アジア太平洋ジャーナル Vol. 13, Issue. 32, No. 3, 2015年8月10日
エリン・オハラ・スラヴィック elin o'Hara slavick
2008年の夏、そして再び2011年、広島滞在中に
三人称で執筆されたブログ記事からの抄録
記事全文=リンク
ヴォルタ・オンライン誌(The Volta online journal)が、最近、公開したヒロシマ・ナガサキ原爆投下70周年特集“Evening
Will Come”に掲載された記事を、同誌の寛大な許可をいただき、ここに再掲する。本稿の再掲時、スラヴィックは日本学術振興会の招聘(しょうへい)資格を認定され、数か月間、日本を再訪することになった。彼女はヒロシマで研究をつづけ、ナガサキとフクシマで研究をはじめるつもりであり、鉛の箱を作り、そのなかにX線フィルムと被曝対象物を設置して、残存放射能が暴露をするのか確かめる計画である。ロサンジェルスのコーヘン・ギャラリーで開かれている彼女の個展“Seventy Year
Old Shadows of Hiroshima”[ヒロシマの70年来の影]は2015年8月29日に最終日を迎える。このプロジェクトは現在、ブラジル、カナダ、デトロイトでも公開されており、クーラー・アート・センター10月展覧会「写真と科学精神」でも展示される予定である。
コーヘン・ギャラリーで、ヒロシマ平和祈念日の8月6日、オープニング・レセプションが催され、詩人のロレンス・デラニー=ウールマンが彼女の2011年文章賞受賞作“Camouflage for
the Neighborhood”[『お隣のためのカモフラージュ』]に収録された散文詩を朗読した。デラニー=ウールマンは最近、Santa Monica Review, Prime Number,
Stymie, Sports Literate, Lunch Ticket, AGNI 74andWarscapesに詩と創造的なノンフィクションを寄稿している。彼女はカリフォルニア大学アーヴィン校で作文を教えている。彼女の本から、引用してみよう――
止まった時計。白黒でも、破壊は失われない
子どもの弁当箱は灰と骨につながる。わたしたちは
なんなの…リスコ先生がヒロシマの写真をあらわに
したとき、8歳か7歳。夢にうなされ、おかあさんは
校長先生に苦情の電話をかける
……
5月22日:カササギ、蝶の翅、竹
街を跡形もなく均してしまい――数棟のビルと60本の樹木を除き、100万人以上の都市の文字通りにすべてを破壊しつくし――10万人を瞬時に殺してしまえば、物――寝床、衣類、子どもたち、おもちゃ、テクノロジー、頼りになるならなんでも――欲しがる人たちがあとに残る。彼女は罪を感じ、写真が罪を軽くしたり、ものごとを修繕したりすることはないとわかってはいても、写真を撮りにでかけたくなった。写真は同じものを何度も何度も見せるだけであり、問題を増幅したり、問題をきれいにしたりする。
鉄道駅に近い広島の店先 、2008年
原爆が投下された直後、米軍によって――彼女の母国による犯罪の犠牲者を助けるのではなく、研究する科学者らと兵士たちのために――建てられたビルで生活することになるとは彼女は予想もしていなかった。ABCC(原爆傷害調査委員会、その後の1970年代、米日の共同事業になり、RERF、すなわち放射線影響研究所に改称)は、広島市現代美術館と隣り合って、広島市街を見下ろす丘の上に鎮座している。それは古ぼけた施設――いまでも大勢の人たちが働いているが、少々色あせ、見捨てられた趣――である。広島の人たちは、施設がその丘の上にあるのが――道から外れ、被爆者が訪れるのが難儀で、またとても貴重な土地なので――気に食わない。彼女に言える限りでは、米国政府には、それを移設する気がない。彼女は、ここにいるだけでも罪を感じる。
広島市比治山
ABCC(原子爆弾障害調査委員会)
広島平和記念資料館所蔵写真、
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RERF(放射線影響研究所、元ABCC)
宿舎から撮影
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鳥たちは、鳴き声を張りあげ、日の出に一族を起こし、揃って屋根に飛びのり、朝の始まりを見つめる。子どもたちは、風変わりな毛皮、野生の眼、丸い足、骨と皮の背中――首筋に血のついた傷を負ってふらつき歩き、びっこを引き、さまざまに不格好、あるいは奇妙な格好の――野良猫を窓の外に見つめるのが大好きだ。
5月23日:期待
彼女は、川沿い、道沿い、ビルのあいだ、街並を歩きまわり、すべてを見、すべてを擦り込み、すべてを写真に撮りたい。彼女は、内側を捉え、X線フィルムに漏れ出る駄目になった対象物――暗闇のなかの仄かな光の爆発を残し、携帯してきた小さな青写真紙に花々の白い影を定着するもの――を見つけたい。
ハワード・ジンの奥さんは先週に亡くなった。彼女は著名で申し分なく親切な歴史家にEメールして、いつか会いたい、共感の思いと愛を送ると告白し、愛を告げ、彼女が日本――彼が当地に来ると、いつでも並でないと気づく場所――にいてくれて、嬉しいと返信が来て驚いた。
5月24日:アメリカ人であること
彼女は、頑丈なコンクリート建てビルばかりなので心打たれる。これはすべて、なにもかも破壊した爆弾のあとに建てられたものであり――1959年代モダニズム、コンクリート・ジャングル、ブルータリズム、バンカー・メンタリティ――時代を刻印したものだとわかっている。他のアメリカ人らに、原爆について、あるいはフォート・ベニング軍事基地について、アメリカ陸軍米州学校について、抗議の思いを語ると、みなさんが無反応であることに気づいている。日本にいるアメリカ人であり、アメリカ人である気がしない。
平和記念公園の記念碑の前で合唱している学校生徒たちの写真を撮っていると、平和記念資料館で上映している映画の音声が、「焼ききる閃光のなか、わたしは絵になった。熱に打たれ、わたしは壁に溶けこんだ。風に襲われ、あなたは地中に消えた」と聞こえてくる。
ブロンズの折り鶴を掲げる佐々木禎子の子どもたちの平和祈念碑の前
合唱する学校生徒たち。広島市平和記念公園、2008年
平和公園にいるとき――一度は動員学徒慰霊塔の英語音声を聴いたとき、また資料館で2本の痛烈なドキュメンタリー映画、1990年作品『ヒロシマ・母たちの祈り』と1982年作品『ヒロシマ・ナガサキ――核戦争のもたらすもの』を観たとき、その間ずっと――彼女は何度も泣く。どちらの映画も、死んだ母親を求めて、あえぎ、泣いている2歳の女の子の映像、死者、頭蓋骨、焼けた体、ケロイド、奇形、破壊された街が次々と出てくる画面があり、すべてが完璧に破壊的でありながら、何人かはある種の生存の奇跡がある。幼い少女が父親の骨壷の灰を扇ぎ、涼しくしてあげようとする。父親は漁師であり、ビキニ環礁の核実験で被曝して3日後に死亡した。ヒロシマでは、原爆にまつわるものは、すべて繋がっている。禎子は、彼女の薬の包み紙で、何千枚も鶴を折りながら、白血病で亡くなった少女。受胎の瞬間に放射線の被害を受けたもう一人の少女は、被害を理解することはない。「原爆は、治ることがありません」。
彼女は、草、花々、梯子(はしご)、そして、そうなのだ、人間さえも、木や石の表面に白く焼き付けられて。アンナ・アトキンスの青写真のように、反転した影になる映像に唖然とする。彼女はすでに、これら不在、これら原爆の幻影を感じていたはずだが、それ以上に感じて、信じられない思いである。彼女は青写真を作成したいだけでなく、花々、草、梯子の拓本を取りたいのだ。
広島平和記念館の映画スティール写真、2008年
5月26日:わたしたちはなんでも知っている…
米国がヒロシマにリトル・ボーイを投下したのは、ニューメキシコ州アラモゴードで最初の原爆実験をしてから、ほんの21日後のことであり、ナガサキにファット・マンを投下したのは、ヒロシマからほんの数日後のことだった。彼らは、世界の向こう側の人間に原爆が何をするのか、見て、研究したかった。それは犯罪的な実験だった。彼女はジョイ・ディヴィジョンの“Atrocity Exhibition”(残虐行為展覧会)を聴きたいと思い、無数の炭化した遺体と衰弱した被爆者の映像を観たとき、他の映像――もうひとつの戦争、米国が関与したもうひとつの戦争――強制収容所の映像にフラッシュバックした。
1945年、米国ニューメキシコ州アラモゴード、われわれはわれわれ自身の敵である
出処:Bomb After Bomb: A Violent Cartography, elin o'Hara slavick
(エリン・オハラ・スラヴィック『爆弾、また爆弾~暴力地図作成法』)
この描画は、ロスアラモス国立研究所所蔵、最初の原爆の爆発で形成されたクレーターの航空写真を参照している。7月16日のトリニティ実験は、米国が実施した最初の核兵器実験であり、いま現地はホワイトサンズ・ミサイル実験場になっている。この爆発は、原子時代の幕開けとされている。この実験からほどなくして、米国は、ヒロシマにリトル・ボーイ、ナガサキにファット・マンを投下した。
ヒロシマ爆心地、1945年
出処:Bomb After Bomb: A Violent Cartography, elin o'Hara slavick
リトル・ボーイと名づけられた原子爆弾は「1945年8月6日、ヒロシマに投下され、数瞬のあいだに、14万人の男、女、子どもの肉と骨を粉と灰に変えてしまった」。3日後、ナガサキに投下された2発目の原子爆弾は、おそらく7万人を瞬時に殺害した。その後の5年間で、これら2都市の住民がさらに130,000人、放射能の毒で死亡した。これらの数値には、無数の人びと、生き残ったが、不具になり、毒に侵され、奇形になり、盲目になった人たちは含まれていない。
ある日本の女子生徒は何年か後に、その日は素晴らしい朝だったと回想した。彼女はB29が飛来するのを目撃し、次に閃光を見た。彼女が両手を上げると、「わたしの手はわたしの顔を通り抜けました」。彼女は「足がなく、膝で歩いている男の人」を見た――ハワード・ジン、“Hiroshima: Breaking the Silence”(ヒロシマ――沈黙を破る)。
日本の人たちは、グラウンド・ゼロの破壊された街並――かつて大勢の芸術家、医者、俳優、作家がいた近隣社会――の地図を記憶を頼りに作成しようと企てている。彼女は、手作りのヒロシマ街並地図の一枚のピンク色に心打たれた。それは、彼女自身のヒロシマの描画と同じピンクだった。彼女は公園の名称――「平和記念公園」――に、これではまるで平和が消え失せ、平和を生きるのではなく、平和を記憶していることができるだけのようだと困惑し、ヒロシマとナガサキの人たちにとって、これは、究極的、絶対的に真なのだと想像する。彼女は、子どもたちが歌い、ピクニックを楽しみ、折り鶴とカメラを携えた観光客がやってくる公園にとって、このような残酷な虐殺が命名の理由なのだという事実に困惑する。
不可解な白内障、プラズマ細胞だけの残存、若い体組織を損なうことは若い命を損なうこと――わたしたちはなんでも知っているのだから、責任を負わなければ…
5月28日:よい戦争はなく、悪い平和はない
彼女は、今回は何百人もの学童たちと一緒に平和祈念資料館に行くと決める。彼女は、展示場の柔らかく薄い衣類、黒い雨と白い壁、台所用品と溶けたビンを辛うじて見ることができる。学童たちはノートを付ける。米国は「支出を正当化」するために原爆を落としました。模擬原爆はパンプキンと呼ばれていました。原爆孤児と呼ばれる子どもたちがいました(西洋人の靴を磨いていました)。ABCC(原子爆弾傷害調査委員会)は1947年に組織され、日本の人びとはこれを、「彼らはわたしたちを検査するが、治療しない」といっていました。被爆者(原爆から生き残った人、または爆発の範囲内にいた人たち)は、簡単に「わたしは原爆にやられた」といいます。2007年時点で、日本に251,834人の被爆者がいて、広島に78,111人います。「ある女性は、お母さんが死ぬ前に、水を口移しで飲ませました」――浜田義雄(原爆被爆者として作成したプリントの説明文)。
よい戦争とか、悪い平和のようなものはない。
6月1日:原爆の木に接吻する
彼女は、青写真用紙が米国から届き、ヒロシマの様々な花と植物、とりわけ原爆の木から落ちた葉っぱ、または樹皮、または小枝の日光写真を作成することができるようになるのを待っている。彼女の娘は、昨日、原爆の木にキスしつづけ、「ごめんね。お家に連れて行きたいわ」といっていた。
スラヴィックの娘、
ハーパー・アーシュラの足、2012年
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スラヴィックの息子、
ガスリーの手、2012年
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6月3日:タンポポ
ヒロシマのタンポポ、2008年
彼女は今日、広島城で、ユーカリの被爆樹が落とした葉っぱと湿気た樹皮を集めた。彼女は、木の後ろに回ると、木が文字通りに大量の赤紫色の涙を流し、出血しているのを見て、泣いた。彼女は幹の拓本を作成した。日本人男性が通りすぎて、「すばらしい」といった。彼女はまた、柳の被爆樹の周りに結んであった麻縄の拓本を取った。いまは展示会場に使われている、原爆に耐えた数少ない建物のひとつ――古びた土手の草の切れっ端で斑になった1930年代の木造りの床と壁――彼女は今日、たくさんの拓本を作リとげた。現在の展示品は、通路で山積みになり、ぶら下げられ、アレンジされた百万の折り鶴である。彼女は、原爆から少しあと、奔放に生育した「ヒメムカシヨモギ」について読む。これは、人びとが必要に迫られ、煮て食べたものである。ヒメムカシヨモギって、なんだろ?
2008年6月4日水曜日
彼女はユーカリの被爆樹を再訪して、樹幹の血のような傷痕の写真をたくさん撮った。実際に数か所、すべて目の形をして、血を流している。彼女は散歩から持ち帰った、もっとたくさんの葉っぱに彩色し、種が飛び散ろうとしているタンポポの写真を撮りはじめた。彼女はヒロシマのために1945年のタンポポの写真を撮ってもよかった。小さな、願いの弱々しい球、かすかで、小さな星々、花開き、咲き誇り、とても儚(はかな)く。
ヒロシマの葉っぱの紙にグワッシュ絵の具水彩、2008年
6月6日金曜日
彼女の夫は、1945年のタンポポを撮影するとなれば――死没者の数が多すぎ――「ささやかな振る舞いの力を圧倒するので、それよりも、彼女が冠毛の生えたタンポポの頭花ひとつひとつの「開花」数の平均値を計算すべきであり、そうすれば、タンポポごとの一枚一枚の写真が、原爆死没者の数を表すようになると考えている。
彼女は夜、ロラン・バルトの『表徴の帝国』を呑み下す。彼女はほとんど全編にアンダーラインを引き、余白に書き込みをする。表明と執筆に反するものは――存在だけか? まるでバルトが書いたことの半分――空虚と禅、表象と言語についての半分――を取り逃がしたように感じる。おそらく彼女はすべてを取り逃がしたのだろうが、それ――仮想の異国、認識可能な表象の不在、オリエントの不可能性――に関連づけたのだ。
6月8日
学芸員は、原爆ドームが、平和の真のシンボルと標識にならず、いかにして資本主義の観光の呼び物になったのかを語っている。彼女が住み、博物館がある丘は、破壊され、再建された全域と、市街領域の旧来区域との境界であると考えられていると解説する。彼女はまた、広島市が丘の上に広島市現代美術館を建設した理由のひとつが――放射線影響研究所に対抗して――市の縄張りであると主張することであると説明する。
広島平和記念公園、原爆ドームにて
スラヴィックの子どもたち
ハーパーとガスリー、2008年
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原爆ドーム鉄骨断片の青写真
原爆マスク、2008年
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彼女はバルトを読んでおり、すべての章句をこの日記に書き写したいが、疲れすぎる。彼女は明日――土手屋敷の床と壁、被爆樹、碑の――拓本をもっと取るべきである。もっとタンポポを撮影する必要があるか、わからない。彼女は平和記念収蔵品を一日限りで撮影する許可を得ているが、火曜日に出かけて、広島平和文化センターの理事長に面会し、もう一押するつもりである。対象を長時間X線暴露にかけたいと切に思うが、それでは一日ですまない。だが、自分にできることはする。たいがいの人は、対象のX線暴露という案に対して、それが科学的でないといって、非常に尻込みする。放射能が単なる「バックグラウンド放射能」か、それとも原爆の残存放射能なのか、知るすべはない。それが本当に問題なのか、彼女はいぶかる。デイヴィッドは問題であると考えない。放射能は、放射能なのだ。それに、それにヒロシマの放射能は、出処のいかんにかかわらず、全体として、非常に違った意味をもつのではないだろうか? しかし、彼女は今のところ、X線フィルムも、通訳者も備わっていない。ガイガカウンターなら、近場の墓石で掲げれば、ガリガリガリと鳴るのだが…
遮光条件下でX線フィルムの上に被爆樹の幹断片を10日間置き
X線フィルムを現像して、暗室で写真用紙にX線フィルムを密着印画した
放射能写真の残存放射能、2008年
6月10日:大当たり!
彼女は次いで、広島平和文化センターの――史上初のアメリカ人――理事長兼会長、スティーヴン・リーパーに面会に赴く。共通の友だち――アルジュン・マクヒジャニ、アリス・スチュワート――がいたので、彼らはたちまち友人になる。彼は彼女の夫に会って、放射線影響研究所とデイヴィッドの研究結果について論じ合いたいと心から願う。彼らは、写真家の土田ヒロミ、ヒロシマ・モン・アモール、放射線影響研究所、アート、彼女のプロジェクトについて語り合う。
「サンシャイン・ガーデン」にて、広島平和記念資料館所蔵
被曝遺物の青写真を作成するスラヴィック、2013年
彼らはテーブルを挟んで座り、彼女は彼らのもてなしと寛大さに仰天している。彼らが、溶けたガラス瓶、灼けた屋根瓦、陶製碍子(がいし)のカラー写真を挟んだファイルを持ってきて、彼女の実験でどれを使いたいか、訊ねるとき、彼女は信じられない思いである。スティーヴンが彼女のプロジェクトについて――これら「被爆」した物品をX線フィルムの上に直に置いて、長時間の暴露をさせ、フィルムが放射線を記録するか、見たいと思っていること――を彼らに説明するのに、多少の時間がかかる。彼女は――これほどの長期間がすぎてはいても、それでも、汚染のある種の抽出、爆発、痕跡、散在したパターンを――記録すると期待している。スティーヴンは、だれも――とりわけ放影研や広島市は――彼女のプロジェクトが「成功」することを望んでいないと説明する。彼らは長い時間をかけ、力を尽くし、いまでは広島が安全であると人びとに信じさせたのだ。放影研は、原爆投下から2週間以内に(最近、3.5キロ圏内に拡大されたが)2キロ圏内にいた人だけに、心配する理由があると主張し――いまだに主張している(国民が、被爆者手帳、特に無料医療カードを受け取る基準を満たすためには、証人を2名用意しなければならない)。彼は最近のアメリカ人女性代表団の例について彼女に話す。代表団の2人が妊娠しており、広島で被曝することを恐れて、東京に残った。彼は、彼女が暴露を実施するさい、鉛の箱を使って、バックグラウンド放射線を遮断すればいいと提案する。彼女はできるだけ早く実験をはじめるために、高感度の青写真X線フィルムを入手する必要がある。
6月12日:ひび割れた大理石
彼女は今日、旧広島銀行の床、出納カウンターのひび割れた大理石、壁にかむせた彼女の柔軟紙を黒色の棒クレヨンで擦りながら、「わたし、日本が大好き」と独り言をつぶやきつづけていた。なぜか銀行――数少ない建物のひとつ――は原爆に耐え、1992年までじっさいに使われていた。床の拓本をもう一枚作ろうとしていたとき、警備員が唐突に彼女に怒りだし、どうしてなのか、わけがわからなかった。彼女が先週、写真に撮った人物と同じ人であり、とても親切で、今日、さらに拓本を作るのを認めてくれていた。警備員は腹立たしげに両腕で禁止の☓印を作り、「時間がかかりすぎる。時間がかかりすぎる」といった。彼女は、大きな黒い筒に紙をしまった。
1992年まで銀行として使われていた被爆建造物、旧日本帝国銀行
現在は文化展示センターとして使われ、スラヴィックは2013年に個展を開催した。
(右)銀行内の床の擦り込み拓本、2008年
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6月13日:俳句と鰻
広島の近く、宮島にて、日傘をさす女性、2008年
『俳句を書く』より「バルトはツーリストを許さない」(2首のみ)
携帯、傘、みな寂しさに抗うものを持つ
観光俳句は無益、時間つぶし。これが彼女の望み
2本の被爆樹を擦り込み、お腹をすかした昼食の帰路、たまたまご両親のレストランに向かっていた友人たちに出会って、彼女は信じられない思いである。彼女は、いつか行ってみようと思って、場所を知るために、付いていくが、エミが一緒に行こうよ、と誘ってくれる! 彼女はラッキーだと思い、完璧な和風レスランに足を踏み入れたとき、もっとラッキーだと思った。彼らは、穴子――川鰻――の丼に、エシャロットと、好みに応じて使うワサビの皿、お漬物、ハーブと海藻を浮かべた、ミニ・マシュルームのお吸い物の小鉢、豆腐ともやしの小皿、すりおろした生姜でいただくサケの刺し身のびっくりするようなお皿、彼女の祖母の田舎の畑で穫れた緑茶を併せて、食事する。彼女は、食べているうちに、友人の祖父が戦後にレストランを始めたことを知る。原爆が落とされたとき、彼は満州にいて、家族の全員、間違いなく全員を亡くした。彼女は友人に、彼は満州にいて幸運だったと告げるが、彼らは顔を見合わせるばかりで、二人とも、彼が幸運だったかどうか、とてもわからないと知っていた。愛する全員を罪深い閃光で一度に亡くして、生き残るとは、なにを意味するのだろう?
原爆によって、旧日本帝国銀行の材木のなかに埋め込まれたガラス片
擦り込みによる密着プリント。広島市、2008年
6月16日:美智子、禎子、爆心地
彼女は子どもたちと別れたあと、とても湿気て、薬効の匂いがする落ち葉と樹皮をもっと集めるために、お気に入りのユーカリの被爆樹へと足早に向かう。彼女は、以前に集めたものをすべて――1点ごとに、茶封筒を用意し、表に鉛筆で「日本国広島市、原爆で被爆したユーカリの木の葉っぱ」と大書して――ニューヨーク市の「絶望の尊大さ」という展覧会に送り出した。裏は別のテキストで「すべての核兵器が廃絶されますように。戦争を廃絶するように。わたしたちがよりよい世界を知りますように。わたしがガイガカウンターをヒロシマの墓石にかざすと、ガリガリ鳴ります。よい戦争とか、悪い平和とかいうものはありません。幼い女の子が、骨壷のなかのお爺さんの灰を扇いで、涼しくしてあげようとします。原子爆弾に癒やしはなく、廃絶するのみです」と書かれている。
彼女はワールド・フレンドシップ・センターの美智子とともに、午前10:30発の英語ガイド付き平和記念公園ツアーを組織した。彼らは平和記念資料館のロビーに集合し、ツアーを、友情を始める。彼女はまたもや、初対面の人たちの親切と寛大さに心打たれる。ツアーは1時間半の所要時間を予定しているが、結局、終日を一緒に過ごすことになる。美智子は、平和公園、原爆、被爆者、死没者、日本の歴史、平和運動のことをすべて知っている。彼女は、クエーカー団体――非政府・非営利組織――ワールド・フレンドシップ・センターのボランティアとして、知識のすべてを惜しみなくわかちあう。(彼女は、特に美智子――クリスチャンで反戦活動家――のような人は、このようなことが本当に可能になるのは、どのようにしてか、不思議に思う)
広島市、爆心地。
歩道と下水弁キャップの擦り込みによる密着プリント、2008年
美智子は美しい。彼女には、美智子が60歳とは信じられない。40歳以上とは見えない。彼女のエネルギーは驚異的であり、みなぎり、開けっぴろげで、心からのものである。美智子が話すとき、たいがいのファンは彼女の話し方に魅せられている。平和公園は、簡素な病院前にある花崗岩の記念碑と説明テキストで示される爆心地に非常に近接している。それは、原爆前に病院であったし、いまも病院であり、もちろん建て替えられている。爆心地近隣区域は、最も繁華だった。6つの地区があり、数多くの神社仏閣、事業所、娯楽施設、住宅があった。原爆のあと、実質的にこの地域のすべてが跡形もなくなり、全員が死亡したとき、再建のための資材もほとんどなかった。広島は中央政府に広島の復旧を要請した。4年後の1949年、広島平和記念都市建設法が成立した。平和公園は、平和を求める永続する願いの表明である。人骨がいたるところで見つかり、身元も判明せず、火葬された。ヒロシマは1952年まで米国・連合軍に占領されていた。人びとは、放射能についてなにも知らなかったので、ヒロシマに戻ってきた。占領軍は高水準の検閲と偽情報を維持した。原爆被爆者たちは約400軒の掘っ立て小屋を建てたが、平和公園を整備するために、打ち壊さなければならなかった。小屋の立ち退きに時間がかかったが、政府が簡単な被爆者住宅を建てたものの、1970年代に博物館やショッピング・センターを整備するために、結局、またもや立ち退かせる必要があった。
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アオギリ被爆樹の葉
青写真、2008年
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アオギリ被爆樹の葉
葉の表面と裏面の擦り込みによる
密着プリント、2008年
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彼らは、他の場所で原爆に耐え、平和公園に移植されたアオギリの木のそばに立っている。樹木は元の方向に向けて定植しなければならないので、顕著な損傷は爆心と違う方向を向いている。またその木のそばに、第二世代のアオギリが立っている。植物や樹木の迅速な世代交代は、見た目にも完璧に健康であり、原爆後の被爆者にとって、元気づける兆候だった。彼女は、彼女は大きくて、形の美しい葉に心打たれ、この木の損傷した幹の擦り込みをし、葉のX線で青写真を作成したいと思った。被爆者たちはいま、被爆樹の種子を植えている。彼女は種子や木が放射能検査を受けたのかと思う。
思うに、広島市は地域の検査を1945年10月1日に実施し、放射能レベルの低さに驚いた――おそらく、原爆から程なくして、台風が襲来し…生物、掘っ立て小屋、土壌、毒性物質といった…とても多くのものを洗い流したからであろう。広島市はいま、ヒロシマにおける放射能レベルは「原爆が投下されなかった別の場所と同じほど低い」と主張している。彼女はこれを信じていない。
詩人、峠三吉に献じられた記念碑がある。占領軍が「原爆」ということばを記念碑や他のものに使うことを禁じていたにもかかわらず、峠三吉は負けずに、原爆に反対し、戦争放棄を訴える詩集や雑誌を出版した。峠三吉は、入院していた1950年、トルーマンが原爆の再使用を――今回は朝鮮に対して――挙行することを考慮していると聞いた。彼は、戦争に対する怒りに駆られ、原爆詩を書くことで対抗した。彼は度重ねてきた手術のさいに死亡した。彼の万年筆と毛髪が記念碑のしたに埋葬された。(彼女は明日、彼の本を探しに行くつもりである)
慰霊、似島の記念碑の擦り込みによる密着プリント、2008年
慰霊碑は、簡単に「慰霊」と記されていて、これは多くの記念碑でも同じである。美智子は、記念碑のいわれには、死者の霊を慰めること、記念すること、同じ過ちを繰り返さないと誓うことの3つがあるという。この慰霊碑は原爆から15年後の8月15日、原爆の死没者を慰めるために建立された。
広島平和公園、原爆死没者慰霊碑、2008年
258,000筆の原爆死没者の名が記帳され、慰霊碑の下に納められている。毎年8月6日に、新しい名が書き加えられる。彼らは広島平和公園に引き返し、レストハウス――原爆に耐えた数少ない建物のひとつ――の地下室を訪れる。日本語を話し、この地下室を知っている人だけが行くことができる。見学の申し込みをして、申請書を書かなければならない。一人の男性がこの地下室にいて、原爆死を免れた。この人は、なにかの書類を取りに、地下室に降りていた。8:30――原爆から15分後、彼はなんとか脱出し、橋の袂に立って、灼熱地獄を眺めていた。湿気があり、暗い地下室に行くには、ヘルメットを着用しなければならない。壁はひび割れ、大きな水たまりが床を浸し、錆びた扉と木の衝立が、歴史の証拠、歴史の証人として立っている。何人かの人たちがここに折り鶴とその他の捧げ物を残していた。忘れられない光景だった。彼女は生き残ることの重みを感じている。
野村英三さんが原爆の直撃を免れ、
生き残ったレストハウスの地下室
2008年(右の鉄扉に注意)
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封筒型の扉
被爆建造物地下室の鉄扉の
擦り込みによる密着プリント、2008年
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彼らは地下室を出て、強烈な日光のもとに戻り、禎子の記念碑――公園内で抜群、最高の人気を誇るスポット――のそばのベンチに座る。そこはいつでも人だかりしており――歌を合唱し、写真を撮り、金色の折り鶴の鐘を鳴らし、折り鶴を捧げ、祈り、泣いている。美智子は彼女に、禎子の実話を知りたいですかと訊ねる。もちろん、彼女はイエスと答えるが、なにに対して、イエスと言っているのか、訝(いぶか)っている。美智子は、禎子の父親が存命中、彼に会っていた。父親は、一家が脱出を試みた小船のなかで母親が禎子を固く抱きしめていたが、黒い雨が降りに降り、禎子の着物をびっしょり濡らしていた様子を美智子に語った。黒い雨は放射能の毒だった。彼が彼女に話したところによれば、禎子の物語は――たくさんあり、彼女の物語は30か国語に翻訳されていた――そのすべてが、禎子は1,000羽の折り鶴をほとんど折り終えたとしている――1,000羽は魔法の数であり、日本の言い伝えによれば、それを達成すると、願いが叶う――が、実際には、禎子は折り鶴1,000羽の目標を達成し、さらにもう1,000羽の鶴を織りはじめていた! 事実そのまま、実相を語るか、あるいは中途半端なままでいいのか――彼らは、どう決めたものか、話し合った。どちらの方が、希望を余すことなく伝えるのだろう? 彼女は、事実をそのまま語るべきだと確信している。真実だけが禎子をより強くし、物語をさらに心動かすもの、衝撃的、リアルなものにする。1,000羽の鶴を折ることが白血病を治すことはないが、一人の少女は世界を変えることができる。
棺のなかの禎子、広島平和記念資料館の所蔵写真、2008年
6月27日:三瀧寺(みたきでら)聖域
寺の領域がそっくり、原爆投下時に無傷のまま残り、1162年に建造された、強烈なオレンジ色の仏塔は1951年に原爆死没者慰霊場に移築された。原爆死没者の遺灰と併せて、アウシュヴィッツの遺灰も慰霊場に埋葬されている。石碑に刻まれた請願文のように、わたしたち全員が人類を命のうちに統合しますように……
6月30日:時の撚り糸
彼女とデイヴィッドは日曜の朝、原爆死没者追悼記念館で被爆者が彼女の体験を話すのを聴きに行った。空が爆発し、引き裂かれて、彼女の世界を、灰、死、毒に変えるのを見たとき、彼女は8歳だった。通訳のことばを彼女がメモしたノートを次に示す――「原爆が落とされたとき、わたしは6歳でした。10秒間のうちに、爆心地から半径2キロ以内のあらゆるものが焼かれました。爆風、熱線、放射線が、すべてを破壊した三要素でした。放射線は半径4キロ圏内に放散されました。70,000人が即死しました。1945年末までに、さらに7万人が死亡しました(140,000人!)。
「原爆投下以後、63年が経過し、毎年4,000人が原爆死没者名簿に書き加えられています(名簿は、慰霊碑の、核兵器が全廃されるまで燃えている平和の灯のそばの地下に奉納されている)。前日、8月5日の夜、たくさんの飛行機が飛来しました。眠れない夜でした。着物は仕事するのに適していないので、縫い直したのですが、わたしたちみなは、それを着込みました。男の子はみな、兵隊のように見えました。6日の朝、空襲警報が発令されましたが、解除されました。わたしたちみなは、その日の仕事の用意をしていました。わたしは飛行音を聞きました。二人の兄弟と一緒に見上げると、飛行機が光っているのが見え、「あ、飛行機」と思うと、巨大な閃光がひらめきました。わたしの母は砕けたガラスで血まみれになりました。母はわたしたちを連れ、逃げました。10秒もすると、おびただしい炎がわたしたちに迫ってきました。即死しなかった人たちは街の郊外に向かって逃げようとし、山に向かって逃げながら、助けを求めて泣き喚いていました。子どもたちは母親を求めて、『お母さん、お母さん、お母さん』と叫びながら、必死になって山の方に走っていました。わたしが自分自身のことで憶えているのは、とてもむかむかして、嘔吐したことです。わたしは、2頭の馬が死んで、内臓が露出しているのを見ました。人びとは死にかけており、弱々しい声で『水、水』といって、助けを求めていました。炭化した4歳児の遺体がありましたが、目玉が飛び出しており、男の子とも女の子とも言い当てることもできませんでした。
「なにが起こったのか、だれにもわかりませんでした。
「わたしの家族:あの朝、4歳年上の姉は朗らかに、行ってきますといって、家を出ました。姉はグラウンド・ゼロの近くにいたと考えられています。彼女が帰ってくることはなく、街は一晩中燃え、跡形もなく破壊されました。火が弱まったときに見ると、破壊された建物の残骸以外になにもなく、宇品港まで見通すことができました。母は姉を探しに行き、すべての川を含め、いたるところで、たくさんの、たくさんの遺体を見ました。川は赤くなっていました。母は3か月ほど、娘を見つける手がかりを探しまわり、遠く似島(一部の孤児たちが送られていた島)までも出かけましたが、なんの痕跡もありませんでした。何か月も探しまわった挙句、母は重い病気になりました。わたしは母が流産したのだと思います。わたしたちは竹藪のなかにいました。わたしの兄弟は火傷しており、傷に蛆が湧いていました。薬もなく、医者もおらず、傷を手当するすべはありませんでした。あるのは、人骨製のパウダーだけ。わたし自身、24時間ぶっ通しで歯茎が出血しており、口がいつも粘っていました。わたしの髪の毛が抜け落ちました。いつも疲れており、力が出ません。これがなにか、わかっていました。人びとは、これは毒だと言っていました。
「一人また一人と、人びとが焼け跡に戻ってきました。わたしたちは長崎のことを知りませんでした。日本は10日後に降伏し、戦争が終わりました。広島で75年間は植物が育たないだろうという風説が流れました。わたしたちにはなんの希望もありませんでした。ヒロシマ――なにもかも燃えてしまいました。廃墟になにもなく、食べ物はなにもありません。鉄道線路沿いに緑の草が育っているのを初めて見たとき、わたしはそれを新しい命の印だと思い、ホッとしました。街全体が何年も混乱していました。
「再建過程で、川のなかと地下から――ベルト、バックル、ボタンなど――たくさんのものが掘り出されてきました。子どもたちを亡くし、老親を亡くした両親は、子どもたちの手がかりが見つかるかもしれないと、かすかな望みをもって、大急ぎで見に行きます。両親はいま、80歳代と90歳代です」
7月6日:7月の憂鬱
広島城の近く、ユーカリ被爆樹の樹皮と葉、2008年
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もう3週間もすれば、去るのだと考えても、信じられない。彼女はいくつかの障害にぶちあたっているので、もう1か月はもっと仕事したいと思っている。杉の引き戸を備えた大型保管庫3室に19,000点を超える収蔵品を保管している平和記念資料館の地下室に、遮光袋のなかのX線フィルムの上に置かれた被爆対象物――裂けて、灼かれた竹、木の節、屋根瓦、その他――がある。残念なことに、フィルムを現像してくれる人がまだ見つかっていない。彼女とデイヴィッドは、当地のたいがいの放射線学者と医者が、だれもが認める以上に高いレベルの残存放射能の存在を示すかもしれないような実験にかかわりたくないと考えるか、出来損ないの実験に参加して、「彼女の仕事を台無しに」したくないか、そのどちらかであると思っている。自宅にフィルムを持ち帰るのは、旅の途上で疑いなく数回は放射線を浴びることになるので、そうするわけにはいかなかった。対象物はすでに1週間、フィルムのうえに置かれている。明日、フィルムを回収することになっているが、現像所が見つかるまで、その場に残しておくことになる。彼女は、何もかもうまくいくと思えない。暴露していないかもしれないし、していても、バックグラウンド放射線、対象物が置かれたテーブルからの放射線なのかもしれない。これは非常に制御されていたり、科学的であったりする実験ではない。それを「芸術」であるというのは、見え透いた言い訳であるように思える。
何人かの資料館職員に、「原爆に被爆した」家族がおり、これが当地における全員の言い方である。彼女は、ことばは厄介だ――彼女はこれらの対象物をなにかにまたもや「被曝」させているのだと気づく。彼女が木をシュート(「射撃する」と「撮影する」の両義)しに行くといえば、彼女の息子はとてもうろたえる。彼は、彼女に「木の写真を撮りに行く」といってほしい。もちろん、彼は正しく、彼女にしても、高等学校でスーザン・ソンタグの“On Photography”(『写真について』)を読んで以来、そのことを知っている。写真には、現実的、言語学的に、暗黙の暴力がある。
7月15日:似島と亡霊
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被爆した鉄片と水筒の青写真、広島平和記念資料館所蔵品、2008年
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でこぼこのアルミ製円筒箱と丸い水筒、細身の毛櫛と小さくて丸い時計の盤面の、シアノタイプ・ブルーの紙面の真ん中で仄かに輝く、白い影を見て、彼女は妙に幸せである。世界で一番やさしい女性のひとり、マリは、彼女が平和資料館の小さな「サンシャイン・ガーデン」でプリントを作成するのを手伝ってくれた。彼女は明日に再訪して、原爆ドームの梁の断片、ガラス瓶、他の水筒と弁当箱、時計のもっと大きな青写真を作成するつもりである、こうした対象物を紙のうえに置くとき、彼女は高揚と困惑を同時に感じるので、これは奇妙な幸せである。夢見ていた仕事の手段を得て、実行できて、ラッキーであり、これらの事物が示し、保持する膨大な不在に困惑し、当地でまたもやアメリカ人が、これらの対象物を――今回は、放射線にではなく、爆弾にではないが――原爆投下時に、人間、鉄橋のレール、梯子と植物が投げかけた白い影によく似た、淡く白い影の形に、それらの形態と存在を留めるために、光に暴露させようとしていると気づいているのである。彼女は今日、屋根の上で、枯れた頭状花を用いて、大きな爆発的な青写真を作成した。それは星々みたいに見えた。
ヒロシマの枯れた花、2008年
彼女は今日、美智子と一緒に似島に出かけた。似島は広島からフェリーで2時間のところにあり、戦時中、兵士らと馬がここで検疫を受け、戦後になって、原爆孤児たちが送られた。同じ施設内に――古い煙突、軍の監視塔、弾薬庫と近接して――望まれない子どもたちの寄宿学校がある。「慰霊」と刻印してあり、また平和公園で許可が得られると思えないので、刷り込みプリント実行した原爆慰霊碑、馬の火葬場、軍施設の基礎遺構、トンネルを探して、彼らが島内を歩きまわっていると、暑いどころではなかった。(彼女は2013年に似島を再訪し、20匹以上のスズメバチに刺されて、死にそうになった。スズメバチの巣は、彼女が写真を撮るために再び訪れた――防空壕と大砲保管庫の丘のうえにある――軍監視塔のなかにあった。彼女は急性アレルギー反応によるショック症状に陥り、ヘリコプターで救助されたとき、最期の息を引き取り、草茂る丘の一部になるところだった。ヘリコプターは、孤児院――現在は、「望まれない子どもたち」の寄宿学校――の校庭に着陸した)
原爆孤児用に建造された孤児院
現在の寄宿学校の校庭
似島、2008年
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似島の寄宿学校の子どもたち
2008年
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彼女は、旧燃料会館・市の復興事務所――現在は、平和公園レストハウス――の地下室で刷り込みプリントと写真撮影をする許可を得た。彼女は先週、そこで2時間すごし、求められるままにヘルメットを着用し、黒い雨のような壁のサテン織り、すり減った会談吹き抜けの手すり、暗く湿気た室内、錆びた扉、47歳で被曝して生き残り、1982年に84歳で亡くなった野村英三さんに献納され、淋しげに残っている折り鶴を撮影するために、三脚と2台のカメラをセットしていると汗だくになった。
似島の軍監視塔、防空壕と大砲保管庫の丘の頂上、2008年
7月28日:広島滞在最終日
彼女は、いつの日か、またヒロシマに戻ってくるとわかっているが、今日のところ、これが最後という気持ちが強く、何かが終わったように感じている。終日、ひきこもり、泣いていた。この街は彼女を愛し、彼女は街を愛し返した。ヒロシマは終わらないだろうし、消え去らない。これは、持続的、永続的な場なのだ。彼女はここで永遠に芸術を紡げただろう。
生存の輪、折り鶴の輪の青写真、2013年
【推奨されるクレジット表記】
elin o’Hara slavick,
"Hiroshima Mon Amour", The Asia-Pacific Journal, Vol.
13, Issue 32, No. 3, August 10, 2015. @JapanFocus
原子力発電_原爆の子ブログ/エリン・オハラ・スラヴィック「ヒロシマ・モナムール(ヒロシマ、わが愛)」 @yuima21c
原子力発電_原爆の子ブログ/エリン・オハラ・スラヴィック「ヒロシマ・モナムール(ヒロシマ、わが愛)」 @yuima21c
【筆者】
エリン・オハラ・スラヴィックelin o’Hara
slavickは、米国チャペル・ヒル、ノースカロライナ大学の視覚芸術・理論・実践に関する教授。シカゴ美術館附属美術大学で写真修士号、サラ・ローレンス・カレッジで文学士号を授与される。スラヴィックは作品を国際舞台で展示し、ハワード・ジンによる序文とキャロル・メイヴァーによる論文を付したBomb After Bomb: A Violent
Cartography (Charta,
2007)[『爆弾、また爆弾~暴力的な地図作成法』]、ジェイムズ・エルキンスによる論文を付したAfter
Hiroshima (Daylight Books, 2013)[『ヒロシマ・そのあと』]の著者である。彼女はまた、学芸員、評論家、活動家でもある。
• Asato Ikeda, Ikeda
Manabu, the 2011 Great East Japan Earthquake, and Disaster/Nuclear Art in Japan
• Mick Broderick and Robert
Jacobs, Nuke
York, New York: Nuclear Holocaust in the American Imagination from Hiroshima to
9/11
• Robert Jacobs, Whole
Earth or No Earth: The Origin of the Whole Earth Icon in the Ashes of Hiroshima
and Nagasaki
• Richard Minear and Nakazawa
Keiji, Hiroshima:
The Autobiography of Barefoot Gen
• elin o’Hara slavick, Hiroshima:
A Visual Record
• Hayashi Kyoko, From
Trinity to Trinity
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