2015年7月8日水曜日

ディプロマット誌「ユネスコと日本の忘却の所業」~明治産業革命遺産における強制労働の歴史


THE DIPLOMAT アジア太平洋評論誌『ディプロマット』




UNESCOと日本の忘却行為
日本の明治産業革命世界遺産の指定は、ある種の重要な歴史を見過ごしている。

ミンディ・コトラー Mindy Kotler
201573

Image Credit: UNESCO via 1000 Words / Shutterstock.com

今年はカレル・アスターの年である。チェコ共和国は4月、この95歳のフロリダ州住民の第二次世界大戦における豪胆さと勇気を認め、国家の最高栄誉である感謝勲章を授与した。アスターは1941年、フィリピンを日本の侵略から防衛する米軍に志願した。彼は、戦闘、バターン死の行進、日本行きの捕虜輸送航海、数年にわたる九州は大牟田市の三井炭鉱における奴隷労働に耐えて生き残った。

三井炭鉱には、アメリカ人のレスター・テニーとオーストラリア人のトム・ウレンもいた。テニーもやはりバターン死の行進の生き残りであり、2009年、日本のアメリカ人戦争捕虜に対して謝罪するように日本政府を説得した。ウレンは今年1月に死去したが、労働党幹部の政治家として、第二次世界大戦と朝鮮戦争で捕虜となったが生き残ったオーストラリア人900人に追加支給金の支払いを実現していた。

UNESCOは今週末、三井三池炭鉱を日本の初期近代化世界遺産に指定する。しかし、日本の推薦文書は、現地における第二次世界大戦の捕虜や何千人ものアジア人奴隷労働者について一言も触れていない。

UNESCOは、日本が推薦する同じような現場23か所を認定することになっている。そうした鉱山、鋳造所、造船所につきまとう暗い歴史に関する説明は欠落することになる。これらの世界的な史跡なるものの歴史の全体像について沈黙することは、UNESCOの国際的な目標と米日同盟を傷つけることになる。

目下、UNESCO世界遺産リストに1,007か所が登録されている。これらは、「国際理解と国際協力の手段」として活用される。世界遺産の栄誉は、比類のない文化的達成に寄せられる敬意と国際的な注目をともなっている。

世界遺産の現地は、観光の呼び物になることが多く、世界遺産指定を衰退する地域や都市を復興するための方途と見る国が多い。これこそが、日本の遺産指定推薦の背後にある動機である。それにしても、歴史の選択的な叙述は、安倍政権の一大政策、過去における日本の自尊心を取り戻すことの一環なのだ。

UNESCOに推薦された日本の地域は、この国の経済停滞に最大の打撃を受けた地域の例にもれず、観光客が落とすドルを追い求めている。観光は日本の成長産業であり、中国人客が倍増し、韓国人客もそれほど負けていない。推薦地の多くはまた、安倍晋三・総理大臣、麻生太郎・副総理大臣・財務大臣、林芳正・農林水産大臣の地元でもある。

麻生氏と林氏それぞれの同族企業、麻生グループと宇部興産は、推薦対象に含まれる会社の現場で連合軍捕虜の奴隷労働者を使役していた。推薦された8地域の産業地帯のうちの5地域に26か所の戦争捕虜収容所があって、三井、三菱、住友、麻生グループ、宇部興産、東海カーボン、日本コークス工業、新日鉄住金、古河企業グループ、電気化学工業など、日本の大企業に連合軍戦争捕虜13,000人の奴隷労働力を供給していた。戦争捕虜たちは、米国、カナダ、英国、オーストラリア、インド、ニュージーランド、ジャマイカ、ポルトガル、南アフリカ、マラヤ、アフリカ、チェコスロヴァキアの出身だった。

おまけに、当時、門司港と呼ばれていた北九州と長崎の推薦された港湾は、35,000人近くの連合軍戦争捕虜の到着地であり、そのうちの約11,000人がアメリカ人だった。適切にも「地獄船」と呼ばれた船舶に積載され、日本に向かう航海で、7000人を超える米軍と連合軍の戦争捕虜が死亡し、また日本で3,500人以上が死んで、そのうちの25パーセントは到着してから30日以内に亡くなっている。

日本における奴隷労働は、第二次世界大戦とともに始まったのではない。強制され、徴集された労働は、19世紀の明治期日本における鉱業と製造業の重要な要素だった。日本は明治時代(18681912年)後期以降、私企業の工場や事業所に労働力を供給する「産業刑務所」を使っていた。1930年代まで、鉱夫の大多数は、受刑者であり、あるいは明治の土地改革で土地なしにされた小作農や「非人」だった。三分の一は女性だった。中国人と朝鮮人は、日本の鉱山、工場、造船所ドックの重要な労働力になった。

日本政府による世界遺産推薦は、このような現場の歴史的意味の全体像を把握しそこねている。日本の近代化には、日本人と外国人、貴人と非人、戦争捕虜奴隷と徴用朝鮮人、そして女と子どもがかかわっていた。日本が語りたい筋立ては、このような人びとを埒外にしており、「普遍的な価値および意味」というUNESCO基準に合格しそこねている。

日本とUNESCOは、暗い歴史をあえて認知している他の世界遺産現地のたぶん驚くばかりの積極的な経験に注目すべきである。この点で、海商都市リヴァプール遺産は顕著な事例である。リヴァプール港は18世紀および19世紀初期における奴隷の三角貿易で重要な役割を担っていた。

リヴァプールは、嘆かわしい(そして、今日では犯罪的といえる)ビジネスにおける重要な役割を認知している。リヴァプールは2007年、波止場に国際奴隷博物館、2006年、リヴァプール大学の国際奴隷研究センターを開設した。リヴァプール、ヴァージニア州のリッチモンド、ベニン共和国のコトヌー各港の波止場に同一の奴隷制度犠牲者記念碑が建ち、3か所に共通の記憶をつないでいる。これらの資産は、学者やその他の人びとを惹きつけ、リヴァプールには歴史を――よい面も、悪い面も――学び、理解できる場所があるとして、実質的に評判を大きく高める一助になった。

今日のUNESCO世界遺産委員会に代表を派遣している21か国のうち、6か国の国民が日本の本土に抑留された第二次世界大戦捕虜だった。すなわち、インド、マレイシア、ジャマイカ、フィンランド、ポーランド、ポルトガル、そして韓国である。7番目の韓国は、何十万人もの男や女たちが奴隷状態に近い労働力として徴集されていた。

米国はUNESCOの投票権をもっていない。だが、米国政府は日本の同盟者に物申し、米軍退役兵に負債があることを思い出させ、その自由を防護することができる。

194589日の午前、大牟田市にいた戦争捕虜の全員が湾[有明海]の向こうの長崎から立ち昇る赤い雲を見た。すこぶる近代的な兵器が三池炭鉱における彼らの苦役を終わらしたけれど、彼らは明治時代とほとんど変わらない労役を経験したのである。彼らはそのような強制労働が繰り返されることを望まないだろうし、また忘れてほしくないのは確かなことだろう。

現状のままなら、日本による明治産業遺跡の推薦は忘却の所業である。日本の産業化の歴史の全体像を度外視しているのだ。UNESCOがこれを受諾すれば、その憲章と大日本帝国に奴隷化された数千人の記憶に背を向けることになる。

【筆者】
ミンディ・コトラーMindy Kotlerは、ワシントンDCのシンクタンク、アジア政策ポイントの代表。

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