2014年5月1日木曜日

【#AP通信】立入禁止区域への帰還を確信できないフクシマの人びと @yurikageyama FUKUSHIMA RESIDENTS UNSURE OF RETURN TO NO-GO ZONE

AP通信HP




2014429
立入禁止区域への帰還を確信できないフクシマの人びと
AP通信 影山優理
AP Photo/Shizuo Kambayash
【福島県富岡町(AP)】66歳の元図書館司書、オヌキ・カズヒロさんは帰宅するとき、つまり本来の自宅に戻るとき、いつも防護服で頭の天辺から爪先まで身を包み、首からは線量計を下げている。
裏庭に野草が生い茂っている。天井は雨漏りがする。泥棒が棚を荒らしまわったので、床一面に紙の類いや衣類がぶちまけられ、足の踏み場もないほどだ。ネズミの糞が散らばり、まるでレーズンのようだ。水道や電気も通じていない。
なによりも、放射能がどこにでもある。
元福島第一原子力発電所から10キロメートル離れたゴーストタウン、富岡町でふたたび暮らすことは想像することさえ難しい。それでも、町の住民16000人が原発のメルトダウンのために避難を余儀なくされてから3年たってなお、新生活をはじめるにしても、オヌキさんはこころに踏ん切りをつけられない。
オヌキさんの家族は4世代にわたり、この土地に住んできた。帰宅するたびに、彼は感情のたかぶりに圧倒される。桜が咲く短い春となれば、なおさらである。
「桜はなにごともなかったかのように咲いています」とオヌキさんはいった。「だれもいなくなって、桜は泣いています」
日本政府は、原発から20キロ圏内の立入禁止区域のできるだけ多くの土地の除染と復旧を実現するために懸命の努力をつづけている。関係当局は立入禁止区域のごく一部が生活しても安全であると41日を期して宣言し、今後の年月のあいだにもっと多くの地域の避難指示を解除したいと望んでいる。
元の住民たちは複雑な思いを抱いている。気持ちとしては、古くからの暮らしに戻りたい人は多い。だが、除染プログラムに感じる不信の念が根深く残っている。ほんとうに安全なのだろうか? その他にも10万人以上の避難者のなかには、2011年の地震と津波が福島第一原子力発電所の原子炉3基をメルトダウンに追いやって以来の歳月のあいだに、別の地域で新たな生活を築いた人たちがいる。
その人たちは地元の避難指示が解除されると、福島第一原発の所有企業である東京電力株式会社から受け取っていた月額10万円の給付金を失うことになる。
昨年の調査結果によれば、富岡町民の16パーセントが帰還を望み、40パーセントが帰還をまったく考えず、43パーセントがどちらとも決めかねていた。回答者の3分の2が事故前に就業していたと答えたが、調査の時点でたかだか3分の1だけしか就業しておらず、再出発を妨げている難問が浮き彫りになった。
オヌキさんの友人で元住民、スズキ・シゲトシさんは憤懣やるかたなく、次のような政府の質問を槍玉にあげる――あなたは戻りたいですか?
もちろん、全員が戻りたいですよとスズキさんはいった。自分のような人間はていよく退職に追いやられたようなものですとこの65歳の測量士はいう。奥さんと東京の郊外に避難していなければ、スズキさんは馴染みの顧客の依頼に応じて仕事をつづけていたはずである。
「これは馬鹿げた質問です」とスズキさんはいった。「わたしたちは当たり前の暮らしをつづけられていたはずです。わたしたちが失ったものを、金銭価値で測れません」
スズキさんは自宅地所の除染を実施することに同意する書類の署名を拒んで、抗議の気持ちを表した。
政府は、放射線レベルにもとづき3種別の地域に立入禁止区域を区分していた。
最悪の区域は公式地図にピンクで表示され、「帰宅困難」とされている。こうした区域はいまでもバリケードで閉鎖されたままだ。
イエローは「居住制限」区域指定を表し、入域しても滞在が数時間に制限されている。宿泊滞在は許されていない。
グリーン区分は「避難指示解除準備」地域である。この地域は除染が必要とされ、建屋の表面を洗浄し、全域にわたって土壌の表層部を剥ぎ取り、区域の外に搬出しなければならない。
富岡町には、その境界内にこれら3区分のすべてが存在している。
グリーン区域は、放射線被曝量を年間20ミリシーベルト未満に下げることができると関係当局が認定した地域である。
長期目標としては、年間被曝量を1ミリシーベルト未満、つまり胸部レントゲン検査10回分相当まで下げるとされ、これは核災害前まで安全レベルであると考えられていたが、政府はこれより高いレベルであっても避難指示を解除しようとしているのである。政府は、そのような地域に帰還する人びとの健康と被曝量を監視するという。
イエローの居住制限区域にはスズキさんとオヌキさんの自宅があるが、そこでは、訪問者がほんの23時間の滞在をするだけで、1ミリシーベルトを超えてしまう。
オヌキさんと奥さんのミチコさんは、先日に帰宅したさい、桜並木のトンネルにピンクの花びらが舞う、その下を歩いたが、それはかつて地域観光の呼び物だった。
街路は見捨てられ、ときたま車両が通過するだけである。町内は不気味に静まりかえり、夜啼鳥が鳴くばかりである。
「首相は事故が統御下にあるといいますが、わたしたちは次の瞬間にも物事が爆発してもおかしくないと思っています」と、自宅のある富岡の町外で陶器・工芸品点を営むオヌキ・ミチコさんはいった。「わたしたちは放射能に怯えながら暮らさなければならないでしょう。この町は死んでいます」
おふたりとも白色の宇宙服のような防護服で着膨れしており、これは放射線を遮断してはくれないが、放射性物質を立入禁止区域の外に持ち帰るのを防ぐのには役に立つ。フィルター付きマスクがおふたりの顔半分をおおっている。帰り際、成人した息子さんと娘さんと同居している東京のアパートに放射能を一切持ち帰らずに済むように、防護服を廃棄した。
オシダ・ジュンジさん(43歳)は、うなぎ専門の高級料理店を富岡町で家族経営していたが、幾世代にもわたる伝来のうなぎのタレを失った当初、気落ちしていた。
オシダさんはその後、立入禁止区域のすぐ外側で新たな料理店を開き、放射能除染作業員らに食事を提供している。彼はタレを作り直し、うなぎより安価で済む豚料理を出している。東京の郊外に住んでいる奥さんや息子さんたちとは別居生活である。
「過去を振り返っても、意味がないです」とオシダさんはいったが、シャツにプリントされたうなぎ料理店の商標を身に付けている。
住民のなかでも年配の人たちは――放射能レベルが最悪のピンク区域に自宅を持つ富岡町の町会議員、アンド・セイジュンさんのように――帰還がまったくかなわない人たちでさえ、簡単には諦めがつかない。アンドさん(59歳)は、富岡町を放射線レベルごとに区切ったことによって、一部の住民に恨みが募り、住民グループが相対立するようになったという。彼にはひとつの持論があり、それは、立入禁止区域内のさまざまな町の住民が一致協力して、福島県内の放射線レベルの低い別の場所に新しい地域社会――彼のいう「わたしたちの子や孫たちのための」場所――を発足させればいいというものである。
「わたしにはわたしの生涯設計があったのに、根本から壊されてしまいましたが、どこでも生きていけます」とアンドさんはいい、その眼に涙が浮かんだ。「誤解しないでください。わたしはクヨクヨしていません。ただ、富岡町が心配なだけです」
Follow Yuri Kageyama on Twitter @yurikageyama

0 件のコメント:

コメントを投稿