2015年7月6日月曜日

ガーディアン紙「核のフォールアウトに苦しむハリウッドと風下住民」~誰がジョン・ウェインを殺したのか?

Winner of the Pulitzer prize 2014
ジョン・ウェイン John Wayne
核のフォールアウトに苦しむ
ハリウッドと風下住民
米国は冷戦期に砂漠地帯を放射能の荒野に転じたが、それを否定しており、いまだにハリウッドとモルモン教徒の地方社会に医療ミステリーがつきまとい、「政府をどこまで信じられるのか?」と、問を突きつけている。
映画『征服者』のセットでガイガ・カウンターを手にしたジョン・ウェイン。Photograph: Supplied


ロリー・キャロール Rory Carroll, ユタ州セントジョージ
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写真は、1954年にユタ砂漠で撮影された、予算も大きいが大ヒットしたジンギス汗の映画『征服者』のセットで休憩中のジョン・ウェインと二人の息子を写している。この映画はハリウッドで最も名高い配役ミスだった。スクリーンの王者にできることは多かったが、13世紀モンゴルの軍閥はそれにあてはまらなかった。映画オタクたちは、これはハリウッドの黄金時代の大失敗作のひとつだと考えている。

この映画が言い伝えに残るのには、もうひとつの暗い理由がある。写真にそのヒントになる。ウェインは黒い金属製の箱を握っており、もうひとりの男がダイアルを調節しているようだ。ウェインの10代の息子たち二人、パトリックとマイケルがじっと見つめ、明らかに興味津々であり、たぶん少し心配している。俳優のご御大はリラックスしているようであり、パトリックによりかかり、帽子は粋に傾けている。灌木の上に載せた箱は、どうということもない見かけである。じっさいには、それはガイガ・カウンターである。

とても大きな検出音が鳴ったので、ウェインは壊れていると思ったと伝えられている。別の場所の岩や砂地にカウンターを移しても、同じ結果だった。だれに聞いても、スターは肩をすくめたそうだ。政府はネヴァダの実験場で原子爆弾を爆発させていたが、100マイル以上も離れていた。当局者たちは、映画が撮影されていた遠隔の埃っぽい町、セントジョージの周辺の渓谷や砂漠は完全に安全であるといっていた。

50年後の現在は繁栄し、空港を備えた小都市になっているセントジョージのディキシー地域医療センターで運営する放射線被曝スクリーニング・教育プログラム(RESEP)の正看護師、レベッカ・バーロウは先週、彼女の患者記録をパラパラめくり、目を通していた。「今年の患者の60パーセント以上が新患です。ほとんどが胸部、甲状腺、何人かが白血病、結腸、肺ですね」と、彼女はいった。

これは、癌の話である。米国は冷戦期に砂漠地帯を放射能の荒野に転じたが、それを否定しており、今日にいたるまでハリウッドとモルモン教徒の地方社会に医療ミステリーがつきまとい、「政府をどこまで信じられるのか?」という問を突きつけている。

フォールアウトに被曝した数万の人びとに与えられた呼び名、いわゆる風下住民の歯に衣着せぬ擁護活動家、ミシェル・トーマス(63歳)は、「DNAに作用します」といった。「埋葬した友人を数えられなくなりました。わたしは愛国者ではありません。わたしの政府がわたしに嘘をついたのです」。

ハリウッドは『征服者』公開50周年になる来年、その名場面を記念することが必定だが、その映画は、ウェインに加えて、主演女優のスーザン・ヘイワード、監督のディック・パウエル、その他にもキャストと撮影スタッフの数十人を殺したと伝えられている。今年の夏、ヒロシマとナガサキの原爆投下から70周年になる。

1956年作品『征服者』。Photograph: Allstar/RKO

マンハッタン計画の科学者たちは1945年、ニューメキシコ州で極秘のうちに最初の原爆実験を実施した。実験は第二次世界大戦後、国民の安全を大義名分にして南太平洋に移された。ところが、朝鮮半島で戦争が勃発し、ソ連との敵対関係が拡大するにおよぶと、安全保障を考慮して、実験はふたたび米国本土に移された。核開発計画を管轄し、ほぼ万能の権限を握る原子力委員会(AEC)は、ネヴァダ州の政府所有地である爆撃・砲撃演習場を選定したのだが、その理由の一端は、風がラスヴェガスとロサンジェルスの方向に吹かず、「放射能の害」は、牧場やモルモン教徒の住む地区はあるが、「実質的には居住に適さない」西側の風下地域に流れるからというものだった。

AEC1951年から1962年にかけて100発以上の爆弾を破裂させ、放射能の塵のピンク色がかったプルームがユタ州南部とアリゾナ州北部の石だらけの谷間や渓谷に流れた。AECはそれぞれの「一発」に、アニー、エディ、フンボルト、バジャーといった名前をつけていた。公的な勧告は、「ショーをお楽しみください」。AECのパンフレットは、「みなさんの最善のふるまいは、フォールアウトについて心配しないことです」と謳っていた。家族連れや恋人たちはスペクタクル見物の特等席までドライブしては、集落に灰が降り注ぐなか、帰宅していた。安上がりのデートだった。

地方紙は最初のころ、ロシア人をやっつけ、歴史に参加するチャンスをはやしたてていた。「原子爆発のスペクタクルは国防の前進、パニックの理由は皆無」と、ユタ州の地元紙ディザレット・ニュースの社説は謳った。コラムニストのクリント・モッシャ―は、これほどきれいな光景は見たことがないと書いた。「家からの手紙、あるいは崇拝し、信頼する人物の握手のようだった」。

もうひとりの風下住民活動家、クラウディア・ピーターソンは自宅で座り、思い出に苦笑していた。「わたしたちはモルモン教徒で、すこぶるつきの愛国者でした。完璧なモルモットです。なにも問いただそうとしていませんでした。わが国の政府がわたしたちを消耗品にみなしていると信じるのは不可能でした」。ピーターソンは、父親、姉と姪を病気で失っており、病因の少なくとも一端は放射線であると信じている。

もうひとりの風下住民、クラウディア・ピーターソン、セントジョージの自宅にて。
Photograph: Rory Carroll for the Guardian

1953年に11発の爆弾が破裂し、3月から6月にかけての数発は、セントジョージとその他の町を灰色の塵で覆わせた。最も悪名高いものは、サイモンという名の51キロトン爆発、そしてハリーという名(後にダーティ・ハリーとアダ名)の32キロトン爆発だった。数千頭の羊が死んだ。AECのプレスリリースは「未曾有の寒冷気象」のせいだとした。

セントジョージの住民4,800人はその1年後、俳優、プロデューサー、技手、スタントマンといった外来侵入集団を町に迎え入れていることを知った。RKO映画社の奇人首脳、ハワード・ヒューズは、感動的なロマンスとアジアの草原の壮大な戦いと信じる夢想に惜しみなく金を注ぎこんだ。モーテルはキャストと撮影隊で満室になり、地元民は作業員やエキストラに登録された。約300人のシヴウィット族インディアンがモンゴルの村人を演じた。

元俳優の監督、ディック・パウエルは給与払いのために記録をとっていたが、その息子でやはり監督であるノーマンがハリウッド近郊の自宅から電話してきたおりに言ったことがある。「父は、ヒューズと真夜中に会っていたと語り、とても奇妙な具合だと言っていました」。

ノーマンは父に同伴し、作業員やエキストラとして仕事をしており、暑く埃っぽい数週間、風の吹き溜まりになるスノウ渓谷における戦闘シーンの撮影を回想した。放射能を心配するものはいなかった。「心配なかったのです。まったく」。

つらい撮影だったが、楽しい思い出が残った。「これがわれわれの考えるアメリカ流なのだ――みんな楽しく互いに助けあっているが、それが単純によい生きかただからなのだ」と、ウェインは回想した。地元民はサインを集め、よく稼いだ。執筆中の小説のために映画について調査したカリフォルニアの作家、ロブ・ウィリアムズによれば、シヴウィット族を除いて、だれもがうまくやったようである。「彼らは一日あたり2ドルか3ドルを支給され、スターたちがエアコン付きのトレイラーで寛いでいるとき、陽の下で座って待たされていました」。

映画はチケット売り場でそれなりに善戦し、1200万ドル近くを稼いだ。だが、セリフ(「俺はこのタタール女が俺のものだと思っているし、俺の血が『この女を奪え』といっている」)、それにフー・マンチュー髭を蓄え、毛皮帽をかぶったアジア人で通そうとする主演俳優の奮迅は、だれの目にも本物に見えず、その点では、ウェインご本人もご多分にもれず、気概としては「自分に相応しくない役柄を演じようとして、バカを見るつもりはなかった」といったと伝えられている。映画はお笑い草になった。

そして時が流れ、キャストと撮影隊員たちが病気になると、映画は暗い評判を呼んだ。パウェルはリンパ液の癌になり、1963年に亡くなった。「癌が非常に速く進行しました」と、ノーマンはいった。ジンギス汗の右腕、ジャムガを演じたメキシコ人俳優、ペドロ・アルメンダリスは同じ年に末期癌と診断され、銃で自殺した。タタールの姫君を演じたヘイワードは1975年に脳腫瘍で死去した。

ウェインが1979年に胃癌で亡くなったときには、『征服者』はRKO放射能映画と蔭口された。彼の息子たち、パトリックとマイケルはみずからの癌の恐怖と戦い――生き残った。ヒューズは、罪の意識だろうか、別の理由によるのだろうか、『征服者』のコピーをすべて買い上げ、彼の最期、隠遁の歳月を通じて毎晩、繰り返しそれを鑑賞していた。

ミッシェル・トーマス、ユタ州セントジョージの自宅にて。Photograph: Rory Carroll for the Guardian

1980年のピープル誌記事は、220名のキャストと撮影隊員のうち、91名が癌を罹患し、46名が死亡したと伝えた。撮影中に核実験は実施されていなかったが、ユタ大学の放射線医学主任、ロバート・ペンドルトンが、おそらく以前の爆発による放射能がスノウ渓谷に残留していたのだろうと語ったと記事は伝えている。記事はまた、国防総省・防衛原子力局の科学者がいったという罰当たりなことばを伝えている――「神さま、わたしたちをジョン・ウェイン殺害の下手人にしないでください」。

米国は自国の根性と愛国心の権化を殺害したのだろうか? 答えは、おそらくノーだろう。彼の未亡人、ピラルによれば、一日あたり4パックは吸うというチェーン・スモーキングが死亡原因らしいとのことである。他の『征服者』キャストと撮影隊員の多くもやはりヘヴィ・スモーカーだった。ノーマンは20代で禁煙し、現在は精力的な80歳であり、ハイキングとバーベル上げに勤しんでいる。彼は、放射能は父親の死に対して、せいぜい死因のひとつであると考えている。原因がなんであれ、彼は癌につきまとわれている。「わたしの父、母親、末の娘、それに親友の5人が癌で死にました。この忌々しい病気は大嫌いです」。

実験場の北方と東方の三州フォールアウト地帯に居住していた約100,000の人びとは、ハリウッド訪問客よりも影響を受けた可能性が高い。彼らは何年にもわたって、汚染された塵を吸い、汚染された水とミルクを摂取していた。1960年代はじめ、小児白血病と成人の癌の多発が明らかになりはじめており、アルコールとタバコを断つモルモン教徒は癌の発症率が格別に低いので、これは衝撃的な新規現象だった。1984年の米国医師会誌に公表された研究は、フォールアウト地帯のモルモン教徒を他のモルモン教徒に比較しており、白血病の頻度が5倍になっていることを見つけた。

トーマスは、1951年に実験がはじまったとき、胎児だった。彼女は子どものころ、核戦争演習のさいに机の下に潜り、その後、校庭に送り出されて遊び、灰に覆われていたと彼女はいう。

彼女の母親、イルマは、一人孤独に危険を警告する運動に勤しんでいた。「彼女は手紙を書き、地図を作成して、近隣の家屋を表す四角の列を描きこんでいました。だれかが病気になると、その四角にX印を入れるのです」。トーマスは美人コンテストの野心を抱いたチアリーダーとして、この奇人めいた行動主義に当惑していた――が、それも彼女が、筋肉の衰弱をともなう病気、多発筋炎に取りつかれるまでのことだった。彼女は後に乳癌にかかった。彼女は生き延びたが、母親が癌で亡くなった。

トーマスは先週、セントジョージの自宅で車いすに座って話すとき、辛辣で歯に衣着せない風下住民擁護活動家だった。「ジョン・ウェインをボロクソに言っていなければ、ご免なさいね。連中はわたしのDNAを書き換えました。わたしの人生を書き換えたのです」。

もうひとりの活動家、ピーターソンは、政府の科学者たちが学校を訪問しては、甲状腺と放射能レベルを検査し、ヒロシマとナガサキのデータを引っ張りだしていたと回想した。「彼らはブルース・ブラザーズのような黒スーツを着ていました。なにが起こっているか、ご存知でした」。

地上核実験は1959年に休止し、1962年に短期間ながら再開し、その後、地下に移され、1992年のモラトリアムまで(英国の核兵器プログラムのための一部を含め)数百発の爆弾が破裂させられた。

レベッカ・バーロウ(左)とキャロリン・ラスムッセン(右)、セントジョージのRESEP診療所にて。 ネヴァダの地上核実験の詳細を記したシートを広げている。
Photograph: Rory Carroll for the Guardian

1980年代の訴訟によって、科学者と官僚たちが証拠を過小評価し、歪曲していたAEC内部報告が暴露され、癌の原因になるフォールアウトが解明されたが、政府は全面的に否定している。連邦議会は1990年に放射線被曝倍賞法案を可決し、地上核兵器実験との関連が明白な癌および重症疾患をわずらう風下住民のための基金を設置した。賠償の上限は一人あたり50,000ドルと定められた。

基金はこれまでに約20億ドルを支払っており、第一世代の風下住民が死に絶えるまで支払いつづけると決められている。彼らの子どもたちや孫たちは、どのような健康問題にも関係なく、除外されている。放射線被曝スクリーニング・教育プログラム(RESEP)は地域内の8か所で診療所を開設している。診療所は診断をおこない、治療法を助言していて、資格があれば無料である。

セントジョージの診療所は、明るく近代的な施設であり、これまでの5年間、一年あたり平均140人の新規患者を受け入れてきた。正看護師、バーロウと、カウンセラー兼ケース・マネジャー、キャロリン・ラスムッセンは、陽光のような爆発を見つめていたこと、ポーチから灰を掃き落としていたこと、縁者の死を看取ったことといった思い出話を聴きとっている。

「聴きとることも、仕事のうちです」と、ラスムッセンはいった。「わたしたちがここにいるので、感謝するみなさんもいますし、ただ怒っており、起こったことに恨みを抱いている方がたもいます」と、バーロウは頷いていった。「血の代償と考え、お金を受け取ろうとしない方もいます。このプログラムを創始した政府は、実験をやった政府とは別物なのだとわたしたちは説明しています」。

複数の要因が癌の原因になり、放射線がジョン・ウェインの死に寄与したのか否か、知りようがない。だが、大気圏内核実験が多くの家族に凄まじい犠牲を押し付けたことには、疑問の余地がない。大勢の縁者を失った活動家、ピーターソンは、ソ連が核実験を実施していたカザフスタンの遺族を訪問したとき、啓示を感じた。「わたしは子どものころ、あの人びとが恐ろしかったのですが、怪物じゃないとわかりました。わたしたちを殺していたのは、わが国の政府だったのです」。

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