センターのひとつ」になった1。
栃木県令の発した渡良瀬産魚類販売・消費禁止令によって、足尾事件当時の物語を1880年まで振り返れば、最初の騒ぎをほのめかすヒントが見つかることが多い。これは最近になってコレラ防疫令の誤読であることが示されたが、1885年8月12日付け朝野新聞が渡良瀬川の鮎について、とても弱っていて、子どもが手掴みしていると報道したことには議論の余地がない。論説は原因として足尾の鉱毒を疑っていた。1887年秋には、被害を受けた家庭の学校生徒らの動きがあり、50年ぶりの1890年洪水のときには、すでに抗議集団は、劣化した田畑に足尾の銅の存在を見つけ、宇都宮病院と帝国大学農林大学の土壌学者・古在由直に確認の手配をした。(足尾事件以前の洪水は植物に必要な肥料分をもたらしていたが、1890年代の洪水は鉱毒を運びこんだ)。未曾有の被害をもたらした1896年の洪水によって、足尾鉱毒事件は国家的な問題になった。ジャーナリスト・三宅雪嶺によれば、足尾鉱毒事件と1911年の大逆事件は明治時代(1868-1912)の二大社会事件である。
1896年8月から9月にかけて、洪水が渡良瀬・利根川水系の堤防システムをズタズタにし、谷間の水田、桑畑、畑地に鉱毒を含んだ表土層を残した。ヒ素、水銀、塩素、硫黄、酸化アルミニウム、マグネシウム、鉄、硫酸銅(胆礬)、酸化窒素、リン酸など、さまざまな汚染物質が川水を不気味な青に変え、短時間でもその水に触れた者は、足やくるぶしにただれができた。足尾銅山排水はまた、栃木は足利の町から下流域の大規模に栄えた藍染め産業の用水を使用不能にした。洪水によって、また稲田に渡良瀬川の水を灌漑することによって、これら汚染物質は耕地に埋め込まれてしまい、いささかなりとも収穫を望みなら、人手で除去しなければならなくなった。おまけに、足尾は渡良瀬川の源流域に位置していた。製錬所の排気塔から排出される毒性の煙と(坑木や溶鉱炉燃料として用いるための)足尾周辺の山並みの皆伐のために、山々の森林を消失させ、下流域の氾濫を激化させた。雨水を保持する木々や土壌がないので、雨が足尾の裸になった斜面を渡良瀬・利根川水系へと急速に流れ落ち、水量を増やしただけでなく、川の沈泥負荷量を増大させた。そのためにまた、堤防の高さに比べて数フィートばかり川床が上昇し、したがって洪水の頻発と拡大が確実になった。
元村名主・田中正造は、産業規模汚染に対する日本初の抗議の声になり、大衆を代表する顔になった。田中は、1868年明治維新直後の時期に花開いた大衆運動に大挙して加わった明治前の田舎エリートのひとりだった。1870年代に、田中は改進党の党員として自由民権運動の活動家だった。栃木新聞の編集長として、代議員議会と憲法を要求し、他の活動家らによるジョン・スチュアート・ミルやジェレミー・ベンサムの翻訳本を出版した。1890年に国会が開設されると、田中は他の大勢の党活動家たちと同じく、議席を勝ち取った。田中は下野県(現・栃木県)を代表する国会議員の役割として、谷筋の活動家たちと協働して、農耕地、河川、暮らしの被害の広がった範囲を文書に記録し、鉱毒問題の発生に対する政府の反応に関する国会演説と問責質問にそれを使った。
この草の根運動が主な原因になって、政府は1897年に足尾事件を検証するための鉱毒調査委員会を設置し、同年後半に委員会は日本初の汚染予防命令(「鉱毒予防令」)を発布した。リベラル資本主義の精神と、自由放任主義政治の持ち味で書かれたこの命令は、鉱山側と農民側とで財産上の得失が競合する「二次汚染」を避けることを目指していた。「足尾銅山の所有・経営者」である古河市兵衛に政府が交付した命令は、古河が汚染物質の渡良瀬川水系への流入を防ぐことを要請していた。とりわけ古河は、沈殿池と擁壁の築造、足尾煙突内の「煙霧洗浄装置」(石灰水噴霧器)の設置を自費負担でおこなうことを求められた2。国と県はこれと同じ精神にもとづき、谷筋の住民が数年来の銅山に対する訴訟を取り下げる見返りに、古河鉱業が「見舞金」を支払うとする計画を支持した。見舞金支払い手続きは、1897年措置を実施するまでの時間稼ぎ手段に使われ、流言飛語、脅迫、露骨なペテンで充満していた。せっかく1897年に下された命令があり、古河は少しばかりの金を支払ったが、鉱毒問題は継続し、1902年に第2次鉱毒調査委員会が創設された。
第2次鉱毒調査委員会は、先例と違って、洪水を課題の中心に据えた。相変わらずだったのは、リベラル流に財産権の不可侵性を強調することだった。俎上に載せられたのは、国家的視野と規模を備えた革新的で壮大な自然改造プロジェクトだった。政府は1896年制定の河川法を持ち出し、「公共ノ利害ニ重大ノ関係アリト認定シタル」いかなる河川に対しても管轄権を有すると主張した。河川法はまた「他府県ノ利益ヲ保全スル為必要ト認ムルトキハ主務大臣ニ於テ代テ之ヲ管理シ又ハ其ノ維持修繕ヲナスコトヲ得」として、いかなるプロジェクトに対しても内務大臣に管轄権があるとする3。1903年3月発表の委員会勧告は、巨大な規模の国家プロジェクトを要請していて、これこそは、とりわけ内務省の土木課にとって、政府の威光が輝く瞬間だった。このプロジェクトはまた、日本の治水施策の一大変革を画するものだった。これは、時たまの洪水の緩和をめざす「低水堤防」政策から、いかなる類の洪水に対しても「容認しない」姿勢で望む「高水堤防」政策への移行である。このプロジェクトは、いま(悪)名高い日本の完全制御・コンクリート護岸河川システムの始まりだった。1930年の完成時までに、日本は186キロメートル長さの高水堤防を建設し、2億2000万立方メートルの土砂を除去した。比較例をあげておけば、同時代のパナマ運河建造で取り除いた土砂は1億8000万立方メートルだった。
委員会は、鉱毒を定義するというやり方で、焦点を川のなかの鉱毒から川そのものに首尾よく切り替えることができた。委員会は溶解性の銅と不溶解性の銅とを分けて扱うことによって、足尾銅山の廃水が確かに溶解性の銅を含んでおり、それが渡良瀬川を流れ下って、水田、用水路、飲料用井戸、さらには地方の女性の母乳にまで届いていることを知った。だが、委員会はさらにまた考えて、「量は人に害をおよぼすほどでない」とした。摂取量が少ないなら、銅は必要な栄養微量金属であると付け加えることさえしたのであり、渡良瀬川、利根川渓谷の住民たちは変則的な手段で推奨される日々の許容量を受け入れるだけであるというのが、明らかながら、口に出されない結論になった。
川底に堆積した膨大な量の不溶性の銅はもっと重大な公衆衛生上の脅威であるとされた。委員会は作用物質と作用原因を混同し、足尾銅山からの銅は掻き乱された場合に危険になるだけであると考えた。川底の銅が急激に湧きあがって、害をなすのは、洪水のときだけというわけである。言い換えれば、農民たちの田畑に鉱毒被害をもたらすのは、銅山ではなく、洪水であって、たとえ足尾銅山が閉山になっても、これがつづくと委員会は結論づけたのだ。河川、自然そのものが問題だと名指されたのである。委員会の提案は、さらなる洪水を防ぐ目的で、コンクリート製川床、護岸、高水位堤防、機械化「水門」を構築することにより、川を完全に水系から切り離すことを目指していた。最終的な目標は、「流量を通常の状態で必要とされる程度に抑制すること(がわれわれにできなければならない)……流れをさえぎるものがなにもないところは、すべて新たな堤防が建造されるだろう」と謳うように、河川系全体にわたる水位制御だった。流域全般の川岸と川床を固めると、この目標の大部分を成就することになるだろうが、最後の項目、渡良瀬川と利根川の合流地点に洪水制御遊水池を設けるには、強制収容(英国法:強制購入)と村民の強制移住による谷中村全土の取得が必要だった。最終勧告は、いうまでもなく、銅山の閉山を要求せず、歴史的に日本で最も肥沃な土地のひとつ、関東平野は鉱業と共存しうるが、「農業にまったく不適である」といいたてた。自然の「全般的な不毛性」なる知見が得られたので、委員会の関東平野改造提案は、自然に対する必要な介入であり、自然の改良であるとさえ、みなされうることになった4。
田中正造の「毒」「流れ」哲学
田中の環境哲学と直接行動は、単に環境保護論者の自然賛美としてではなく、委員会の提案と国の1896年河川法に対する歴史的に具体的な反論としての存在だった。国が自然を人間に操作される客体であると見ていたのに対し、田中の理法は動いてやまない活動的な自然を論じていた。この点で、田中の考えは、日本の伝統農学、科学的農法、自然を無限の物質エネルギーが常に動いているものと考えた一元論の伝統に根ざしている。だが、田中は工業規模の汚染を目のあたりにして、自然がほんとうに無限なのか、疑うことを教えられた。田中が「流れ」と呼ぶ、物質エネルギーの永遠の運動という楽観的な18世紀の信念に、彼は別の範疇「毒」を加えた。田中の考えでは、毒は自然エネルギーの有害で破壊的な形の流れを表している。田中が流れと毒を理論化するに伴い、それらは多様な形態になり、物質界と生態系から社会と政治へたやすく動くものになった。
運動が自然の本性であるので、国家政策で川の流れを締めつけたり操作したりして制御しようとしても、望むような全般的河川管制という結果はえられないと田中には思えた。逆に、水流がコンクリート堤防、水路、貯水池に殺到すると、反転して、「還流」または「逆流」となり、上流域の洪水という結果になるだろう(これが、まさに発生した事態である)。流れをせき止め、逆流させる国家政策にもとづく人間の行為が、ますます大規模になる、人工の有毒な洪水を増やすのに対して、田中の流れを大事にする考えは、命を殖やすことになるだろう。田中の考えが発展するにつれ、毒は水系の田畑に有毒物が存在することだけでなく、自然に対する有益な人間の介入の限界をも表すようになった。毒は、責任ある人間の力の限界をあらわにするのだ。これは、飢饉は自然のものではなく、間違った社会の動きの結果なのだとする農学の伝統を継承してもいた。田中は鉱毒に対処するにあたって、彼に先立つ農学者と同じく、また1902年の委員会とは違って、自然ではなく、政治を作りなおす必要があると論じた。
毒を防いで、命をはぐくむために、人間は自在に流れる生態系の恩恵を活用する形にわが身を整えることを学ばなければならない。1912年1月26日付け日記に、山と川という漢字を使って、流れを育てる地と水との相互補完的な関係を図に描いて遊んでいるのが示されている。田中自身の添え書きに、「これらの図は自然の原理を表す。これらの絵の意味がわかる河川監督官は実に稀だ」とある。
図2:1912年1月26日付け田中日記 (出所:岩波書店1977-80年刊 『田中正造全集』第13巻p.65) |
魚でさえ、鉱毒のなんらかの扱いかたを人間に教えてくれる――
観察。魚は(法的)保護を与えられず、(渡良瀬川の)暗鬱な汚染水のなかで生きているが、全滅を免れないのだろうか? 汚染者が全力を上げても、これら魚を絶滅させることができない理由は次のとおり――魚を保護する法律はないが、魚は本能的に自然を頼りにし、危険を逃れて、汚染されていない流れにいたる道をたどり、幸いなことに、みずからを救う。魚はこうしている。人びとがなお一層、こうしないのは、なぜだろう?5
田中は環境哲学と社会観を展開するにつれて、諸権利と救済の源泉をますます物質的環境に位置づけるようになり、それは、ふたつの概念、社会的なものと生態学的なものとがほとんど不可分となる核心にいたるまでつづいた。1896年の河川法のような法律は、政治という完全に人間の世界で創り出されたものなので、堕落するものであるが、田中の流れの哲学にもとづく基本的河川法は、自然が許容するものにおのずから適合しており、「水の本質は正直なり……水は人を害せず……階級を選ばず……水は紛い物ならず……人は互いに欺く(けれども)、流れる水は欺かず」6と宣言する。こう理解すれば、自然は人間のあらゆる社会活動に必要な出発点になる。結果が命をはぐくむことを期するなら、人間は自然の原則に寄り添わなくてはならない。
毒は、単に別個の物質であるのではなく、副産物、または意図せぬ廃棄物である。毒はむしろ、体系的な不一致――人間のならわしと自然のならわしとが互いに競合した結果――から生じた。田中の考えでは、自然は知るかぎり最強の力であるが、無敵ではない。さまざまな意味で、これが足尾の教訓だった。毒は日本人の自然論に持ち込まれた新しい範疇の思考概念であり、人間・自然関係の歴史における断絶を知らしめるものだった。流れは、自然の究極的な本源としての地位にあるにもかかわらず、人間の行為によって邪魔をされ、意図に反し、有害な形で流れることを強いられ、命のあらゆる領域で深刻な余波をおよぼす。
鉱毒の洪水は地の偉大な力を借り、内務省への道を突き進む。内務省の土木課は鉱毒汚染によって破壊される。汚染は、破壊、再建、さらなる破壊の循環にいたることを定められている。毒は地形に乗って走り、川の流れに乗り、厚生局にいたり、やがて人を倒す。警察は無力で、毒による殺人を止められない……(強調は、筆者による)7。
田中の毒と流れの哲学の現代的な側面は、彼が1902年委員会の自然に関する仮説に対抗して書いた質問資料に明らかである。彼のことばは、現代生態学の概念「エコサイド」の「発見」に他ならなかった。
汚染があまりにも長くつづけば、川の源流は不潔な岩と汚れた土の山から噴き出し、第二の転性をなし、水にすっかり貫入するであろう。一度こうなれば、洪水被害に手当する話すらできなくなるであろう(強調は、筆者による)8。
言い換えれば、一度この毒の第2の本性が現れると、渡良瀬川の魚族に開かれていた救いの窓が閉じられるだろう。毒が動いてやまない自然のプロセスと完全に一体化すると、世界そのものが人間の命取りになる。システムは動きつづけるだろうが、その産物はもはや命を支える流れではない。その場を占めているのは、「第2の有毒自然」の動きであり、それが増えるばかりの病気、貧困、飢餓、最終的には死をもたらすだろう。
人間による自然操作が生みだしているものへの、この強調は、田中のヴィジョンが、農村の価値への賛歌や現代社会からのロマンチックな隠遁ではなく、社会的、生態学的であることを明瞭に示している。田中は日本の現代化の開始時に執筆していて、足尾と治水の問題が将来のなにの前兆なのか、懸念しつつ、この体験がどのような種類の国体をうみだすのだろうかと思いを巡らしさえしていた。急進的な検証や姿勢と考え方の転換なしに、彼は、生まれようとしているものを恐れていた――
人心の退化は、足尾が引き起こした害と一体である。両者ともに裸眼では見えない。日本は若い国なので、日本は病気に感染する子どもと同じだ。病気でも、子どもはやはり育つだろう。日本も歳を取っていくだろう。(しかし)一度、成人したなら病(日本から)見分けがたし9。
自然は常に動いてやまないので、毒を取り除くなら、人間の活動はその動きを補完しなければならず、動きの邪魔をしてはならない。彼のことばでいえば、自然のなりわいと人間のなりわいは共に働かなければならない。彼が足尾事件と国の治水政策でみなすようになったように、協働がなければ、その結果は環境の領域から社会の領域に移り動く害の蓄積である。遊水池用地の確保のために1907年に破壊された谷中の村の悲しい運命は、間違った環境政策がやがて社会的抑圧を求めるようになることの一例だった。谷中村だけでなく、田中の見る所すべて、人間が自然に「従うのではなく、戦っている」のを見た。
消える定めの谷中村に、田中が1904年に引っ越したのを、自由民権運動の革新主義政治、あるいは1901年の劇的な天皇直訴からの撤退と見るべきではない。田中の普遍主義的な一元論は、それをお馴染みの農業・対・工業の論争に委ねてはならないことを意味している。自然はあらゆる場所に等しく流れ、それを妨げると、どこであっても毒の結果になる。むしろ、田中の谷中との一体化は、他のどこよりも、日本がみずからを毒している場所への論理的な移転だった。ここでも、谷中は、原型的な村社会としての地位以上に、毒と流れの見地から重要だったのは明らかである。谷中は、川の流れ原理に対する無益な戦争で、政府に破壊された村である。親たちが土地収用によって追い立てられたのに、息子たちが満州でロシア兵らと戦って殺されていた谷中こそ、田中と、島田三郎、木下尚江、荒畑寒村、石川三四郎といった他の活動家たちが日本の近代性に対する基本的な疑問に自分の立場を築いた、その場所である。これら活動家たちの多くが、「一坪運動」(坪=3.31 m2)によって谷中村の土地所有者になった。これには、困窮に陥った住民を援助することと国家による村の買収を複雑化する意図があったが、やがて土地収用の執行によって敗北した。
田中にとって、谷中村の破壊は劣悪な環境政策が政治的な抑圧に連動したことを意味していた。人間の能力が自然を完全に操作できるという政府の間違った信念が、河川プロジェクトの背後にあったのである。プロジェクト失敗の結果、コストが膨らみ、銅山に反対する声を封殺し、土地収用を執行し、最終的には村を暴力的に破壊することになった。田中はこのことを、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』(1907年刊)の序文に「鉱毒問題は変身せり。家々の泥棒、破壊となれリ」10と明言している。この連鎖を可能にするものは流れと毒の哲学であり、谷中はこれら2系統が一点に集束する現場だった。田中の理論でいえば、最大の社会的抑圧と人間の苦難が生じた場所が、国家による制御――遊水池で河川の流れを完全に食いとめる――究極的な企てが執行された、まさしくその地点だったのは、偶然の一致ではない。
田中は晩年になって、彼のいう谷中学(谷中研究、または文字通りの谷中に関する学問)なるもの、毒を産出せずに、流れを育成するはずの生きかたの構築を試みた。谷中学は、河川法と内務省に対する彼の反抗と、再結集した彼の村人たちが独自に理解した自然の流れに則って独自の堤防を築こうとすることに正統性を付与した。1904年から1910年にかけて、堤防が築かれ、当局に破壊され、再築されるということが繰り返された。1907年に国が家屋を破壊したあとでさえ、16軒の世帯が元の家の端材を使って掘っ立て小屋を立て、流れに則り、試行錯誤しながら住みつづけた。谷中学は、自然流に生きるオルタナティブな実践がオルタナティブな社会観を内に孕むことを示した。重要なことに、田中は適切な自己概念を信じ、したがって諸権利の存在は、毒された環境にあっては不可能だった。この物質的環境が諸権利を保障しなければならないとする信念は、最終的に、彼のいう「普遍憲法」(広き憲法、宇宙的憲法)において、破壊力を秘めた普遍主義に到達した。銅山と国に対する彼の抵抗を正当化する彼の自然に対する訴えは、田中の1912年宣言に最も劇的に表明されていて、そこに彼はこう主張した――「われらには憲法がある。残念ながら、この憲法は(狭量な)日本の原理に則っており、普遍的(自然)原理に則っておらぬ。この次第により、たとえ日本が死滅するとしても、われらが殉死する義理は毛頭ない」11。
田中哲学の現代的意義
田中による環境と社会の関連付けは、荒畑寒村、とりわけ石川三四郎といった、戦前日本のアナーキストや社会主義者らに強い影響を与えた。1920年代、1930年代における、これらのイデオロギーに対する日本国家による弾圧は、このヴィジョンの喪失を意味した。ひとつの例外が田中の被保護者であり、この黒澤泰三という名の若い学生は後に北海道に渡り、酪農家になって、生産者組合を発足し、これが後の雪印乳業、つまり最近の合併まで日本最大の酪農メーカーだった会社になった。戦後期では、1960年代の市民運動と水俣湾におけるメチル水銀中毒の勃発を期して、田中は再発見された。今日、田中のヴィジョンの保存と拡大に努める諸グループがある。渡良瀬川研究会と、「田中正造大学」を名乗る団体とは、「フィールドワーク」を開催し、「田中正造と足尾鉱毒事件研究」「苦言」といった会誌を発行して、社会的不平等、核兵器、汚染、自然保護といった諸問題の関連付けをめざしている。1990年代はじめ、田中正造大学は古河グループのフィリピン訪問に同行し、その地で、足尾事件は「飛躍」し、鉱毒汚染の英雄伝全編が国際的な舞台で再演された。この最後の例は、足尾事件にしても、田中の毒に関する思想にしても、日本に限定されるものでも、文化的に特有な自然理解に依存するものでもないことを示している。彼自身にしても、「普遍憲法」に関する彼の見解に見るように、そう考えていなかった。
足尾現地において毎年、「足尾の緑を育てる会」のボランティアたち数百人が足尾製錬所の近くに集合し、山腹の再植林を試みている。100年間にわたって足尾の排気塔が排出した毒の煙が残した大量の硫黄がいまだに土壌に含まれているので、この再植林プロセスは時間がかかり、多くの試行錯誤が必要である。
図3:足尾製錬所の遺跡、2002年 (Photo: Robert Stolz) |
図4:「足尾の緑を育てる会」の集会、2002年 (Photo: Robert Stolz) |
図5:足尾における森林再生実験。頂上部の緑に 包まれた区画は表土の不足を補う試みとして、 土壌、種子、肥料の混合物を岩に噴きつけたもの2002年(Photo: Robert Stolz) |
大した歴史の皮肉というか、谷中遊水池は「自然探訪リクリエーション」の場となり、その観光案内は、広い水面で楽しむウィンドサーファーのイラストを大きくあしらっている。今日、遊水池の護岸は自然らしく見えるとしても、その盛り土の斜面は土木工学とコンクリートでできた基礎のうえに築かれている。
図6:谷中遊水池のコンクリート護岸、2002年 (Photo: Robert Stolz) |
この歴史を振り返り、ダムを新規建設するか、撤去するかという現代日本の論議に注目すれば、一方が官僚の主導に、他方が市民の提唱にとても緊密に位置づけることができて興味深い。田中康夫・前長野県知事の「脱ダム宣言」から荒瀬・長柄ダム計画に反対する市民団体の結成まで、河川政策と政治・社会運動の結びつきは強いままである。日本の国外では、ダムと撤去の物語はさらに大きなスケールでつづいている。アルンダティ・ロイの“The Cost of Living (1999)”(片岡夏実訳『わたしの愛したインド』築地書館、2000年)は、インドが大国の地位――つまり、現代では、大規模な自然改造プロジェクトにつながるだけでなく、究極の毒、核兵器の拡散につながる位置――に向かって邁進するさなか、ナルマダ渓谷の巨大ダム計画に反対する論として、「インドの進歩幻想」を語っている12。
他の執筆者たちは、気がかりであるが、おそらく偶然の一致ではない、大規模な自然への介入と民主主義政治の劣化の結びつきを強調してきた。International
Rivers Network(国際河川ネットワーク)のパトリック・マックリーとマイケル・ゴールドマンは両者とも、ダム建設のための立退きに反対する市民運動が育っているにもかかわらず、中国の三峡ダム(立ち退き者:190万人)や世界銀行が後押しするラオスのナムトゥン2のような大プロジェクトがより権威主義的な諸国で実施されているだけであることを実例によって示した13。田中が戦っていた河川プロジェクトが大国としての日本の意識的な建設の過程で実施されていたのに対して、今日のダム建設や自然改造プロジェクトは、帝国の栄光のために実施されるということが少なく、たぶん帝国よりも御しがたく強欲な他の大義、たぶん民主主義政治に抵抗するプロセスそのもの、成長のための成長の大義の名により企てられることが多いのだろう。
毒と流れに関する田中の思想は、汚染がわたしたちの考えるものと同じようには見えない可能性に、わたしたちを誘う。あるいは、汚染はわたしたちが考えるものよりずっと大きなものなのだ。確かに、水俣湾の魚の体内に残るppm(100万分の1)でなにがしかのメタル水銀はやはり明らかに汚染である。だが、毒は全身性作用をもたらすものであり、化学的に汚染されたいかなる空間からもはるか離れて、社会レベルの残響として顕現する――谷中から立ち退かされた村民の多くは、北海道はオホーツク海沿岸、サロマに再定住させられたのだ。汚染は、毒として理解すると、余分ななにかではない。さもなければ健全な工程の廃棄物や副産物ではない。毒は、最悪の場合、建設的な生産、肯定的な選択の結果でありながら、しかし残念なことに、意図された存在にとって、いささかも致命的でないとはいえないのだ。今日、なんらかの傾向と対抗傾向とが見て取れる。地球温暖化と、それに付随する新たな災害、貧困、近い将来の海岸域住民の立退き、熱帯病の蔓延は、その大部分が、肯定的な、経済の健全性の名のもとになされた選択の結果なのだ。その一方、最近、ワンギリ・マータイが、ケニアで「グリーン・ベルト運動」(the Green Belt Movement)を開始した業績により、ノーベル平和賞を授与されたことは、環境と社会の不可分性に対する理解が育っていることを示している。最終的にどちらの見解が勝つかは、まだ不明のままである――だが、賭けられているものは不明でない。
ガヴァン・マコーマックが当サイトで論じたように、「水俣病は、なによりも精神の病気であり、成長、金銭、物質的な豊かさが自然環境や人間性以上に価値あるものとされるようになって、日本はこの病に敗れたのである」14。田中は、このような態度がやがて世界そのものをわれわれに敵対させるようになるかもしれないと1902年に警告したが、じっさい、これはすでに起こっているのかもしれない。水の汚染に関する最近のワシントン・ポスト記事が、野生生物の廃物がポトマック川とアナコスティア川の汚染の主要な原因であるという驚くべき見解を読者に紹介している。この科学者たちから「自然は明らかにみずからを汚染しており、河川の浄化の責を担う政府当局者らに重大な難問を突きつけているとする、奇妙な主張が」寄せられた。後日の記事は、さらに強い調子で、これは「人びとの自然に加える影響にまつわる究極の皮肉であるかもしれず、生態系全体があまりにも徹底的に変化して、いまや野生動物がみずからの環境を劣化するようになった」15という、身も凍るような可能性を提示している。田中、マコーマック、そしてワシントン・ポスト記事は、技術的な修復法がなく、態度の、生活様式の変化、最大限に重要なこととして、社会組織そのものの改革が求められる、そのような汚染を叙述している。自然を改変せずに、政治を改革することだ。
【筆者】
ロバート・シュトルツRobert
Stolzは、ヴァージニア大学コーコラン歴史学部、日本史・社会論の助教授。最近、学術論文“Yanakagaku’: Pollution and Environmental
Protest in Modern Japan”(「谷中学:近代日本における汚染と環境保護論者の抗議」)によって、シカゴ大学から博士号を取得。本稿の拡張版がJapan Forum 18:3 (2006), 417–37に掲載。シュトルツの連絡先:rstolz@utk.edu。本稿初出:Japan Focus、2007年1月23日。F. G. Notehelfer, “Between Tradition and
Modernity. Labor and the Ashio Copper Mine” Monumenta Nipponica,
Vol. 39, No. 1. (Spring, 1984), pp. 11–24
【脚注】.
3. 「鉱毒調査」992.
5. 田中(1989)、5: 333.
6. 田中(1989)、4: 149–50.
7. 田中(1989)、4: 137–8.
8. 田中(1989)、4: 228.
10. 田中(1989)、7: 247.
11. Arundhati Roy, The Cost of Living (New
York: Modern Library Paperbacks, 1999).
アルンダティ・ロイ『わたしの愛したインド』片岡夏実訳、築地書館、2000年
アルンダティ・ロイ『わたしの愛したインド』片岡夏実訳、築地書館、2000年
12. Patrick McCully, Silenced Rivers:The Ecology and Politics of Large Dams (New York: Zed Books, 2001) and
Michael Goldman, Imperial Nature: The World Bank and Struggles forSocial Justice in the Age of Globalization (New Haven: Yale University
Press, 2005).
14. David a. Fahrenthold, “Wildlife
Waste is Major Water Polluter, Studies Say,” The Washington Post,
29 September 2006.
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【原文サイトのコメント】
チャールス・W・エヴァンス=ガンサー 2010年3月29日
わたしは田沼町に数年間住み、田中正造を英雄視するようになりました。彼の妻、カツはわが家の近所で誕生しており、わたしは何度か田中の家を訪ねました。正造のような政治家がたくさん現れなかったのは、ほんとうに気の毒なことです。先週、わたしはケネス・ストロングの書いた彼の伝記をようやく見つけ、楽しく読みました。ご活躍を祈りつつ、チャールス。
わたしは田沼町に数年間住み、田中正造を英雄視するようになりました。彼の妻、カツはわが家の近所で誕生しており、わたしは何度か田中の家を訪ねました。正造のような政治家がたくさん現れなかったのは、ほんとうに気の毒なことです。先週、わたしはケネス・ストロングの書いた彼の伝記をようやく見つけ、楽しく読みました。ご活躍を祈りつつ、チャールス。
ロバート・スタイン 2012年2月12日
わたしは宇都宮に10年間住み、足尾を訪問して、田中正造を知りましたが、シュトルツの記事はとても見事で、わたしが状況をもっとよく理解する役に立ちました。日本で、特にフクシマ問題を考えると必要とされているのは、彼のような闘士です。政府の隠蔽を監視しつづけ、国民、その健康、その未来、その諸権利を守るために、日本人の生きかたに必要なのは、内部告発者たちと真実の人たちです。
ケイス・ガーナード 2013年10月27日わたしは宇都宮に10年間住み、足尾を訪問して、田中正造を知りましたが、シュトルツの記事はとても見事で、わたしが状況をもっとよく理解する役に立ちました。日本で、特にフクシマ問題を考えると必要とされているのは、彼のような闘士です。政府の隠蔽を監視しつづけ、国民、その健康、その未来、その諸権利を守るために、日本人の生きかたに必要なのは、内部告発者たちと真実の人たちです。
ロバート・シュトルツさん、この調査の行き届いた記事を、とてもありがとうございます。田中正造の物語を分かち合うのに、すばらしい方法です。もっと多くの人たちが惹きこまれ、力付けられますように。
【訳者による付録】
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