In-depth critical analysis of
the forces shaping the Asia-Pacific...and the world.
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アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス
アジア太平洋…そして世界を形作る諸力の批判的深層分析
フクシマ~グラウンド・ゼロ(曝心地)からの光景
アジア太平洋ジャーナル Vol. 13,
Issue. 41, No. 2, 2015年10月19日
アルカデュウス・ポドニーシンスキ Arkadiusz
Podniesiński
まえがき
写真家・映画作家、アルカディウス・ポドニーシンスキは、2007年にチェルノブイリを訪れ、撮影をはじめており、2015年の福島第一核発電所周辺の放射能汚染地帯への訪問を記録している。彼の写真は、2011年3月11日に勃発した震災、津波、核メルトダウンが複合した三重災害の、広範囲におよび、継続している影響を捉えている。ポドニーシンスキは、今もリンボ[辺獄、中途半端な場所]で政府の緊急時住宅で暮らし、自宅に戻れない人びとの絶望的な生活だけでなく、帰還を選んだ一部の人びとの窮状をともに浮き彫りにする。
――アジア太平洋ジャーナル
破損した福島第一核発電所
放射線か、避難か
2015年9月時点における、さまざまな放射線量レベルを示すフクシマ避難区域区分地図
フクシマ核施設の惨事の直後に半径3キロ圏内、その後、20km圏内に拡大されて、避難区域が指定された。およそ160,000人の住民が強制的に避難させられ、政府の交付金と仮設住宅を与えられた。他にも、国の支援もなければ、住宅のあてもないまま、逃げることを選んだ人たちがいた。混乱と、使いものにならなかった放射線レベル監視システムとが相まって、多くの家族が分断され、あるいは汚染レベルが避難区域よりかえって高い場所に避難する結果になった。その後、月日が過ぎ、歳月を重ねるうちに、放射線測定値がより正確になり、区域の境界が徐々に変わっていった。区域は汚染レベルと住民たちが帰還できるようになる見込みにもとづいて区分けされた。
4年たって、120,000人以上の人びとが、自宅またはその残骸にいまだ戻れないでいる。その多くは、政府が避難民のために建てた仮設住宅で暮らしつづけている。チェルノブイリと同様に、一部の住民は避難命令に背いて、事故から間もなく自宅に戻った。何人かは自宅をまったく離れなかった。
最高レベルに汚染された区域は赤色で示されており、その中の町や市に入域するのは、特別許可を得ないかぎり、許されていない。この区域では、放射線レベルが高い(>50ミリシーベルト/年)ため、修復や除染作業は実施されていない。当局者らの見通しによれば、いつの日か、これらの町の住民が帰還できるようになると仮にしても、長い先のことになる。
オレンジ色の区域は、赤色区域に比べて、汚染度がひくいものの、やはり居住不能とされているが、放射線レベルが低い(20~50ミリシーベルト/年)ので、この区域では、瓦礫処理と除染作業が実施されている。住民は自宅訪問を許されているが、自宅居住はまだ許されていない。
緑色の区域は、放射線レベルが最も低く(<20ミリシーベルト/年)、除染作業が完了している。瓦礫処理が最終段階にかかっており、まもなく避難命令が解除されることになっている。
除染
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汚染土壌を詰めこんだ袋が置かれた投棄場所はたいてい田畑である。
省スペースを図るため、袋は何段かに積み重ねられている。
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該当区域に入域して、まず気づくものは、除染作業の膨大な規模である。4年後のいま、2万人の作業員らが難儀しながら一寸刻みに土壌を剥ぎ取っている。地表、つまり土壌が最も汚染されている最上層部を除去し、それを袋詰めして、数千か所の廃棄物置き場のひとつに運ぶことになっている。どこにでも袋がある。袋はフクシマの風景の永続的な一部になろうとしている。
除染作業は、汚染土壌の除去だけに限らない。町や村もまた、通りから通りへ、棟から棟へと組織的に浄化されている。すべての建屋の壁と屋根が噴射器で洗われ、磨かれる。事業の規模と仕事の速さが印象的である。住民たちができるだけ早く帰ってくることができるように、作業員たちは家屋の浄化に全力を尽くしている。
屋根瓦を一枚一枚、手作業で屋根の除染。
汚染土壌の一部は町外に搬出されるが、町外れ止まりであることが多い。この費用のかかる事業は、住民が帰還できるようにするために、問題をある場所から別の場所に移すだけのことである。
汚染された廃棄物が最終的にどこで処分されるのか、特に自宅の近くに長期的な処分場が立地することになれば、住民たちが抗議するので、まだはっきりしていない。少なくともこの目的のために自分の土地を売り渡すつもりのない人は多い。彼らは、今から30年たてば、放射性廃棄物詰めの袋を搬出するという政府の保証を信じていない。放射性廃棄物が永遠に置きっぱなしになると恐れているのだ。
多くの地域は、深い森林であったり、山地であったりして、まったく除染できない。家屋とその周辺、それに道路沿いの10メートル幅の区画だけが除染されている。このため、大雨が降れば、山や森から放射性同位体が洗い流され、住宅地が再び汚染されるという恐れが募っている。このような恐れは根も葉もないものではない。昨年、チェルノブイリでこのような事態に二度なっている。
政府を信用せず、汚染を恐れる住民は、放射線の不安が途絶えず、瓦礫処理の進展が遅いので、自宅に戻りたがっていない。赤色区域の元住民に対する調査によれば、対象者の10%だけが自宅に帰りたいと回答しており、65%もの多くの避難者たちは帰る意思がないと答えている。放射線の恐れが唯一の問題であるとは、とてもいえない。雇用機会、社会基盤、医療の不備がすべて帰還を思いとどまらせる実質的な阻害要因であり、人が住んでいなくて、修理されない期間が長引けば、長引くほど、荒れた家の状態がひどくなっていくのと同じように、年を追うごとに、住民たちは老齢化していく。
戻りたくない理由には、避難者たちが受けている賠償金やさまざまな交付金、租税負担の軽減など、彼らが語りたくないものもある。事故賠償金だけでも、避難者1人あたり月額100,000円とすることが2012年に決定された。政府は、緑色とオレンジ色の区域を対象に避難命令を公式に解除してから1年後に賠償金の支給を打ち切ることを明らかにした。住民たちの一部は抗議し、その区域がまだ安全になっていないことを論拠にして、政府に対する訴訟を計画している。2012年に政府が放射線被曝の年間許容限度を恣意的に1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに引き上げたのでなおさらのこと、多くの人たちは、当局者たちが住民を強制的に帰還させようとしているのではないかと恐れている1。
立入禁止区域
赤色区域内の町に立ち入るさい、個別の許可が求められる。許可証は入域する正当で公的な理由のある者だけに交付される。観光旅行者は許されない。ジャーナリストでさえ、歓迎されない。当局者たちは、ジャーナリストを恐れるあまり、訪問の理由、報道のテーマ、災害に対するジャーナリストの姿勢を問いただす。
赤色区域を訪問するすべがなく、わたしはオレンジ色区域に入った。そこの富岡町でわたしは、事故からそれほどたっていないころ、当時はまだ赤色のままだった区域に違法帰還した農民、松村直登さんに会った。飼い主たちが放射能から逃げたとき、彼は牛の群れが無人の街路を当てもなく彷徨(さまよ)っている光景に我慢できず、見捨てられた動物たちの面倒を見るために戻ってきたのである。彼は、飢え死にしたり、当局者らに殺されたりした動物たちについて語ってくれた。
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松村さんは、わたしがチェルノブイリを定期的に訪問していると知って、チェルノブイリの避難と除染の実施状況、そして放射線レベルについて、わたしに質問した。住民がオレンジ色区域内の町に恒久的に帰還するのは、いまだに違法である。滞在が許されるのは日中の時間帯だけだが、当時でも、少数ながら、あえて恒久帰還をした人はいた。たいがいの人は帰りたいと思わず、たちまちのうちに帰る理由もなくなった。放置された家の多くは、特に木造家屋は、ほどなく補修が経済的に不可能になるほど損傷状態が進んで、修繕しなければ、崩れはじめるのみである。
若い住民たちや子どもたちのいる家族は、とっくの昔にフクシマから出ていった。多くはよりよい生活を求め、東京や、その他の大都市に向かった。年配の住民の多くは、数十年にわたる暮らしの場に愛着があり、その近くに住みたいと思い、専用に建造された仮設住宅に入居した。他にも親戚の家を頼った人たちもいたが、迷惑になるので、長くは居られなかった。たいがいは、ほどなく小さな2DKの仮設住宅に舞い戻ってきた。
浪江町
立入禁止区域内3か町のひとつ、浪江町は完全に無人になっているが、いまだに交通信号機が点滅し、夕刻になれば、街路灯が点灯する。時おり警察のパトロールカーが通り、地域一帯がすっかり無人であるというのに、赤信号の度ごとに停車する。警察官らはわたしたちの車を止め、わたしたちの許可証を注意深く点検する。
酒屋
ここでは、家々に地震による重大な被害がなく、海から遠くはなれているので、津波の恐れもなかった。住民に逃散を強いたのは、放射能だった。
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避難するまで住んでいた家のなかの惨状を見せてくれるタジリ・ヨウコさん
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津波の影響を見るために、海岸に行ってみると、ありとあらゆる建物が破壊されている。4年たっている。瓦礫処理が継続中だが、あらかたの被害物件は片付いている。1棟のコンクリート・ビルが聳(そび)えている。東電のお金を使って建てられた校舎は津波の破壊力に耐えていた。幸運にも、児童たちは近くの丘陵に逃げていた。
請戸小学校の校舎は、海からほんの300メートルしか離れていないが、津波に耐えた。
学校の展望塔から眺めた津波による破壊の跡地。
教室のコンピュータ |
一階の教室で、黒板の下の印が津波の到達したときの水位を示している。黒板は、元住民たち、学校の生徒たち、作業員たち、自衛隊員たちが被災者らの士気を維持するために書いた次のようなことばで埋まっている――「わたしたちは生まれ変わる!」、「やればできる、福島!」、「東電のバカ」、「ソフトボールでライバルだが、こころで一緒!」、「わたしたちは必ず戻ってくる!」、「なにがあっても、今こそまさしく復活のはじまり!」。「請戸小学校卒業がわたしの誇り」。「福島は強い」。「諦めずに、生き抜こう!」。「請戸小学校、あなたはできる!」。「海辺の暮らしに戻ることさえできれば」。「2年たったが、請戸小学校は2011年3月11日の姿と同じ」。
地震のため、吉沢さんの農場の地面に開いた亀裂
吉沢正巳さんは、松村さんのように惨事から間もなく、見捨てられた動物たちを世話するために自分の牧場に帰ってきた。今、およそ360頭の牛たちが彼の農場にいる。
事故からそれほどたたないうちに、牛たちの皮膚に謎の白斑が浮かびはじめた。吉沢さんは、これは汚染された草を食んでいるせいではないかと疑っている。この事例を世間に知らしめるため、彼は報道機関と接触し、東京の国会前で抗議して、牛の1頭を連れて行きさえした。それでも、牛たちの定期的な血液検査をつづけるための経済的支援は別にして、徹底的な検査は実施されていない。
夕闇に包まれた浪江町。完全に無人であるものの、交通信号機が点滅し、街路灯が点灯している。
双葉町
双葉町は損壊した発電所と境界を接しており、その汚染レベルは立入禁止区域内で最も高い。その放射線量レベルが高いため、瓦礫処理や除染は実施されてこなかった。わたしたちは、防護服、マスク、線量計の支給を受けた。
大通りの横断看板が謳う双葉町のスローガン「原子力:明るい未来のエネルギー」
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タニ・キクヨさん(71歳)は、彼女と夫のミツルさんが避難してきた家を定期的に訪れているが、月に一度、数時間に限って入域を許されているだけである。彼らは、恒久的な帰還の望みを諦めて久しいが、それでも訪問をつづけている。彼らは、屋根に雨漏りはないか、風や野生動物のために窓が傷んでいないか、点検している。しかし、帰ることの主な理由は、センチメンタルな面にある。
双葉町の学校。線量計が2.3マイクロシーベルト/時の放射線レベルを表示している。
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赤色区域の近辺に、たくさんの廃車がきれいに数列に並べて置かれている。これらの車両は汚染されており、毎時6.7マイクロシーベルトの放射線を発している。
わたしは7年前、わたしの最初のチェルノブイリ探訪記を次のようなことばで締めくくった――
「他に匹敵するもののない、途方もない経験。泣き声、笑い声、涙のない沈黙、風だけが答えている。プリピャチは、わたしたちの世代にとって、巨大な教訓である」
その後、わたしたちは何か学んだのだろうか?
【編集者より】
関連記事、DavidMcNeill and Androniki Christodoulou, Inside Fukushima’s Potemkin Village:Naraha[拙ブログ日本語訳:デイヴィッド・マックネイル文、アンドロニキ・チスタドウロウ写真「フクシマのポチョムキン村~楢葉町探訪」]を参照のこと。
【クレジット】
Arkadiusz Podniesiński,"Fukushima: The View From Ground
Zero", The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue 41, No. 2,
October 19, 2015.
【関連APJ記事】
Asia-Pacific Journal Feature, “Eco-ModelCity Kitakyushu and Japan's Disposal of Radioactive Tsunami Debris”
David McNeill and Lucy Birmingham, “Meltdown: On theFront Lines of Japan's 3.11 Disaster”
【脚注】
【ブログ内関連記事】
アルカディウス・ポドニーシンスキ関連――
2015年10月6日
2015年10月14日
その他――
2015年10月24日
2015年10月16日
2015年10月12日
2015年9月6日
2015年10月3日
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