2015年8月10日月曜日

NYタイムズ評論「#ナガサキ、忘れられた街」~被爆者が暴くトルーマン大統領の原爆神話


  寄稿評論
TheOpinion Pages

ナガサキ、忘れられた街
SUSAN SOUTHARD
スーザン・サウザード  201587

米国は194589日、日本南部の島、九州の細長い湾に面した長崎に核爆弾を投下した。

この攻撃は3日前の広島に対する核爆撃とは端から異なっていたものの、二都市のできごとは記憶のなかで融け合い、「原爆投下」ということばは両方の事件を表すものになっている。その結果、長崎は忘却の縁に追いやられている。

たいがいのアメリカ国民は、短期間に相次いで投下された2発の爆弾が日本を降伏に追いやったという自国政府の公式説明を信じている。だが、連合軍に参加し、日本に敵対するソ連の決定もまた、少なくとも同じほど日本に降伏を促した要因であったことが、いまでは周知のことになっている。長崎への原爆投下のほんの11時間前、150万人のソビエト軍が中国北部の傀儡国家である満州に越境し、弱体化した日本陸軍を3か所の前線で攻撃した。

米国はソ連の行動を予測していたが、2発目の原爆の投下は、ソ連の侵攻や東京の反応、あるいはハリー・S・トルーマン大統領による特定の命令にさえ縛られていなかった。彼の唯一の指令は、「既定路線どおり」に核兵器を日本に対して使用すること――そして88日、爆弾の組み立ては完成した。
FAT MAN



The Other Mushroom Clouds


翌朝――長崎爆撃の30分前――日本の大本営会議が降伏条件に関する合意の方途を再び探るために開かれていた。スターリンによる宣戦布告によって、好ましい降伏条件合意に達するためにソ連の助力に頼る最後の希望はついえていた。

即時降伏を迫る会議出席者らは、日本軍の食糧と物資の不足、悲惨な国内状況、広島爆撃を重大に懸念していた。主戦派らは、戦後にも天皇・裕仁の主権保持が保証されることを求めて、死ぬまで戦う決意を固めていた。長崎攻撃の報告が届いたとき、審議はそれに大して言い及ぶことなく続行した。同夜、裕仁は膠着状態を打開し、降伏を裁定した。

米国では、長崎は端から広島の影に隠れていた。1発目の原爆投下の大見出しは一面トップに踊ったが、長崎原爆投下はその日の紙面をソ連の先遣部隊とわけあっていた。トルーマンは89日夜のラジオ演説で、戦後ヨーロッパの政治的・経済的な枠組みの概略を語った。彼は一度だけ広島に対する原爆投下に言及したが、長崎には触れなかった。

長崎住民の約74,000人が、瞬時に、または爆撃から5か月以内に死亡した。150人だけが軍人だった。さらに75,000人が負傷しており、これらの人数には、その後の数十年間にわたり、放射能関連の疾患を発症し、死亡した人びとは算入されていない。

まず体表に紫斑が現れ、脱毛し、高熱になり、感染症にかかり、腫れあがり、歯茎から出血した。後に、癌発症率が跳ねあがった。被爆者の名で知られる生存者は、病気と死の絶え間ない恐怖を抱えて暮らした。

米国はストーリーのこの部分を揉み消した。アメリカの上層部当局者らは1945年秋、放射能被曝に関連する死亡についての報道に反論していた。占領軍当局は以後何年にもわたり、報道記事、写真、科学研究、攻撃に関する個人的な証言を検閲した。

アメリカの指導部は盛んになる原爆投下批判に対抗して、原爆投下が戦争を終わらせ、日本侵攻の事態を防いだので、100万人の米兵の命を救ったという説明を仕立てた(こういう戦後に仕組んだ死亡者数推計値は、原爆投下前の推計値よりも遥かに大きかった)。たいがいのアメリカ国民はこの説明を受け入れた。

ほんのわずかなアメリカ人は長崎をもっと知っている。長崎は1500年代末に貿易の中心地になっており、日本の初期近代化の先進地、カトリック宣教進出の拠点だった。日本は1614年にキリスト教を公的に禁制とし、その後、1630年代から1850年代末まで異国との接触を断つ鎖国政策を採った。長崎だけが限定的な国際貿易をつづけることを許され、人口が増えつづける街の人たちは、アジアやヨーロッパの美術工芸、科学、文献に触れることができた。長崎は、日本が欧米諸国との外交関係を再開したあと、繁栄をつづけ、世界第3の造船業の都市になった。長きにわたり信仰を秘していたクリスチャンたちが再び世に姿を現し、長崎は東アジア最大のカトリック教会の根拠地になった。推計10,000人のカトリック教徒が1945年の原爆投下で死亡している。

谷口稜曄(たにぐち・すみてる)さん(16歳)は、市街の北西部で自転車に乗って郵便配達をしていたとき、爆風で空中に投げ出された。1マイル(1.6㌔)離れていても、熾烈な熱が、彼の背中全面と片方の腕の綿シャツを瞬時に焼きつくし、皮膚を焼いた。彼は3か月後にようやく、街から35キロ北の海軍病院に搬送され、そこで3年以上にわたりうつぶせに横たわり、看護師らに死なせてくれと乞い願っていた。谷口さんはその後、座る練習をし、立ちあがり、ついにふたたび歩けるようになってから、彼の街とその住民の破壊は不必要だったと思い知って、怒りで煮えくり返った。

谷口さん他の数万人の被爆者たちはこれまで70年間にわたり、過酷な負傷、後発性の放射能関連疾患、そして子どもたち、孫たちに遺伝障害を受け継がすのではないかという絶えずつきまとう恐怖の人生を歩んできた。被爆者の多くは、家庭内の身内にさえ、原爆体験を決して語らない。しかし、谷口さん他、少数の被爆者たちは目覚ましい回復力を発揮する行動に踏み出し、非常に個人的な決断をして、一部は早くも1950年代中ごろから被爆体験を公の場で話しはじめた。

彼らは、犠牲になった日本を宣伝したり、パールハーバー攻撃を、あるいは残虐な日本兵らの手によるアジアの民間人や連合軍要員らの受苦と死を最小限に評価したりするために、みずからの物語を話すのではない。彼らはむしろ、核戦争の現実にまつわる無知の帳を取り払い、世界中の核兵器備蓄を廃絶するために語っている。

公式説明は、いまだにたいがいのアメリカ国民に支配的な意見のままである。その筋書きのままでは、ナガサキは記憶のなかで薄れていくのみであり、わたしたちはそうさせてはならない。わたしたちが被爆者の核戦争体験を学ぶ時間がなくなろうとしている。被爆者たちだけがわたしたちに実相を語ることができるのであり、彼らの人生は終わりに近づいている。

【筆者】

スーザン・サウザードSusan Southardは、 “Nagasaki: Life After Nuclear War[『長崎~核戦争後の生』]著者。
Nagasaki: Life After Nuclear War
【クレジット】

By SUSAN SOUTHARD
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本稿は、公益・教育目的の日本語訳。

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