2018年7月24日火曜日

カウンターパンチ【公式認定】#フクシマ☢惨事はチェルノブイリを尻目に史上最悪の原発事故


カウンターパンチ

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2018427

今やチェルノブイリを尻目に、フクシマは史上最悪の原発災害と公式認定

ジョン・ラフォージ JOHN LAFORGE

Photo by thierry ehrmann | CC BY 2.0

福島第一原子力発電所の核反応炉3基のメルトダウン事故による放射能の環境放出量は1986年のチェルノブイリ破局事故によるそれを凌駕しているので、われわれはフクシマ核惨事を史上「第二に過酷」な核災害と呼ぶのをやめたほうがよい。『世界原子力産業現状報告2013年版』によれば、フクシマの大気中放出総量はチェルノブイリのそれの5.6倍ないし9.1倍になると見積もられている。同報告のフクシマの部を執筆した細川孔明教授は当時、ロンドンのチャンネル4ニュースで、「ほとんど毎日のように、新たな事態が勃発していまして、ここ数か月のうちに、あるいは数年のうちに、彼らが状況を制御できるようになることを示す兆候はありません」と語っていた。

東京電力株式会社はフクシマから900ペタ・ベクレルの放射能が放出されたと見積もっており、『TORCH報告*2016年改訂版』はチェルノブイリから110ペタ・ベクレルが放出されたと見積もっている1。(1ベクレルとは、1秒あたり1原子核壊変。「ペタ・ベクレル」は1000兆ベクレル**
*[訳注]The Other Report on Chernobyl. 国際原子力機関など体制派が2006年に公表した『チェルノブイリ・フォーラム報告』に反発したヨーロッパ「緑の党」の要請によりグリーンピースなどが作成した対抗報告。
**したがって、900ペタ・ベクレルは90京ベクレル。

ウクライナのチェルノブイリ4号炉は数回の爆発に見舞われ、粉々に噴き飛び、40日間にわたり燃えて、放射性物質の雲を空中高く噴きあげ――米国ミネソタ州の牛乳にセシウム137が蓄積するなど――放射性降下物を北半球全域に拡散させた2

米国原子力規制委員会(NRC)のジェイムズ・アッセルスティーン元委員は、チェルノブイリと同等、またはより過酷な同類の核災害を予測して、1986年の連邦議会で「われわれは、今後20年以内に炉心メルトダウン事故を目撃することを予期することができ、そうなれば…チェルノブイリにおける…放出と同等、またはそれより大規模な…放射能の施設外漏出という結果になるでしょう」3と証言した。証言は25年たって、福島第一原発事故として実現した。

土壌、植生、水の汚染が日本で大規模に広がっており、チェルノブイリ事故が旧ソ連に見舞ったのと同じように、危険がおよぶ住民の全員を避難させれば、経済を崩壊させかねないほどである。この理由により、日本政府の土壌除染基準はチェルノブイリ事故後にウクライナ政府が採用した基準より遥かにゆるい。

フクシマのセシウム137放出量はチェルノブイリを上回る

テジョン広域市の韓国原子力研究所(KAERI)は20147月、福島第一原発・核反応炉3基メルトダウン事故はチェルノブイリ核反応炉の破局事故の2倍ないし4倍のセシウム137を放出した可能性があると報告した4

KAERIはフクシマから環境に放出されたセシウム137の量を見積もるにあたって、セシウム137放出配分比(空中に4%、海洋に16%)にメルトダウンした反応炉3基の内部にあったウラニウム燃料に含まれていたセシウム137の蓄積量(76ないし82京ベクレル)を積算して、次のような結果を得た――

フクシマからのセシウム137の海洋放出量(記録史上の最悪数値)=121600兆ないし131200兆ベクレル(16 x 76京~82Bq

フクシマからのセシウム137の空中放出量=3400兆ないし32800兆ベクレル(4 x 76京~82Bq)。

フクシマからのセシウム137の環境放出総量=152000兆ないし164000兆ベクレル。

チェルノブイリからのセシウム137の環境放出総量=7京ないし11京ベクレル。

福島第一原発のメルトダウン炉に存在していたセシウム137の蓄積量に関して、76京ないし80京ベクレルというKAERIが採用した数値は、130京ベクレルという米国エネルギー省の放射能放出量の見積もり値よりかなり低い。韓国の研究所による放射能放出量の推測値が低すぎるということもありうる。

爆発・火災30年後のチェルノブイリで、ウォールストリート・ジャーナルが「245000万ドル2725億円)の遮蔽実施計画」と名指した代物が201611月、ついに完工した。巨大な金属製遮蔽物が、反応炉の残骸とその崩れかけた急ごしらえのセメント墳墓の上に移動した。新造のジャイアント遮蔽物は350フィート(107メートル)の高さがあり、技術者らはそれが――遮蔽物の底で250,000年はつづく放射能災害より遥かに短い――100年間は保つという。

最初の遮蔽物もまた100年は有効とされていたが、1996年には亀裂だらけになり、崩壊の危険があった。そこで設計技師らの出番になり、遮蔽物用の遮蔽物の立案に取り掛かり、20年間の作業の果てに、チェルノブイリの煙る放射性廃棄物の怪物は新しい「錫製のシャッポ(帽子)」を与えられることになった。だが、その遮蔽物は、異常気象、旋風、腐食、放射線に起因する脆弱化に見舞われることになり、約2,500回の建て替えが必要になるだろう。

【脚注】

1. ダルース・ニュース/トリビューン&ヘラルド、1986522日付け「州産牛乳の放射能値、小幅な上昇をまたもや検出」、セントポール・パイオニア・プレス&ディスパッチ、1986517日付け「放射能がチェルノブイリ消防夫らを殺す」、ミネアポリス・スター・トリビューン、1986517日付け「地域産牛乳に低線量放射能を検出」。


2.  イアン・フェアリー、20163月付け「TORCH2016年版:チェルノブイリ核惨事による健康関連作用に関する独立科学評価」。

3.  米国原子力規制委員会委員、ジェイムズ・K・アッセルスティーン、1986522日および716日付け、連邦議会下院・エネルギーおよび商業委員会・エネルギー保全および電力小委員会の聴聞会における核反応炉の安全性に関する証言、ワシントンDC政府印刷局1987年第99-177号文書。

4. Progress in Nuclear Energy, Vol. 74, July 2014, pp. 61-70; ENENews.org, Oct. 20, 2014.

More articles by: JOHN LAFORGE

ジョン・ラフォージは、ウィスコンシン州の平和・環境正義運動団体、Nukewatch(ニュークウォッチ:核監視)の共同代表、同団体のニュースレター編集員。

新世代の核兵器に関するジョン・ラフォージの現場ガイドがカウンターパンチ誌20183/4月号の特集記事になっている。

【クレジット】

CounterPunch, “Move Over Chernobyl, Fukushima is Now Officially the Worst Nuclear Power Disaster in History,” by John LaForge, posted on April 27, 2018 at https://www.counterpunch.org/2018/04/27/move-over-chernobyl-fukushima-is-now-officially-the-worst-nuclear-power-disaster-in-history/.



2018年7月20日金曜日

【歴史的写真集】1945年、原爆投下前・後の広島

 RareHistorical Photos
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1945年、原爆投下前・後のヒロシマ

広島市街の中心部に近く、活気に満ちた商店街を西側から観た光景。核爆発とその後の火災のあと、瓦礫と何本かの電柱だけが残された。

広島が爆撃されたとき、産業と軍事の両面で重要な都市だった。近隣に数多くの軍隊が配備され、そのなかで最も重要だったのは、畑俊六陸軍元帥が率いる第2総隊司令部であり、同司令部は南日本全体の防衛の指揮を担い、広島城に設置されていた。畑元帥指揮下の部隊は将兵400,000名を擁しており、その大部分は連合国軍の侵攻が間違いなく予想されていた九州に配備されていた。

広島は日本軍の供給兵站基地としては規模が小ぶりだったが、軍用品の大規模な備蓄を抱えてもいた。広島はまた通信の要でもあり、海運の主要港であり、軍隊の集合地だった。軍需工業の集積地であり、航空機や舟艇の部品、爆弾、小銃、拳銃の部品を製造していた。子どもたちは火炎瓶の作りかたを実演で教えられ、車椅子の人や寝たきりの人は、九州の海岸に埋めこまれる地雷を組み立てていた。新しいスローガンが登場し、広島市内の壁に「滅私奉公!御国のために総力戦貫徹!」と大書された。広島はまた、いまだに空襲で被災していない自治体としては、日本で京都に次いで二番目に大きな都市だった。」

原爆投下の前、上流の広島県産業奨励館(ドーム)に向かって観た元安川の光景。ドームを頂いたビルは爆心のほぼ直下に位置し、この地点の上空600メートルで原爆が炸裂した。今日、このビルの大部分が建ったまま残っており、原爆ドーム、または広島平和記念館の名で知られている。

広島市の中心街は、数棟の鉄筋コンクリートのビル、その他の軽量構造の建物で構成されていた。中心街の外側は、日本家屋に小さな木製作業場が混在し、隙間なく軒を連ねて密集する区域になっていた。市街地郊外の近隣では、少数ながら大規模な工場が操業していた。家屋は木造瓦葺きであり、工場の多くもまた木製構造建設物だった。この都市は全体として火災に極めて脆弱だった。

原爆投下前の広島市の人口は、戦争初期に381,000人を超える頂点に達し、その後、日本政府が命じた組織的な疎開によって着実に減少した。空襲の時点の人口は、ざっと340,000350,000人だった。

南西方向から観た戦前期の広島市寺町。この町は完全に破壊された。

広島が焼夷弾攻撃による破壊を免れているにはなぜか、住民たちはいぶかっていた。この街は米軍占領司令部を置くために残されているのだろうと推測する人たちがいた一方で、ハワイやカリフォルニアにいる親類縁者が米国政府に広島空襲を避けるように陳情したのだろうと考える人たちもいた。もっと現実的な広島市当局者たちは、1944年、長大でまっすぐな防火帯を築くために家屋の打ちこわしを命じはじめた。防火帯は194586日の朝にいたるまで拡大と拡張をつづけた。

米軍は86日、ウラニウム(リトル・ボーイ)爆弾を広島に投下し、ハリー・S・トルーマン米国大統領は、日本は「空から降り注ぐ破滅の雨、この地球上で前代未聞の事態を招く」ことになると警告しつつ、日本の降伏を要求した。

194586日(月曜日)午前815分、ポール・ティベッツ大佐が操縦する米軍B29爆撃機によって、核兵器「リトル・ボーイ」が広島に投下され、日本軍戦闘員20,000名、朝鮮人奴隷労働者2,000名を含め、推定70,000人の人びとを直かに殺害した。同年の末までに、負傷と放射線被曝のため、死者総数は90,000ないし166,000名に達した。原爆投下前の人口は340,000ないし350,000人ほどだった。市街の建物の約70%が破壊され、その他にも7%が大破した。

南方から観た相生橋(爆弾の標的になった中心部のT路橋)近辺。太田川の岸辺に木造家屋が並び、前景に日本の伝統的な川舟が浮かぶ。

広島の元安川の下流方向から観た川沿いの家屋密集地帯の航空景観。非常に重たい石積み建造物を除いて、地域のすべてが破壊された。原子爆弾のグラウンド・ゼロは写真右の上空。

1912年から1945年まで存在した広島駅

戦前に撮影された宇品港の写真。このかなり小ぶりな港湾は広島の港として開発され、第二次世界大戦中は日本陸軍の重要海運兵站拠点のひとつとして使われていた。

194586日、米軍B29爆撃機、エノラ・ゲイから原子爆弾が投下され、広島の上空で炸裂してから1時間後、きのこ雲が空中に膨れあがった。80,000人近くの人びとが即座に殺されたと信じられており、他にも60,000人の被爆者が1950年までに負傷や放射線被曝のために死亡した可能性がある。

広島にて194586日、史上初めて戦争で使用された原子爆弾の被爆者たちが緊急医療処置を待っている

194586日、原子爆弾が広島の上空に投下されてから間もなく、衛生兵らの応急処置を受ける被爆者たち。

原爆投下数か月後の破壊された広島駅の前に群集する民間人ら。

原爆が炸裂したあと、広島駅構内で休む日本兵部隊。

広島市街の残骸のなか、各々の道をゆく路面電車、自転車、通行人。

原爆投下からほどなく、広島に移送された消防車数台のうちの一台。

原爆投下後の広島市街。

荒廃した市街地中心部の近くにて1945106日、病院に転用された銀行の被災建屋の床に敷かれた毛布に横たわる広島原爆投下の犠牲になった日本人の母と子ども。

原爆投下の数か月後、広島の荒廃した光景。

白墨で記された「爆裂方向」マークと爆裂の餌食になった犠牲者の両足の輪郭。炸裂当初の閃光の強烈な熱が近くのあらゆる物体の表面を焼き焦がし、この橋に残されたもののように転写された欄干やこの場所に立っていた人物の「影」を残す。
  
広島市内の郵便貯金局。爆裂の閃光によってファイバーボード(繊維板)壁面に刻印された窓枠の影。1945104日。

広島にて、アスファルト塗料面に陰影効果を示すガス・タンク。

広島市内、廃墟になったビル内の仮設オフィスに座る日本人男性二人

広島の廃墟のただなかに被爆しながらも建つ日本基督教団(メソジスト派)広島流川教会。

原子爆弾の炸裂後に遺された広島の廃墟の膨大なひろがり。

この日本の都市に原爆が投下されたあと、ある日の広島の航空景観。この写真集の5番目、戦前の写真と比べてみるとよい。

19459月の広島、完全に破壊された区域をゆく日本兵。

興味深い事実


  • 火球から熱線が放射され、直線的に進行すると、その途上にあるあらゆる不透明な物体は「核の影」を形成するので、原爆炸裂による放射線が恒久的な影を刻印した。したがって、放射線が形成した恒久的な物体の影、さらには人間の影でさえも今日にいたるまで見ることができる。炸裂の熱は近くにいた人びとの身体を瞬間的に蒸発させたが、その影を残した。

  • エノラ・ゲイ(原爆を運搬した航空機)のコックピットに12錠ほどのシアン化物錠剤が保管されていた。広島を空襲するさい、任務遂行が危うくなる場合、パイロットらはそれを服用するように指示されていた。

  • 広島の平和の火は、すべての核兵器が廃絶されるまで灯りつづけることになっている。広島平和記念公園は、爆発によって生じた更地に造営された。その公園は、地球上初めて核攻撃の恐怖を経験した都市である広島の遺産、そして原爆投下の直接的・間接的な犠牲者の記憶を語り伝えることに捧げられている。その記念碑のひとつが、1964年に点灯された平和の火であり、地球上すべての核兵器が廃絶されるまで灯りつづけることだろう。

【クレジット】

Rare Historical Photos, “Hiroshima before and after the atomic bombing, 1945,” posted at https://rarehistoricalphotos.com/hiroshima-atomic-bombing-1945/.