カトリーナ10周年、夢見るニューオリンズ
犯罪率と不平等は高水準のまま、被災したままの家屋も多いが、空気中に再生と変革の精神がただよっている
2015年8月23日
[訳注]ハリケーン・カトリーナ:2005年8月30日、ミシシッピ州の東部を通過中に熱帯性暴風になる。ニューオーリンズの8割が水没したとの報道。
スクラップブックや壁に貼った新聞の切り抜きは古びて黄色くなっているが、ロナルド・ルイスにとって、洪水から10年になるとは信じがたい思いだった。
10年前の新聞記事が物語る恐怖は、ルイスもそうだが、第9下手地区に住むだれにとっても、歴史とは思えない。この地区では、洪水が4メートルに達し、外来者の目に、復旧が行き届かず、いい加減さは明らかだが、生まれながらの住民は気にしない。ルイスは戻ってきたし、彼の友人たちも大勢戻っているが、隣人たちが亡くなっていたり、戻ってこなかったり、店や社会サービスも存在せず、住民に貯蓄がなく、あるいは迷宮のような保険と補償の手続きを交渉する能力もなく、官僚機構の影に隠れて、市街地のなかで第9下手地区はいまだに無人地区扱いになっている。
手っ取り早く言えば、ルイスが住むチューペロ通り沿いを歩いた辺りが第9下手地区であり、修理された家、新築家屋、木の骨組み、胸まで伸びた雑草に埋もれた空き家の残骸が点在している。
ルイスは、マルディ・グラなどの折にパレードを組織するマーチング団体専門のニューオリンズ地域社会文化の小粒な博物館、「ダンスと羽飾りの家(the House of Dance and Feathers)」を運営している。「わたしはわが地域全体の荒廃を目にしました」と、彼はいった。だが、63歳の彼は、伝統を残したいという誠実さと願いに駆り立てられ、戻る決心をした。「わたしは、車の中やだれかが提供してくれるスペース、どこでも眠りました。残りの生涯、ニューオリンズで暮らしたかったからです」。
ニューオリンズはまったく回復していない。災害死者は1,800人、避難者は100万人以上、損害額は1510億ドルと見積もられている。カトリーナ後の前進は地図上の地点ごとに根本的に違っている。時には、街区ごとにまったく違うのだ。
観光は上向きであり、数値上はカトリーナ以前のレベルにほぼ戻った。空港のにぎわいもそうである。芸術文化への投資が増え、学校が改善し、刑事司法制度が改革された。訪問客を惹きつけるフレンチ・クォーターは以前と変わらず、日ごとにきれいになり、夜ごとに奔放になる。だが、地域研究機関、データ・センターの報告によれば、27%の貧困率はカトリーナ以前とほぼ同じであり、郊外で上昇している。人種的不平等は残っている。先月に公表されたデータ・センター報告は、2013年における黒人の被雇用率が57%であると告げている。報告によれば、「ニューオリンズ都市圏における白人の平均所得は全米の白人世帯並であり、ニューオリンズ都市圏における黒人世帯の平均所得は全米の黒人世帯より20%下回っている」。
粗暴犯罪はカトリーナ以前のレベルを下回っているが、それでも全米平均の倍である。市の人口は400,000人に満たないが、今年1月から7月のあいだに100人以上が殺害されており、その4分の1が主要観光地域からほど近い現場で殺されている。
チューレーン大学の歴史学准教授、アンディ・ホロウィッツはこういう――「政治思想とは関係なく多くの人たちが『白紙状態』という考えを口にするのを聞いたものです。保守の最右翼にしろ、革新の最左翼にしろ、これはなにか別のことをする機会なのだと言っていました。連邦資金が流れこみ、注目を浴びていましたので、早い段階になんらかの選択をするチャンスがあったとわたしは考えますが、ともかくもカトリーナの洪水は過去を浄める洗礼になるというのは、わたしの考えでは、単なる希望的観測だったのです」。
ポイドラス通りからフレンチ・クォーターにかけて、変わりようは顕著であり、ビジネス街は中産階級化の典型的な印であふれ、ヒップなホテルとレストラン、高価なアパートが立ち並び、カラフルな倉庫はバー、コーヒーショップ、オフィスに模様替えしている。ニューオリンズ都市圏における起業率――成人100,000人あたり起業件数――は、2011年から2013年にかけて全国平均より64%上回っていた。
「カトリーナ以前には、なにもなかったのです。街が生まれ変われる可能性があるという意識がなかった。諦め世代がいたと思います」と、起業を支援し、毎年恒例の起業フェスティヴァルを主催する非営利団体、アイデア・ヴィレッジ(IdeaVillage)の共同創設者であり会長、ティム・ウィリアムソンはいう。彼は、街が洪水に強いられて、外部に助言と創造性を求めるための支援を必死になって仰ぐようになったと信じている。「カトリーナの翌日、ある意味で、だれもが起業家になり、だれもが再出発しなければならなかったのです。現実としてある問題は、40年か50年かけて育った閉鎖的なつながりでした。そのような井の中の蛙の堕落した人脈は、カトリーナ後に崩壊しました。『わたしはこの土地を愛し、この場にいたいので、この街を再建する』と決意した人びとがいる、その場から起業家精神がわきあがりました」と、彼は語る。
そのような人たちのひとりが、オービッツなどの旅行会社の予約ウェブサイト・ソフトウエアを構築し、顧客にアメリカン・エキスプレスを抱えるiSeatzの創設者、ケネス・パーセルである。パーセルは1990年にニューオリンズでiSeatzを創立し、カトリーナ後にニューヨークに進出して、その後、同業者らが事業の自殺行為だと諌めたにもかかわらず、2007年に在宅呼び出しを案出した。
いまiSeatzは50名ほどの地元従業員を抱え、ソフトを通した年間予約金額が20億ドルに達している。街は、好敵手のシリコンバレーからほど遠いが、生活費の安さとビッグ・イージー(ニューオリンズの愛称)の顕著な魅力に惹きつけられる労働者を切に求める、専門分野に強い技術の現場が花盛りであるとパーセルは信じている。「カトリーナ以前の時代と違って、当地の起業の動きは束の間のものではありませんし、偽履歴書や大口の人間や弁舌に立脚したものでもないのです。人びとは当地にやってきて、違いを創りだしています」と、街で指折りの田園風スポット、オーデュボン・パークのテラスでアイスティーをすすりながら、41歳の彼はいった。
「人びとはインフラが整っている土地からやってきて、『なぜ通りがハチャメチャなのだ? 忌々しい穴ぼこを修繕しようじゃないか。なぜ犯罪がひどいのだ? なんとかしようじゃないか。なぜ学校制度がこれほど凄まじいのだ? これ全体に再投資しようじゃないか』というのです。カトリーナが起こらなかったとすれば、インフラが破壊されることもなく、こうした人たち――多くの場合、変革の試みとは関係なく、仕事を求めてやってくる人たち――が、長年、当地に住み、穴ぼこを気にせず、学校が最善でなく、医療制度が最善でなく、穴ぼこを避けながら運転していると知っている地元の人たち、保守的な既存の住民から話を聞かされることもなかったとわたしは思います」と、彼はいった。
第9下手地区から東へ2マイル行けば、ニューオリンズはいまだに、酔っぱらいの独身男たちが、ラム酒のハリケーン・カクテルを手に、バーボン・ストリートのネオンサインやストリップ・クラブの前をよろめきながら、行き交う街である。また同時に、慈善活動家たちが10年前に被災した家屋を修繕している街である。屈指の著名な非営利団体、第9下手地区のセントバーナード・プロジェクト(StBernard Project)は100,000人のボランティアを受け入れてきたと、エリザベス・イグル開発部長はいう。今月の何日間か、155名もの大勢の予定が立てられている。彼らは高校生であることが多い。「カトリーナが襲来したとき、この子たちは5歳ぐらいでした」と、彼女はいった。
洪水は米国市場で最悪の土木工学災害であったという活動家グループ、levees.orgは先月、第9下手地区から6マイル、ジャンティイで恒久的な展示場を開設した。解説パネルの一枚に、「神話撃退。通説と異なり、市街地の50%は海水面と同じ高さ、またはそれ以上の標高」と書かれている。
エロール・サンダースは友人と展示を見て回った。この地は、彼の地区の近隣である。この44歳になる鉄道労働者は、運河の向こう岸側、エリシアン・フィールド・アヴェニューから数ブロック行った、パリス・アヴェニューとトレジャー通りの交差点あたりで育った。彼は更地を手で示しながら、「わたしたちはパーティを開き、ザリガニを煮て、だれもがわが家に来て、裏庭に腰を据えたものです。これはミス・エヴァンスのお宅。ミラビュー・アパートメント(フェンス囲いの住宅街)はちょうどここでした」といった。
彼の家族は、カトリーナ襲来前に町を去っており、「あれはまるで、とある時、とあるハリケーンのようでした。自宅のできごととは思ったこともありません」。サンダースはいま、恒久的に転出した何万もの人びとと同じように、車で6時間かかるヒューストンに住んでいる。「多くの人たちにとって、カトリーナはじっさいに踏み石になりましたが、わたしはそう言いたくないのです。多くの人たちにとって、ニューオリンズで掴めなかった暮らしを、別の土地で築くことができたのです」と、彼はいった。
それでもサンダースは、舗装道路や展示品ではなく、記憶によって、ロナルド・ルイスと同じように街につながったままである。そして、彼の祝福されたニューオリンズ携帯電話地域番号。「わたしは504番を決してなくさない」と、彼はいった。
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2011年5月1日
カトリーナとフクシマを比べてみれば
カトリーナとフクシマを比べてみれば
この災害を、下記のような疑問の形にして考えてみました。具体的な疑問、社会、メディア、政府、科学、政策優先順位、倫理……にまつわる疑問です。
レベッカ・ソルニット
●まるまる一地方が、9・11に崩壊したマンハッタンの摩天楼群16エーカー[約6万5000平方メートル]に匹敵するほどの凄まじさの廃虚になってしまい、お粗末な国内・環境政策がテロよりも破壊的であると露呈してしまった今、国家安全保障は、実際には何を意味しているのだろう?
●ハリケーンはほんとうに天災だったのだろうか?
あるいはただ単に、社会基盤に投資したり、豊かさを分かち合ったり、環境問題に取り組んだり、人種差別を克服したりすることを拒む社会が、久しい前から内に抱えてきた多様な形の不幸を強烈に拡大し、目に見える形にしただけだったのだろうか?
●私たちの社会が強く正しいとしたら、ハリケーンは、財産に対してだけでなく、人間に対してさえも破局的惨事をもたらしただろうか?
●キューバは、昨年、ハリケーン・デニスに襲われたさい、60万人の貧しい人びとをひとり残らず避難させるという力量を発揮したが、この事実は社会や政策優先順位に関して私たちに何を語っているだろう?
ハリケーン・カトリーナ災害からニューオリンズが回復するのに10年かかると予測された。米国史上で損害最大の天災の10周年にあたって、非常に異なった地区――堤防の両側――の人たち4人が、土地、音楽…そして、予言があたったかどうかについて、非常に個人的な思いを語ってくれた。
ハリケーン・カトリーナ (Hurricane Katrina) は、2005年8月末にアメリカ合衆国南東部を襲った大型のハリケーンである。ハリケーンの強さを表すシンプソン・スケールで、最大時で最高のカテゴリー5、ルイジアナ州上陸時でカテゴリー3である。
8月30日、ミシシッピ州の東部を通過中に熱帯性暴風になる。ニューオーリンズの8割が水没したとの報道。
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